第11話【マーシャの地図】
(一)
「ねえねえ、あの子でしょ? 例の噂の??」
「そうそう! 地図の大魔女!」
「あ、いきなり中級魔法を使ったっていう!?」
「でもね、あの子、その魔法しか使えないんだって」
「見てよあの制服、ヨレヨレじゃない。一着しか持ってないって噂だよ?」
お昼休みの中庭、立ち並ぶポプラと木漏れ日の石畳。別棟にある図書館に向かうにはここを通るのが一番の近道なのだけど、問題は、そこらかしこの芝生にはお弁当を広げて噂話に花を咲かせている子達がとにかく多い事だった。そんな噂話が大好きさん達からしてみると、魔法使いの家系でも、裕福な家の出でもなく、突然降って湧いた特待生の私はあまりにも毛色が違ったから格好の話のネタにされていた。それにしても、陰口というのは聞こえないように言うから陰口だと思うのだけど、こうも堂々と当の本人に聞こえるように話されてしまうと、何というか風情がないと言うか、あまりにも大味なような気がしてならない。と、言うか、私がもし、絵に描いたような熱血肌で、主人公気質の田舎娘だったらあの子達はどうする気なのだろう? 協調性とかクラス内ヒエラルキーとかそんなの無関係で目くじらを立てて飛びかかって来たらどうする気なのだろう? とか、思ったりもするのだけど、実際のところ、魔法学校に入学して半年以上が過ぎても地図の魔法しか使えないのは本当の事だったし、入学金どころかお月謝すら払っていない身分なので、何だか申し訳なくて二組貰えるはずだった制服の内、一着は断ってしまったのもこれまた本当の事だった。そんなこんなで、本当の事を言われてるだけなので噛みつこうにも「腹が立った」以外にこれと言った理由も無い訳で、今日も今日とて私は静かな昼休みを過ごすために別棟にある図書館へと向かうんだ。道中、どんな話が聞こえて来ても絶対に俯かず速足にもならず堂々と前を向いて歩いたのも、この中庭を避けて遠回りしなかったのも、自分なりの些細な反抗だった。
途中、石畳の小さな段差に躓いて、抱えていた教科書を地面に落とすと、そこら中からクスクスという笑い声が聞こえてきた。これもそうだ。育ちの良いお嬢様方は笑い方もお上品で困ってしまう。どうせなら腹を抱えて大笑いでもしてくれたら、こっちだって「テヘへ」と、リアクションが取りやすいというのに。
頬が熱くなるのを感じながら、無言で足元の教科書に手を伸ばすと、確かに私の制服の袖は皺くちゃだった。やっぱりこれからは、時間が勿体ないという理由で制服を乾燥機で乾かして放置。というのは止めた方がよさそうだ。と、私は思わず顔を上げて中庭から見える茜色の空を見上げた。
…ん?
お昼休みなのに茜色??
『ハイディ、大丈夫かいハイディ??』
不意に、そんな声が頭の中で響いた。
ハイディ? 違うわよ、私の名前はマリーシャルロット、マーシャだって。
『ハイディ、連絡が途絶えて随分になる。どうしたんだいハイディ!?』
だから、私はマーシャだってば!
…あれれ? そう言えば、中庭のポプラって、こんなに盛大に茂ってたっけ?
