第四話【ジャングルの街(四)】

                 (一)

 いくつもの鳥居を潜り、息を切らして辿り着いた先に広がった景色、かつて『神社』と呼ばれた東方教会の境内は、ちょっとしたグラウンドのようだった。その縁に並ぶ背の高い巨木達は人知れず樹齢を重ねた杉だろう、見上げてもその先端がどこにあるのか見当もつかないくらいに背が高く、梢の合間からは夕方の光が細かな粒子を輝かせながらふりそそいでいた。そんな、凛として神聖で、透き通った景色の中に鼻をつく強烈な獣の匂いが充満していた。

 あまりの絶望的な光景に喉が鳴る。足元から真っすぐ伸びる石畳の先に青白く輝く綻びかけた結界の明りが見えた。そして、そのお堂と呼ばれる建物の前で奇声を上げてひしめき合う数えきれない魔物達はすでに小山を形成し、突然後方に現れた僕になんて気付きもしないまま、一心不乱にお堂に群がっていた。

『一対無数の戦い』

脳裏に浮かんだその言葉はすでに予感では無かった。確実な僕の未来だった。足が、腕が、視界さえもが細かく揺れていた。

くーちゃんが生きていた喜び。

何としてでも助けたいという信念。

そして、こんな所に来てしまった恐怖と後悔が胸の中で渦巻いていた。

 そんな中、手の中のひまわり丸が震えていた。

「ああ、分かってるよ相棒。ここで逃げたら僕はもっと後悔する」

ぐっと、夏の入道雲のように白く濁った刀身を見つめて呟くと、もう一度、巨大な杉達の合間から見える真っ赤な夕日を見た。そこにあったのは、今にも背の高い山々に沈もうとしている太陽だった。

―フィールドの敵は昼と夜で入れ替わる。

神様が決めたルール。そう、太陽が沈むと同時にこいつらは消える。確かに、それは引き換えに、さらに強力な夜の魔物が現れる事を意味していたけれど、そんな先の話は知った事じゃなかった。だって、あのお堂からくーちゃんを助け出すチャンスがあるとすれば、その入れ替わりの一瞬のタイムラグを狙うしかないのだから。

『そこまででいい。それまでこの身体がもてばいい』

僕は自分に言い聞かせた。

 そして、再び夕暮れの境内にくーちゃんの泣き声が響き渡ると、同時に全身の震えや迷いが消えて無くなった。僕は、覚悟と一緒に大きく息を飲み込むと、ひまわり丸を八相に構えてグっと腹の底に力を込めた。

「くーちゃんッ! もう大丈夫! 迎えに来たよ!」

奇声を上げ、興奮していた魔物達が沈黙した。

そして、一拍を置いて一斉に振り返った。

無数の赤い瞳が僕を睨みつけていた。

『揺るがない』

ふとすると竦んでしまいそうになる足と勇気に言い聞かす。そして、生まれそうになる恐怖を振り払うように大声で叫ぶと、思い切り大地を蹴った。

無数の魔物達目がけて。




『シャッフルワールド物語 マーシャの地図』

『第二部:野花の冠』

第四話【ジャングルの街(四)】





                (二)

 それはまるで巨大な黒い津波だった。一斉に飛び上がった山羊頭の猿達が、僕を飲み込もうと頭上から降り注いだ。

 咄嗟に右足に力を込めて急停止すると、そのまま強引に後ろに飛ぶ。そして、反射的に取ったその選択が間違っていないのはバックステップする視界の先に見えていた。まるで本当の波のように地面に激突して砕け、白波を立てる魔物達の姿が見えた。あまりに一斉に飛びかかったもんだから、着地と同時に次から次へと落ちて来る後続に踏みつぶされていた。

 さらに一つ、二つと後ろに飛んで距離を取ると、すでに数匹の敵がバウンドして飛びかかって来るのが見えた。めまぐるしく眼球を動かして瞬間的にその配置を網膜に焼き付ける。僕を中心に右側、左上、正面の三方向。一番距離が近いのは…

―正面ッ!!

グッと右手のひまわり丸を握り込む。

『骨ごといけるか?』

その短い問いかけに相棒は震えて答えた。

その刹那、僕は大地を踏み込むと同時に正面の魔物を斬っていた。右肩からの袈裟掛け。勢い良く肋骨を裂いて進む手ごたえが走る。そしてそのまま一気に振り抜くと、切っ先を返し、今度は屈伸の要領で右後方の空間をVの字の太刀筋で切り上げた。

 案の定、網膜に焼き付けた位置に敵がいた。立て続けに上がった短い断末魔と共に二つ目の感触が手に走る。だけど、僕は動きを止めなかった。仕切り直す余裕なんか無かった。一連の剣。二匹目を斬り上げたまま今度はグルリと身体を反転させ、背負い投げのモーションでひまわり丸を握る手に力を込めた。そう、見えないけど背後に居るはずなんだ、左側から飛びかかってきている魔物がッ!

