31.小休止四 - 子守歌一

 焚火たきび越しに幻影の女は身を乗り出してきた。

 炎の上を体が横切ると、熱気の揺らめきに合わせて幻影の姿も揺らめいていく。立ち上る炎の先端へと触れながらも、幻影は結局に幻影であり、燃えることもなくこちらへと酷く口角の上がった笑みを近づけてきた。


 頬へと向けて手を伸ばしてくる幻影にふでは僅かばかり身を引いてその指先を眺める。

 細く白く長く、そして爪の内だけ僅かに桜色をした指は、柔く撓いでふでの元へとゆるゆると近づいてくる。


 それをふでは右手で振り払ってみるが、すっと掌は通り抜けてしまい、彼女の指先は一層に近づいてきて、仕方なしに片目を瞑ると、軽く縦へと首を振らせた。


「それはねえ。正直に言いますよ。貴女あなたを斬った時にはとてもこころよかったですよ。それはもう、気持ち良すぎて腰が立たなくなるほどでございましたから。」

「ならこの娘も切ってあげれば良いでしょう?」

 今度は大きく横へと首を振る。


貴女あなたを斬ったのは、確かに気持ち良かったですけれどねえ。今更言っても栓のないことですが、私は殺す気はなかったんですよ。ええ、それはもう一切も、そんなつもりは毛頭もなかったんです。」


「でも斬った。」


「そうです。斬ってしまった。それは手違いなのです。あれからずっと、貴女あなたが居なくなった後悔しかしていませんよ。私は。だから、この方も斬りません。」

 ぽつりぽつりと幻影とは目を合わせずにふでは呟いていった。それは幻影相手に言うというよりは自分自身へと向かって言っていたようであった。



パキッ――


 と、不意に割れる音がして、ふでははたと顔を上げた。


 だいだいに色づく焚火たきびの中で小枝が燃えさして崩れ落ちると、ふわりと幾つもの赤い火の粉を舞い立たせて炎は穂先を躍らせる。

 その火は大分に消えかかっていて、殆どの枝木は黒ずんでぶすぶすと仄かな煙を立ち上らせていた。


 気が付けば目の前に居たはずの幻影はどこかへと消えてしまっていて、あの女も髭の男も居なくなり、辺りには何の姿も見えなくなっていた。ふっと顔を上げて、空を眺めてみると、僅かに東の空が明るくなり始めているのが見えた。


 目に染みる明るさに、うっかりと寝てしまっていたのだろうとふでは理解した。

 寝るつもりはなかったが寝てしまっていた。


 少し慌てた心持で周囲へと視線を向けると、焚火たきびの向こう側に寝る前と同じような格好で地面へと横たわる桔梗ききょうの姿を見つけた。


 しっかりと眠っているのか、どこか間の抜けた表情でくうくうと穏やかな吐息を漏らしていた。

 何とも間の抜けていて、だからこそ可愛らしく見えてしまう。



「――良かった……。」

 彼女が無事であることを確認して、ふではほっと胸を撫で下ろす。


 近くに置いておいた木の枝を一つ手に取ると、火の消えかかっていた焚火たきびへと放りこんでいく。そうして見守っていると、炎は再び緩く燃え上がって勢いを取り戻していった。

 しばらくすると、山の間からちぃちぃと甲高く短い鳥の鳴き声が響き始めた。動物達も目を覚まし始めたのか、木の枝が揺れて葉の擦れる音がして、あれだけ静かだった林の中が次第と音に満ち溢れていく。


