34.剣と華と二

「はい、今日もよろしくお願いします。」

 そう、にこやかに言った桔梗ききょうの言葉に、今日もか、とふでは心の中で呟きながら彼女の体を引っ張り上げる。その表情は、どこか憂いを帯びて仄暗く感じられた。


「わっ……とと。」

 桔梗ききょうは今日もまた引かれる力の強さに驚きながら、足をもたつかせるようにして立ち上がらせると、ふらっと姿勢を崩して勢いそのままにふでの胸元へとぶつかった。とっさに桔梗ききょうは倒れまいとふでの体にぎゅっと抱き着いた。


 胸元に抱き着いてくる桔梗ききょうの体躯の柔らかさを感じながらふではぎゅっとその体を抱き留めた。


 桔梗ききょうの短い髪が揺れてふわりと舞うと、鼻先を僅かに擽られふでは思わずくすぐったく感じて唇を弛ませる。次いで、二日以上走ってきたせいか桔梗ききょうの香りも強くなり、それが鼻孔に漂ってきて、ふでは一層に表情を余計に緩ませてしまっていた。


 一方で、桔梗ききょうはぶつかってしまったことを申し訳なく思ったのか、直ぐに顔を見上げて頭を下げてくる。


「す、すみません。急にぶつかってしまって。」

「いや、構いませんよ。それより桔梗ききょうさんこそ、歩き詰めて足に来てるんでしょうかね。大丈夫ですか?。」

 そっとふでが腰へと手を当てて、その体を支えてみると、桔梗ききょうは足を何度か踏みなおして頷いた。


「えっと、多分、足は大丈夫です。」

 名残惜しく思いながら腰から手を離すと、すっと桔梗ききょうの顔へともう片方の手を伸ばして、その頬をさらりと撫でる。


 くすぐったそうに身を捩らせた桔梗ききょうの顔を、ふではじいっと眺める。

 恐らくは今日が終われば、この少女と一緒にいる時間も終わるだろう、それが喜ばしいのか悲しいのかふでは自分の心の中で上手く答えが見つけられる気がしなかった。

 とはいえ、どちらにしろ終わりは来るものだと、考えを振り払うつもりで彼女は首を振る。


「あの筆殿ふでどの。どうかなされました?」

 そんな態度に疑問を感じたのか、桔梗ききょうあどけのない表情を浮かべて、不思議そうに顔を覗き込ませくる。

 その顔にふでは頬を緩ませて、今度は否定の意味で首を振るって見せた。


「何でもありませんよ。さあ、出発しましょうか。」

 そう言ってふでが歩き出すと、慌てて桔梗ききょうも歩き出してその背中を追い始める。



 そのまま足が動くのに任せて、二人は道なりを進んでいった。


 駆けに駆けて、太陽が空の天辺へと登り切るころ、ようやく二人は名古屋の城下町へと辿りついていていた。


 家の閑散として立ち並ぶ外れから街へと入り込み、そうして二人は往来へと足を踏み入れる。

 そこには幾つもの大きな屋敷を構えた商店が立ち並び、道々にはここへと来るまでの道のりで殆ど人と出会わなかったことが嘘のように、なんとも多くの人が行きかっていた。


 飲食店が幾つか近くにあるのか、出汁を煮出している匂いやら、魚を焼く匂いやら、どうにも旨そうな香りが周囲に漂っていて、それが入り混じって一層に奇妙で雑多な雰囲気を醸し出していた。


 並ぶ建物はどれも煌びやかに飾り立てていてて、往来を歩く人の着物は種々色とりどりなものを羽織り、道から眺めているだけでも酷く華やいで見える。いささかその色やら要素やらの余りの混在さに、ふでは僅かばかり驚いてしまう心持ちとなった。


「これが名古屋ですか。なんともまあ、華やかなものなのですね。」

 目の前に広がる何とも騒々しい町の様子を眺めながら、ふでは呆れるように呟いていた。


 傍らでは同じように町の景色へと視線を向けながらも、桔梗ききょうはどこか手慣れた様子で辺りの様子を窺っている。


筆殿ふでどのは、名古屋に来るのは初めてでしょうか?」

 問われて、ふでは素直に頷いた。


「ええ、ええ。初めてですよ。こんな場所は。来るのも見るのも。」

「そうなんですか。だとすると、ちょっと吃驚びっくりしますよね。まあ、こんなところなんですよ。名古屋は。江戸よりは全く持って小さい町なんですけれど、金回りが良くて派手好きな御仁が多いので、こんな感じになっています。あんまりにも色華やかで、頓痴気とんちきな町だなんて言われることもあるみたいですけれど。」