 次の瞬間、振り下ろされた一連の運動エネルギーは、魔物の額を割っていた。そして、その悲鳴を聞くよりも先に僕は横一文字に空間を薙ぎ払うと、そのまま地面を蹴ってさらに距離を取った。

―― 一対無数。

こんな無茶な戦いをした事なんて無かった。する未来があるなんて考えた事も無かった。それでも、この初手、二手目は上出来だった。

『一か所に踏みとどまって迎え撃つのは愚策』

直感的にそう思ったんだ。常に立ち位置を変えて逃げ回る。そして程良く敵がバラけたタイミングで最も近いヤツを斬ってまた飛ぶ。そうしないと、次から次へと魔物が降り注いで即終了だ。

 それは、身の軽い僕ならではの、ある意味僕の得意とする姑息な方法だった。そして、これは鋼の剣では無理だったとつくづく思う。絶対に振り遅れただろうし、逃げるにしろ攻めるにしろ、重さが足かせになって高さも速さも産めなかったに違いない。そう、こいつ、ひまわり丸とだから出来る戦法なのだと改めて手の中で震えて喜ぶ相棒に感謝した。


 茜色に染まる空の下、いったいどれくらい戦っているのだろう。いったい何匹の魔物を斬ったのだろう。覚えていたのは最初の数匹くらいで、途中から数える余裕どころか時間の感覚すら無くなっていた。ただ無心に、ただひたすら淡々と作業をこなすがごとく猿の魔物を斬り、そして地面を蹴っていた。

 辺り一面が赤かった。だけどそれは、魔物の血や夕焼けの色ばかりでは無かった。僕の身体もそこら中が切り裂かれ、まるで色んな所に心臓があるみたいに鼓動を打っていた。右手の小指が疼いていた。たぶん何匹目かを斬った時に折ったのだろうけど、今は剣を絞る左手の小指で無かった事を感謝するだけだった。さんざん血を失い、次の一手を探してフル回転を続ける脳みそは激しく酸素と糖分を欲していた。気を抜くと呆けてしまいそうになったけど、それでも僕はひまわり丸を振った。


 気が付くと、朦朧としながら一匹斬っては後ろを振り返る。太ももや背中を切り裂かれながらも二匹、三匹と斬ってまた後ろを振り返る。無意識のうちにそんな事を繰り返していた。不可解な行動を取っていると自分でも思ったけれど、理由を考える余裕は無かった。ただひたすら斬って裂かれていた。でも、いつの間にか「もう大丈夫だよね? もう、負けてもいいよね?」と呟いている自分に気が付いて、居るはずもない下級生の女の子の視線を探していたのだと理解した。そして、それが単なる幻覚ではなく『負けてもしかたが無い』『自分なりには頑張った』という言い訳と免罪符を求めている弱気な自分なのだと気が付いて歯を食いしばり、さらなる猿を斬ってまた飛んだ。


「もう、何やってるの? らしくもない! 黙ってれば可愛いクセに妙にコマッシャクレていると言うか、計算高いと言うか…それがあなたの持ち味でしょ? なにガムシャラに戦ってるのよ!?」

次に聞こえたのは幻聴だった。

姉さんの声だった。

「そうですね、私達の中で一番ズル賢いのは君かも知れません…。慌てないで、いつものように周りを見てごらんなさい」

次に聞こえたのは先生の声だった。

…仕方ないじゃないか。頭を使う余裕なんてこれっぽっちも無いのだから。僕が手を止めてしまったら、全てが終わってしまうのだから。それに、この性格だって物心ついた頃から身体的に恵まれなかったのだからいいじゃないか。クラスでいじめられないように、やり玉にあがらないようにずっと人目を伺って、相手の思考を先回りして考えて、地雷を踏まないように、踏まないようにって生きてきたのだから。それにしても、二人とも言いたい放題だよ。僕は最年少なんだぞ。こんなに命がけで頑張っているのだから、もっと甘やかしてくれてもいいと思うんだ。なのに、なんだよその辛口な言葉は。

『もっと周りを見なさい』

って、なんだよ、もっと周りを見なさいって!?

次の瞬間、バックステップと同時に空を仰ぐと同時に我に返った。

 頭の上には眩しくピンク色に輝く羊雲があった。反対側の空はもうすっかり深い群青で、いくつも星が輝いていた。そして、目の前にある雪を抱いた山々に姿を消した真っ赤な太陽が見えたんだ。

僕は吠えた。

気が付くとひまわり丸を握りしめて吠えていた。

それは、唐突に現れた試合終了のゴングだった。

そうだった、僕は虎視眈々とこの時を待っていたはずだった。それがいつの間にか『戦闘』という行為に飲み込まれて我を忘れていた。危うくこのままぶっ倒れるまで戦い続けるところだった。視界の端にあるバイタルゲージを確認すると、何とかくーちゃんを連れて逃げ出すくらいの体力が残っていた。

「バカヤロウども!! ざまあみろ! タイムアウト! 逃げ切り! 僕の勝ちだ!」

叫んだ、思い切り、腹の底から叫んでやった。そう、僕は耐え抜いたんだ。殲滅なんて望んでいなかった。この時、日没まで持ち応えたんだ!

