第二話【ジャングルの街(二)】
(一)
雨季の合間の短い晴れ間、ごった返す人混みの中を僕達は肩を落として歩いていた。先頭を歩く先生が大きなため息をつくと、それに続いて姉さんが、そしてその後は僕の口からも大きなため息がこぼれて落ちた。なんとも空しい輪唱みたいだった。でも、どんなに元気を振り絞ろうと思っても、どうにも気分はポジティブにはならなかった。
クワガタ型の魔物に追われ、命からがら辿り着いたこのジャングルの中の街は、何ともジメジメとして陰鬱な感じの所だった。まあ、雨季だから仕方ないと言えば仕方ないのだけれども、それ以上に冒険者やガラの悪い荒くれ者でごった返していて『なんとも物騒な所だ』というのが正直な第一印象だった。何とか泊めてもらえた安宿の女将さんの話では、初級エリアの序盤に位置しているこの街は、ただでさえ訪れる冒険者は多いのだけれども、特に毎年この時期になると次の街へと続く道も水没していて、かなりの数が足止めを余儀なくされるのだそうだ。そんな中、よく安価な宿に空室があったものだと喜ぶと「ゆうべここの借主は、酔っ払いの喧嘩に巻き込まれておっ死んじまったからね」と、とんでもない事を言われて僕達は全員その場で硬直してしまった。
「痛てえな! よそ見してんじゃねえぞ!」
突然、俯いた頭の先で大きな声が聞こえた。慌てて顔を上げると、大柄の荒くれ者に向かってペコペコと謝る先生の姿が見えた。そして、最初は怒りながらそれを見降ろしていた男だけど、不意に何かに気が付いた様子で先生の顔を覗き込んだ。
「…ん? 誰かと思ったら学者じゃねえか? なんだテメェもまだ旅を続けたのか? ん? なんだその鎧、お前も勇者になったのか?? オラアてっきりとっととリタイアして、図書館勤めでもしているモンかと思ったぞ!」
髭面の巨漢はそう言うと、大声で笑いながら先生の背中をバンバンと叩いていた。よくよく見ると、男の汚れてくすんだ傷だらけの甲冑の胸にも勇者の紋章があった。
「先生、大丈夫ですか??」
「今の男の人は!?」
その勇者が踵を返し、人混みの中に消えて行ったのを確かめると僕と姉さんはガックリと肩を落としたまま佇む先生に向かって駆け出した。
「…はは、はははは。彼は昔馴染みでしてね。どうせこの街で丘勇者でもやっているのでしょう」
力なく笑った先生の姿に『勇者様になっても、こういう人間関係はあるのだなあ』と、僕はついついダニールの事を思い出していた。
そんな中、姉さんだけがクスクスと笑っていた。思わず僕が不思議な顔をすると、
「だって、先生の通り名が『学者』だったなんて知らなかったんだもん…」
と言って、また口に手を当てて吹きだしていた。気が付くと、僕も吹き出していた。だって、申し訳ないけれど、それは何ともピッタリな呼び名だと思ってしまったんだ。
そして、ひとしきり笑った後に空しさがやってきて、三人そろって肩を落とした。
『シャッフルワールド物語 マーシャの地図』
【第二部・野花の冠】
第二話『ジャングルの街(二)』
「ねえねえ、げんきだしてね勇者さま!」
「そうそう、まえ見ないとまたぶつかるよ!」
「…ぶ、ぶつかるよ」
ため息交じりに歩く人混みの中、そんな声が聞こえていた。そう、あの時の子供達だった。どうやら僕達は気に入られちゃったみたいで、あれからというもの、気が付くと後をついてくるようになっていた。
三人の中でいつも真っ先に話し出す、どんぐりオメメの女の子がくーちゃん。二番手に喋る眼鏡をかけた男の子はマウリ君。色が白くていつも小脇に分厚い本を抱えてる。見るからに『読書好き』といった感じの少年だった。そして、いつもマウリ君の背中に隠れて、ボソボソと喋る小さな女の子は彼の妹のナイラちゃん。彼女が年長さんで、上の二人は小学部の二年生。三人とも現在夏休みの真っ最中とのことだった。
「元気出してって言われてもなぁ…」
子供達は無邪気な顔でニコニコしながら僕らを見てるけど、なかなかにそれは難しいよ。
『笑う門には福来る』
って言いたいんでしょ? まあね、確かにこの子達の言うことはごもっともで、ド正論だとは思うけど、人間そう簡単に落ち込んだ気分は直らないよ。たぶん、皆が同じ事を考えたんだろう。僕達は揃って肩を落とすと、次から次へと大きな溜息を漏らした。
…だって、とんでもなく貧乏なのだから。
