30.小休止三

 寝ないと、そうは言ったものの、やはり疲れていたのか、しばらくするうちに桔梗ききょうはうつらうつらと顔を落としはじめ、目を何度も瞬かせる。そうして気が付けば、いつの間にか膝を抱えたままに、すうすうと寝息を立て始めていた。


 地面へ座りこんだままに目を瞑り、膝へ向かって俯いて穏やかな吐息を重ね、背中を軽く上下させて眠っている姿を眺めて、何とも器用なものだと思いながら、ふでは倒木から一つ腰を上げると、桔梗ききょうの体へと近づいていく。


 そっと寝ている桔梗ききょうの体へと手を伸ばすと、その腕を取って肩の下に手を差し込むと、くっと体を僅かに抱き上げた。

 触れた肌の柔らかい感触がして、今日一日歩いた汗の香りが僅かに鼻孔に漂ってくる。


「全く。何とも良い香りのなさる御仁で……。」

 溜息をつきながら言って、ふでは力を籠めて腰が地面から浮いたのを確認すると、ふでは抱き上げた桔梗ききょうの体を、そのまま地面へと横たわらせた。


「んぅ……。」

 微かに桔梗ききょうの喉が吐息を漏らし身を捩らせた。


 思わずふでは触れていた手をさっと放して、桔梗ききょうの顔を確認する。僅かにむずかるかのように表情を歪めていたが、桔梗ききょうは目を瞑ったまま再び寝息を立ててて体の力を緩めていく。


「何もしやしませんが。もし見られたら怒られますかねえ。一応は触らぬと約束しましたから。」


 軽く曲がったままの足を手に取って、体の力の抜ける様にと四肢を伸ばさせてみると、桔梗ききょうの寝息は一層に穏やかになって心地よさそうな表情を浮かべた。その寝顔を眺めながら、ふでは一つ息を吐き切ると、その頭をすうっと撫ぜた。


「ほんに可愛いらしい寝顔を晒しまして……。ちょっとぐらい約束破ってしまいましょうかねぇ……。」

 本気で言うわけでもなく、さらさらと柔らかい桔梗ききょうの髪を指先で何度もさすりながら、ふでは空を見上げた。


 既に月は山の向こうへと完全に姿を消し、一段と暗くなったせいなのか、空には無数に星が散らばって綺麗に瞬いて見えた。その星屑のぱっとした広がりが、ふでにはどこか血飛沫ちしぶきのようにすら感じられた。


 今日斬った人を一人ずつ思い出していくと、それのどれもが盛大に赤い血を吹き出させて死んでいった。自分も恐らくはああなるのだろうが、どうせ死ぬならばこの星空のような血飛沫ちしぶきを上げて死ねれば良かろうに考えてしまう。


 くだらないことを考えたと自嘲して、撫でていた掌の動きを止めると、ふでは腰を上げて桔梗ききょうの傍らから離れる。


 再び倒木の上へと腰を下ろすと、小さくなりかけていた焚火たきびに小枝を幾つか放りこんで、再び火を大きくしていく。投げ込んだ小枝は、パチパチっと軽い音を立てると、やにわに崩れ去って四方へと火の粉を散らしていった。


 暗闇の中でただ一つの光源となった炎の揺らぐ穂先をじいっと眺め続けていると

「呑気なものだな。」

 と、ふと声がどこからか聞こえてきた。


 はたと驚いてふでは顔を上げる。


 気が付けば焚火たきびの向こう側に酷く荒れくった髭を伸ばした男が座り込んでいるのをふでは目に留めた。

 瞬間、ふでは僅かばかり目を疑ってしまっていた。


 炎に照らされるその容姿が、間違いなく先ほど草原で斬り捨てた髭男のものだったからだ。


 それですぐにふでは自分が幻覚を見ているのだと気が付いて、一人大仰に溜息をついた。

 目の前の髭男が幻影である証拠に、焚火たきびの明かりを受けながらも彼の面は薄暗く、細部が妙にあやふやな格好をしている。


 暗い中でしか、その男の姿を眺めたことがなかったせいで、こんな適当な姿で現れてくるのだろう。もう少し頑張ってなりを作れとも思わなくはないが、それが故に幻覚だと悟れるのだから、とやかく言う気はなかった。