 そしてそれは、勝利を確信して気が抜け、ガクリと肩を落とした時だった。突然、信じれない痛みが僕の頬に走った。唖然と立ち尽くし恐る恐る触れると、ザックリ切れて血が流れていた。顔を上げた先には信じられない光景があった。

…日が落ち、薄暗くなった境内に無数の魔物達がひしめきあっていた。

「…な、なんだよ。」

「…じょ、冗談はやめてくれよ」

「なんでお前達は消えないんだよぉぉぉぉおおおお!!」

信じられない理不尽な光景に僕は叫んだ。でも、最悪だったのはそこから先だった。突然お堂の前にあった魔物の山が盛り上がった。ボロボロと山羊頭の魔物達を地面に落としながら立ち上がっていた。

…それは一匹の巨大な…あまりに大きな猿の化け物だった。僕を睨む赤い瞳が光っていた。

割れんばかりの心臓の鼓動と、夕風に乗って森を吹き抜ける笛の音が聞こえた。



                 (三)

 突然ミゾオチに激痛が走ると、踏みしめていたはずの足元から感触が消えた。そして次の瞬間、激しい破裂音と衝撃が背中に走ると、僕はそのまま地面にズレ落ちた。息が出来ない苦しさの中、痛みに耐えて薄目を開けると上から腐った赤い木の破片が落ちて来て、何かに吹っ飛ばされて鳥居に激突して落ちたことだけは理解した。しかし、それ以外は意味の分からない事ばかりだった。

『日没を迎えても消えない魔物達』

『突然現れた巨大なボス猿』

『得体の知れない攻撃』

よろけながら立ち上り、その答えを求めて顔を上げたけど、ますます頭は混乱した。合わない焦点の遥か先にお堂の結界の明りを背負った巨大な影が見えた。おそらく今のは、ヤツの攻撃だったのだろうけど、とてもじゃないけど物理的な攻撃が当たるような距離じゃ無かった。

 その瞬間、物凄い勢いで近づく風切音が聞こえた。痛みをこらえて反射的に身を捻ると、太ももから血飛沫が上がると同時に背後で何かが破裂した。おそらくさっきと同じ攻撃だった。幸か不幸か、今回は後ろに吹っ飛ばされ距離があったた分、辛うじて正面からの直撃は避けられた。そして、振り返った僕は、その攻撃が何であったのかを理解して背筋が凍りついた。

 杉の巨木に激突して破裂した山羊猿の骸が見えた。千切れた四肢がまだ痙攣していた。そしてもう一度振り返ると、ヤツはすでに両手にさらなる弾丸(魔物)を装填し終えていた。それは圧倒的な腕力からの力技だった。遠くに見えるお堂から仲間の猿を投げつけていたんだ。

 巨大な猿は大きく振りかぶると、さらなる魔物を僕に向かって投げつけた。二連撃、僕は辛うじて身をよじって初弾を避け、そして二発目を切ったけど、同時に身体のあちこちが悲鳴を上げた。色んな所が切り裂かれていた。背後では巨木や岩に激突して弾けた魔物の断末魔が聞こえた。その瞬間、湧き上がった怒りが恐怖や痛みを塗りつぶした。

「…それは」

「…そいつらは」

「お前の仲間だろうがぁぁぁああああああああ!!」

それは正に火事場のくそ力。叫ぶと同時に怒りにまかせて地面を蹴っていた。

加速!

加速!

加速!

瞬間的に頭の芯が沸騰していた。地面を蹴る毎に周りの景色が溶けだした。そして、さらに一つ二つと飛んでくる魔物を紙一重ですり抜けると、あれほどあった距離が一気にゼロになる。

「うぉぉぉぉおおおおおおおお!!!」

あり得ない速度で大猿の懐に飛び込むと、加速で生まれた運動エネルギーをひまわり丸の切っ先に収束させて一気に振り抜いた。狙ったのは、その丸太のような腕。仲間の命を何とも思わない非道な攻撃を両断する一撃だった。

 それは、自分でも理解に苦しむ感情だった。確かに奴らは魔物で、僕だってさんざん斬って来た存在だ。でも、それは違うだろ。いくら魔物でも、それは仲間に対してやっていい攻撃なんかじゃない! いじめられた事があるから胸が痛くなる程に分かる。どんなにオマエが強くても、やっていい事と悪い事がある! ただその怒りの感情でひまわり丸を振り上げた。

 しかし次の瞬間、僕は信じられない光景を目の当たりにした。目の間で激しい火花が散っていた。肉を斬る感触とはあまりにもかけ離れていた。無数の鋼鉄の束を切り付けたようだった。訳も分からないまま慌てて踵を返したその瞬間、振り返った視界いっぱいに巨大な拳と、一筋の焦げ跡が残る剛毛が茂る太い腕が現れた。

 激しい衝撃と共に体が地面に叩きつけられて跳ねた。それが裏拳だったのか、ラリアットだったのか、意識の飛びかけた頭では分からなかった。ただ、体中の至る所から骨が砕ける音や、泣き叫ぶくーちゃんの声が聞こえていた。