昨日、僕達はあのクワガタ虫に襲われて全てを失ってしまった。リュックザックを始めとした荷物も、有り金を叩いてやっとの思いで手に入れた荷馬車や鋼の剣さえも。そして、この段になってとんでもない失敗をしでかしてしまった事に気が付いた。それは、町から町への旅路だった。それがただの移動を意味してないという事をすっかり忘れてしまってたんだ。そう、冒険者にとって、町から町への区間はレベル上げのための大事な物でもあったんだ。なのに、荷馬車を手に入れて気を良くしていた僕達は、雨に打たれるのが嫌な一心でそれをすっ飛ばしてしまった。それこそ『甘い息』なんて、同レベル帯だったらまずかかる事のないスキルを食らってしまう程に先に進んでしまってたんだ。そして、お金も武器も失った僕達は辿り着いてしまったんだ。身の丈に合わない格上の街に。
情報収集も兼ねて訪れた街の中心にある商店街。集合時間を決めて単独行動になった僕は、武器屋のショーウインドを眺めて溜息を漏らしていた。さすがに一つ先の街に来ただけの事はあった。飾られている剣や防具達は、今まで見た事がないくらいに立派で、ピカピカと輝いていたけれど、その分、値札も驚くくらいにピカピカしてた… 冒険者のバッグからガマ口を取り出して開いた掌の上でひっくり返すと、軽い音と共に数枚の硬貨が出て来ただけだった。
ホント、なんて性質(タチ)の悪い負のスパイラルなんだろう。街の外には格上の敵。武器が無いと戦えない。武器を買おうにもお金が無い。お金が無いから魔物を狩りたいのに武器が無い…と、殆ど詰んでしまったこの状況に思考が停止して、頭は堂々巡りばかりを繰り返していた。
「どうしたのよ? そんな、クリスマス前の子供みたいにショーウインドにへばりついて。お金が無いなら多少くらいは貸すわよ? …トイチだけど」
気が付くと、いつの間にか隣の古着屋から出て来た姉さんが僕の隣に立っていた。
「…トイチって、闇金じゃないんだから」
まったく、レベルが上がる度に武器を慎重しなくちゃいけない僕と違って、消耗品のユンカーくらいしか要らない人(まほうつかい)は同じお小遣い制でも懐が温かいようで羨ましい。まあ、おかげで昨日は宿屋に泊まれたのだけれども…
「…あちゃあ、どの剣も高すぎじゃない…これはさすがに貸すどころか足りないわ」
僕の隣に立って同じように飾られた剣を眺めた姉さんは、そう言いながらしきりに目深に被ったパーカーのフードを気にしていて、何度も何度もかぶり直したり、指先で引っ張ったりを繰り返していた。
「どうしたの?」
「…ん? ああ、さすがにあんだけ破れちゃうとねぇ。替えもリュックごと落としちゃったし… だから、ソコの古着屋さんで新しいの買ったんだけど、やっぱり着慣れない服はダメねぇ、なんだかフードがしっくり来ないのよ」
その言葉に今さらながらにハっとする。よくよく見ると、姉さんのパーカーの柄が変っていた。そして、少し遅れて『あんだけ破れちゃうと』という言葉を思い出すと、ついつい昨日の露わになった胸が頭に浮かんで恥ずかしくなってしまった。
「そ、そんなに座りが悪いなら、フードを被らなければいいじゃないか」
恥ずかしくて話題を変える。でも、実のトコロこれはずっと気になっている事だった。だって、せっかく美人なのにわざわざ隠すのは変だと思ってたんだ。
すると姉さんは俯いて、さらに力いっぱいフードを伸ばしてますます顔を隠すと
「自分の顔が嫌いなのよ。この髪色も…」
と、呟いた。不思議だった。女の人の気持ちはよく分からなかった。ひょっとしたら、僕の知らない昔に色々あったのかも知れないけれど、それでもやっぱり勿体ないような気がした。姉さんだったら、もっと似合う服は沢山あるだろうに。それこそ…
そう思ったその時、隣の古着屋さんのウィンドウに飾られた服が見えて、僕は思わず指さした。
「姉さん! あんなのはどう!? 絶対に似合うと思うんだ!!」
うん、間違いない。パーカーなんかよりも、ぜったいあっちの方がいいはずだ! そして、僕の声を聞いた姉さんは、背を丸めたまま指さす方を眺めて奇声を上げた。
「ちょ、ちょ、ちょちょちょちょ! あ、あなた何て趣味してるのよ!」
「ど、どんな趣味って、いかにも強そうだし、魔法使いっぽくてカッコいいじゃないか、あの黒いドレス!」
「ば、ばか! あれ、ゴスロリって言うのよ! ゴシックロリータ! 私にあんなのが着れるワケないじゃない!!」
「こんどはおねえちゃんのお顔がまっかだー」
「ほんとだ! まっかだ!」
「…ま、まっかだ!」
どうやら僕達のやり取りが面白かったのか、いつの間にかそれを見ていた子供達が大うけにうけていた。そして、気が付くと、先生の笑い声も混じっていた。
「…まあ、ゴスロリは私も似合うとは思いますが、それよりも困ったのは武器でしょうねぇ。落とした鋼の剣、取りに行くにも今のままでは自殺行為ですし、新しく買おうにもここは物価が高すぎます。何とかなれば良いのですが」