 幾分か空も白澄しらすんでいき、これから向かう道の先が見えるようになってきた。

 これならば先へも進めるだろうと、ふでは倒木から腰を上げると、寝ている桔梗ききょうの枕元へと近づいていく。


 無防備なままに地面へと寝っ転がっている桔梗ききょうの体へと手を伸ばすと、掌をそっと肩へと触れさせて優しく揺すった。


桔梗ききょうさん。桔梗ききょうさん。起きてくださいな。もう朝でございますよ。」

 二三度左右に肩を揺すってみると、桔梗ききょうはびくっと体を震わせて、緩んでいた掌をぎゅっと握りしめた。


「んんぅ……。」

 喉の奥からむずかるような声を上げると、ふっと細く桔梗ききょうの目が開いた。


 数回ぱちぱちと瞬きをした後に、僅かに呆然とした表情を見せたかと思うと、あっと小さな声を上げて目を大きく開かせた。

 そうして急にがばりと体を起こしたかと思うと、ふでの顔を見上げておろおろと狼狽うろたえ始めている。


「す、すみませんっ。寝てしまっていました……。」

 どうにも申し訳なさそうに、桔梗ききょうは深く頭を下げた。


 あれだけ気持ち良く寝ていて、本当に起きているつもりだったのかとふでからすれば逆に驚いてしまうところだった。


「構いませんよ。どうせ誰も襲ってきませんでしたし、しっかり休めて良かったじゃないですか。」

 軽い口調でふでが言って肩をポンポンと叩いてみると、それでもまだ何か申し訳なさそうに桔梗ききょうは目を伏せている。


「あの、筆殿ふでどのは寝られたのですか?もしかして、ずっと見守り続けてくださっていたのでしょうか?」

「私だって少しは寝ましたよ。大丈夫、気配があればすぐに目を覚ます性質ですから。」

「そう言う心配ではなくて……いえ、その……筆殿ふでどのも寝られたのでしたらそれで良いのですが……。」


 こちらの体のことを心配してくれているのだと察してふではふっと表情を緩める。

 とは言え、そんなものは自分には過ぎたる気持ちだと思いながら緩くなった頬を噛みしめて腰を上げた。


「そろそろ先へと行きましょうか。もう空も明けましたし。……立てますか?」

 ふでが手を伸ばしてみると、桔梗ききょうは頷いてその手を取った。


 くっとふでが腕を引っ張ると、勢いよく桔梗ききょうの体は引き起こされて、慌てて彼女は踏鞴たたらを踏んだ。


筆殿ふでどの……。多少は手加減と言うものをしてください。」

 小さく文句を言いながら笑うと、桔梗ききょうは体についた土ぼこりを払って、道の先へと視線を向けていた。


* * *



 それから二日半ほどは、ずっと歩き通しと言うほどに、二人は道を歩き続けていた。


 一日目には半日ほど山道を登りつめてで、漸く峠に差し掛かると、その後は幾度か上下しながらも殆どが下り坂の道を進んでいった。道すがらに通りかかる民家もなくって、途中で何度か見つけた湧き水で喉を潤した他には、ただひたすらに小走りに駆けていくだけだった。


 道を進んでいく間、追手が襲って来やしないかと桔梗ききょうは何度も周囲を見渡していたが、結局襲ってくるものの姿はなく、ただただ首を振りつかれているだけのようだった。

 その傍らでふでは素知らぬ顔で歩きながら、時折鼻を鳴らしては空を眺めていたりする。



「それって、何しているんですか?」

 流石に気になったのか桔梗ききょうが尋ねてきたのを、ふでは首を振るって「景色を楽しんでいるのですよ」と言葉を返した。


 桔梗ききょうはどこか訝しげと、呆れとの半々の表情を見せるが、それ以上は尋ねてはこない。どうせ誤魔化されると言うのを理解し始めて居るかもしれなかった。


 実のところを言えば、それで多少の気配と言うか匂いのようなものを探ってはいたのだが、それをふでは彼女に言うつもりもなかった。


 言っても良かったが、例え言ったとしても、桔梗ききょうが理解できるものでもなく、自分でも理屈を説明できる気がしなかったので、黙っている方が面倒がなくて良かったからだった。




 そうして一日も共に歩いていると話すことも尽き果てて、最終的には二人とも黙って道を進むのみになっていた。


 日長ひなが歩き続けた後の夜には桔梗ききょうもくたくたに疲れてしまったのか、丁度昨日と同じような開けた場所を見つけて、焚火の火を立ててしまうと、その傍らに座るやいややにすぐに眠りについていた。




 二日目には、歩いている途中で民家を一つ見つけたために、そこで桔梗ききょうが頼み込んで、銭を払うことで魚の干物を一つと干しいいを幾つか貰うことが出来た。


 それが随分と嬉しかったのか、桔梗ききょうは何度も民家の住人に頭を下げていたのが、ふでにとっては印象的だった。


 歩きながら干し飯の一つを手に取ると、口へと運んで桔梗ききょうはぽりぽりと噛み砕いていく。


 小気味よく音を鳴らして硬い干し飯へと齧りつく様子はふでからすれば、どこか鼠やリスのような小動物の類にも見えてくるようだった。


 ただ、物を食べて少し元気が出たのか、桔梗ききょうの歩く速度は僅かに早くなっていき、それに合わせてふでも足を動かすのを速めていった。


 再び夜も暮れて薄っすらとしか道が見えなくなった頃、野営をするのに良さげな場所を見つけると、そこへ二人で座り込んだ。

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