5.問い二

 見覚えのない人間が近くにいることに多少の恐怖を感じながら、桔梗ききょうは僅かに身を構えながらそう尋ねた。


 その表情に敵意はないながらも、鋭く険しいものになっていく。

 警戒心を丸出しにした僅かに棘の籠った声に、半裸の女性はむしろ呆れたようにため息をつきながら肩を竦める。


「おや、まあ。倒れている所を助けた人間に向かって、何て顔をなさるものでしょうかねえ。」

 ふわりと漂うように唇から漏れた彼女の言葉は、どこか艶やかで緩く悠長な声であった。

 その特徴的な声に、やはりどこかで聞いたことがあるような気がしつつも、思い出せないまま桔梗ききょうは自らの腹部へと手を伸ばすと、そこに巻かれていた白い布へと掌を当てる。


「あの……貴女あなたが介抱してくださったんですか?この布を巻いていただいたのも?」

「介抱したと言えば、介抱はしましたかねえ。倒れていた女性を無理やり宿へと連れ込んだともいえますけれど。」

 何が可笑しいのか、くすくすと半裸の女性は笑うと、持っていた杯を唇へと添えてくっと呷る。


 澄んだ液体がするりと唇の狭間を通って、口内へと注ぎ込まれていった。

 軽く上げた顎から、するりと細やかに伸びる喉が波を打ってこくりと小気味の良い音が鳴る。

 半裸の女性は僅かに目を細めると、ふわっと唇の狭間から湯気が立ち上るかと思うほどの熱そうな吐息を漏らしていた。


「さて、先ほど私が誰かと、問うておりましたね。教えてあげても良いですよ。私の名はふでと言います。丁度今しがた日ノ本を巡って腕試しの旅をしているところでございます。」

 ふでと名乗った女性は楽しそうに笑みを浮かべて、ゆらゆらと体を左右に揺らせると、窓辺から床へと垂らしていた足をくいっと上げた。


 そこには無造作に床へと置かれた刀があって、腰へと結びつける紐の先をふでの足先が握ると、僅かに引っ張り上げることでかちゃりと中の刀身と鞘とが擦れる音がした。

 すらりと長く伸びた、毛も生えていない裸の足先をぷらぷらと動かして、何度か刀を鳴らしたかと思うと、ふではまるで放るかのようにして足の指を離した。


ガチャリ――

 と床に刀の落ちる音がする。

 不意に鳴り響いた音に、思わず桔梗ききょうはびくりと体を揺るがせてしまう。

 それは桔梗ききょうが、いまだに目の前の女性に警戒を解いていない表しでもあった。


「姓は……。」

 言いかけて桔梗ききょうは首を振る。

 ふでと言う女は、自分のことを名前しか名乗らなかったが、むしろそれは当然のことで、殆どの人間に姓などなかったからだ。


 姓のあるのは貴族や武士、官職を貰うような人間たちだけだ。

 ましてや女で姓を持つ者は、ほぼ居ないと言って良い。


 そして仮に姓などがあるような人間であったならば、間違いなく今二人が居るような安普請の部屋などにいるはずもなかった。ふでも刀を持ってはいるが、それは公的な身分のあるものではなく、勝手に引っ提げて回っているだけなのだろうと桔梗ききょうにも察せられた。

 ただ、桔梗ききょうにとってはふでの言葉にどこか引っかかるものを覚えて言葉を反芻する。


 腕試しと彼女は確かにそう言った。


 そして細身ながらに刀を扱うこと、特徴的な服の文様に、ふっと桔梗ききょうは顔を上げて何かを思い出すと、そのまま思いついたことを舌に載せてふでへと尋ねていた。



「もしかして、河原で少しお話しした、あの笠を被っていたお方ですか?」

ようやく思い出されましたか。ええ、ええ、あの時お話しした相手でございますよ。あの後の立ち合いも見られていきましたか?何やら急いでいたようですが。」

「それはまあ、一応。群衆の外で遠目にだけですが。凄かったですよ、一刀に斬ってしまわれて。」


 どこか熱の籠った様子でぐっと手を握りしめながら桔梗ききょうはそう言った。

 先だって会話したという事実が桔梗ききょうの心を多少なりとも解したのか、強張っていた表情がどこか緩んだものになっていた。


「そうでございますか。それは重畳ちょうじょう。」

 口元を緩めると、はだけた胸元の肌を指先で一つ二つぽりぽりと掻きながら、ふではどうにものんびりとした調子でそう言った。あまり桔梗ききょうの方に興味がないのか、終始、窓の外眺めながら緩く体を揺らしている。