ひとしきり笑った後、先生の言葉に僕達は厳しい現実に引き戻された。そしてそれは三人で顔を見合わせて『で、どうしましょ?』と、苦笑いした時だった。不意に僕の袖がツンツンと引っ張られた。視線を落とすと、そこには子供達の顔があった。ニッカリと満面の笑みを浮かべていた。
(二)
「…う、うわあ、なんじゃこりゃ」
思わず感嘆の声が漏れた。でもそれは良い意味ではなくて、むしろその反対だった。目の前には雑多に積まれた武器や防具の山があった。
子供達に手を引かれ、僕達が連れて来られたのはさっきまでいた大通りから一本裏に入った路地にある古びた骨董屋だった。まるで八百屋さんの軒先のように、みかん箱の上には雑に置かれた鎧や兜が並んでいた。その脇には空のワイン樽が置かれていて、まるで傘立てのように無数の剣達が刺さっていた。確かに、そこに貼り出されていた値札の金額はどれもこれも驚くほどの安価だった。でも、残念な事に全部が見るからにガラクタだった。鎧や兜は割れていたし、剣に至っては錆びたの、折れたの、曲がったののオンパレードだった。
「おそらく丘勇者御用達の店なのでしょう。フィールドに出て死体から装備を剥ぎ取ったり、遺跡や墓を荒らして手に入れた物を売るんですよ」
小声で耳打ちしてきた先生の言葉に背筋が凍った。確かに、そういう話は聞いた事がある。冒険はリタイヤしたけれど、魔物を狩れば日銭は稼げる。だから、無理して先には進まずに、無難なレベルの街に根を張る半分ならず者のような勇者様の一行がいるって。そして、そんな数多くの冒険者達を受け入れるために、この初級エリアは一番面積が広いって。
しかしまあ、下には下がいるもんだ。大した夢も無く冒険に出た僕よりも、さらに邪な理由で冒険者を続けてる人間がそんなにいるなんて。改めて軒先に飾られた武器や防具達を見て複雑な気持ちになった。だけど、そんな僕とは裏腹に、子供達は自慢げな顔をしてニコニコしていた。
「どう、お兄ちゃん、すごいでしょ!」
「ここは僕達の秘密のお店なんだぞ!」
「…な、なんだぞ」
「…う、うん、凄いねこれは」
思わず苦笑いが漏れた。ほんと、無邪気というのは無敵だな。
でもまあ、よくよく考えてみたら、つい数年前までは僕だって同じだったかも知れない。空地のスクラップ置き場が秘密基地だった。壊れて雑音しか鳴らない古いラジオが宝物だった。そう思うと、このゴミ溜めのようなお店もこの子達には宝物の山に見えるのだろう。そして、それが子供っぽいと思えるくらいに僕も大人になったんだ。
そんな中、意外にも最年長の人間が一番子供のようになっていた。さっきから、暗いお店の中から「すごい!」「すごいぞこれは!!」という声が聞こえてる。そう、僕達の勇者様の声だった。どうやら先生の学者魂を震わすような物が中には沢山あるらしい。
「折角だから、あなたも見てきたら?」
不意に背中が肘で突かれた。
「じゃ、じゃあ姉さんも一緒に…」
「嫌よ、めちゃくちゃバッちそうじゃない…」
そして無理やり背中を押されて中に飛び込むと、そこは案の定めちゃくちゃ埃っぽくて、息も出来ない空間だった。慌てて振り向いた店先では子供達を連れて楽しそうに手を振る姉さんの姿が見えた。
骨董屋の中は、店先とは少し雰囲気の違う空間だった。小さな店内の壁は一面のガラスのケースになっていて、大小色んなサイズの神像や、所々装飾品が無くなっている古いランプ。欠けた茶器みたいな物が並んでいた。それはなんだか博物館みたいな雰囲気だったけれど、僕にはさっぱり価値が分からなかったから、やっぱり中もゴミ箱みたいだと思ってしまった。そんな中、水を得た魚みたいな人がいた。言わずもがな、僕達の勇者様だった。姉さんの言葉を借りればまさに『お店の前で目移りするクリスマス前の子供』のように縦横無尽に店の中を走り回り、何かを見つけると奇声を上げて食い入るように眺めてた。その姿はまさに学者…。どうやらその通り名は、見た目の容姿から付けられた物ではないのだと確信してしまった。
僕はしばらくその場に立っていたけれど、これと言って見る物も無く、カビ臭さに耐えきれなくなって踵を返そうとした。その時だった、視界の端に何やら緑色の物が映った。不意にそれが気になって足を止める。そして、振り返るとついつい驚きの声が上がってしまった。
―それは、ガラスのケースに飾られた緑色のオカリナだった。
半透明で、鮮やかな緑と乳白色がマーブル模様を描いていた。今まで美術品なんかを見ても面白く無かったし装飾品とかにも興味が無かった。でも、この時は違った。思わずその美しさに目を奪われて見入ってしまったんだ。
「…ほほう、メノウのオカリナですか」
耳元で声がした。目をやると、いつの間にか僕の隣に立っていた先生が顎に手を当ててオカリナを眺めていた。