「…た、立たなくちゃ」

「…く、くぅちゃんを助けなくちゃ」

ひまわり丸を杖代わりにして、立ち上がろうとしたけれどダメだった。しっかり握ったはずなのに、そこには柄の感触なんて無くって、バランスを崩した身体はそのまま地面に転がった。左手を見ると思い通りに剣が握れないのも当たり前だった。あり得ない方向に曲がっていた。そして、立ち上がる事すらままならず、石畳の上で悶絶する僕に向かって無数の魔物の雨が降り注いできた。

悔しかった。

こんな無様な幕切れは信じたくなかった。

絶対的にオマエは間違っていて、僕が正しい事をしている。

なのに、どうしてこんな事になる?

唯一自由に動く瞳で飛びかかってくる魔物達を睨みつける。口惜しくてたまらないけれど、それが僕に出来る精一杯の反抗だった。

 そして、死を覚悟した次の瞬間、またしても信じられないものを見た。それは僕の頭の上で次々に破裂し、薙ぎ払われて行く魔物達の姿だった。一度は消沈したはずの怒りが再び腹の奥から湧き上がる。

「オマエは、つくづく仲間を何だと思ってやがる…」

そう、僕の瞳に映った光景。それは、自分の獲物を横取りしようとした子分達を拳一閃で一掃し、月に向かって吠えるボス猿の姿だった。

 痛みに耐えて、転がりながら立ち上がる。左手はもうダメだった。肩から下の感覚がおかしくて、だらりと垂れたまま上がらなかった。肋骨も豪勢に持っていかれていた。少しでも深く呼吸をしようものなら全身に激痛が走った。それでも僕は立った。力の入らない左足を引きずりがら前へ、前へと進んだ。そして、右手一本でひまわり丸を握り締めると残された力で、歓喜の雄叫びを上げ、僕に向かって平手を振り上げる大猿を睨みつけた。

「…オマエなんかの暴力には屈しない」

気が付くと、懐かしい感情が零れていた。それは強者には分からない気持ちだった。

「…ゆる…さない」

「力は…弱い者を助けるためにあるものだ」

「…ひけらかした時点で、オマエのそれはただの『悪』だ」

振り下ろされた魔物の平手に合わせてひまわり丸を握る手に力を込めた。次の瞬間、僕の足元が爆発した。最大出力で放たれたヤツの手刀は境内の石畳にめり込んでいた。攻撃がかすめた鼻から大量に血が滴り落ち始めて息が出来なくなったけど、それでも僕はひまわり丸を振り上げたまま真っ直ぐヤツを睨み続けた。

 至近距離から狙いすまして放たれたはずの全力攻撃は空を切っていた。ヤツは腑に落ちない表情で石畳から手刀を抜き上げると、まじまじと自分の掌を見てその原因に気が付くと、痛みと怒りでさらに吠えた。それに合わせて次から次へと僕の足元に肉塊が落ちて来た。

それは、切り落とされた化け物の指だった。

最後の力をふりしぼり、僕が狙ったのはそれだった。指ならば腕ほども骨は太くない。しかもそれが関節に入ったのならば、両断するのは満身創痍の僕でも出来ると思ったんだ。

「…弱者の一噛(ひとかみ)の痛さ。思い知りやがれバカヤロウ」

捨て台詞を言い放つと、それと同時に意識が飛んだ。急に膝から力が抜けおちた。そして、薄れかけた意識の中で僕は見た。怒り任せに放たれたヤツの握り拳を。残念だけど、さすがにこれを避ける力も気力も残ってはいなかった。まったく、自分的にはこの半年の冒険で随分成長したと思ってたんだけど、やってる事はダニールの時と同じで悪あがきが関の山じゃないか。


ドン


目の前で何かが弾けた。だけど、それが僕を捉えたヤツの拳で無い事に気付くのには一拍の時間を要した。頬が、額が焼けるような爆風で熱かった。そして、ぼやけた視点にピントが合うと、目に前には空振りし、空を切ったヤツの拳と激しく燃える腕が見えた。何が起きているのか理解が出来なかった。とどめを刺されたと思っていた。でも、矢継ぎ早に巻き起こった幾つもの爆発音と、視界のあちこちで立ち昇った火柱に僕は問答無用に事態を把握させられた。そう、おそらく、ヤツの拳が僕を捉えようとしたその瞬間に火炎の魔法がさく裂して軌道が変ったんだ。

…でも、そんな魔法攻撃を誰が…?


