8.強襲二

 ふっと、ふでが吐息を漏らす。


 僅かにふでの体が右へと回る。


 一瞬、ふでの左腕が消えた。


 正確には、桔梗ききょうにとってふでの腕が消えたかのように見えた。

 そのふでの左腕は、気が付けばふでの頭の上へと高く伸ばされていて、腰からそこまでの一本の線をなぞる様に刀の切っ先が弧を描いて動いた。


 ふっと、何かが宙へと舞った。

 くるくると回転しながら部屋の中へと飛んできたそれは、液体を振りまきながら放物線を描いていく。


 ごとんっと床へぶつかる鈍い音が響いた。

 咄嗟に桔梗ききょうが落ちてきた塊へと視線を向けると、そこに転がっていたのは人の腕であった。


 二の腕から先が、床にごろりと落ちて、ひくひくと僅かに蠢いている。

 慌ててふでと男の方へと視線を戻してみれば、いつの間にか男の右腕は、肩の付け根からざっくりと斬れ落ちているのが見えた。


「うおおおおおお!?」

 右腕の消え去った肩口へと顔を向けた男は目を見開きながら狼狽えるように慟哭した。

 叫び声が弾け出るとともに、男の肩口からは盛大に赤黒い血が噴き出していた。


からんっ――

 と、金物の落ちる音がする。

 男の手から匕首あいくちが零れ落ちていた。

 驚愕して落としたのだろう。


 そして、匕首あいくちが落ちたということは、ふでの右手が開いているということであった。


 刹那、ふでの足が一歩下がったかと思うと、その体が半身に開いた。

 天井へと向かって斬り上がっていた刀の切っ先は、疾く、反転し下方に向きを変えた。


 すっと刀身が床に向かって滑る。


 刀の柄へと右手を添えたふでは、諸手の力を籠めて思い切りに切っ先を男へと斬りつけていた。

 土塊に挟まった糸をすっと抜くかのように、するりと男の体の中を、刀の刃先が通り抜けていく。


「おうっ……。」

 男から鈍く深い奇妙な音が鳴った。

 それは男の喉から漏れたのか、裂けた腹から漏れ出たのか分からない、不気味な音であった。


 男の首に細い裂け目があった。


 裂け目は、首元から腹にかけて線を引き、一拍、息を飲んだかと思うと、男の体が斜めにずれた。

 ずるりっと肉の擦れる音がして、上半身が床へと滑り落ちた。


ぐしゅっ――

 と、肉の自重で潰れる音が、続いて、何か硬いものがへし折れる軽い音がした。


 それが骨が床にぶつかって折れたのだと桔梗ききょうが察したのは、随分後のことだった。

 肉が落ちた直後、奇妙な静けさが周囲に響いていた。

 得体の知れない音が鳴り響き、宿の全員が思わず動きを止めたのかとも思えるほどだった。


 僅かに間のあって、床に直立していた男の下半身がぐらりと揺らいだ。

 倒れる、と思った時には、既に男の下半身は姿勢を崩し、後ろへと倒れ込んでいくところだった。


 肉の塊が床へとぶつかり、安普請やすぶしんの宿全体が揺れるような振動が走った。

 その光景を眺めていたふでは、肩の力を抜きながら軽く首を振る。


「やはり刃物と言うのならば、これぐらいは切れねばなりますまい。」

 吐き捨てるように言いながら、ふでは握っていた刀を横へ鋭く一振りする。

 刃先についていた男の血と肉の破片が刀身を滑り、勢い良く飛び散って障子戸から床へとかけてぶつかった。


 軽く肉の潰れて、血飛沫ちしぶきの壁に張り付く音が室内に響いた。

 ふでは一つ息を吸うと、全身から力を抜いていくように、大きく吐息を漏らす。


 その顔から体にかけて、男から噴き出した血の幾分かか降りかかっており、長着には新たな赤黒い斑点が生まれていた。


 更に顔の半分ほどに紅のように鮮やかな血がべっとりと濡れかかり、頬の一端から血を滴らせながら、ふでは妙にあでやかな笑みを浮かべている。

 軽く目を細め、垂れていた眦が一層に緩まって、何とも優艶ゆうえんに口元が歪んでいたのであった。


「ひあっ……あっ……あっ……。」

 目の前で突然に巻き起こった惨状を傍らの布団の上で呆然と見上げていた桔梗ききょうは、はたと喉から意図もしない声が出るのを感じた。


 もう既に事は終わっているということを理解はしていても、視線を外すことが出来ずに瞬きすることも出来なかった。

 かくかくと桔梗ききょうの足が震えたかと思うと、体全身を悪寒のようなものが駆け抜けて背がびくりと揺らいだ。

