第二部 【野花の冠】
第一話【ジャングルの街(一)】
(一)
「グローセラントカーテッ」
鬱蒼と茂った熱帯雨林、土砂降りで煙る森を駆ける一台の荷馬車。軋む車体と、盛大に幌を叩く大音量の雨音。そして、大きな地図を呼ぶ声が辺りに響き渡った。いやあ、それにしても跳ねる、跳ねる。荷物も、身体も、景色さえ縦横無尽に飛び跳ねる。
「ど、どうなんですか?? 次の街まではあとどれくらいです??」
「ごめん先生、気が散るから声かけないで!」
必死に荷台の柱にしがみつき、振り落とされないようにふんばる僕の視界の先には、ずぶ濡れになりながら手綱を握る勇者さまと、地図を広げて叫んでいる姉さんの背中が見えた。
つい数日前、やっとの思いで念願の荷馬車を手に入れた僕達だったけれど、そこから先は、期待とは裏腹にとんでもない旅路になってしまった。まったく、なにが「雨季って言っても雨の日が多い程度の事でしょ? 今は荷馬車だってあるんだから濡れないじゃない。そんな些細な事は気にしない、気にしない」だよ。
そして、見事に姉さんの口車に乗せられて半ばなし崩し的に街を出発した僕達は、このジャングルエリアの入り口に立った途端に開いた口が塞がらなくなってしまった。だって、通る予定だった次の街へと続く幅が広くて整備された主要道は、完全に増水した激流の底に沈んでいたのだから。そんなこんなでどうにも回り道を余儀なくされると、地図だけを頼りに道なき道を進む羽目になった。連日連夜止まない土砂降り、曲がりくねった密林の小道はすでに沼のようだった。そこら中がぬかるんでいたし、水たまりに隠れた木の根や岩を踏む度に僕達の身体は右へ左へと大きく跳ねていた。
「ご、ごめん、ぼ、僕もう…うっ」
「わ、私もです…ま、まさか荷馬車の上で船酔いをするとは…うぷ」
「ちょ、ちょ、ちょっと、やっと手に入れた新車なのよ!? 吐くなら外に向かってしてちょうだい!!」
その声に急かされるように両手で口を押さえて床板を蹴る。でも次の瞬間、大事な宝物の存在を思い出して足を止めた。そして、転がるロングソードを慌てて抱き上げると、引きずりながら荷馬車の後ろ目がけて駆け出した。マスト生地の幌を跳ね上げて勢いよく顔を出し、何度も何度も肺いっぱいに新鮮な空気を吸い込む。そんな事を繰り返して少し気分が落ち着くと、不思議な事に次第に周りの風景が見えてきた。道はいつの間にか平坦な林道へと変わっていた。
「うわあ」
激しい雨に打たれる見覚えのない熱帯雨林の木々や花達の鮮やかさと、嗅いだ事のない香りに思わず声が漏れてしまった。雨粒に目をしかめて見上げると、梢の向こうに広がる暗い空には羽ばたく色鮮やかな鳥達の姿も見えた。その見慣れない景色に、改めて僕達はジプシーなのだとしみじみ思った。そして、改めてこの世界は大きいのだと。
―そう、このシャッフルワールドと呼ばれる世界はとてつもなく広かった。
冒険を始めてからの半年間で僕はそれを身を以って知った。正直、これまでの旅だって気が遠くなるほど長かったよ。沢山の燃える川を渡ったし、凍った雲の上を歩いたりもした。それまでは、せいぜい往復の通学路や近所の駄菓子屋までの道のりが全世界だった僕だったから、慣れ親しんだ村を離れる毎に変る気候や景色、馴染みのない風変りな建物を見る度に、自分が今、世界地図のどこに立っているのか見当もつかなくて心細くなったりもしたし、随分遠くまで来ちゃったもんだと思ったりもした。でも驚く事に、それでもこの旅はまだまだ序盤も序盤だったんだ。僕達の勇者様、先生は言った
『最果てにある魔王の居城。そこに到達するためには初級エリア、中級エリア、上級エリアを越える必要がありますよ』
って。そしてさらに驚いたのが、それに費やす冒険の目安は6・3・3で12年だと言うのだから考えただけでも眩暈がした。
「どうして君は冒険をするのです?」
「旅の目的は何ですか?」
「何を目指しているのです?」
ある時、先生は僕にそう尋ねた。どうやら長く何かを続けるためには二種類の目標を持つのが大事らしくて、その一つ目が短い期間で達成できるお手軽な目標。ようは『次の街ではあれを買おう。ひと山越えたらあれをしよう』という類の物だった。それがあると多少今が辛くても頑張れるのだそうだ。でも、それだけじゃ瞬間的な馬力は出るけど持続が出来ないらしい。そこで重要なのが二つ目、長い期間を費やして達成させる目標の存在なのだそうだ。例えば『この世の果てまで行って魔王を倒す』とか『中級エリアの最深部に行って勇者に転職する』という根本的な旅の理由だった。そう、短いのと長いの、この二つが揃ってないと、冒険も仕事も続かないって先生は教えてくれたんだ。
短期的な目標はすぐに見つかった。いくつもあった。例えば、この腕の中にあるロングソードがそれだった。ずっとこれが欲しくて頑張った。だけど『この旅を通して何を目指す?』と聞かれると、その根本的な部分はどうにも言葉にはならなかった。思いつきすらしなかった。挙句、返答に困った僕はついつい「先生は?」と、質問に質問で答えてしまったけれど、返ってきたのは「いつか教えますよ」という言葉と優しい微笑みだけだった。
『根本的で最終的な目標』
荷馬車から顔を出したまま、頬杖をついて通り過ぎる色鮮やかな花達を眺めて考える。実のところ、僕がそれを即答できなかったのには理由があった。だって、そもそも冒険に出た動機が不純で、大した目標も大義名分も持っていなかったのだから。
「あ、次の分岐は左ね、先生!」
「え? 草木ばかりで分岐点なんて見えませんよ??」
「うっそ、地図にはちゃんと記されてるって!」
荷馬車の中には相変わらず賑やかな声が響いていた。そしてそれは濡れた頭をタオルで拭きながら、目深にフードを被った赤いパーカーの背中をぼんやり眺めている時だった。突然姉さんの短い悲鳴が聞こえたかと思うと、同時に目の前の景色がガクンと飛んだ。そして視界の端に大きく跳ねる鋼のロングソードが見えると、僕は考えるよりも先に床を蹴っていた。
キャッチと同時に前転の要領で転がって、鈍い音を立てて壁にぶつかって止まる。そして背中の痛みなんてそっちのけで腕の中にあるズシリと重い剣を隅から隅まで確かめると、どこにも傷がついてない事が分かって思わず安堵の息が漏れた。
「剣を抱きしめる剣士って言うより、剣にしがみ付いてるコアラみたいね」
突然クスクスと笑う声がして顔を上げると、いつの間にか微笑みながら僕を眺めてる姉さんと目が合った。途端に恥ずかしさがお腹の下の方からこみ上げて来る。
「いいんだよ! そのうち振れるようになるんだから!」
慌てて背をむけたけど、そこから先の言葉は出なかった。ただただ俯く事しか出来なかった。しばらくしてからチラリと横目で前を見る。そして、すでに踵を返した背中が見えると大きなため息が漏れた。本当はこんな事が言いたい訳じゃなかたんだ。でも、最近は姉さんに話しかけられるとついつい慌てて変な事を口走ってしまう。開け放たれたままの後ろの幌がはためいて煩かった。荷馬車の中を吹き抜ける湿った風が火照る頬や耳を撫でていた。反則だ、この人はいつだってそうだ、いつだって優しくて、綺麗な顔をして上から目線で僕を見るんだ。
―十五歳、三つ年上のお姉さん。
―僕を大事な弟分だと言ってくれる大人の女の人。
いつの頃からだろう、始めはそれでも良かったはずなのに、最近では弟扱いされる度に、その笑顔を見る度にモヤモヤとした感情が顔を出した。そして僕はその正体不明の感情を『自分が子供だと見下されて腹立たしい気持ち』と、結論付けた。本当なら中等部に通っている年齢だ。もう小さな子供じゃないんだ。だから、どうにもこれが欲しかった。
『鋼の剣(はがねのつるぎ)』
やっとの思いで手に入れた。どうしても欲しかった。どうしてもこれが振れるようになりたかった。それが出来たらもうバカにされないって思ったんだ。
激しい雨音に混じって甘い大人の女性の香りがした。静かに瞳を閉じると、瞼の裏に真っ赤に燃える夕焼けの空が浮びあがっていた。
今から始まるのはこんな僕の、いいや僕達、駆け出し勇者の一行の冒険譚だ。そう、まだ僕が子供で、気恥ずかしくて彼女の名前も呼べず、ただ『姉さん』と呼んでいた頃の昔話。最後までお付き合いしていただけたら幸いに思う。
【シャッフルワールド物語 マーシャの地図】
第二部【野花の冠】
第一話『ジャングルの街(一)』
(二)
少しいいだろうか?