「…だ、だから…背伸びしないでユンカーは持ち歩きなさいよ…」


背後からそんな言葉が聞こえると、何かが足元の石畳の上を転がって来た。痛みに耐えて手に取ると、それは茶色いガラスの小瓶だった。

「…す、すぐに無茶ばかりするんだから…

 こ、今後あなたは、いつもバッグ一杯にユンカーを持ち歩くこと…」

その声に振り返ると、爆風になびくウエーブがかった赤い長髪が見えた。立ち上る火柱に照らされて、まるで本当の炎のようだった。その途端、溢れ出した涙が止まらなくなった。立っていたのは黒いドレスを纏った美しい魔法使いだった。おそらく、物凄い勢いであの石段を駆けあがって来たのだろう、両手でスカートの裾を持ち上げ、背中を丸めて息を切らしていた。

「姉さん!」

叫んだ。僕は涙でゆがんだ視界のまま叫んでいた。

「…ま、待たせたわね」

肩で息をしながらそう言うと、次の瞬間、姉さんの唇が細かく振動し始めて甲高い金属音が聞こえてきた。それはこれまでの冒険の日々で何度も何度も見た光景だった。そう、伝家の宝刀、炎系呪文の高速詠唱だった。そして、唇が止まると同時に勢いよく手を振ると、それに合わせてさらなる巨大な火柱が境内に現れた。今までの苦戦が馬鹿らしくなるほどに景気よく魔物達がはじけて飛ぶのが見えた。

「…よ、よくも大事な弟分をいたぶってくれたわねッ!! 雨さえ降ってなければこっちのモンなんだから!」

次から次へとユンカーを飲み干して火柱を上げる姉さんは、まるで鬼神のようだった。

『アウスナーメ(例外)』

継承式魔法の種子保持者。生まれた時から身に宿る先祖代々受け継がれたその種子は、中級どころか上級の魔法すら保有している。そして、炎系に偏ったそのレパートリーから付いた通り名は『火の家系』『炎の魔女』…でも、まだ冒険を始めたばかりで初級魔法使いの姉さんの魔力保有量ではその全部は使えない。そして、身の丈に合わない強力な魔法の行使はたったの数発で彼女の魔力を枯渇させた。それを強引な回復薬のオーバードーズで乗り越える。魔法の詠唱だってそうだ。長い鍛錬で魔法使いは呪文を短縮させていく。でも、姉さんは自分に足りない鍛錬の時間を長文を高速で一気に読み切る事で解決した。そう、それはすでに言語を越えて金切音になっていた。ほんと、呆れるくらいに凄くって燃費の悪い人なんだ。

「…で、いつまでそこで観客してるつもりなの!?」

「まったく、人使いが荒いよ姉さんは!」

僕は拾い上げたユンカーの封を噛んで捻ると、そのまま喉の奥へと流し込んだ。全身が渇望していた感覚に震え始めた。みるみる視界の端にあるバイタルゲージが満ち始め、身体中の細かい痛みが消えていく。それに合わせて荒療治。痛みに耐えて曲がった腕を力任せに元の位置に戻すと、そのまま地面を蹴って姉さん目がけて右手一本のバク転を繰り返した。

 トンと何かに当たる感触を覚えると、そのまま回転を止めてひまわり丸を構えた。背中には心強い温もりがあった。それは姉さんの背中だった。互いの鼓動がうるさいくらいに聞こえていた。

「おまたせ! 先生は!?」

「ああ、中年のおじさんなら途中でバテたから置いて来た」

その言葉に、えっちらおっちら駆けてくる文科系の先生の姿が目に浮かんで思わず小さく吹き出した。『笑う』それは忘れていた感覚だった。ほんの数十秒前まで、自分にはそんな余裕が無かったのだと改めて気が付いた。そして『一人では無い』というのがどれだけ心強い事なのかも。

「雑魚は任せて! あなたは…」

その声に改めてお堂と、痛みに暴れる巨大な魔物を睨みつける。

「ああ、分かってるよ。くーちゃんを助けに行って来る」

そして、次の爆発を合図に僕は大地を蹴った。


 眼前には左腕の炎の鎮火に成功し、痛みに吠え狂うボス猿がいた。すでに境内には闇はなく、全てが炎に照らされてオレンジ色に揺れていた。

「さあ乱暴者、第二ラウンドの開始と行こうじゃないか。万全の僕がどれだけ凄いか、嫌って言う程見せてやるよ!」

身体を捻ると同時に大地を蹴ると、僕はそのままつむじ風になった。弧を描き、回転しながら相手の左側に回り込み、そのままひまわり丸を横一線に振った。狙ったのは炎で毛の焼けた無防備なヤツの左腕だった。

 両手に肉を斬る感触と、太い骨を叩いた衝撃が走り、それと同時に地面を蹴った。間一髪、鼻先を巨大が拳が通り過ぎて行った。

 一つ、二つとバク転して距離を取り、着地と同時に両足に力を込めて、そのままもう一度爆発的に加速した。軽いフェイントを入れながら、再び相手に向かって突進する。狙ったのは死角、爆撃と斬撃で自由に動かない左側。そこならば、右手で殴るにも間に入った左腕が壁代わりになる。そしてグルリと左腕のさらに外側に回り込むと、ガードがし切れないわき腹目がけてひまわり丸を突き立てた。