 気が付けば、桔梗ききょうの足の狭間から布団の上へと黒い染みが広がっていっていた。


 室内には水の勢いよく溢れる音が響き、薄汚れた布団の布地を濡らしながら黒い染みはどんどんと広がっていく。



「あれまあ。」

 水音に気が付いたふでが、桔梗ききょうの足元へと顔を向けると、布団が濡れていく様を見つけ、小さく声を挙げると二三度瞬きをしてくすりと軽い笑みを浮かべた。



「おやおや、漏らしてしまわれましたか。」

 手に持っていた刀をそでで拭い、そうして鞘へと納めながらふではそう言うと、布団の腕で僅かに震えている桔梗ききょうの元へと足を向けてくる。


 僅かに慄いて桔梗ききょうは身を引こうとするが、腰が抜けてしまい震える手が床をかたかたと微かな音を立てることぐらいしかできずにいた。


 股間から漏れる小水しょうすいは既に勢いをなくし、ちょろっと最後に小さな滴が溢れ出たきりに水の漏れる音はなくなったが、震えて揺れる腰が布団と服とを擦りつけしまい、ぐちょぐちょと濡れた布の重なる音がしていた。


 桔梗ききょうへと近づいたふでは腰を屈めると、布団の黒い染みとなった箇所へと小指を伸ばした。


 指の先をぎゅっと布に押し当てる。

 染み出た液体を指に絡めると、小さくすくうように腕を持ち上げて、それを口へと運び、すっと伸ばした薄紅色の舌先へと触れさせた。


 指先についた滴をちゅっと舐めとると、ほうっと僅かに喜色の含んだ声を上げふでは目を細める。



「ふむ……。間違いなく、お小水でございますね。」

「あ……な、な、な、な、なにを……?」



 五尺は越える大男を一息に斬り捨ててしまうような目の前の女性が恐ろしく、何かをするたびに打ち震えてしまい、すぐに喘ぎそうになる息を何とか押し殺しながら、桔梗ききょうはそれだけ口にすることが出来た。


 尋ねられてふでは、小指の先を舐めながらついっと顔を上げると、桔梗ききょうへと向かって目を細めた。


 それは本人にとってみれば笑んでいるつもりなのだろうが、向けられた桔梗ききょうからすれば捕食者が舌なめずりをしているようにしか感じられなかった。

 そんな桔梗ききょうの気持ちなど知りもしないように、ふでは軽やかな調子で口を開く。


「いえ、ね。貴女あなた様は結構に眉目秀麗でありますから。こんなね、美人のお小水しょうすいなど味わう機会は今後一切なかろうと思いまして。つい。興味本位ですよ。いやはや、結構乙なお味でございました。」

 酷く満足そうな笑みを浮かべ、ふではそう言った。


 その言葉は耳を通って確かに頭の中へと入って来はしたのだが、言っていることの意味が一切理解できずに、桔梗ききょうはきょとんとふでの顔を見上げてしまう。



「えっと、はい?それは、どういう……。」

「分かりませんか?」

「いや、全然わかりませんよ。」

 素直に桔梗ききょうがそう言うと、ふではふむっと顎に手を当ててどこか考えるように天井を見上げた。



「そうですか……。」

 どこか困ったような表情で眉尻を下げてふでは首を傾げていた。

 初めて彼女の人間らしい表情を見たような気がして、ほんの微かにだけ桔梗ききょうは心の強張りが解ける気がした。


 一方で、ふではすぐに諦めたように小さく首を振るっていた。


「なに。良いじゃありませんか。理由などどうだって良いことですよ。」


 ぽんっと膝を叩くとふでは屈めていた腰を上げ、布団を見下ろす。



「なんにせよ、貴女あなた様の布団が駄目になってしまわれましたねえ。」

「うあう……。それは……」



 どこかおどけた調子でふでが言うと、逆に桔梗ききょうは恥ずかしさで一気に顔を赤くしてしまう。


 その恥じらい方にふでは僅かばかり顔を綻ばせると、後ろへと振り返り、部屋の入口で二つになって転がっている男の死体へと目を向ける。


「まあ、どちらにしろ部屋自体が駄目にはなっておりますが……。」


 前髪に隠れた額のあたりを親指で軽く擦りながらふでがぼやくと、不意にばたばたと廊下を誰かが走ってくる音が響いてきた。


 桔梗ききょうが部屋の入口に向かって顔を向けると、丁度女が一人廊下から現れるところだった。

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