7.謎の男二 - 強襲一

「ひっ!」

 滑らかに砥がれた金属の光沢が周囲に煌めき、ひやっと首に冷たさを感じて宿の娘は思わず悲鳴を上げていた。


 狼狽うろたえる女の様子を眺めて、男は目を細める。

 顔を覆う布の奥から、僅かに唇を舌で舐めるような音が響いた。


「ここに怪我をした女が連れ込まれたはずだ。どこの部屋に居る?」

 尋ねながら、男は匕首あいくちの刃先を女の口元へと向かって僅かに押し込んだ。


 微かな痛みが走るとともに、女の皮膚の表面が小さく避けて、玉粒のような血が滲み出てくると、匕首あいくちの刃先を伝ってついっと滴って床へと落ちた。

 女はかたかたと全身を震わせながら、僅かに息を飲む。


「怪我した女って……。」

 問われて一瞬頭が真っ白になった女は、それでも懸命に今日の記憶を掘り返していく。

 ふっと頭の中に、気を失った女を連れて宿にやってきた女性が居ることを思い出した。


「あ……あ……。」

 震える手を伸ばして、女は宿の二階へと指をさす。

 階段から上った二階には欄干らんかんの供えられた廊下が伸びていて、その客室の一角が玄関からも見えた。


 男が女の指先へと視線を向けると、並ぶ障子戸の中の丁度中央にあるものを指し示していた。


 満足そうに頷くと、男は匕首あいくちを首元から遠ざけて、女の衿口を握っていた指を離す。

 急に体が解放された女は、途端にへたりと腰を抜かし、床へと倒れ込んでしまう。

 がたんと女の倒れた音が宿に響く間に、男は大きく足を開いて階段へと向かっていた。


* * *



「来ましたかね……。」

 小さく呟いて、ふでは窓を眺めていた顔を部屋の中へと移ろわせると、どこか恬淡かったつとした笑みを浮かべて一瞬目を閉じた。


 ゆるりと窓の桟へとかけていた足を床へと下ろすと、ふでは目を閉じながら軽い笑みを浮かべながらも腰を上げた。背を屈ませて、床に置いていた刀を手に取ると、殆ど半裸のように開けてしまっていた長着の重ねを整えて帯を締め直す。


 そうして屈みながら長着の裾を一二度払うと、のんびりとした足取りで障子戸の閉じられた部屋の入口へ足を向ける。


「え……いったい何が来たんですか?」

 ふでの言うことが皆目見当もつかず、首を傾げなら桔梗ききょうは障子戸の方へと視線を向ける。


 そこら中に穴が開いた障子戸からは、廊下の様子は丸見えと言った有様だったが、それでも戸の向こう側には人どころか物があるのも見受けられなかった。


 酒を飲んでいたにしては、随分しっかりと足取りでふでは部屋の入口へと足を進めていく。その次いでと言うように札は刀を腰へと差し紐を結いでいた。



「さて。」

 そう言ってふでが戸の前へと立った時、急に障子の穴から覗く光景にふっと人影が過った。



 それは巨大な影であった。

 戸に張られた薄く白い紙に写される陰影だけでも、ふでの背丈よりは何回りも大きく見える。

 破れた穴から、ぎょろりとした丸い目が不意に表れ、部屋の中を覗き込んでくる。



「わわっ!?」

 唐突に表れた気味の悪い目玉に、桔梗ききょうは思わず息を飲み込む。

 じろじろと部屋の中を覗き込んでくる目玉が、左右に動き、その視線が戸の前に立つふでとかち合った。


 途端、すうっと障子戸が横に開いた。


 戸の向こうから現れたのは、顔全体に覆面をした大男だった。その姿を認めた時、桔梗ききょうはこくりと喉を鳴らして、腹部の傷へと手を当てる。僅かに肌へと痛みが走るような気がした。

 自分の腹に刃物を突き立て、傷をつけた相手がそこに立っていた。



貴方あなたは――」

 どこか緩い調子でふでが声を掛けようと口を開いた瞬間、部屋の入口に立っていた覆面の男が一歩中へと踏み出してくる。


 瞬間、きらりと光沢が走ったのを感じて、桔梗ききょうは視線を巡らせる。

 男の手の中に匕首あいくちが握られていることに気が付いて、あっと僅かに声を漏らした。

 危ない、と桔梗ききょうが口を開く前、瞬く間に、男の左手がふでの方へとするりと伸びた。



――刺さった。



 少なくとも桔梗ききょうには、一瞬そう思えた。

 だが、男の腕は刺そうと伸びた瞬間に急に動きを止めると、ぷるぷると震え、そこから一切動かなくなっていた。


 よくよく桔梗ききょうが目を凝らして見てみると、向けられた匕首あいくちの刀身の半ばをふでの掌が握り、がっちりと掴んで押さえつけていた。



「っ!」

 覆面の男は匕首あいくちが全く動かないことに慄いて、腕を引こうと力を籠める。


 しかし、ふでに握られた匕首は全く動かずに、まるで空間に固定されたかのようにして、そこへと留まっていた。


 それほどまでに、万力でもってふでの右手がその刀身を握りしめている。


 目の前で男が驚いていることに、ふでは軽く口元を緩ませる。


「そうも引いて切れぬとは、随分と研ぎの悪い刃物をお持ちでございますね。」

 相も変わらず呑気のんきな調子で口を開いたふでの指からは、しかし赤い血がにじみ出していた。


 丁度刀身を握る指から赤い滴が溢れてくると、その指の狭間を伝って、指の背へと広がり、まるで玉石のような粒になって、ぽたぽたと滴ると床に丸い染みを作る。


 匕首あいくちが止められて僅かばかり怯んでいた男も、滴る音に音に気が付くと、ふでの指先から血が溢れていることを悟って、覆面の狭間から覗く目を薄く細めた。


「ふ、強がりか。お主も右手が塞がっていては刀も抜けまい。」


 鼻を鳴らし侮った声をあげる男に、ふではむしろ、にいっと妙に口角を上げて見せる。

 それは強がりと言った顔ではなかった。


 どちらかと言えば、心底状況を楽しんでいるかのような笑みであった。



「そうですかえ。そう思いますか。」



 言いながらふでは腰に差した刀の柄へと左手を添えた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る