 それにまたふでにとっては、このような幻影を見るのは慣れたことでもあって、どこか辟易へきえきとした気分で男の面を眺めさせていた。


 いつの頃からこのように幻影を見始めたのかは覚えてはいなかったが、少なくとも歳月を数えなくなるほどに長い付き合いであった。幻影として現れる者は、時に襲い掛かってきて、時に気に障ることをずけずけと言ってくる。


 相手にすれば調子乗って、さらに一層と構ってくるが、無視をしてしまえばどうにもなりはしなかった。

 幻影の髭男はちらりと傍らへと視線を向けた。


 ふでも同じように視線を向けると、そこにはあどけなく目を閉じて穏やかに寝入っている桔梗ききょうの姿が見える。

 それを見つめて髭男は不思議そうに顎を撫でる。


「こいつは殺さんのか?俺らをああも綺麗さっぱりと切り捨てたのに。この女だけは生かしておくのか?」

 それは随分と恨めしそうで、まるで地の底から這い出てきたように低く唸る声だった。


 ふっと軽く笑ってふでは近くに置いた小枝を手に取ると、焚火の中へと先端を突っ込む。くりくりと焚火の中の木片を弄っていく。

 どうしようかとかすかに逡巡しゅんじゅんする。


 無視しても良かったが、どうせこのまま一人で起きているのだから、相手の戯言に付き合っても良かった。

 焚火たきびを眺めながら、悩むことも無駄かと考えて返事をすることにした。


「その人は斬りやしませんよ。ええ、斬りません。」

「何故だ?斬ればよかろうに。斬ってしまえばきっと心地が良いぞ。俺が保証しよう。」

「心地好い……ですか。多分、まあ、そうなのでしょうね。」


 炎を見つめながらふでは適当に頷く。

 途端に幻影の髭男はにいっと嬉しそうに下卑た笑みを浮かべる。


「そうだぞ。こんな上等な女を斬れば、てめえも満足できるさ。どうせ俺らだけじゃ満足してやしないんだろう?」

 濁った男の言葉を、軽く鼻で笑うと焚火たきびの中で小枝が割れて音を立てるのに耳を傾けていく。


「おい、聞いているか?あの柔らかい女の肉に刀の切っ先が通る感触を想像してみろ。柔肌が裂けて綺麗な体から内臓をぶちまけるのを考えてみたらどうだ?あの唇から血反吐を吐き出す瞬間を思い描いてみないのか?良いとは思わないのか。」

 問われてみてふでは、その光景を頭の中へと思い描いていく。



「それはまた、魅力的なことでしょうね。」

 本心ではあった、恐らくその感触はふでにとって甘美なものであろう。



「ああ、だから斬って……。斬ってしまいなさいな。」

 ふと気が付くと、いつの間にかふでに向かってくる声はしゃがれた髭男の声から、甘くとろけるような甲高いものへと変わっていた。


 顔を上げてみると、目の前に居たはずの幻影は、髭の男からとある一人の女へと姿を変えている。


 髪が黒く腰まで長く、白い着物に赤い帯を纏っている。

 その顔は三日月を思わせるほどに細く端正で、目元は細く長く流麗りゅうれいに弧を描いていた。

 紅を指した唇は息を飲むほどに艶やかで、僅かに開いた口の中へと視線が吸い込まれるかのように何とも淫靡いんびなりをしている。


 その女の姿をした幻影にふでは見覚えがあった。


 見覚えがあるというよりは、嫌になるほど脳裏にこびりついた姿だった。


 女の幻影は紅色をした唇をゆっくりと開けると、耽美たんびで穏やかな声を周囲へと纏わせる。



「私の時には、斬ったじゃない。ねえ。ふでさん。」


 その声には、酷く蠱惑的こわくてきな響きがあった。


 ずっと聴いていたい程に甘美な響きがありながら、その声を聴いているとふではどこか後ろめたく嫌な気分になっていく。


 どこか捨て鉢な気分になってふでは女の言葉に頷いた。



「斬りましたね。ええ、殺しましたよ。貴女あなた様を、私は斬りました。」


 ぽつぽつと言葉を区切りながら、吐き捨てるようにしてふでは言った。


「あの時は気持ち良かったでしょう?ね、貴女あなたは笑っていましたものね。」

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