この昔話を始める前に、どうしても僕は次男坊、三男坊の諸君に聞きたい事があるんだ。特に実家が家業を営んでいる人達は教えて欲しい。
君達はいつ気付いたんだい?
その生まれ育った大好きな自分の家にいつまでも居られる権利は長男にしか無い事を。大好きなお父さんやお母さんとずっと一緒に暮らせない事を。そして、いつかは巣立ち、慣れ親しんだ自分の家から出て行かなくてはいけない未来が待っている事を知ったのはいつなのだろう?
…僕がそれを知ったのは今から半年前、初等部の六年生の時だった。
僕の両親は、街外れの小さな村で診療所を営んでいた。父さんがお医者さんで、母さんが看護婦。二人だけでやっているとても、とても小さな診療所だった。僕はそんな家の三男坊、男兄弟の三番目として生まれた。村には病院と呼べる施設はウチ以外には無い上に、父さんは「腕が良い」と世間でも評判だったので、診療所を訪れる人達は村人だけでは留まらず、毎日、わざわざ列車に乗って隣町どころか、遠くの村や街からやって来る人達で長い行列を作っていた。それは、幼かった僕にはとにかく自慢で、そんな家の子供だってだけでついつい鼻が高くなってしまう程だった。
…でもまあ、それは良い事ばかりでは無かったんだけどね。
そう、診療所は毎日大忙しだったんだ。だから、父さんも母さんも休みという休みも取れなくて、春休みも、夏休みも、冬休みだって、どこかに旅行に連れて行ってもらった、という家族旅行の記憶が無かった。大きな休みが終わると、クラスの中は皆の語る旅行の思い出や土産話で一杯だったけど、僕一人が相槌を打つ事しか出来なくて、ちょっとだけ悔しくて、肩身の狭い思いをしたのを覚えている。それでも、そんな思いを差し引いても、やっぱり父さん、母さんは自慢だった。学校から戻って玄関のドアを開けた途端にする消毒液の匂いが大好きだった。それが家の匂いだった。いつだって、白衣を着ている二人が好きだった。だから、いつの頃からか大人になると僕も自動的に医者になるのだと思っていた。それはまるで『オタマジャクシが大きくなれば蛙になる』くらいに、何の疑問も違和感も無く当たり前に考えていた。現に、上の二人の兄ちゃんは、すでに隣町の医学系の中学部に進学していたし、僕も入学試験が終わり、もうすぐその後を追う事になっていた。
そんな、たいして不自由なく育った村の診療所の三男坊は、生まれつき身体が弱かった。クラスでも一番背が小さかったし、身体も華奢だから、いつも女の子に間違われた。保育園や初等部の低学年の頃なんかは病気もよくしたし、季節の代わり目には必ず熱を出して一週間くらいはベッドの上、なんて事もザラにあった。でも、それは嫌だったかと言うと、むしろ嬉しかったと思う。だって、いつもは忙しくて一緒に居られないお母さんが、仕事の合間を見ては一日中看病してくれるのだから。枕元で色んな事も教えてもらった。それは「熱が出た時は、頭を冷やすのも大事だけど、太い血管が通ってる腋の下や内股なんかを冷やすともっと効率がいいのよ」みたいな話だった。まるで子守唄のように上の空でそれを聞き、このまま風邪が治らなければいいのに。と、何度思った事か。
父さんは、とにかく大きな声で笑う人だった。モジャモジャの髭がトレードマークで、周りからは『熊先生』と、呼ばれていた。でも、僕は知ってるんだ。一度、手入れに失敗して髭を剃り落としちゃった時に見たんだ。ほら、猫をお風呂に入れると物凄く貧弱になるだろ? 髭の無い父さんは驚く程に童顔でいつもの迫力なんて微塵もなくて、まさに濡れた猫のようだった。それからしばらくの間、風邪でもないのにずっとマスクを着けて診察してたのを今でも覚えている。
そんな父さんは、僕が小学部に上がった年に一本の木剣を買ってくれた。どうやらそれは「まずは、病気になりにくい丈夫な身体を作ろう」という意味だったらしく、それから毎朝毎晩の素振りや、ちょっとした剣の稽古は僕達の日課になった。正直、健康になってしまったら、母さんに看病してもらえないのに…と、思ってしまったのは内緒の話なんだけど。
父さんには口癖があった。「お前は三男で甘えん坊だからなあ『医者になる』という堅実な夢を追うのもいいけれど、父さんはもっと元気に飛び回ってもらいたいと思ってるんだ。ほら、前に流行っただろ、勇者ベアント・ラングホフとその一行! 最近じゃあ、上級エリアの最前線を攻略する勇者様達は大きな合同キャラバンを組んで無難に旅をするのが流行ってるというのに、勇者ラングホフのパーティーは違ったんだ。一騎当千の四人組、群れずに冒険の先頭を疾風のように駆け抜ける! 凄く夢や希望に溢れているだろ! 実はな、父さんも若い頃は医者ではなくて冒険者になりたかったんだ。だから、お前にはそういう未来もあっていいんじゃないか、家業に囚われ無くてもいいんじゃないかって思うのさ」それは、そんな口癖で、正直、耳にタコが出来るくらいに聞かされた。それにしてもまあ『巨人、ラングホフ、卵焼き』という言葉があるくらいで、父さん世代はすぐにこの話題をするけれど…正直、ラングホフの一味って、今ではおっちょこちょいに使われる例え言葉だよ。だって、後ろから来るキャラバンと合流せずに魔王城に一番乗りしたのはいいけれど、入り口で全滅しちゃったんでしょ? それって、やっぱりおっちょこちょいで恥ずかしい話だよ。それに、冒険者なんかになっちゃったら、家から出ていかなくちゃダメじゃないか。いいんだよ、僕はこの生まれ育った家で大人になって、ずっと皆と一緒に暮らしたいのだから。
…だけど、運命はそんなささやかな願いや想いを無視して無情にも動き始めてしまった。
それは六年生の三学期、もうすぐ卒業式を控えた二月の頃だった。朝、いつものように教室に入ると、雰囲気が何だか違うことに気が付いた。何と言うか、そこらかしこで皆が固まって噂話をしてるんだ。いいや、確かにこれはいつもの事なんだけど、とにかくいつもとは違ったんだ。そう、活気というか熱気のような物が凄かったんだ。僕はてっきり、小テストも無くなったし、皆もこの緩み始めた冬の寒さと同じで後は卒業を待つばかりと浮かれているのだと思った。その程度たと思ってたんだ。
小首を傾げ、そんなクラスメイトの様子をしり目に自分の席まで進む。窓から見える校庭は、もうすぐ春が来ると言ってもまだまだ木枯らしに吹かれて寒そうだった。教室の入り口にあるストーブの脇を通ると、ヤカンがカタカタと音を鳴らしていて『まだまだ冬は続くよ』って言ってるみたいだった。
「まったく、皆は気楽でいいよな」
ボソリと呟いて席に着く。後ろからは女子のグループの賑やかな声がしたけれど、どこからも『おはよう』という声は聞こえなかった。
この頃、僕はクラスで少し浮いていた。ちょっとしたイジメというか、特に男子からは無視されていたと言った方がいいかも知れない。その原因は分かっていた。僕一人が皆とは違う進路を選んだからだった。この村は小さくて保育園も初等部も中等部も一つしか無いから『ずっと一緒だった身内が欠ける』『いなくなる』という事は、僕以外のクラスメイトには思った以上に大事件だったようだ。しかもそれが『内緒で』という風に取られてしまったからタチが悪かった。いつしか『やつはウチらとは違うから』とか『ガリベンは意識が高い』とか陰口をたたかれて距離を置かれるようになっていたんだ。
「おー! ラングホフじゃねぇか! なあなあ、お前、俺と組まねえか?」
ランドセルの中から教科書を出していると、突然首に太い腕が巻かれた。すると次の瞬間、急に息が出来なくなってしまった。強い力で締められていた。慌てて椅子に座ったまま両足をバタバタさせて、巻かれた腕を解こうと手を伸ばしたけれど、どんなに頑張っても非力な僕の力ではどうにもならなかった。そして、クラス中の男子からドっと笑い声が上がり、女子からは「可愛そうだよー」という声がした。
「なあ、馬鹿ラングホフ! 今日のスペシャルイベント、絶対に俺と組めよな!」
耳元でそんな声が聞こえて、さらにグイグイと首を締められた。その声の主がガキ大将のダニールだという事はすでに理解していた。保育園の頃からコイツは僕を女男だってからかうんだ。それでも、初等部に上がってからはイジメらしいイジメは無かったというのに、隣町に進学するという噂が流れてからは、過剰で過激な肉弾戦を仕掛けてくるようになった。それにしても、馬鹿はどっちだ。確かに僕は、男女を含めてもクラスの中で一番背が低いし華奢だ。母さんの趣味で髪だって長いからよく女の子に間違われるし、男女って言われるのは甘んじて認めるよ。でも、ラングホフは違うだろ。あれはオッチョコチョイに対して使う言葉だぞ。それは、完全に使い方が間違っている。