「メノウ?」
「ええ、石の名前ですよ。柔らかい色合いですから、樹脂とか飴細工のようにも見えますが、立派な宝石です」
その瞬間『宝石』という物に対するイメージが崩れた。もっとギラギラしてイヤラシイ物だと思ってたけれど、これは違った。優しくて柔らかくて、何と言うかとても爽やかだった。気が付くと姉さんの顔が浮かんでいた。ペンダント…と言うには少々大きいけれど、あの赤いパーカーの首から下げたらどんなに似合うだろう、ついついそう思ってしまった。値段を見ると、宝石と言っても腰を抜かす程の金額ではなかった。
目を閉じて思いを巡らす。
『もし、僕がこれをプレゼントしたらどうなるかな?』
『どんな顔をするのだろう?』
気が付くと、そんな事ばかり考えていた。だけど、そんな妄想の数々も、続いて聞こえた先生の奇声でかき消されてしまった。
「ちょ、ちょっと! これ、テイマーのオカリナじゃないですか!?」
「?? て、ていまあ? 貴重なんですか??」
僕の言葉に先生は慌てて口に手を当てると、そっと耳打ちをして来た。
「貴重どころか、世界遺産級ですよ! し、しかも何ですか、この値段、ここの主人の目は節穴ですか!?」
何がどう凄いのか理解が出来ない僕の隣で、慌てて先生が冒険者のバッグに手を伸ばした。そしてアタフタしながら長財布を取り出すと、開いた掌の上でひっくり返した。だけど、チャリンチャリンと音がして現れたのは数枚の紙幣と銅貨だけだったから、思わず僕達は揃って大きなため息を漏らした。
「よ、予約です! 取り置きをお願いします!」
「節穴で悪かったね。金が無いなら帰っておくれ」
大慌てで振り向いて叫んだ先生に続いて、聞き覚えのないシャガレた声がしてゾっとした。誰も居ないと思っていた場所から声がした。オッカナビックリ振り向くと、奥の暖簾の前に小さなお婆ちゃんが座ってた。てっきり展示物の仏像か何かと思ったら人だった! まるで駄菓子屋の婆ちゃんだ! なんてスキルだ! 完全に生気も気配も消していた! それにめちゃくちゃ地獄耳!
がっくりと両肩を落として店の外に出ると、小さな笑顔達が出迎えてくれた。『待ってました』と言わんばかりに三人で錆びた細長い棒のような物を持ち上げて、僕に向かって差し出していた。
「おにいちゃん、けんがほしいんでしょ!?」
「ぼくたちがみつけたんだよ!」
「…み、みつけたんだよ」
…剣?
思わず小首を傾げてしまった。どうやら僕達が店の中に居る間に、軒先の樽に刺されたガラクタの中から見つけたのだろう。だけど、その茶色い棒は、どう見ても剣には見えなかった。ただの錆びの塊だし、何より大きく曲がってた。まあ、確かに見た感じ、他の剣は折れたのばかりみたいだから、曲がってる程度は軽傷なのかも知れないけれど、それにしてもなんだこれ、勘弁してよ。
(三)
「おにいちゃん、右にいったよー!」
「みぎは、お箸をもつほうだからね!」
「…だ、だからね!」
「ありがとう!!」
子供達の声に合わせて身体を捻ると、そのまま側転して大地を蹴った。クルリと宙を舞うと眼下に巨大なカマキリが見えた。三角蹴り、地面に対して90度、重力を無視して大木の側面に着地すると、今度はそのまま幹を蹴って虫野郎の長いうなじ目がけて加速した。
握った両手のナイフの先に甲高い音と火花が飛び散る。もしこれが、ロングソードだったら、と舌を打つ。だけどまあ、これはあくまでチーム戦。僕の仕事はここまでだ。着地と同時に背後から「うわぁぁぁああああああ!」という先生のたよりない声と魔物の断末魔が聞こえてきた。振り向くと、僕の動きに気を取られ、むき出しになった魔物の巨大な腹に先生の勇者の剣が刺さっていた。
「早く二人とも! 次がエンカウントした! ヒット&アウェイ! 戻って来て!!」
「もどってー!」
「はやく、こっちー!」
「…こ、こっちぃ」
その声に合わせて再び大地を蹴ると、僕は皆が待っている街の門に転がり込んだ。背後からは、何とかかんとか勇者の剣を引き抜いて、えっちらおっちら駆けて来る先生の姿が見えた。僕の手の中には二本のナイフがあった。それはとても懐かしい物で、僕達の最初の激戦、始まりの街を出てすぐに出会った角の生えた兎がドロップした物だった。「さすがに丸腰じゃ無理でしょ?」と、見かねた姉さんから記念の品として取っていた物を借りたけど、正直このレベル帯の相手には致命傷を与えるのはどう考えても無理で、気休めと、搖動くらいにしか使えなかった。