木々の梢の隙間から見える夕焼け色に染まる空。その景色が私の知ってる魔法学校の中庭の物とは違う事に気付くにはちょっとだけ時間がかかった。そして顔を下ろすと、心配そうにしているシュテフとヨーゼフがいて、自分がミッションの途中だったのはぼんやりと思いだせたけど、しばらくの間、どっちが現実なのか分からなくなってしまっていた。
『ごめんごめん…ちょっとお花を摘んでた。さすがに返事はしないとダメだと思ったんだけどさ、実況するのはさすがにアレだろ?? 一応あたしも女の子だから…』
という声が聞こると、眠い目を擦る私は無意識のうちに
『だから、滝の水を飲んじゃダメだって言ったじゃない』
と、返答している事に気がついて、こちらの世界が本当なのだというのを思い出した。どうやら、時間にしたらほんの数分にも満たなかったけど、生きて戻れると思った瞬間に気が抜けてうたた寝していたようだった。まあ、確かにここまでの道のりは、険しいだけじゃなくて、常時神経もすり減らしながら歩いて来たから当然の結果のような気がしたけれど、さすがにミッション開始と同時に寝てしまうのは、いくらブランクがあったとは言え冒険者失格だと我ながら恥ずかしくなってしまった。
『それよりも、ちゃんと暗くなる前に戻ってきてよね。先は長いんだから、初日からそんなに頑張らなくていいからね』
ポリポリと寝ぼけた頭を掻きながらそう告げると、私は腰にあった冒険者のバッグを漁り始めた。
「…あった。バーナーコンロ。あ、メスティンもある! えーっと、ガスボンベは…」
外見的な容積とは違い、それこそ炎の剣がまるっと一本入ってしまう程に中が大きなウエストポーチは、まるでタイムカプセルだった。手に触れる物全てが懐かしく、どれもこれもあの日のまま静かに眠っていた。再び冒険の旅に戻れるとは本気では思っていなかったら、正直、捨ててしまっても良かったのだろうけれど、やっぱり未練かな、どうにも捨てられなくて、でも、目につく所に置いておくと色々ネガティブな感情が沸いてくるから、ずっとタンスの奥にしまっていたんだ。
取り出す物、全てが懐かしかった。そして、バッグの底の方でお目当ての円筒状の固い感触が指先に触れると、私はそれを取り出して耳元で振ってみた。この中に入れておけば、時間の経過がゆっくりになる。という話はどうやら本当のようで、幸運にも取り出したガスボンベはずしりと重く、ほとんど満タンのままだった。
『…どうだい、ハイディ??』
『ああ、ちょっと待ってくれ。もうちょっとで頂上の一本杉だよ!』
緊張した面持ちで念話のやり取りをしているシュテフをしり目に、私はバーナーコンロを組み立てると、持ってきた水筒の水をメスティンに注いで火を付けた。運よくバッグの中からは昔愛用していた当時のマグカップ達も見つかった。先生に私に、シュテフに僧侶様。あの頃も私がお茶係で、立ち寄った街の雑貨屋さんで、それぞれに似合いそうなカップを選んだ事を思い出していた。そして、その後に見つかった数々のティーバッグを手にしてどれにしようか思いを巡らす。ミントにラベンダーにカモミール。味的にはミントが好きだけど、皆疲れているだろうし、カモミールの方が身体に良さそうだったから、私は残り二種類のティーバッグを鞄に戻した。まあ、言ってもカモミールの効能とかは分からないんですけどね…何と言うか、まあ、印象的に。
『シュテファン! 見えるよ見える! 駅のホームで貨物列車が燃えてる! それに…ああ、こりゃあ厄介だな…』
『どうしたんだい、ハイディ??』
頭の隅に聞こえる二人の声。まあ、その内容は気にはなるけれど、所詮レベル違いでブランクの長い私が首を突っ込んでも話をかき混ぜるだけでしょうからね。ここは身の丈にあった作業をするのが吉と、そのまま淡々とお茶の準備を進める。まあ、地図を広げる以外に仲居の私に出来る事と言ったらこれくらいの物ですもんね。…と、言うか、時間的にはそろそろ晩御飯も考えなくちゃいけない頃よね。まさか、こんな長丁場になるなんて思ってなかったから、食材とかは持って来てないなあ。
『やつら、とんでもない数だよ。無人駅の中に入り切れずに、ワシャワシャとホームや線路にまで溢れ出ている。背の低いゴブリンだ、毛むくじゃらで真っ黒なマンドリルみたいだぜ。ざっと数えて、見えるヤツだけでも五~六〇。列車から奪った食糧で宴会してるのも居る… ボスの姿は見えない。たぶん、舎屋の中だなこりゃ』
『それで、敵のレベルはどうなんじゃ!?』
『あっちゃぁ…、こりゃあ、偵察に作戦変更して正解だったな。あんな雑魚っぽいナリしていても、あたしらより軽く50は上だ…』
おーおー、くわばらくわばら。なにそれ、シュテフ達よりも50もレベルが上で、さらに5、60匹以上いるですって? そんなの、知らずに駅に向かってたら瞬殺じゃない。それこそ骨も残りゃしないわよ。袖を捲りあげ、沸きかけたお湯にティーバッグを落とそうとしていた腕に鳥肌が立っているのが見えた。痛いのを想像したらお尻の穴がキュっとした。うん、まじでくわばらくわばらね。
『…あ、でもヤツら知能はそこまで高くないかも?』
「さすがの魔物も、あなたには言われたくないでしょうに…」