そんな絶体絶命の息が出来ない苦しさの中、ふと変な事に気がついた。というか、気が付いてしまった。まったく、我ながら何をしているのか理解不能だった。
『スペシャルイベント?』
そう、不意に頭に浮かんだのは、ダニールが口にした言葉だった。そして、その疑問の答えが分かったのは、程なくして先生が教室に入って来て、ヤツの腕から力が抜かれた後だった。
机の上につっぷし、何度も深呼吸をして肺に酸素を送っていると、後ろから心配してくれる女子の声がして嬉しかったけれど、僕の返事も聞かないままに「可愛そうにダニールに目を付けられちゃって、頑張ってね今日の剣技大会」という言葉が聞こえてきた。そして、始まった朝のホームルームで、担任のクロップ先生が大きな声で急に開催が決まった大会の説明を始めて色々合点がいった。でも、ますます賑やかになって行く教室に、僕は頬杖を付きながら『こんな寒空の下の剣技大会って、そんなに嬉しい物なのだろうか?』と、不思議になったんだ。
「ねえねえ、スカウトマンってどんな人かな? 冒険者協会から来るんでしょ?」
「背広を着たヒョロヒョロのおじさんと、パーカーを着た中等部くらいのお姉さんって聞いたよ?」
「剣技大会って事は、剣士のスカウトよね??」
再び後ろの席から聞こえたのはそれはそんな声だった。そして、僕は全てを悟ったんだ。どうして皆がこの寒空の下の剣技大会を楽しみにしていたのか、どうしてダニールの鼻息が荒かったのか。その理由(ワケ)を。そう、ヤツは冒険者スカウトの前で僕をコテンパンにして良い所を見せたかったんだ。そうに決まってる。それにしても外は2月で木枯らしが吹いてんだぞ? あの、グラウンドの脇に詰まれた雪が見えないのか? そんな中での剣技大会とか、絶対に痛いに決まってるじゃないか。
『…このまま保健室に逃げようか』
すでに進路も決まってて、冒険者になんか興味が無かった僕の頭にはそんな言葉が浮かんでいた。浮かんでいたけれど、何気に触れた口角は不思議なことにニヤリとつり上がっていた。
「ざまみろダニール。ひ弱で女の子みたいな僕相手ならスカウトマンの前でイイカッコ出来ると思ったんだろ? コテンパンに打ちのめせると思ったんだろ? でも、それは大間違いだ」
気がつくと、そんな声が聞こえていた。僕の声だった。そうさ、種目は剣技なんだろ? だったら話は別だ。だって、これには少々自信があるんだ。なにせ木剣なら毎朝毎晩父さんと一緒に振っている。僕はさらにニヤリと笑ってダニールの座る窓側の席を見た。
(三)
体操着に着替えて外に出ると、そこはまさに極寒の地獄だった。確か、こういうのを三寒四温とか言うんだろうか、冬も終わりに近づくと温かいのと寒いのが交互にやってくるんだ。そして、つい先日までの春めいた陽気のお陰でぬかるんだグラウンドは、突然ぶり返して来た寒波のお陰で沢山の水溜りや足跡を残したまま凍てついていて、それがまるで雑なヤスリのようで、転んだ姿を想像するだけでお尻の穴がキュっとした。しかも、この身を切る寒さの中で打ち合いとか、正気の沙汰とは思えない。絶対に死ぬほど痛いに決まってる。これはとっととダニールを打ち負かしてしまうに越した事がない。そう思って人混みに目をやると、意外にもグラウンドには沢山の生徒達の姿があるのに気が付いた。六年生は、僕のクラスと隣のクラスの男子達。それに、五年生の男子達の姿も結構あったし、驚いたのは中には女子も混じってて、それが思いのほか多かったんだ。そして、そんな皆の顔はまさに真剣そのもので、どれだけこのイベントが重要なのかを改めて実感するには充分だった。そう、その理由はいくら冒険者に興味の無い僕だって知ってるさ…
勇者様が持つパーティの四枠。勇者様、僧侶様、魔法使い、そして剣士。皆が憧れる冒険者になるためには、この四つの職業のうちのいずれかにならなくてはいけないんだ。そして、そもそも最初から勇者様にはなれないから、自ずと選択肢は三つに絞られる。僧侶、魔法使い、剣士だ。だけど、僧侶様や魔法使いになるには、とんでもないお金や時間がかかるというのは有名な話だった。そうなると、僕達のような一般家庭の子供達は冒険者に成れないのか? と言うと、実はそうでもない。そう、夢見る子供達が憧れる手の届く職業はあるんだ。それが、魔力を一切必要としない身体一つが資本の剣士だった。剣士になるための条件はたったの一つ、勇者様に『剣士である』と認定を受けてパーティに入れてもらうだけ。それなら裕福な家に生まれなくても何とかなる身近な冒険職として僕達の間では憧れの職業だった。
…特にダニールのような勉強が苦手なヤツにはね。
では、人気の剣士は広き門なのかと言えば、残念ながら違った。だって、パーティの存亡を担う前衛であり、楯である訳だから強い人に越した事は無いのだから、誰でもよいという訳にはいかなかった。それを証拠に、始まりの街にある冒険者協会に登録されている剣士達のリストには、武芸だけじゃなくて色んなスポーツの世界で名の売れている有名な選手や体力オバケ、身体能力の塊みたいな人ばかりが名を連ねているのだと父さんが言っていた。そうなると、やっぱりうちら子供には夢のまた夢のような気もするけれど、これには半分都市伝説のような嬉しい例外があった。そう、世の中には駆け出しで貧乏な初心者勇者様も少なからず居るというのがそれだった。総じて、冒険者協会に登録されている実績のある剣士やスポーツ選手は契約料が高い。まあ、そりゃそうだよね、それまで彼らがやってきたスポーツでプロになるよりも剣士としての道を選んだって事は、こっちの方が儲かるからだ。だから、駆け出しの勇者様は協会を通さずに、色んな街を周って契約料の安い強そうな素人をスカウトをするらしい。そして、それが僕達にとっては夢の一大イベントという訳なんだ。
チラリとグラウンドの端にある野球のバックネットを見ると、確かに皆が噂していた通りの二人組がフェンスの向こうから僕達を眺めていた。ヒョロリと背の高い、背広で眼鏡のおじさんと、小柄で赤いパーカーの人。フードを目深にしてるから顔は見えないけれど、首元から見える長い髪、あれはたぶん女の人だ。
「おーい、みんな集まれー」
不意に先生の笛がグラウンドに響き渡ると、他所見をしていた僕も我に返って前を向く。そして、一か所に集められると、その場で整列させられた。
「なあ、ラングホフ! 分かってるよな?」
『前に習え』をしていると、突然横から肘が突かれた。そして隣を見て目を疑った。だって、僕はクラスで一番背が小さいから先頭、一番前たぞ? 前に習えだって、手を前に出すんじゃ無くて腰に当てる係だ。なのに、なんで一番ガタイのいいお前がそこにいる? しかもそこ、女子の列じゃないか?? まったくもってダニールの破天荒さに頭を抱えそうになる。しかし、いったいどれだけこの剣技大会に気合を入れてるんだ、コイツ。
…だけど。
グっと唇を噛みしめる。申し訳ないけれどお前に負けてなんてやらない。もちろん、それは剣士になりたいからじゃない。僕は医者になる。でも、負けてなんてやらない。だって、お前は散々暴力を振るった。そして、お前の一番得意とする暴力でやり返せる事が出来るとすれば、今、この時しかないのだから。もうすぐ卒業式で、その後、僕達は別々の学校に進む。仕返しが出来るとすれば、これが最後のチャンスなのだから。
「いいか、基本は一本勝負だ! ただし、どうにも納得行かない場合は続行を認める。せっかくスカウトさんも来ているのだから、皆納得行くまでやっていいぞ!」
先生の言葉に合わせて隣から鼓膜が破れてしまいそうな大音量の返事が返ってきて、思わずビクリと身体が跳ねてしまった。頭の隅にはこれまでの人生で経験した数々のダニールの暴力の記憶が浮かびかけたけれど、僕は何度も首を横に振り、それらを頭から追い出した。そして、ふとすると怯えそうになる心をグっと我慢して負けじと大きな声で返事を返した。そう、ヤツが僕を指名するなら、こっちだって望むところだ。何より、こんなに沢山参加者がいるのならその方が都合がいい。だって、何試合も…とか、我ながら絶対に無理だ。やるなら1試合こっきり。ダニールと当たるなら、体力が100%の状態以外はあり得ないと思ったんだ。
…だけどこの後、僕達は予想していなかった言葉を先生から聞く事になった。
「一応あれだ、あまりに実力差のある組み合わせだと不公平だからな、対戦相手は俺の方で決めるぞー」
一通りの説明を終えた先生は、そう言って背後にある野球の得点ボードの上に大きな紙を張り出した。そして、それが何なのかはすぐに分かった。
『…ト、トーナメント表!?』
ちょ、ちょ、ちょっと待ってよ。そ、それってまさか…?