あの骨董屋の一件からすでに一週間が過ぎていた。それからというもの僕達は、連日街の入り口に拠点を置き、その前を通り過ぎる群れを組んでいない単体の魔物を見つけると三人がかりでそれを狩り、あわてて門へと飛び戻る。というのを繰り返していた。本当は、もっと森の奥まで行ってガンガン狩をしたかったけれど、正直、今はこれが精一杯。場違いなレベル帯の街に来てしまった僕達に出来る唯一で、とんでもなく効率の悪い策だった。
『僕と姉さんが前衛で、元僧侶様の先生が後衛で回復係』
慣れ親しんだフォーメーションは変更を余儀なくされた。なにせ、攻撃力が激減してしまった僕と、雨とは相性の悪い魔法の姉さんのコンビでは敵が倒せなくなっていたのだから。そこで、唯一、戦力らしい戦力である勇者の剣を持つ先生が最後のトドメを刺す作戦に変更した。僕と姉さんの役目は陽動。剣はカラッキシの先生でも敵が倒せるようにお膳立てをするのが仕事だった。
「…なんとか一匹ならば苦戦はしなくなりましたね」
「でも、これじゃあ目的地まではまだまだね…」
雨宿りと休憩を兼ねた石造りの門の下での作戦会議。カリリとユンカーの蓋を開ける音と、広げられた地図に描かれた赤い『×』を眺めて一斉に漏れるため息が響いた。
「どうしたの?」
「その赤いしるしはなに?」
「…な、なに?」
いつの間にか、小さな瞳達も僕達に混じって地図を覗き込んでいた。
「これはあの日、僕達がクワガタの魔物に襲われた場所だよ」
僕は短く説明すると、立てた人差し指をツツツと街道に沿って滑らせた。街の入り口からおおよそ500メートル先。そこに印がつけられていた。
「この門からそこまでの間のどこかにあるんだ、僕達が落とした荷物と…鋼の剣が」
そして、雨に濡れるジャングルの街道を見つめた。
―500メートル。
それは、剣士としてパーティ補正を受けている今の僕にとってはたいした事ない距離だった。それこそ、ピュっと行ってピュンと戻って来れる程に。でも、この時ばかりはとんでもなく長い距離に感じられた。この初心者のナイフしか持たない状態での連戦。そう考えるだけで身の毛がよだった。
「せめて、もう少し強い武器があれば…」
それは、ついつい手の中のナイフを握りしめて呟いた時だった。急に姉さんは立ち上がると、パンパンとスカートの裾を叩きながら「あ、忘れてた。それならあるわよ」と、言ったんだ。まったくもって意味が分からなくて座ったまま見上げると、姉さんはおもむろに腰の冒険者のバッグに手を伸ばした。
「やっぱりメインルートの宿場町って冒険者が多くて鍛冶屋さんも大忙しなのね。感謝しなさい。仕上げるのに一週間も掛ったんだからね!」
そう言ってバッグから現れたのは、一本の曲がった木の棒だった。
「…弓??」
一瞬頭に閃いたのはその言葉がそのまま口から洩れた。でも、よくよく見ると何だか違った。弓にしてはえらく短いし、弦も張っていなかった。次に頭に浮かんだのは『ひのきのぼう』だった。なぜって、その棒は片側だけテーピングがグルグル巻きにされていたんだ。
「バカねぇ、あなた剣士でしょ? そもそも弓が使えるわけないじゃない」
「…じゃあ、やっぱりひのきのぼう…??」
「え? 何言ってるの? それじゃあナイフの方がマシじゃない…」
姉さんは呆れた顔でそう言うと、その白木の棒を僕の目の高さで横にした。そして、ゆっくりと両手に力を入れた瞬間、軽い金属音と共に棒に亀裂が走ったかと思うと、中から鋼の刃が姿を現したんだ。そして僕は、それが何だか理解した。頭には骨董屋の軒先での光景が蘇っていた。
「…ほほう、これはまた珍しい。サムライシュベアトじゃないですか」
満面の笑みで子供達が掲げる曲がった錆びの塊を見て、顎に指を当てた先生は驚いた様子でそう言った。
「…サ、サム…何だって!?」
「サムライシュベアト。俗に言う『カタナ』というヤツですよ」
「…カ…タナ??」
「…サムライ???」
姉さんと二人、顔を見合わせて首を傾げる。どうにもこの骨董屋に来てからというもの、大暴走する先生の口から出るのは聞きなれない言葉ばかりで思考がおっつかない。
「ええ、サムライ。先ほどのテイマー(魔獣使い)同様、かつてこの世界に存在した職業です。どちらももう、古い文献にしか記されていませんけどね。どうやら神様はこのシャッフルワールドとシステムを作るにあたって、数々のトライ&エラーを繰り返したのでしょう。どちらも長い歴史の中で消えてしまった職業です。あと、ニンジャとか、武闘家とかもあったと思いますよ。まあ、文献で読んだだけですが…。ただ…」
「…ただ??」
「ただ、そんな遺物の中でもこのカタナだけはまだ今でも割と有名な部類でしょうね」
「え? どうして?」
「『神様の気まぐれ(三種の真剣)が第二の剣『二文字(にもんじ)』』