思わずティーバッグをツンツンしながら小さな笑いが零れる。
『どうしたんだい、ハイディ!?』
『いやさ、さすがに駅を中心にして四方向、線路の登りと下り方面、それから砂漠側に見張りはいるんだけどさ、崖側のヤツがお馬鹿なのさ! さっきから絶壁を登ろうとしてるんだけどさ、どうにも登れなくて延々と落ちたり登ったりを繰り返してるんだぜ! な、笑えるだろ!?』
『はいはい、今日の分の覗き見はもう充分でしょ? それに、あんまり顔を出してると見つかっちゃうわよ?』
『大丈夫さ、軽く50メートルは離れてる。上級とは言え、さすがに圏外さ』
『はいはい。それよりも、お茶が入ったから早く戻って来なさいな。カモミールよ。きっと壊したお腹にも良いと思うから』
コポコポと小気味の良い音をたてて沸くお茶と、優しいカモミールの香りがしていた。私はメスティンの柄を持つと、懐かしい色とりどりのマグカップ達に注ぎ始めた。
…その時だった
突然私の視界が真っ赤に染まり点滅し始めた。その瞬間、全身から血の気が引いた。握るマグカップは震えて、お茶は足元に注がれた。この現象は知っていた。知っていたけど、信じたくは無かった。視界が、意識が黒く塗りつぶされていく。私は、この感情も知っていた。
――それは絶望。
そう、私の視界を赤く染め上げたのは、敵とのエンカウントを知らせるアラームだった。
シャッフルワールド物語
【マーシャの地図】
第十一話 『マーシャの地図』
(二)
『や、やべえ! なんでだよッ! まだ距離あったじゃんかよ!!』
足元でマグカップ達が割れる音がした。そして、茫然とする私の頭の中に嫌な言葉が思い出されていた。
―レベル差から生じる索敵範囲の差
『逃げて! 逃げてハイディ!!』
咄嗟に理解した原因なんてどうでも良かった。気がつくとただ叫んでいた。でも、返事は無かった。そして、その代わりに突然山頂付近から激しく木々を揺らす音が聞こえてきた。
『来るんじゃねえ! 絶対に誰も来るんじゃねえぞ!!』
一拍置いて聞こえた彼女の声。私は慌てて地図を広げた。山頂の一本杉からさらに先、私達のツェルトから300m程離れた場所に、パーティメンバーを現す青い点が描かれていた。彼女はこちらとは反対側に逃げ出していたんだ。
『クソ! アイツ、あたしに気付いた途端に手刀を岩に突き立てて物凄い勢いで崖を登って来やがった!! なんだよそれ!!! 登れなかったんじゃ無かったのかよ!!』
焦りに満ちた彼女の言葉が現す通りの光景が地図上にあった。そう、ハイディを現す青い点に肉迫する赤い点。敵の位置が描かれていたんだ。
絶望に目がくらみそうになる。頭の中が真っ白に変わる。
「ハイディ!!!!」
思わずそう叫び、駆け出そうとしていた。でも、出来なかった。声すら音にはならなかった。私を羽交い絞めにするヨーゼフの腕が、まるでさるぐつわをするかのように私の口の中に突っ込まれていた。
『お譲ちゃん! あやつの努力を無駄にするでない!! どうしてわざわざ反対側に逃げたと思うとる!!』
『ハイディ! ハイディ!!!』
涙が出た。
止まらなかった。
色んな、本当に色んな表情が目に浮かんでいた。
笑う顔。
泣く顔。
真面目な顔。
間抜けな顔。
まるで、猫の瞳のようにコロコロと変わる彼女の表情。
ハイディ ジンゲルマン 名字が『歌う人』とは良くいったものだ。
彼女には華がある。
そう、私達のムードメーカーなんだ。
頭の中に幾つもの壮絶な悲鳴が響き渡っていた。痛い、怖い、もうやめてと叫んでいた。風が吹いていた。強い風だった。深い森には甲高い笛の音のような木々を吹き抜ける音と、遠くから聞こえる激しく木々を揺らす音、かすかに聞こえる骨を折り、肉を潰す嫌な音だけが響いていた。念話でだけ聞こえる悲鳴。それは、絶対に口には出さない。絶対にエンカウントしたこの魔物以外に自分の存在を明かさない。そんな、悲痛な覚悟の現れだった。
『ハイディ!!』
『ハイディ!!!』
『ハイディィィィィィッ!!』
呼んだ。泣きながら、羽交い絞めにされながら何度も名前を呼んだ。だけど、返ってくるのは悲鳴だけだった。
『バカモン! 何をやっておるんじゃ!』
ヨーゼフの声に自分が錯乱していたのだと気が付いた。そして私は、さらに信じられない光景を見た。
…それは、シュテフだった。
静かに立ち、悲しそうな顔で私を見ていた。そして次の瞬間、小さく唇が動いたんだ。
「ごめんね」
って。分かっていた。私には分かっていた。彼がこんな時に何をするのかを。してしまう人間なのかを。そして、その嫌な予感は現実になった。そう、そのまま彼は駆け出した。少しずつ暗くなりだした深い森の奥目がけて。私はその悪夢のような状況を呪った。何が起きているのか、理解は出来ていても信じたくは無かった。カモミール茶を淹れていたんだ。時間も時間だし、そろそろ夕食の献立も決めないといけないと思ってたんだ。そもそも、のんびり晩御飯なんて取れると思っていなかったから、食材らしい食材は無くて悩ましかったけど、それでも嬉しかったんだ。帰れるんだ、生きて戻れるんだ。そう思うと、多少食事が質素でも、これから先、2週間近くこのサバイバル生活が続いてもいいと思えてたんだ。
なのに…
なんで、こうなった?