嫌な想像が脳裏をよぎる。だけど先生は、無情にも次々と空白に僕達の名前を書き入れ始めた。一番最初に書かれたのはダニールの名前だった。次の瞬間、僕は拳をギュっと握り『来い!』『来い、僕の名前!』と念じたけれど、残念ながら書かれた名前はサッカー部でキーパーのカーン君の名前だった。そして、その次も、そのまた次も念じ続けたけれど、結局僕の名前が書かれたのは最後の最後、トーナメント表の反対の端だった。さすがにこれには複雑な心境しか無かった。ギャフンと言わすチャンスを失った落胆と、ダニールと戦わなくなって良かったと安心する気持ち、その両方が胸の中でぐるぐると渦を巻いていた。おっかなびっくり隣を見ると、ヤツの顔はピクピクしていて、青いのか赤いのか分からない色になっていた。そりゃあまあ、相手が僕じゃなくて、全身バネのカーン君だからねぇ。
幸か不幸かダニールと当たらなくなった訳だけど、辛かったのはここからだった。だって、トーナメント表の一番最後に名前が書かれたという事は、僕の一回戦もまた、一番最後だったんだ。いやあ、長かった、長かった。あまりの寒さに何度もトイレに行ったし、このまま帰ってしまおうかと思ったくらいだった。この頃になるとすっかり頭も冷えていて、正直、勝つとか負けるとかどうでもよくなっていた。あまりに長い間木枯らしに吹かれてボーっとしながら他の子達の試合を見ていたら、いつの間にか打倒ダニールとか面倒臭いだけになっていたんだ。
「…とっとと負けて早引きしよう。引越しの準備しなきゃ」
そう呟いて、トイレから戻ったばかりの濡れた手をズボンの裾で手を拭っていると、とうとう名前が呼ばれてしまった。改めてトーナメント表を見る。書かれた対戦相手の名前は知らないものだった。
しぶしぶ木剣を握って、グラウンドに石灰で描かれた円に向かって歩き出す。そして、顔を上げると目の前に立っていた相手を見て驚いた。そりゃあ、名前を知らないはずだ、だって初戦の相手は僕よりもさらに背の小さな五年生の女の子だったのだから。.正直、これはかなりショックで、ますます全身からやる気が抜けてしまった。だって『実力差の無い組み合わせを考えた』って事は、先生の目には僕とこの小さな女の子が同等に映ってるんだよね? 大きなため息と同時にガックリと肩を落とす。もうすでに、モチベーションなんてものは微塵も残ってなかった。
そんな調子で、しぶしぶ木剣を握って女の子と向かい合わせると、
「先輩! よろしくお願いします!」
という、小さな身体には似つかわしくない元気な声が目の前から飛んできて曲がってた背筋が一気に伸びた。驚いて彼女の顔を見ると、怖いくらいに真剣な顔で僕を睨んでた。
『私は何としても剣士になりたいんです!!』
真っ直ぐな瞳はそう言っていた。そして、その眼差しに射抜かれた瞬間、改めて自分がなんと邪な動機でこの場に立っているのだろう。と、急に恥ずかしくなった。
『負けよう。とっとと家に帰ろう』
そんな考えが頭に過ぎった瞬間、先生の声がグラウンドにこだました。
「シルト(防御光)!」
スキルの発動と共に僕達の身体が薄ら明るい光に包まれた。
「始め!」
そしてそれは、試合開始が告げられた瞬間に起こった。立て続けに響いた先生の大声と、耳元で吹き鳴らされたホイッスルの音に驚いて半歩退いた途端、僕の身体は突然宙を舞った。何が起こったか分からなかった。半歩足を後ろにずらし、体重を軸足に乗せた途端に身体が重力を無視したようにフワリと軽くなったんだ。そして、ゴツンという音と共に背中や後頭部に衝撃が走ると、目の前には大きな冬の青空が広がっていた。
「何やってんだよラングホフーッ!」
「寝てないでちゃんとやれー!」
色んな野次や口笛がそこら中から聞こえた。全く意味が分からなかった。何が起きているのかさっぱり理解が出来なかった。そして、立ち上がろうとして足元を見て初めて理解したんだ。そう、何て事は無い、僕は背後にあった凍った水溜りに足を滑らせて転んでしまったんだ。恥ずかしくて「いててて」と頭を掻きながら立ち上がろうとする。でもその矢先「えいっ!」という、元気のいい声が頭の上から降って来た。反射的に顔を上げる。そして、全身が凍り付くような恐怖に襲われた。目の前に振り下ろされた木剣がの切っ先が見えていた。
「ちょ、ちょちょ、ちょっと、タイム、タイム!!」
慌てて尻もちをついたまま身体を捻る。
「実戦にタイムはないぞー」
無情な先生の言葉に合わせてパリンという音がして、女の子の木剣が足元にあった水溜りの氷を割っていた。何とも痛そうな音と光景に思わず息を飲む。いやいや、負けてあげるつもりではあるけれど、負けると言う事はこれに打たれると言う事だよね?
今さらながらに根本的な事に気が付くと同時に身の毛がよだった。確かに、先生のシルト(防御光)があるから大丈夫のような気がするけれど、本能というか、身体は素直にそれを信じてくれなくて、僕は反撃どころか立ち上がる暇も貰えないまま、まるで芋虫のようにグラウンドの上を右へ左へと転がって、さらなる二撃目、三撃目もギリギリで避ける羽目になってしまった。そしてさらに、バタバタしながら四撃目、五撃目をかわした辺りで、不思議な感覚を覚えた。
―見えていた。
不意にその事に気が付いた。そう、彼女の太刀筋が見えていたんだ。確かに僕は慌てていた。寝耳に水のような攻撃で完全に自分のリズムを失っていた。でも避けていた。それは紛れもない事実だった。しかも、五連続でだ。転がりながらも慌てる気持ちをねじ伏せてその理由を探す。でも、よくよく考えなくても答えは明確だった。彼女の攻撃は雑な大振りだったんだ。しかも遅かった。そしてもう一つ、今さらながらに気付いた事がある。そう、それは僕が父さんと…大人の人としか手合わせをした事が無いという事実と、それが何を意味しているかをだ。
カラン…
乾いた音がグラウンドに響いていた。宙を舞った木剣が凍った地面に落ちる音だった。それは、つい今まで彼女が握っていた物だった。痺れた両方の手の平を見つめ、茫然と立つ女の子が見えた。
「勝負あり!」
グラウンドに聞こえたのはその声だけだった。誰もが静まり返っていた。何て事は無い、剣を払っただけだった。だけど、僕が振り上げた木剣の衝撃に彼女の握力は耐える事が出来なったんだ。思わず僕も自分の掌を見つめていた。毎日の父さんとの稽古で、想像以上に強くなっていた。少なくとも、この子相手なら動きがゆっくり見える程に。それは、初めて味わう感情だった。いつだって体育ではミソッカスで誰からも声がかからなくて、いつも先生とペアを組んでいた。女の子相手でも腕相撲で勝てた例すら無い。そんな僕が、生まれて初めて運動系の競技で誰かに勝利した。でも、記念すべき初勝利は、そんなに嬉しい物じゃなかった。泣いていた。彼女はあまりにも呆気ない幕切れに、本当に小さな女の子のように地面に崩れ落ち大きな声を上げて泣いていた。零れていた。驚くくらいに大粒の涙が地面に落ちていた。
「嫌だぁ…嫌だぁ…剣士になるんだもん…」
何度も何度もそう言って泣いていた。そしてひとしきりわめくと、彼女は真っ赤に泣きはらした目で僕を見て
「次も…そのまた次も…勝って下さい…」
嗚咽に混じりにそう言った。
『ありがとう』
そんな言葉は出なかった。思いつきもしなかった。むしろ、謝りたい気持ちでいっぱいだった。そしてその後に「先輩がすぐに負けちゃったら私が弱いみたいじゃないッ! 剣士失格みたいじゃない!」と、叫ぶとまた泣いた。勝つつもりなんて無かった。むしろ負けてあげようと思っていた。でも、違った。改めて自分が放った剣の軌道を思い出して更なる罪悪感に駆られた。『ただ払っただけ?』『そんなのウソだ…』確かにそれは無意識だった。無意識だったけど、太刀筋には見覚えがあった。相手の剣を絡め飛ばすための技だった。この六年間、父さんと続けた朝晩の稽古で身に付いた型は僕の意思とは無関係に彼女の剣を弾き飛ばしていたんだ。いつの間にか、周りからは驚きの歓声が上がっていた。でも、ちっとも嬉しくは無かった。ただただ申し訳ないだけだった。
二戦目、三戦目、気がつくと不思議な事に僕は勝ちあがっていた。でもそれは楽勝とか、圧勝とか呼ぶには程遠い勝負ばかりだった。何度も転んだし、色んな所を擦りむいた。それに、勝てば勝つほど面白いように相手の体が大きくなって苦戦した。確かにそれは勝ち抜き戦なのだから当たり前なのかも知れないけれど、改めてトーナメント表を見て肩を落としてしまった。どうして最初に気付かなかったのだろう。一番端の僕からダニールに向かって、まるでグラデーションするかのようにだんだん身体能力が高い人の名前が書かれているじゃないか。という事は、一番最後に名前が書かれた僕は最弱…。勝てば勝つほど相手が強くなるのは当然じゃないか。