かつて、その通り名を持つ有名な剣士が居ました。彼の愛刀がこのサムライシュベアトだったんですよ。まあ、君達が生まれるずーっと、ずっと前の話ですし、知らないかもしれませんが。まあ、そういう私も文献を読んだだけなのですがね。どうやら美少年剣士としても名をはせたそうですから、おそらくそれも、その頃に造られたレプリカの内の一本なのでしょう」
それは、またしても知らない言葉のオンパレードだった。『神様のきまぐれ、三種の神剣』『二文字』…。そして、またしても不思議そうな顔をしている僕達に気が付くと、先生は小さく頷くと瞳を輝かせて説明を始めたんだ。
「神様の気まぐれ、三種の神剣。正確にはそれらは剣の名前ではありません。剣に付与された特別なスキルの名前です。どうしたら剣に宿るのかは今を以って不明。ある時突然発現する。よって、神様の気まぐれ。しかも、所有権が第三者に譲渡されると同時に消えてしまう幻のスキル。ですから、転売、譲渡も不可。今までも存在は確認されているにはいますが、実際にそれを手にした人間はこの長い世界の歴史でもごくごく限られています。そして…」
僕も姉さんも、子供達も、まるで紙芝居を観る子供達のようにその話を食い入るように聞き、そしてゴクリと喉を鳴らして続きを待った。
「三種の神剣が第一の剣、頑なな志の剣『一閃』鞘に収まった状態からの居合抜き。放たれる斬撃は全てが会心の一撃となる」
「うんうん!」
「そして、第二の剣、自由の剣『二文字』一振りにして生まれるは二つの斬撃。それは、全ての物理と魔法の防御を無視して羽ばたく刃なり」
「うんうん!」
「で、三つ目はっ!??」
すると先生は、急に困った顔になると、ポリポリと頭を掻き始めた。
「それが、私にも分からないんですよ…。三種類あるってのは文献にも書いてあるんですけどね、どうやら見た事がある人はいないようです。それを証拠に名前も分かりません」
先生はそう言うと、照れくさそうにさらに頭を掻いたから僕達は思わずずっこけてしまった。そんな中、子供達は「にもんじー!」「にもんじー!」とはしゃぎながら僕に曲がった錆の塊を手渡してきた。
「…いやいやいや、二文字って、このタイプの剣を使ってた人の通り名でしょ? これを使えば神様の気まぐれが使える訳じゃ…」
そして『やっぱり嫌だよ、こんな曲がった錆びの塊』と続けようとした途端、不意に誰かの手が僕の肩にそっと置かれた。振り向くとそれは姉さんで、小さなウインクをしながら『子供の夢を壊しちゃダメでしょ』という顔をしながら人差し指を唇に当てていた。
「いや、これは意外と妙案かも知れませんよ。かの有名な二文字も、華奢な少年剣士だったという話ですし、重いロングソードよりも君に向いているかも知れません」
…僕が思いだしたのは、そんなやり取りだった。
「ほらほら、私からのプレゼントなんだから有難く受け取りなさいな。先生の話だと何やら凄そうな剣みたいだったから、あの後こっそり買いに行って鍛冶屋さんに預けてたのよ」
手渡された細身の剣は見た事もない奇妙な形をしていた。刃は片側にしか付いていなかったし、何より曲がったままだった。そして、とても不思議な色をしていた。純粋な銀色じゃなかった。クネクネと白い波が描かれた刃、刀身にも所々に煙のような白い濁りが浮かんでいて、まるで夏の入道雲ように見えた。
「錆びで所々刀身が濁ってしまいましたねぇ。まあ、仕方ありませんね、元があれですから…」
剣を眺めて先生はそう言った。曲がったままな事や、刃が片方にしか付いていない事を尋ねると、「カタナとはそういう物ですよ」と、一言で片づけられてしまった。
「本当はね、加治屋さんが言うにはその剣には色々装飾が必要なんだって。なんだっけツバ? コジリ? コイクチ…あ、ウスクチだったかも。あと、そうカタクリ! ん? クリカタだったっけ…4グラムくらい?」
うろ覚えの装飾の名称を思い出しているうちに、どんどんお料理のレシピみたいになっていく姉さん。でも、言いたかった事はその後の説明で何とか理解が出来た。ようは、このカタナという剣は、色んな装飾や立派な鞘が付いて初めて完成するものらしいのだけど、現代ではそれらを作れる職人さんももう残ってなくて、鍛冶屋さんが間に合わせでこの形に仕上げてくれたのだそうだ。たしかに、僕の手の中にあるそれは申し訳程度の白木の鞘と、ナイフの持ち手の要領で茎(なかご)を鹿の角で挟み、目釘の上から白いテーピングがグルグル巻きにされただけの簡素な柄(つか)がしつらえてあるだけだった。うん、どうりでひのきのぼうに見えたわけだ。
「で、どうどう? 振ってみてよ!?」
「ふってー!」
「みたい!」
「…た、たい!」