 厚い筋肉の層を切り進む切っ先の感触がした。そして、それが内臓に達したのを確認すると、僕はそのまま刀身をグルリとねじって引き抜いた。だけど次の瞬間、右半身に丸太で殴られたような衝撃と激痛が走って吹っ飛ばされた。そして宙を飛ぶ僕は見たんだ、ヤツは焼け、切られて自由の利かない邪魔な左腕ごと力任せに殴っていた。まったくもってセオリーや型なんてあったもんじゃない。身体能力に物を言わせたデタラメでハチャメチャな攻撃だった。

 全身に幾つもの衝撃が走って身体が止まる。思わず痛みに顔をしかめると、強く閉じていた瞼と頬に温かい滴が落ちる感覚があった。僕はてっきり何処かを負傷して血を流したのかと思って瞳を開けたけど、そこにあったのは倒れる僕を見て泣いている少女の顔だった。

「…にもんじのお兄ちゃん、もういいよ、わたしはもういいから。おにいちゃん、いっぱいいっぱい痛い思いしたからもういいよ。逃げちゃってもいいんだよ。うれしかったから…わたしすごくうれしかったから」

その言葉と表情に、自分がヤツの攻撃でお堂の中に吹っ飛ばされたのだと気が付いた。そして、この少女は何と健気で、なんと強い心の持ち主なのかと胸を打たれた。こんなにも小さくて、こんなにも幼いのにも関わらず『助けて』なんて言わないどころか、僕の心配ばかりをしているんだ。

「大丈夫、大丈夫だよくーちゃん」

僕は倒れたまま濡れる彼女の頬を拭うと、そのまま両足に力を込めて立ちあがった。

「すぐ終わる。終わらせる。くーちゃんはそこで待ってて」

賽銭箱の向こうで脇腹の傷に悶絶し、ますます暴れる大猿を睨みつけると、少女に背中を向けたままの姿勢で大見栄を切る。そして泣きながら頷く声を確認すると、僕は燃え盛る境内めがけて床板を蹴った。


 そこから先は喧嘩独楽。荒れ狂う暴風と、つむじ風のぶつかり合いだった。斬っては殴られ、殴られてはまた斬るの連続。立ち上る火柱の破裂音に混じって幾つもの雄叫びが響き、そして血しぶきが夜空に舞った。

 僕の太刀筋はヤツの肉を切り裂くようになっていた。斬る方向を変えていた。流れるように生えているヤツの剛毛。それを横に薙いでもダメだった。弾かれるだけだった。ならば逆目ではなく順目。毛に沿って縦に斬る。すると、ひまわり丸は面白いように剛毛を掻きわけて肉を斬った。ただ、その太刀筋は、出血と痛みを与えられたけれど、筋肉を真横に断ち切る事は出来なかった。そして僕もまた、回転に回転を重ねてヤツの攻撃をいなし、ギリギリのところでクリーンヒットを免れた。こうして互いに致命傷を与えらえないまま、この殴っては斬るという消耗戦は次第にし烈さを増していった。

 

―そして『その時』は唐突にやって来た。


気が付くと、広い境内にはすでに爆音は無く、ただ吹き抜ける風の音(ね)と、くーちゃんの声だけが響いていた。

 ふと我に返り、バックステップで距離を置くと、そこにいたのは全身から血を流し、仁王立ちしたまま動かない巨大な魔物だった。すでに身体の端々が光の粒子になり始めていた。それでも、すでに生気の抜けかけた瞳は僕を睨みつけていた。

『分かってんだろコノヤロウ。このまま時間潰して決着つけるなんて野暮なのはナシだぜ』

まるでそう言っているようだった。

 僕も同じく満身創痍だった。ほんと、姉さんが言うように、そもそも悪知恵を働かせるタイプなんだから、もっとスマートに戦えばいいものを、どうにも僕は肝心な所で人間が不器用に出来ているようだ。ボロボロにならないと戦えないんだ。

「…行こうか、ひまわり丸」

握りしめた手の中で相棒が笑っていた。目の前に立つ巨大な影も右腕を高く振り上げて準備万端だった。

―これで最後。

ヤツの瞳がそう語っていた。そして、僕は小さく頷くと真正面から加速した。

 荒ぶる暴力的な風切り音と圧力が頭の上から降って来た。渾身の振り下ろし。突進してくる僕の頭めがけた一撃だった。咄嗟に攻撃用に残していた最後の力を振り絞って半身を捻ると、低空で飛ぶ僕の下の地面が破裂した。

 完全に死に体だった。紙一重で攻撃を避ける事に精一杯で、そのまま攻撃に転じようにも身体は伸び切り、僕はそのまま地面を転がった。

…でも、それでよかった。

辛うじて受け身を取り、前転の要領で転がる視界に大猿の股ぐらが見えた。

そのままヤツの股の下を潜り抜けると、目の前には涙を流して絶句するくーちゃんの顔が見えた。僕はよろけながら立ち上がって振り向くと、そこには月明かりを浴びて棒立ちのまま、内股から滝のように大量の血を流す巨大な魔物の背中があった。そして緩やかに身体が前後に揺れると、ヤツはそのまま両膝を地面に打ち付けた。