それでも『最弱』というお墨付きを先生に貰った割りには善戦したと思う。ぶっちゃけ、二戦目、三戦目の相手も、あの女の子と剣術のレベルは大差なかったよ。たぶん、今までチャンバラ以外で剣を握った事が無いんだと思う。でも、僕は苦戦した。当たり前だ、体格差がありすぎた。それに、そもそも虚弱体質の僕が、連戦に次ぐ連戦に耐えれるはずも無かった。すでに膝は笑ってて、剣の技では勝っていても、つばぜり合いや体当たりを受ける度に身体は面白いように地面に転がった。それでも立ち上がった。立ち上がらなくてはならなかった。正直、このまま負けちゃおうという考えもあったんだよ。でも、その度に背中に視線が刺さるんだ。そして、おっかなびっくり振り向くと恐怖で身体が凍りついた。だって、初戦で当たった女の子が鋭い目をしてこっちを見ているのだから。
『負けるな先輩!』
『許さない!』
『先輩が負けたら私が弱いみたいじゃない』
情念? 怨念?? はっきりと声が聞こえるような気がしたんだ。そして、小さな女の子の視線に怯えつつ何度も立ち上がり、試合に試合を重ね『いい加減、そろそろ負けても文句ないよね?』と思った頃、トーナメント表を見て愕然とした。だって、いつの間にか決勝まで勝ち残ってしまっていたのだから。
胸の中に渦巻いていた複雑な感情、それはもうジレンマとしか言いようが無かった。連戦に継ぐ連戦で、そもそも体力の無い僕は完全に絞りっカスみたいになっていて肩で息をしていた。まっすぐ立ちたいのに背筋は曲がり、木剣を杖代わりにしないと膝が笑っちゃって立ってさえいられないどころか、瞼が重くて少しでも気を抜くとウトウトし始めるんだ。正直、出来るものならここで棄権したかったし、いまだに僕を睨みつけている女の子にも決勝まで勝ち進んだのだからいい加減許して欲しかった。でも、自分の中のもう一人の僕がギリギリのところでそれを許さなかった。
横目でトーナメント表を睨みつけて息を飲む。
相手はあのダニールだった。
『負けたくない』という気持ちが、僕の意思とは無関係に胸の奥から湧いて来て止まらなかった。
「おい、大丈夫かよラングホフ、フラフラじゃねぇか? もっとシャキっとしてくれないと、スカウトさん達に弱い者イジメしてるみたいに思われちまうだろ!?」
名前を呼ばれ、宿敵と向かい合った決勝戦。背を丸め、木剣を杖にしながら肩で息をする満身創痍の僕の頭の上からそんな声が聞こえた。ホント、中々に憎たらしい声とセリフだった。
「シルト(防御光)!」
朦朧とした意識の中、遠くで先生の声が聞こえたような気がした。そして、俯く視界に見える僕達の両足が輝き出すと、いよいよ始まるのだと覚悟した。
「始め!」
その声に合わせて僕の視界が後ろにズレて、馬に蹴られたような衝撃が全身を襲って息が出来なくなった。そして、ゴロゴロと凍ったグラウンドを後ろ向きに回転しながら痛みで正気を取り戻すと、それがダニールの号砲一発の体当たりなのだと理解した。本当に何てヤツなんだコイツは。剣技大会だろコレ? 剣の技を競う大会だろ? なのに、初手がいきなりのショルダータックルとか、まったくもって意味が分からない。地面に転がる僕を追従するこの二撃目以降だってそうだ。さっきから大半が蹴りじゃないか!?
何発か蹴りや踏み潰しを食らいながらも、必死に身体を左右に転がしてクリーンヒットを免れる。そしてしばらくの間、地面を転がる僕と、まるで地団駄をくり返す子供のようなダニールの攻防を見ていた先生の「タイム」の声が響くと、僕達は再び所定の位置に戻された。たぶん、さすがにこれでは剣技大会の意味が無いと思ったのだろう。それを証拠にヤツは「剣をつかえ、剣を!」って怒られてた。
体中に着いた泥を払うのも面倒くさかった。力が入らなかった。突き立てた木剣をよじ登るように立ち上がるのがやっとだった。
「おいこら、ラングホフ! 逃げてばかりだと俺様の見せ場が作れないだろ!」
頭の上からそんな声が聞こえると、頭の中で何かが切れた。
「…前から言いたかった『ラングホフ』は、オッチョコチョイの総称だ。…僕はオッチョコチョイ…じゃない」
気が付くと、そんな言葉を口走っていた。これはきっとアドレナリンとか、そういう類の脳内麻薬が出ているせいなんだろう。僕は、普段なら怖くて絶対に口に出せない台詞を吐くどころか、ドヤ顔で見降ろしてくるポッチャリ体型のガキ大将をにらみつけていた。
…ただまあ、
蓄積した十二年分の憎まれ口は叩いてやったけれど、悔しいかな、絞り出したこの言葉が最後の抵抗となってしまった。今のゴロゴロ転がるので完全に体力は底をついていた。立ってるだけでも気を失いそうだった。それでもなお、疲れ切った頭で何度も何通りもシュミレーションしてみたけれど、この状態から勝てる方法なんてどうにも見つからなかった。『万全だったら…』なんて悔しさも頭を過ったけれど、よくよく考えたら、それでもコイツに勝つのは無理に思えた。皮肉な話で考えれば考える程、さっきからギリギリのところで僕を守ってくれていた先生のスキル、シルト(防御光)。その存在が何とも厄介だと気が付いた。『納得が行かなかったらやり直しもアリ』と、なると、よしんばこの大男の雑な攻撃をかいくぐって一発いれたとしても、戦意を喪失させるほどのダメージは与える事は出来ない。だとすると、コイツは確実にやり直しを要求するに決まってる。体力任せの持久戦。そんなの、ハナから僕に勝ち目なんてあるわけ無いじゃないか。
「大丈夫か? まだやれるか?」
朦朧とし、項垂れ、視界が定まらない頭の上で先生の声がした。僕は小さく頷くと、俯いたまま木剣を中段に構えた。本当に悔しいけれど、これが精一杯だった。構え、持ち上げた木製の剣がとにかく重かった。それが辛くてしんどくて、一秒でも早く下ろしたくて、ただそんな一心で先生の号令を待っていた。不思議な事に、棄権だけはしたくなかった。
そして、待ちにまった「始め!」の声が聞こえると同時にフワリと意識が飛んだ。気が付くと、見える景色がズレていた、甲高くて乾いた音が木枯らしのグラウンドに響き渡っていた。悔しいけれど、確実にダニールの一撃を食らったのだと理解した。でも次の瞬間、虚ろう意識の中で僕は違和感を覚えた。最初に感じたのはズレた視界、目に見える景色の行き先だった。無防備な態勢で渾身の一発を受けたのならば、視界は後ろに向かってズレるはずだった。ひょっとしたらまたしても転がって、空を仰いでいるのかも知れない。でも違った、そのどちらでも無かった。僕の視界は前に向かってズレていたんだ。そして、何よりも、木剣を握る両手が痺れていた。それは、何かを切り裂いた感触だった。
恐る恐る振り返ると、膝から崩れ落ちるダニールの背中が見えた。
「おい、マジかよ!? 見えたか、今の打ち込み!?」
「ああ、ギリギリ見えた… って言うかダメージが貫通してんだろ、あれ!?」
「うん…シルトの光ごと切り裂いてた…」
そんな声が聞こえていた。まったくもって、何が起きているのか理解が出来なかった。でも、人混みの中に初戦で当たった女の子の姿が見えると、何となくだけど分かった。泣いていた、女の子は両手を口に当てて大粒の涙を零しながら泣いていた。そして、嗚咽に混じって「ありがとう」「ありがとう先輩」という形に口が動いているのに気付いて初めて、僕はこの試合に勝利したのだと理解した。そして、そのまま気を失った。
(四)
結局この日は五時間目の終わりまでダニールと一緒に保健室で過ごす事となった。そして、保健の先生にひとしきりの治癒魔法を施された後に戻った教室、終わりのホームルームで僕は放課後に職員室に来るようにとクロップ先生に呼び出された。もちろんクラス中から歓声や口笛が上がったし、振り向かなくても窓際の一番後ろの席に座っているダニールはふてくされているのが分かった。僕は…正直鼻が高かった。いや、本当はどうやって勝ったのかも定かでは無かったんだけれどね…。
後ろの席の女子達の噂話を聞く限り、それはダニールの振り下ろしをかいくぐっての高速移動、すれ違いざまに放たれた胴への打ち込みだったらしい。どうやら完全に力が抜けて思考が止まった僕の身体はまたしても父さんとの稽古で身に付いた型の動きをトレースしたようだった。無心と脱力。それが奇跡の勝利の鍵だったんだろうけど、正直、我ながら出来過ぎで、眉つばな話しだと思った。
…ただまあ、もう一度言う。
めちゃくちゃ鼻だけは高かった。
終わりの会の後、ランドセルを背負って教室を出た僕は、先生に言われた通りに真っすぐ職員室を目指した。本当はスキップしたい気持ちでいっぱいだったけれど、そこはグっと我慢した。だって、さっきから階段の影に隠れて何人ものクラスメイトがこっちを見ているのだから。あからさまに喜びを表現してしまったら、後でどんな噂を流されるか分かったもんじゃない。