皆の声に急かされて、抜き身の剣をブンブンと右手で振ってみた。
「うん! ありがとう! 凄く軽くて使いやすい!」
僕のその言葉に皆が歓声を上げた。さらに「みせて」「みせて!」とはしゃぐ子供達に、僕は剣を鞘に納めると「気をつけてね」と、言って手渡した。その様子に、姉さんもとても満足そうな顔をしていた。僕も嬉しかった。初めて姉さんから貰ったプレゼント。それは間違いなく宝物だった。
…でも。
実のところ、振ってみた感想は違和感と頼りなさだけだった。そりゃあ、鋼の剣と比べたら段違いに軽かったよ。だけどそれが問題だった。剣と呼ぶには軽すぎたんだ。確かに、まるでカミソリのような薄くて鋭い刃はよく切れるのかも知れない。だけどそれはせいぜい動物や植物を相手にした場合だ。これでは魔物を相手にしたら容易く刃こぼれするだろうし、一発で曲がるなり折れるなりしてしまいそうだった。僕が知っている『剣』それは相手の鎧や装甲ごと叩いて曲げる、割る、ぶった切るという物だ。そしてまた、僕が習い、信じ憧れ続けるスタイルもまたそういう物だった。
「では、せっかくのサムライシュベアトですし、名を付けてみたらいかがでしょうか?」
喜び、はしゃぐ子供達を眺めていると、不意に先生がそんな提案をし始めた。「そうねえ、せっかくのプレゼントだし豪華な名前を付けてもらいたいものね」と、姉さんも悪乗りを始める。僕は何だか照れくさくなりながら頭を掻いて雲の切れ間から覗く夏の空を眺めた。
最初に頭に浮かんだのは姉さんの名前だった。それが良いような気がした。でも、顔を下ろして改めて顔を見ると急に恥ずかしくなって『どうにも無理だ…』という結論に至ってしまった。うん、僕ヘタレ。そんな時、子供達の間からドっという声が上がった。
「ひまわり丸―っ!」
「くーちゃんが考えたんだよ!」
「…だ、だよ!」
「え? え?? ひ、ひまわり??」
そう言って返って来たカタナの柄と鞘には、まるで『よくできました』のハナマルのようなひまわりの絵が描かれていた。折角の姉さんからのプレゼントに早速の悪戯描き。僕は慌てて指でこすったさ。
…油性ペンで描かれてた。
「いいじゃない『ひまわり丸』夏っぽくて」
「そうですね! 伸び盛り、縁起が良くてぴったりです!」
とほほ、そうですか、そうですね…
僕は改めて子供達の手から『愛刀ひまわり丸』を受け取ると、苦笑いをしながらお礼を言った。とても、とても複雑な心境だった。
ひとしきりの雑談にあけくれた後、ひまわり丸を腰に差し「もう一回戦がんばりますか?」と、雨に煙る街道を眺めた時だった。不意に頭の上にある見張り櫓から割れたスピーカーの音がし始めた。
「あちゃあ、今日はここまでのようね」
「続きはまた明日にしましょう」
「くーちゃん達も気を付けて帰るんだよ!」
僕達はそう言うと、まだまだ遊び足りないといった顔をしている三人の頭を撫でた。聞こえてきたのは、どの街や村でも夕暮れ時に鳴り響く『帰りましょ』の曲だった。厳密に言えば八月の陽は長いから、日没までは一時間程余裕はあるけれど、お開きにするには丁度良い頃合いだった。それは、僕達にとっても同じで、夜になるとフィールドの敵は入れ替わり、昼間とは比べものにならないくらいに強力な魔物が現れるもんだから、いつもこれが流れると解散の合図になっていた。
「さあさ、いつものあげるから並んで並んで!」
姉さんの声に合わせて子供達が飛び上がる。そしてキラキラした目をして僕達を見上げた。
「あれ、あれれ??」
「どうしたの?」
振り向くと、パーカーのポケットを漁って慌ててる姉さんがいた。
「ごめん、ひまわり丸をもらいに行ってて買い足すの忘れてた。あめちゃん二個しかない…」
急にがっかりした顔をする子供達。それを見て、僕も慌てて何か無いかとポケットを漁ったけど、残念な事に小さな子の喜びそうな物は何も見つからなかった。すると突然、
「わたしはあれでいいよ」
という声がした。顔を上げると、くーちゃんが街道脇の茂みを指さしていた。
「あれ?」
「そう、あれだよ」
振り向いて指さす方を眺めると、少し先にある茂みに雨に濡れる一輪の真っ赤な花が咲いていた。
「ちょっと待っててね!」
「な、なに? 一人で行くの? 危ないわよ!?」
その声に「大丈夫だよ」と、短く返事をして雨の中を駆け出した。そして、茂みの中に咲いている熱帯の鮮やかな花の前に立つと、腰から抜いたひまわり丸を真横に薙いだ。ちょっとした試し切りには良いと思ったんだ。そして地面に落ちた花を摘み上げた。