―すれ違いざまに太ももの内側を斬っていた。

そこは、動物の身体の中でも皮膚が柔らかく、そして太い動脈が通っている場所だった。

 膝を地面につき、月を仰いだ魔物の後ろ姿がそこにあった。僕はゆっくりひまわり丸を構えると、切っ先をゆっくりヤツの背中にあてがった。

「…そんなに強いんだ、つぎ生まれてくるのなら、今度はその力で仲間を守れるヤツになれ」

それだけ告げると、そのまま腕に力を込めて一気に心臓を貫いた。

 薄れゆく意識の中、光の粒子になって消えていく魔物の大将が見えた。フワっと全身の感覚が無くなり、カクンと膝が折れるのが分かった。

『どうやら、今回も僕はこのまま気を失ってしまうらしい』

そんな事が頭に浮かんだ。だけど、これはダニール戦の時とは少し違った。僕は確実に勝利を確信していた。死闘の先に勝利を掴んだ。でも、それよりも何よりも、一度は失ってしまったと思っていた小さな命を救う事が出来た。今はなによりそれが嬉しかった。

 軽い衝撃と共に、身体が柔らかい物に包まれると、僕は甘い香りに気が付いて瞳を開いた。そこには崩れ落ちる僕を抱きしめる姉さんがいた。泣いていた。思い切り僕を抱きしめて泣いていた。夜風になびく赤い髪が綺麗だった。ドレスの胸元にあしらわれたレース編みが頬を引っ掻いてチリチリと痒かった。

「…やっぱりフードで隠すのは勿体ないよ。その髪も、綺麗な顔も」

気が付くと、そんな事を口走っていた。でも、ずっと言えなかった本心だった。可笑しなもんだ、いつもは照れてしまい、恥ずかしくて思ってもない事ばかりが口から出てしまうのに、こんな時に限って素直になれるのだから。

「…嫌いなんだ、この髪の色」

姉さんは顔を真っ赤に染めると、恥ずかしそうに視線を逸らして指先で髪をクルリと摘まんだ。

「…どうして?」

「…赤毛は淫乱って言うじゃない」

僕は思わず小さく微笑んだ。いったい過去にどれだけ辛い思いがあって顔を隠しているかと思えば、そんな小さな女の子みたいな理由だったなんて。

「…僕は好きだよ、姉さんの髪。凄く綺麗だ。思った通り黒いドレスに凄く似合ってる」

そして、それだけ告げると僕は意識を失った。それは、長い長い踏んだり蹴ったりの一日が終わりを告げた瞬間だった。




                  (四)

「おにいちゃんすごかったんだよ!」

「へー、どんなふうに??」

「あのね、びゅんって飛んで、ズバっときってまたとぶの!」

「ほう! それは凄いわね!」

「か、勘弁してよ…」

思わず恥ずかしくなって頭を掻く。肩車、頭の上からは、僕の武勇伝を自慢気に語るくーちゃんがいた。見上げると、満天の星空と大きな月が僕達を見下ろしていた。あの後、なかば強引にユンカーを口に突っ込まれて覚醒させられると、そのまま僕達は家路についた。

 月明かりを浴びながら長い石段を降りる。広葉樹の森を歩く。不思議な事に、森はとても静かで、優しく僕達を見送っているようだった。

「…魔物の気配がしないね?」

何気に僕が尋ねると、姉さんは何かを思い出したかのようにハっとした表情になった。

「そう言えば、こっち側の森はノンアクティブの魔物ばかりらしよ」

「…え?」

「後ろの山岳地帯まで、一部の山道沿いを除けば気性が穏やかな神獣系ばかりみたい。だから、一部の冒険者にはレベル上げのメッカとか言われてるそうよ、この街」

その言葉に、ガクリと肩が落ちたけれど、それと同時にいくつもの疑問が頭に浮かんだ。それはもちろん、この道中、散々死闘を繰り広げてきた山羊頭の猿の魔物達の事だった。

ノンアクティブばかりの場所に現れた魔物の群れ。

日没でも消えない魔物達。

遠くから聞こえた笛の音。

それは、そんな疑問達だった。

『テイマー(魔獣使い)のオカリナ!?』

それは、突然頭の中で色んな事が繋がったように思えた時だった。不意に姉さんが僕の手を強く握った。思わず驚いて足を止めると、そこにあったのは鉄道の線路だった。どうやら僕は、考え事に没頭したまま昆虫の魔物がひしめき合うジャングルエリアに入ろうとしていたようだった。

 頭から邪念を振り払うように首を振り、腰のひまわり丸に手を伸ばす。そして、神経を研ぎ澄まして前方を睨みつけた時、僕はジャングルの変化に気が付いた。

「…姉さん?」

「うん、雨が止んでる」

そう、それは目の前に広がる光景、完全に雨が上がり、葉の上の雫に月明かりを反射して輝くジャングルだった。

「…姉さん、魔物の気配は?」

「それがおかしいのよ、あれだけ騒がしかった森が静まり返ってるのよ」

そして、不思議に思って空を見上げた時だった、僕は今日一番、いいや、今までの人生の中で一番信じられない光景を見た。


…夜空に、穴が開いていた。


それは最初、小さな点のように見えた。ただの星かと思った。でも違った。次の瞬間、そこから眩しい光が零れたかと思うと、弾けるように、夜空を吹き飛ばすように頭の上いっぱいに広がった。慌てて何度も瞬きを繰り返し、腕で瞼を擦ってもう一度見上げると開いた口が閉じなくなった。