呼ばれた理由。それはもう想像する必要すら無かった。そう、もちろん今回の剣技大会の結果だ。たぶんこの後、職員室であのスカウトマンを紹介されるんだ。しかし、これは困ったぞ。だって、冒険者になんてなる気は微塵も無いのだから。この雪が融け、桜の花が咲く頃には隣町にいる。そう、僕には医者になるという揺るがない夢があるのだから。そりゃまあ、三男だからぼちぼち理解はしているさ、家業を継げるのは一番上の兄さんだけだって。だけど、僕はあの生まれ育った家が大好きなんだ。これからもずっとあそこに住んでいたいんだ。ずっとずっと、父さんと母さんと一緒にいたいんだ。だから医者になる道を選んだ。答えは簡単だ、家を継ぐ兄さんとは違う分野を学べばいい。それだけだった。たぶん、すぐ上の兄さんだってそう考えているはずだ。それなら、三人そろってあの場所で暮らせるんだ。兄弟三人で違う医療分野を専攻して、行く行くはあの小さな診療所を大きな病院にする。それなら僕達はずっと一緒にいられるんだ。
『お前は三男坊だから、窮屈な家業に縛られずに自由に飛び回ってもいいんだぞ』
そう言ってくれる父さんには申し訳ないけれど、僕が一番に望むのはそんな未来じゃないんだ。
ノックをし、覗き込みながらコソコソと入った職員室は白く煙っていた。最初は、ストーブの上でカタカタと音をならしているヤカンや、窓の外に見える中庭の木々に積もった雪が見えたから、てっきり湯気で曇っているのだと思ったけれど、次の瞬間に鼻を突いた強烈なシガーの匂いで、それが教頭のシェースナー先生が大好きな葉巻の煙なのだと理解した。確か、職員室もこのご時世で分煙になったとか聞いたけれど、入り口まで臭うってどんだけ強烈なんだ葉巻って。
眩暈がしそうなくらいに強烈な臭いを我慢して、僕はクロップ先生の席目ざして足を進めた。正直、断る結果になるのだけれども、それでも心は躍っていた。そりゃそうさ、だってあのダニールに勝ったんだよ。クラスどころか男女含めても学年で一番背が小さくて華奢な僕がだ。そんなの、嬉しくない訳がないじゃないか。
そして、逸る心を抑えて先生の背中に近づくと、
「あ、あの、用事って何ですか?」
と、わざとらしい口調で、わざとらしい質問をした。横目で見た応接室からは白い煙が漂っていた。恐らく、あそこにシェースナー先生とスカウトマンさん達がいる。そして僕はドキドキとしながら先生が振り向くのを待った。
放課後の通学路。正直、どうやって家まで帰ったのか記憶がない。ただ、覚えているのは玄関を開けた時の消毒液の匂いと、母さんの驚いた顔だった。
「ど、どうしたのッ!? そんなに泣いて!?」
その声に我に返ると、僕はランドセルを足元に落としてしまった。突然、恥ずかしさと申し訳無さでいっぱいになり、そのまま踵を返して駆け出した。行き先なんて分からなかった。どこでも良いから遠くへ行きたかった。頭の中では、何度も何度も先生の言葉が響いていた。
「ああ、この前の試験な…残念だったけど不合格の通知がきた」
それは、そんな言葉だった。そう、僕が職員室に呼び出された理由、それは勇者様からのスカウトなんかじゃ無く、隣町の医学系中学への進学の道が断たれた知らせを聞かされるためだった。
走った、僕はがむしゃらに走った。大声で泣きながら目的地も無いままに走った。消えたかった、消えて無くなりたかった。色んな感情が頭の中に、胸の中に渦巻いていた。
最初に感じたのは恥ずかしさだった。
『受験に失敗した』
これから先、僕はずっとこのレッテルを貼られて生きて行く。同じ顔ぶれのまま、エスカレーター式に上がって行く田舎の中学校。本当ならそこに居なかったはずの僕がいる。それが恥ずかしくてたまらなかった。
『あいつ、あんなに偉そうに『医者になる』とか言ってたクセに失敗したんだぜ』
『勉強ばっかりしてたのにねぇ…』
『自分は頭がいいです! みたいな顔して、ホントはバカだったんじゃね?』
そんな言葉が耳の奥に聞こえていた。そして、泣いて泣いて走って走った後に、もっと重大な事があるのだと気が付いて身体が震えた。そう、医者に成れなかった僕はこの先どうなってしまうのだろう? 上の二人の兄さんはいつか戻ってくる。一番上の兄さんは家を継ぐだろうし、きっと二番目の兄さんは診療所の隣に新しい病院を開業するのだろう。その時、医者になれないまま大人になった僕はどうするんだ? いつまでもあの家に留まり、子供部屋で暮らすのだろうか? それは、とてもとても辛い事に思えた。あの家に僕の居場所が無くなってしまう。純粋にそう思えてしまったんだ。
―医者になるのか、なれないのか。
たった一つの分岐で僕の人生は大きく変わってしまう。そして、それは今、現実になった。物心がついた時から、僕の前にはレールが敷かれていた。これからの人生、歩くはずのずっと先まで伸びる太いレールだった。その通りに生きるのだと思っていた。『歌手になりたい』『自警団に入りたい』『冒険者だろ!』楽しそうに将来の夢を語るクラスメイト、そんな職業選択の自由なんて僕には無かった。それでも良かった。構わなかった。医者になるのが当たり前だと思ってた。でも今、その太くて、ずっと先まで伸びていたはずのレールはもう見えなかった。足元でブツリと切れ、後は見渡す限りの黒い大きな穴があるだけだった。
走った、僕はがむしゃらに夕暮れの河川敷を走った。大声で泣きながら目的地も無いままに走った。怖かった。この先自分がどうなってしまうのか、想像するだけで眩暈がした。消えたかった、消えて無くなりたかった。どこでもいいから遠くへ行きたかった。それがこの世でも、あの世でも構わなかった。誰も僕の事を知らないどこかに行きたかった。そしてとうとう足がもつれ、大きくよろけて土手を転がると、目の前には真っ赤な夕焼けの空が広がっていた。涙で滲んで揺れていた。
「き、君、大丈夫かい!?」
「あ、あれ!? この子、剣技大会で優勝した女の子じゃない!?」
突然そんな声が聞こえて視線を動かすと、大の字に転がる僕を心配そうに覗きこむ二つの影が見えた。真っ赤な夕日に照らされて逆光に溶けた姿は真っ黒で、それが誰だかすぐには分からなかった。
「良かったぁ! 私達、あなたを探してたのよ! 放課後、職員室に行ったんだけど、もう帰った後だって言うし、お家に行っても飛び出したって言うから困ってたんだ。ね、先生!」
聞こえて来たのは女の人の声だった。でも、大人の声とも違った。僕よりも幾つか年上の、そう、中等部くらいのお姉さんの声だった。そして掌を目の前に翳して指の隙間から見えたのが目深に被った赤いパーカーのフードだったから、それがあのバックネットの裏にいた人だとすぐに気が付いた。綺麗な瞳が僕を見つめて優しくほほ笑んでいた。
『見とれる』
それは初めての経験だった。見とれているというのがどんな状態なのか理解出来るくらいに見とれていた。悲しくて悔しくて辛くて胸が張り裂けそうだというのに、奪われた瞳は逸らすどころか瞬きすら出来なかった。それほどにその女の人は綺麗だったんだ。
「…いや、先生とか言われてますけど、実は僕は勇者でしてね。まあ、言っても成り立てで貧乏なんですけど。ところで、見ましたよ、今日の活躍! 凄かった! 感動しました! だから、僕も彼女も是非、君に剣士としてパーティに加わってもらいたいって相談してたのです! …まあ、都合がよければ…の、話なのですが」
続いて聞こえたのは、中年の男の人の声だった。
「そうなのよ! 今までいろんな町や村を回って沢山の人達を見て来たけど『この子だ!』『この子じゃなきゃダメだ!』って思ったのはあなただけだったのよ!」
そしてまたパーカーのお姉さんの声が聞こえると、僕は必死に頷いていた。考えるよりも早く、転がったまま、泣いたまま何度も首を縦に振りながら叫んでいた。
「…僕を…僕を剣士にしてください」
「お願いします」
「…お願い…します」
何度も、何度もだった。もちろん、純粋に剣士になりたいという思いからじゃ無かった。もっと邪な感情だった。逃げ出したかった。ここでは無いどこか遠くへ行ってしまいたかったんだ。そして、この二人は僕を連れ出してくれるのだと直感した。でも、それだけじゃ無かった。嬉しかった。素直に救われた気がしたんだ。医者にもなれず、これから先の人生、夢に破れたままやさぐれてしまう未来が待っているのが惨めで怖かった。でも、言ってくれたんだ「君がいいんだ!」って。夕暮れの河川敷に少し甘い柑橘系の香りがした。それは僕を知らない世界に連れ出してくれる少しだけ大人な女性の香りだった。
(五)
「…す、少しだけ大人の…甘い柑橘系の…香り…」
「ちょ、ちょっと何言ってるのよ、起きて! とにかく早く目を覚まして! 先生も!!!」
次の瞬間、パチンパチンという乾いた音と共に両方の頬に鋭い痛みが走って僕は飛び上がった。慌てて周りを見渡すと、それは左右に飛び跳ねる荷馬車の中だったから、咄嗟に何が起きているのか分からなかった。だって、今の今まで夕暮れの河川敷に寝転がっていたのだから。
「グローセラントカーテ!」
姉さんが呪文の名前を叫ぶと同時に、走る荷馬車の後ろからギュエッという奇怪な音がした。そして、慌てて振り向いて背筋が凍りついた。だって、巨大な昆虫の顔がすぐそこにあったのだから!