「いやはや、何ともまあ、華やかで楽し気な国にございますねえ。」

 随分と辟易へきえきとした調子で、今にもうへえとでも言いだしそうなほど、ふでは眉根をしかめさせ怪訝な表情を見せる。

 ただ、それが皮肉と気が付いていないのか、桔梗ききょうふでの言葉に頷いて、むしろ満面の笑みを浮かべた。


「そうなんですよ。楽しいところなんです。」

 一瞬、きょとんとした後に、ふでは仕方なさそうな顔をして軽く肩を揺らした。


「そうでございますか。楽しみですね。」

「まあ、ここまで来れば目的の場所までは殆どついたようなものですから、ゆっくり歩きましょうか。」

「そうですね。こんな人目に憚る場所で襲ってくる輩もいないことでしょうし。」

 そう二人で頷き合うと、雑多で騒がしく、人のごった返した往来の中へと入っていく。


 道を行き交う人々は、人それぞれに表情は、気楽そうであったり、落ち込んでいたり、無気力であったりと、あまりにも多種多様であったが、誰も彼もがのんびりとしたもので、時折小走りに駆けていく駕籠屋かごやは見受けられたが、全体として道の流れゆったりとして動いていく。


 その人の流れに乗って、二人も連れ添うと建物の間の幅広い道を進んでいった。


 進むにつれて町並みは一層派手になっていき、玄関に角を生やした大きな看板を立てた店があるかと思えば、金糸と銀糸とで屋号を刺繍した幕を垂れ下げているような店もあり、確かに桔梗ききょうが言った通り、そこには頓痴気とんちきを煮しめたような雰囲気があって、ふでは多少興味深く周囲を見渡しながら進んでいく。


 店から聞こえてくる客引きの声やら、道を行き交う人の足音、連れ合って歩く人々の話し声ががやがやとした雑音として響いて、周囲を一層に賑やかに感じさせる。

 そうして往来を歩いていくと、ふと、往来の途中で一層に賑やかに騒いでいる人だかりが出来ているのが見えた。


 何かを中心にして、群衆が円のようにして集まっていた。

 ひょいっと背を伸ばすと、掌で目の上に日傘を作ってふでは群衆の方へと目をやった。


「おや、なんでしょうか。人が集まっているようですが。」

「はて、なにか見世物でもしてるんでしょうかね。」

 二人並んで人波の動きに合わせて進んでいってみると、吸い込まれるようにして、その群衆の場所まですぐに辿りついた。


「ちょいと、そこらの人に何しているか聴いてみましょうか。」

 あまりにも騒々しく賑やかに人々が集まっているのに、何となく興味の惹かれたふでが提案すると、少し困ったように桔梗ききょうは眉尻を下げて見せる。


「あのう……これでも急いでるんですけれど。」

「まあまあ、ちょっとだけございますから。」

 嫌気を窘めるように言って、ふでは群衆の一番端で中の方へと視線を覗き込ませている女性を一人見つけると、そのまま「もし」と声を掛けた。


「そこなお嬢さん。聞きたいのですが、これは何かやっているのですか?」

 声を掛けられた女は一瞬煩わしそうに眉を顰めて顔を上げた後、ふでの顔を見て急に顔を染めると見惚みほれたような表情を見せる。


「あらやら、良い男前だこと。」

 来ている服装のせいか、何やら男と勘違いされて何やら色目を使われてしまったが、それで好意的に何かを語ってくれるならば好都合と言うもので、わざわざ訂正するつもりもなくふでは再びに女へと尋ねていく。


「これは何をやってるのです?」

「いえね。何やら喧嘩をしてるらしいのよ。」

「ほう喧嘩ですか。」

 目を細めて顔に喜色を浮かべると群衆の方へとふでは目を向けた。


 その表情に桔梗ききょうは僅かばかり顔を曇らせる。

 またぞろ何かふでの厄介な性格が表出するのではないかと、そう言う嫌な予感を覚えている表情であった。

 そんな表情は気にも留めず、しれっとした様子でふでは呼び止めた女性へと、そのまま尋ねる言葉を続けていく。


「それで、何が故に喧嘩なんぞしておられるのでしょうか?」

「なんかねえ。一方の男が女に振られたらしくて、もう一人の男に女を盗っただの盗らぬだのと妙な言いがかりをつけたらしくって、まあ、色恋沙汰いろこいざたみたいだよ。」


「ほほう。色恋沙汰とは良いですね。喧嘩の華と言うものですよ。」


 俄然がぜんと興味がわいたのか、ふでかかとを上げてついっと背を伸ばすと、囲いの中心へと視線を伸ばす。


 群衆の中で男が二人何か激しくもみ合っているのは見えたが、ただ立ち並ぶ人々の頭が邪魔で、具体的に何をしているかまでは判別がつかなかった。


「ここからでは何しているか良く見えませんねえ。」


 惜し気にふでが呟くと、それを桔梗ききょうは半ば呆れた表情を浮かべて口を開く。


「気にしなくたっていいじゃないですか。喧嘩なんか見たって何にもなりませんよ。」


「荒事が気にかかるのは、私の性分のようなものですよ。」


 軽く言ってふではにやりと微笑むと、一つ顎を指先で撫でた。


「もういっそのこと、中に入って仕舞いましょうか。」


 喧騒を眺めながらぽつりとふでがそう言ったところで、桔梗ききょうは何か思い至ったのか、途端に顔を渋らせたかと思うと、大仰に嫌そうに表情を浮かべた。

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