熱い日差しが頬をくすぐっていた。

急に上がった気温が産毛をくすぐっていた。

そう、頭の上にあったのは眩しい太陽と、どこまでも青い夏の空だったんだ。

そして、割れんばかりのファンファーレが鳴り響いた。


『このシャッフルワールドに生きとし生ける者達よ

 今宵、十五年の月日を経て魔王を討伐せし英雄が現れた!

 よって、よれより三日をフェスト(祭り)とする!

 このシャッフルワールドに生きとし生ける者達よ

 世界大シャッフルまでの沈まぬ太陽と、

 魔物のおらぬ世界を思う存分謳歌するがよい!』


さすがにこれには驚いた。教科書や本で読んだ事はあるけれど、まさか自分の目で見るとは思わなかった。そう、魔王が討伐された瞬間を。

そして、初めて聞いた、神様の声を。

「…だから魔物の気配が消えていたのね」

それは隣からそんな声が聞こえた時だった、不意に頭の上のくーちゃんが

「お兄ちゃん、あれ!!」

と、大声を出した。慌てて彼女が指さす方を見て、僕も思わず声を上げる。それはジャングルの茂みに咲き乱れる、小さな氷の花園だったんだ。

 急いで屈むと、くーちゃんは僕の肩から飛び降りて駆け出した。

 そして、今度は慌てて戻って来ると、何かが僕の頭の上に乗せられた。何気に指で触れると冷たくて、それが氷の野花で作った冠なのだと気が付いた。

「ありがとうお兄ちゃん!」

頬に柔らかい感触があった。それは、少女からの口づけのプレゼントだった。僕は思わず恥ずかしくなって、相手が小さな女の子だというのにもかかわらず、頬や耳の先がチリチリ熱くなってしまった。

「まあ、そりゃあそうでしょうねぇ。あの状況で助けに来てくれるとか、くーちゃんには白馬の王子様に見えたんでしょ」

再び肩車をして歩き出した僕の隣で姉さんが笑っていた。

「…勘弁してよ姉さん」

照れくさくてそう言うと、意外な事にいつもは掛け合い漫才のように始まる声が返って来なかった。不思議に思って隣を見ると、不機嫌そうに頬を膨らませ、眉をひそめる姉さんがいた。

「…あのね?」

「…は、はい!?」

「前から思ってたんだけど、いいかげんその『姉さん』っていうのは他人行儀過ぎると思うのよ。身内には名前で呼んでもらいたいものだわ」

その言葉に思わずビクリと背筋が伸びる。

―姉さんを名前で呼ぶ!?

それは、今まで考えもしなかった。いいや、考えなかった訳でもないし、そうしたいって思った事はあるかも知れない。でも、実際問題、何度も試みようと思ったけどムリだった。恥ずかしくて、恐れ多くて気が付くといつの間にか諦めていた。

「ほら、ちょうどタイーショ時代も終わって元号が変わるわけじゃない。いい機会だと思うのよ、ね?」

「…は、はい」

「…で?」

いたずらっ子のように僕を覗き込むキラキラ光る赤い瞳。

「…ク…ララ……姉さん」

「…え? 姉さん??」

「ク、クララ…ジンゲルマンさん!!!!」

今にも火が出そうな頬のまま、僕はきつく瞼を閉じると力いっぱい空に向かってそう叫んだ。すると、その様子が面白かったのか、僕の肩の上のくーちゃんはひとしきり笑った後に

「クララお姉ちゃんだけズルい! わたしも名前がいい!」

と、騒ぎ出した。

 正直、これはとてもありがたかった。フルネームで姉さんの名前を呼んだまま放置されるより、話題を変えてくれる方が百倍気が楽だ。

「くーちゃん!」

微笑ながら少女の名前を呼んで見上げると、意外な事に、今度はくーちゃんがほっぺを膨らましていた。

「それ、あだ名で名前じゃないもん!」

そう言われて初めて、僕は彼女の本当の名前を知らない事に気が付いた。

…それどころか。

僕もちゃんと名乗って無かった事を思い出した。

「くーちゃん、お名前は何ていうの?」

大きく深呼吸をして改めて名前を尋ねると、頭の上の少女は満面の笑みを作った。


「わたしはね、きよね! 

 清音 クライメンダールっていうんだよ! お兄ちゃんは!?」


「僕はヨーゼフ! ヨーゼフ シュミットっていうんだ!」


夏の眩しい空の下、いくつもの笑い声がアマゾンの森に響き渡った。遠くで手を振る先生の姿が見えた。それは、僕達が初めて互いの名前を呼びあった瞬間だった。


                                    

つづく

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マーシャの地図 @nishiyamasou

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