「っど、どうしたのです??」
「呑気な事言わないで先生! 私達、捕食されそうになってるんだから!!」
そう、正に姉さんの言う通りの状況だった。目の前に、大きな地図に顔を包まれてもがく巨大なクワガタ虫の化け物が飛んでいたんだ!
「昆虫系魔物の甘い息! あんたたち二人とも見事に寝てたんだからね!」
慌てて確かめようと鼻から息を吸い込むと、またしても甘い香りがしてクラリと意識が飛びそうになる。
「ば、ばか! わざわざ確かめなくてもいいから!」
再び激しく頬が叩かれて正気に戻る。そして左右に頭を振って現状を理解すると、僕は慌てて飛び起きて、傍らにあったロングソードに手を伸ばした。同時に渾身の力を込めてそれを持ち上げる。千載一遇!『試し切り』というには少々切羽詰まった状況ではあったけど、弾んだ心は止まらなかった。ついにこの時が、コイツを振る時が来たのだと。
短い雄叫び一つ! 両足に力を込めて身体を捻る。そして、そこで生まれた運動エネルギーを上半身の回転に乗せて横一線の一撃を放った。
ガチン
という甲高い音と共に、まるで金属の塊を叩いたような衝撃と火花が飛んだ。その直後、鋼の剣に横っ面を叩かれてバランスを崩し、突進のコースが逸れた魔物が路肩の大木に衝突するのが見えた。「やった! ナイス!!」姉さんの声が聞こえた。でもそれとは裏腹に僕は眉をひそめた。確かに、傍から見たらクリーンヒットに見えたかも知れない。でも、姉さんのように『やったぞ!』という気分にはなれなかった。イメージしていた手ごたえや結果とはあまりにもかけ離れていたんだ。違和感しか無かった。そう、僕は切り裂くつもりだったんだ。ロングソードの重量に翻弄されていた。完全に振り遅れていたし、想像していた手ごたえも無かった。それこそ腰の入っていないハンマー投げのような太刀筋だった。それを証拠に経験値は入って来なかった。それどころか、遠くの梢が揺れたかと思うと、頭を振りながら起き上る魔物が見えた。
物凄い勢いで近づく羽音、どんどん視界を埋め尽くす黒い塊。僕は何度も心の中で『どうする!?』『どうする!?』『どうする!!?』と、繰り返した。咄嗟に使い慣れた二本の短剣を求めて冒険者のバッグに手を伸ばす。そして指先に皮の感触を感じた瞬間に息を飲んだ。そう、この鋼の剣を手に入れた時、どうにも端数が足りなくて売ってしまっていた。『どうせ、これからはコイツ一本で行くのだから』頭の中であの時の自分の声が蘇って舌を打つ。でも、今さら後悔しても遅かった。次の瞬間、バリリという大きな音と同時に幌が歪んだ。物凄い衝撃が襲って来て咄嗟に頭を抱えて蹲ると、急に辺りが明るくなって全身を大粒の雨が打ち付け始めた。一瞬、生きてるのか死んでるのか分からなくて恐る恐る顔を上る。そして、僕は絶句した。だって、今まで頭の上にあった荷馬車の幌が消えていたのだから。
「ちょ、な、何よあれ…」
隣から姉さんの声が聞こえて、僕と同じで生きているのが分かって思わず胸を撫で下ろす。だけど、状況は確実に最悪の方向に向かっていた。土砂降りの小道の先で魔物が暴れていた。噛みついた荷馬車の幌の中に僕達が居ない事に気が付いたのか、ますます怒り狂った様子で羽を大きく広げていた。
「こ・な・くそッ!」
立ち上がると同時に鋼の剣を握りしめ、目前に迫った黒い顔目がけてもう一度、横一線に振り抜いた。でも、一切の手ごたえが無かった。それどこか今回は、見事に攻撃をかわされた。そして僕は空振りした剣の重さでその場でクルリと回ってしまった。
「キャッ!」
紙一重、頭を抱えて蹲る姉さんの上を切っ先が撫でて行く。そして、次の瞬間、木の根を踏んだ荷馬車が盛大に飛び上がると、二つ目の悲鳴と共に足元に衝撃が走った。でもこれはラッキーだった。バウンドしたおかげで間一髪攻撃を躱せた!
「チクショウ! アイツ虫のクセして頭がいい! もう見切ってる! 同じ攻撃は当たらない!」
悔しくて思い切り叫び、着地の瞬間に柱の角でぶつけた頭を押えながらフラフラと立ち上がる。そして瞳を開いた瞬間に絶望を覚えた。てっきり、足元で起きた衝撃は着地のそれだと思ってた。でも違った。…荷台の後ろ半分が弾け飛んでいた。全身に鳥肌が立っていた。視界の先で板切れを吐き出す魔物の姿が見えた。
―ゴクリ
耳の奥で息を飲む音が響いた。僕達は完全にむき出しになっていた。身を隠す幌も、攻撃を躱す程の足場もすでに残ってはいなかった。
『万事休す!』
『まったくもって打つ手なし!』
嫌な言葉が頭に浮かんで心が折れそうになる。
でもその時だった、突然、背後で手綱を引いている先生が叫んだ。
「二人とも、何か聞こえませんか!?」
その声に合わせて魔物を睨みつけながら耳を澄ました。すると次の瞬間、激しい雨音に混じってどこからか声が聞こえてきた。そして慌てて辺りを見回して僕は見つけたんだ。こっちに向かって一生懸命両手を振っている三人の子供達の姿を。
「はやくーーーー!」
「こっちだよ、ゆうしゃさまーーー!」
「こ、こっちぃ…」
きっとこのジャングル地方特有の民族衣装なのだろう、見た事も無いような服を着た小さな子供達が僕達に向かって懸命に叫んでいた。
「あ、あれ見て!」
続けて、突然木々の隙間を指さした姉さんが叫ぶと、僕もその意味を理解した。
「街だ! 街の入り口が見えますよ、皆さん!」
「走って先生! 全速力で子供達に向かって!!」
姉さんが指さした物。それは子供達の遥か頭上、木々の隙間から見えた見張り櫓だった。そう! どの街の入り口にでもある目印だ! 捨てる神あれば拾う神あり! 一長一短! どんな例えがピッタリくるかなんて分からなかったけど、とにかく幌と荷台の後ろ半分を失って軽量化された荷馬車は悲鳴を上げながら一気に加速した。一直線、子供達目がけて!