 窓の外から風がそよそよと流れ込んで、ふでの長い前髪をふわりと舞わした。

 部屋の中に、僅かばかり青臭い葉の香りが流れ込んでくる。

 その匂いから顔をそらすかの様にして、ふではようやく部屋の中の桔梗ききょうへと目を向けてきた。


 桔梗ききょうと視線が交わると、軽くふでは笑みを浮かべた。

 その笑みが、妙に妖艶ようえんで、桔梗ききょうは一瞬だけ胸が詰まるような感覚を覚えてしまう。

 そんなことも気にもせず、ふでは笑みながら口を開く。


「それで貴女あなた様は、確か桔梗ききょうと言うお名前で良かったでしょうか。何分あの時は慌ただしかったもので、もし憶え間違えていたらすみません。」

「え?ええ。私の名は桔梗ききょうです。何と言うか、ちょっとお話ししただけなのに、良く憶えていましたね。」

貴女あなた様は、お綺麗な方でございましたからね。」

 事もなげにふではそんなことを口にする。


「な、何を変な事を仰るんですか。綺麗などと……。」

 余りにもあからさま世事と感じてしまい、恥ずかしくなった桔梗ききょうは佇まいを乱して咄嗟にふでから顔を背けてしまう。


 思いもよらぬ言葉に慌てたのか、その頬は一気に朱に染まっていた。


 しかし、そうして違う方向へと視線を向けたことで、改めて部屋の様子が桔梗ききょうの目の中へと入ってきた。


 部屋の中には今桔梗ききょうが寝ている布団以外には何もないようで、天井と床と窓と、先ほどまで見ていたもの以外で言えば部屋と廊下につながっているだろう障子戸ぐらいしかなかった。

 その障子戸も紙は破れ破れにつけられていて、廊下の様子が部屋の中にいる桔梗ききょうにすら見えてくる有様だった。


 やはりと言うか、全く見覚えのない部屋であり、そんなところに無防備に連れ込まれていると言う事実に、何とはなしに桔梗ききょうは緊張してしまう。



「ここは……一体、どういう場所なのでしょうか。」

 再びふでの方へと視線を戻し、桔梗ききょうは感じていた疑問を思うがままに口にする。



「何って、ここはただの宿でございますよ。安宿と言えば良いでしょうか。鐚銭あくせん三文の木賃宿きちんやどよりはマシと言う程度の宿です。」

 軽く曲げた指の背で、こんこんっと窓の近く壁を叩いて、ふでは嘆息を漏らす。


 その行為は、宿の粗末さをわざわざ示して見せているようだった。


 この時代には、食事に使う薪の代金だけを払い、大部屋に雑魚寝できるだけの木賃宿きちんやどと言うものがあった。

 |薪《まき》の代金だけで泊まれることから、木代の宿と言うことで木賃宿きちんやどと言うが、これが貧乏ながらに旅をする人間からすれば兎も角もありがたく、各地街道筋の宿場には必ずと言って良いほど存在していた。


 その木賃宿きちんやどを最下層とすると、この宿は個室で止まるだけマシと言う程度の物なのだろう。


 どこかの屋敷に連れ込まれたのではなく、宿と言われたことで桔梗ききょうは僅かばかり気が楽になる思いだった。


 桔梗ききょうは知らず強張っていた肩の力を抜いた。



「ところで、私も聞きたいことがあるのですがね。」

 そんな桔梗ききょうに、静かに目を細めたふでが尋ねる。



「あ、えっと、な、なんでしょうか。」

 不意に向けられたふでの目つきがどこか捕食者のようなものに感じられて、再び桔梗ききょうは体を硬直させた。

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