どうしてこんな事態になっている?
念話からハイディの悲鳴が聞こえなくなった頃、遥か先の梢から激しく金属と金属がぶつかりあう甲高い音が聞こえ始めた。いっそう強く揺れる木々達。それは、無情にもシュテフが戦闘を始めた事を物語っていた。ほんの数分前までは、皆で戻れると思ってた。なのに、どうしてこんな事になっている。
『ダメだシュテフ!』
『止めて、お願いだから止めてシュテフ!』
叫んだ、何度も頭の中で叫んだ。でも、返事は戻ってはこなかった。その代わり、空気を裂く剣戟の音だけが静かに森に響いていた。
どのくらいその音は続いただろう。金属音が響く度に生きた心地がしなかった。でも、その音が聞こえるうちは、彼が生きている事が理解出来た。そして次の音はもう聞こえないのかも知れないと思うと眩暈がした。私は、私はあまりに非力だった。ヨーゼフに抱きしめられ、ただただ涙を流して祈る事しか出来ないんだ。そして、いつまでも続くと思われた音が途切れると、断末魔が森に響き渡った。
『シュテフ!』
叫んだ。私は彼の名を呼んでいた。そして、しばらくの沈黙の後に聞こえてきたんだ。まるで息を整えるように切れ切れになりながらも、思考を整えて話す声が。
『た…倒せた…でもダメだ…あんなに大きなミノタウロスでさえ一刀両断出来たのにダメだった…固い…とんでもない剛毛…1回では切れなかった…一閃…何回放ったか分からない』
でもそれは、念話というよりもこぼれ出したシュテフの思考だった。きっと彼自身、これが言葉になっているとは気付いていないのだろう。そして、それは死闘を物語っていた。敵の強さに身震いがした。でも、生きていた。その念話は『シュテフが勝った』その事実を知るには充分なものだった。そして、次の瞬間、ハイディの名前を連呼する声が頭に響いた。
『孫はどうしておる!』
『…生きてる。生きてるよ…』
その言葉に、私の口を封じていたヨーゼフの腕が外れる。『彼女が生きている』『また会える』そんな喜びが心の中で爆発して、溢れだす涙が止まらなくなる。私は気を抜くと嗚咽しそうになる口を必死に両手で塞いで耐えた。でも、残酷にも一度湧きあがった喜びは、さらなる深みへとたたき落とされる結果になったんだ。
『………でも』
『…でもどうしたんじゃ!?』
『彼女…頭と胸以外、殆ど原型を留めていないんだ… 今は魂が抜けてしまわないように治癒魔法を当てるんだ。でも、ダメなんだ。僕の勇者魔法じゃ繋ぎ止めるので精一杯なんだ…お願いだよヨーゼフ、どうか、どうかハイディを助けて!』
泣きじゃくる子供のような言葉に絶句した。そして、その言葉の意味を遅れて理解すると、一度は沸き上がった喜びの涙は悲しみの涙に変わっていた。
ハイディは魔物に滅多打ちにされながらも、必死に頭部と胸を守っていた。その意味が胸に刺さった。彼女は、そんな絶望的な状況でも自分の見た情報を持って帰ろうとしたんだ。即死しないように心臓を守っていた。頭部に致命傷を負えば復元と共に出発時まで記憶が巻き戻されてしまう。彼女はそれを避けたんだ。死んで楽になる事よりも、苦痛と共に生き抜く道を選んだんだ。
『…うむ、そこまで行こう』
私の目の前に一人の老僧侶が静かに立っていた。
『待って! お願いだ! 私も行く!』
私も同時に立ち上がった。でも、それは静かに肩を押す彼の手に制されてしまった。
『…お嬢ちゃん。お前さんにはやらねばならぬ事があるじゃろ?』
それは、とても優しい穏やかな口調だった。そして、その意味はすぐに理解できたけど、私には泣きながら首を横に振る事しか出来なかった。
『このツェルトを死守するという大事な使命がお前さんにはあるはずじゃ。ここはワシらの生命線、誰もおらんくなっては結界が消えてしまうじゃろ? 皆が戻る場所を守るんじゃ…そして…』