『魔物は街には入れない』
誰もが知ってる神様が定めた絶対のルール。あそこまでたどり着けたら逃げ延びれる! 心に希望の光が射した瞬間、緊張と絶望で硬直していた身体や思考が軽くなる。
残された僅かな足場、斜に構えて鋼の剣を握り締める。目の前にはさらに速度度を上げて近づく魔物、後方からはますます鮮明に聞こえる子供達の声がした。瞬間瞳を閉じて頭を回転させる。イメージする。でもダメだった。ギリギリで間に合わない! 出て来た答えはそれだった。街に到達する前に確実に魔物の攻撃がヒットする!
『せめて一発当てれれば』
『ほんの一瞬でもいい、相手の動きを止めれたならば』
咄嗟にそう祈ってロングソードの柄を握る。
そしてその方法を探り始めた次の瞬間、僕の頭に閃光が走った。
―あった!
―一つだけあった!
…でも
手の中にあるピカピカ光る鋼の剣に目を落として息を飲む、ためらう。だけど、横目に肉迫してくる魔物の姿が見えて覚悟を決めた。
『僕が旅を続ける目的』
この期になって気が付いた。それは、魔王を倒したいとか、勇者になりたいだなんて大層な物じゃなかった。もっと単純な感情。
『ずっと一緒にいたい』
そんな簡単なものだった。僕を冒険に連れ出してくれた人達。眩しいくらいに輝いた日々。終わって欲しくないんだ。ずっと続いて欲しいんだ。これからもずっと一緒に居たいんだ。だから僕は冒険を続ける。ならば今が際の際、目の前にあるのは分岐点。選べる、まだ選べる。そう、もう二度とあんな思いはしたくない。だからッ!
「ええいッ! 姉さん、もう一度地図! 目くらまし!」
「え!? 二度目は効かないんじゃないの!?」
「とにかく地図!!」
僕の声に急かされて慌てて魔法を呼ぶ声が響き渡ると、突進する魔物の前に巨大な地図が現れた。でも案の定、ヤツはこの攻撃もすでに学習してるようで、大きな顎を左右に広げると、紙切れなんて構いなしと言った様子でそのまま僕らに向かって突っ込んできた。どうやら地図ごと僕達に噛みつくつもりらしい。
―でもッ!
こっちもそれは、織り込み済みだッ!
「うぉぉぉぉおおおおおおおおおお!」
全身に力を込めてロングソードを真横に振った。ありったけの力をふりしぼった。そしてそのまま空振りをして、今回も見事に剣の重さに翻弄されてその場でクルリと弧を描く。
「ちょ、やっぱり空振りじゃない!」
「これでいいんだ!」
そう、違うのはここからだ! さらに力を込めて一回転、二回転、軸にした右足の踵を中心に僕は回転を重ねた。ぐるぐると回る世界の中、頭を抱えて蹲る姉さんの姿は見えたけれど、そんなのお構いなしにさらに回った。そして、視界の端に何回目かの魔物姿が見えたその瞬間、パっと掌を開いた。
激しい音が辺りに響いた。それと同時に目くらましの地図の上から魔物の眉間に炸裂する僕の宝物が見えた。そう、どうせハンマー投げのようにしか振れないのならば、いっそ投げてしまえと思ったんだ。そして、その作戦は見事に成功した。さすがに『突き刺さる』とまでは行かなかったけれど、それでもあれだけの質量がカウンターで急所に命中したのだから、その効果は期待以上の物だった。そして、それと同時に僕達の体が大きく跳ねた。
耳をつんざくような悲鳴と共に大木に衝突し、そのままジャングルの茂みに向かって転がって行く魔物が見えた。一拍置いて、視界の端にある経験値を表す数値が凄い勢いで増えたのが見えて胸を撫で下ろす。姉さんの声が聞こえた。二人とも、きっと喜んでいるのだろう先生も歓喜していた。でも、僕は素直に喜べなかった。
さよなら、僕の鋼の剣。
さよなら、僕のお小遣い三か月分。
払った犠牲はあまりにも大きかった。流れ始めた涙は止まらなかった。でも、喜べなかったのはそんな理由からじゃなかった。だって、身体が空高く舞っているのだから。眼下には、度重なる魔物の攻撃と無茶な扱いに耐えきれなくなり弾けて四散する荷馬車が見えた。
縦回転?
横回転?
それとも斜め?
回っていた。気が付くと、いったいどんな方向に回転をしているのか理解も出来ないくらいに景気よく周りの景色が回っていた。そして、どうにもこれは制御不能だと理解すると、今回ばかりは悪あがきする気にもなれなくて、素直にパニックに逃げ出す決断を下した。でも、その矢先に姉さんと先生の甲高い声が聞こえてきた。思いっきり悲鳴だった。ひょっとしたら、さっきのも歓喜の声じゃなかったのかも知れない。だって、それを証拠に、回る世界の中に赤いパーカーらしき物と、銀色の鎧っぽい物が見えたのだから。僕と同じで凄い勢いで回転しながら飛んでいた。しかしまあ、まったくもって二人ともズルい。いつだってそうだ。最年少の僕を差し置いて真っ先にパニくってバタバタしてくれるから、残された僕が何とかするしかなくなるじゃないか。
…でも
「さすがにこりゃ無理だぁぁぁぁああああああああああ」
考えようとはしてみたけれど、やっぱりどうにもなりそうに無かったから素直にパニくる事にした。後は野となれ山となれ。願わくば、首の骨とか折って即死さえしなければそれでいい。痛いのは嫌だけど、きっと先生が治してくれるはず。
…あれ? もし、先生が先に逝っちゃったらどうするの??
雨に濡れた木々や枝を折る幾つもの音や感触がした。次から次へと大小さまざまな痛みが走る。そしてそのすぐ後に、ドスンという一段と大きな音と激しい衝撃があって回転が止まった。激しい雨音が聞こえていた。それ以外は驚く程に静まり返っていた。二人の悲鳴も聞こえなかった。頭の中にはいくつもの疑問符が浮かんでいた。この状況、どうやら着地をしたようだけど、不思議な事もあるもんだ。あれだけの大回転、絶対に骨折程度では済まないと覚悟していたのに、思いのほか痛くはなかったんだ。まあ、強いて言えば鼻の頭がジンジンとするくらい?
うつ伏せに倒れ、硬く瞼を閉じたまま大きく深呼吸をする。すると、甘いミルクのような匂いに混じって柑橘類の香りがした。激しくぶつけたはずの顔の下には柔らかい感触があった。そして神様に感謝した。さすがジャングル。どうやら僕は巨大な果実か何かにぶつかって止まったのだろう。そう、例えばバナナとか? あれ? バナナって柑橘類だったっけ?? そして両腕に力を込めて身体を起こし、瞳を開くとそのままの姿勢で固まってしまった。
「おにいちゃん、だいじょうぶ?」
「おかお、まっかだよ?」
「…ま、まっかだよ」
目の前には、破れた赤いパーカーと、露わになった姉さんの胸があった。僕の下敷きになって唸っていた。そして全てを理解した。今の今まで自分がどこに顔をうずめていたのかを…
慌てて自分の顔を両手で触れて確かめる。ああ、駄目だ。まるで火が出るくらいに熱くなっている。それに何より、とんでもなく鼻の下が伸びていた。
「おにいちゃん、すごいねぇ。いたくても泣かないんだねぇ」
「そうそう、くーちゃんなんてすぐに泣くのにね!」
「…な、なくのにね!」
慌てて振り向くと、子供達が心配そうな顔をしてこっちを見ていた。あの子供達だった。そして、どの街にもあるブリッツとゲビッターの石像が見えて、そこが運よく城壁の内側なのだと理解した。
「あ、あはははは、これは痛いと言うより、むしろ気持ちが良かったっていうか…」
いつもは天邪鬼で思った事と反対の言葉が出るくせに、この時ばかりはついつい本音が零れてしまった。すると、下から物凄い勢いで鉄拳が飛んできた。痛かった。痛かったけど嫌じゃなかった。そして、まるで口から飛び出しそうな勢いで早鐘を打つ心臓と、初めて味わうズボンの前が窮屈で痛くなる感触に、僕は今まで正体不明だった自分の感情の本当の意味に気が付いてしまった。どうして子供扱いされて悔しかったのか、その理由を。
…三つ年上のお姉さん。
そう、僕は彼女が好きなのだ。大好きなんだ。弟分としてじゃない。一人の男として。
初めて顔を埋めた憧れの女性の胸は柔らかくて、果物みたいな香りがした。僕はその感情が悟られないように、ごまかすように、殴られたほっぺが痛いのなんてそっちのけで笑いながら頭を掻いた。そりゃあもう、必死で掻いて笑ったさ。そう、この上無いくらいに能天気なフリをして。この子供達との出会いが、さらなる冒険へと僕達を誘う羽目になるなんて知りもしないで。
つづく
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