門まで帰って来て、それをくーちゃんに差し出すと、子供達は凄く喜んでくれた。一番嬉しそうだったのは、もちろんお花が貰えたくーちゃんだった。そして、それを見ていたマウリ君も、喜ぶ彼女を見てニコニコし始めた。きっと、彼はくーちゃんのことが好きなのだろう。僕もなんだか保育園時代を思い出し、こういうのが初恋なんだろうなあ…と、しみじみした。そして、べったりなお兄ちゃんっ子のナイラちゃんは、そんな喜ぶお兄ちゃんの顔を見上げて嬉しそうだった。それはとてもホンワカとして朗らかな光景ではあったのだけど、よくよく考えるとこんな小さな子供達の間にも複雑な恋愛の縮図があるのかと思ってゾクっとした。
『がんばれ少年、いつかちゃんと想いを伝えるんだぞ』
喜んで家路につく子供達の背中を見送りながら、ついついそんな事を頭の中で呟いた。何気に後ろを振り向くと、目があった姉さんが『どうしたの?』という顔をしていた。それがあまりにも至近距離だったから、思わず恥ずかしくなって目を逸らしてしまった。耳の先が熱くてチリチリとした。
『訂正。少年、想いを伝えるのはけっこう難しい事かも知れない』
(四)
走った。雨に濡れる石畳の上を全速力で駆けていた。腰にはベルトに挿したひまわり丸があって、走るリズムに合わせてカタカタと踊っていた。子供達と別れた後、僕は先生と姉さんを残して一目散に駆け出した。凄い事を思いついたんだ。
相変わらず人でごった返す商店街や繁華街を駆け抜けて、武器屋の角で横に飛ぶ。そして裏路地に入ると目的地が見えてきた。
「お婆ちゃん! お邪魔するよ!」
まるで仏像か置き物のように暖簾の前に座っているご主人さんに声をかけ、そのまま店の奥にあるショーケースの前で足を止めた。そして思わず安堵の息を漏らした。
『まだあった!』
思わず小さなガッツポーズを作る。そう、僕の目の前にあったのはあのオカリナだった。冒険者のバッグからガマ口を取り出して掌でひっくり返し、指先で今日までの戦闘で貯まった銀貨や紙幣を数える。そして思わずパチンと指を鳴らし「おしい!」と叫んだ。1万7千800ゴールド、あと2000ゴールド足りなかった。
「お婆ちゃん、これって値引き…」
「無理」
「じゃあ、取り置きは!?」
「金が無いなら、帰っておくれ」
「…ですよねぇ」
ガクリと肩を落として大きな溜息を一つ漏らすと、僕はもう一度顔を上げてオカリナを見つめた。心が躍っていた。
僕がこのオカリナを欲しいと思った理由。それはまあ、アレ、察してよ。ずっと思ってたんだ、これは絶対に姉さんに似合うって。でも正直、女の人にこういうのを贈るというのは中々に悩ましい行為で、ずっと僕には無理だと思ってた。
…でも。
腰に差されたひまわり丸を指先で撫でる。うん、こればっかりは仕方ないじゃないか。これをプレゼントしてもらったのだから。お返しはしないと失礼に当たる。うん、これは渋々だ。礼儀なんだ。僕は何度も何度も言い訳がましい口実を呟きながら、スキップをしながら店を出て、そのまま浮かれて宿屋へと向かった。
2000ゴールド、この調子なら明日の夕方には達成できそうだった。
『目の前に達成でそうな目標があるとがんばれますよ』
先生が言っていた事は本当だ。目標があるとこんなにも世界が眩しく見えるのだから。
だけど翌日、ついつい我慢が出来なくて『もう一度だけ見たい』と開店と同時に寄った骨董屋の棚からはオカリナが消えていた。お婆ちゃんに聞くと夕べのうちに売れてしまったのだそうだ。僕はてっきり先生に先を越されたのかと思って尋ねたけれど、どうやら違う人のようだった。どんな人が買ったのかは教えてくれなかった。守秘義務だとか言ってた。うそこけ、こんな胡散臭い店にそんな上等な決め事があるワケないじゃないか…
全身から力が抜ける思いだった。確かにあのオカリナは気に入っていた。でも今はそれよりも『姉さんに何かをプレゼントする』という目標自体が消えてしまったような気がしてガックリきた。
「それならばせめて!」
僕はそう叫ぶと同時に朝靄の石畳を蹴った。苦し紛れの違う策が閃いていた。そう、こんなチャンス二度と無いのだから贈れるのならオカリナである必要は無い!『贈る』
という行為が大切なんだ。
息を切らして飛び出した表通り、武器屋の隣の古着屋さん。だけど、そこのショーウィンドからも、例の黒いドレスは消えていた。ダメ元で店員さんに聞いてみると、あれもまた昨日の内に売れちゃって、とっくに仕立て直しに回ってるらしい。
肩を落とし、雨にうたれたまま集合場所の街の入り口を目指した。まったくもって踏んだり蹴ったりの一日の滑り出し。でもこれは、さらに長い、正に文字通りの踏んだり蹴ったりの一日の幕開けになってしまったんだ。
つづく
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