『………』
『…もし、戻ること叶わず地図上からワシらを現す青い点が消えたならば…その時はお嬢ちゃん、お主は急いで山を下りるのじゃ。何としてもこの魔物の情報だけは街に持って帰る。それがお前さんに課せられた最大の使命。ワシらの命に意味を持たすのも、無駄にするのもお嬢ちゃん次第なのじゃぞ』
その言葉に私は何度も首を横に振った。嫌なんだ、絶対に嫌なんだ。皆が死んでしまうかも知れないというのに、私だけが生き残るのなんて嫌なんだ。皆を死なせないって誓ったんだ。死ぬときは一緒だって誓ったんだ。なのに、私だけが生き残るのは許せないんだ。だけど、そんな私を見てヨーゼフは小さく微笑んだ。
『堪えて次のご来館を待つのも女将の仕事。清音ちゃんに習わなかったのかい?』
その言葉と同時に、私は地面に崩れ落ちた。口惜しかった。なにも出来ない、待つしか出来ない自分がみじめでまた泣いた。
『もし、街に戻って聞かれたら、ジジイは真っ先にトンズラしたと伝えておくれ。今もどこかの空の下で呑気に旅を続けておるじゃろうとな!』
そして彼もまた、項垂れる私一人を残して淡く水色に光るツェルトの光を跨いで森の奥深くへと消えて行った。
(三)
『…大丈夫かハイディよ。よう頑張ったな。すぐに元に戻してやるからな』
しばらくして、地面に倒れただ涙を流して放心する私の頭に響いた声は、そんなヨーゼフの声だった。『どうだいヨーゼフ!?』というシュテフの声も聞こえたけれど、その後に続いた『そんな事より、お前さんも大けがしておるではないか!』という言葉で、どれほどの激闘の上に彼が辛うじて勝利を手に入れたのかが理解できた。
『…お願い、お願いだから皆、無事に戻ってきてよ』
『お願いよ、もういいから。もう充分だから帰って来てよ!』
無力にも、祈る事しか出来ない私の想いが念話に乗っていた。切実な願いだった。でも、現実は甘くは無かった。少しの間を置いて聞こえて来たヨーゼフの声には、すでに艶が消えていて、落胆の色ばかりが色濃く表れていたんだ。
『すまぬなお嬢ちゃん、こりゃあ戻れそうにない。さすがに生きておるのが不思議な程の大怪我じゃ、動かすわけには行かぬし、治すにはいささか時間がかかる。それに…』
『…それに、どうしたのよお爺ちゃん!?』
『どうにも崖の向こう側が騒がしい。おそらくさっきの魔物の断末魔が原因じゃろう。あれだけ派手に戦った後じゃし、駅におった魔物どもが一斉に動き始めたのじゃな。それまでにハイディを治せればよいが、これはどうにも無理そうじゃ。その時は約束した通りじゃ。ワシとシュテファンで何とか時間を稼ぐ。その隙に街に戻るのじゃ、よいな?』
絶望に眩暈がした。行きたかった、私も今すぐ駆け出したかった。でも、やっぱり出来なかった。もし、治療が間に合えば、ここ(ツェルト)は皆が駆けこむ最後の砦、シェルターになる。そう思うと、身体が硬直して動けなかった。苦しかった。なにも出来ず、ただ泣いている自分がみじめで胸が潰れそうなくらいに苦しかった。そして、言葉にできない嫌な予感が胸を締め付けていた。私は知っているんだ、何度も経験したんだ。泣きっ面に蜂。こういう時は、さらに嫌な事が起こるんだ。そして次の瞬間、その予感は的中してしまった。
『街に戻るのは君達もだよ、ヨーゼフ』
それは、とても静かな、まるで微笑むような、春風のような優しい声だった。そして次の瞬間、森に大きな音がこだました。
それは巨木が倒れる音だった。
『な、何をしておるのじゃシュテファン!』
『ハイディを治す時間も皆の命も僕が何とかする!』
そして、その言葉に重なるように、さらに幾つもの木々が倒れる音がした。そして、その音は激しさを増し、どんどん遠ざかっていったんだ。
「…!? グロースラントカーテ!!」
慌てて開いた地図を見て、私は何が起きているのか理解した。そしてまた絶望した。ヨーゼフとハイディを現す二つの青い点からさらに離れた場所にもう一つの青い点があった。そうなのだ、シュテフは私達を助けるために、たった一人で囮になったんだ。わざとらしい程に大きな音を立て、巨木を切り倒しながらさらに遠くへ、遠くへと駆け出していた。
『ダメだシュテフ! それだけはダメだ!』
『嫌だ! これは譲れないんだマーシャ姉!』
頑なな声が聞こえた。そして、しばらくすると、無情にも倒れる木々の音に混じって、またしても激しく金属同士がぶつかり合う甲高い音が聞こえ始めていた。私は悔しくて膝をつき、足元の落ち葉ごと地面の土を握りしめていた。
「…まただ、まただよ」
あの日の光景が思い出された。燃える一面の麦畑が見えた。傷付き、狼男に喉元を噛まれてもなお「逃げるんだ、逃げるんだマーシャ!」と叫ぶお父さんの声が聞こえた。最後まで魔物にすがりつき、息絶えて行くお母さんの姿が浮かんだ。人の身では抗う事が出来ない理不尽で強大な力…『天災』はいつだって私から帰る故郷を、愛おしい者を奪っていく。
ならば、せめて今回は…
私は、震える両足に思い切り力を入れて立ちあがった。ああ、そうよ。魔物よ、私から大切な者を奪うのならば、今回くらいは私ごと奪っていけ。殺すなら、死んでしまうなら私も一緒だ。ずっと一緒だと決めたんだ。でも、着物の袖で涙を拭い、グっと足に力を込め、大地を蹴ろうとしたその瞬間、頭の中で叫び声が聞こえた。
『来るな! 来ないでくれマーシャ姉! あと少しでハイディが動けるはずなんだ! そうしたら三人で合流するんだ!』
遠くで聞こえる激しい剣戟の音に混じって、頭の中に響いたのは、まるで私が何をするのか知っているかのようなシュテフの声だった。
『馬鹿言わないで! あなただけを逝かせはしない!』
『嫌だ! 僕はそれを望まない!』
そしてまた、激しい剣戟の音が響き渡った。
『お願いだ、生きてくれマーシャ姉!』
『僕は、僕は誓ったんだ!』
シュテフの声が聞こえていた。それは途切れ途切れで、剣戟の合間に絞りだすような声だった。
『いつかあなたを守れる男になるって誓ったんだ!!』
『お願いだ、マーシャ姉! これがその時なんだ!』
『僕は世界を救うような立派な勇者じゃなくてもいい! 嘘つきと言われてもいい! 臆病者と呼ばれてもかまわない!』
『あなたを守れればそれでいいんだ!』
その言葉に、私は動けなくなっていた。ただ俯き震えることしか出来なかった。
『好きだった!』
『始めて会った時から大好きだった!』
『ずっとあなたを想っていた!』
『…だから、マーシャ姉…いいや、マリーシャルロット!』
『僕は最後に愛するあなたの命を守れたという誇りが欲しい!』
『お願いだマリーシャルロット! 生きてくれ!』
『愛している!』
『皆と一緒に逃げてくれぇぇぇえええええ!!』
いっそう激しく剣と剣とが衝突する音が木霊していた。私は立ちつくしたまま、ただ悔しくて土を握ったままの両手を振るわせていた。いつの間にか念話回線にはシュテフの声は無く、ひたすら激しさを増す剣戟の音と、ただひたすらに彼の名を呼ぶヨーゼフの声が聞こえるだけだった。
―私は…
こんな時、私はどうするんだ。
どうすれば良いというのだろう。
シュテフの最後の願いを裏切って彼の元へと走り、一緒に命を落とすのか?
それとも、その言葉を聞きいれ、彼を見殺しにして生きて行くのか?
何度も、何度も自分に問いかけた。そして、夕焼け空を睨みつけて大きく息を吐くと、一番最初に頭に浮かんだ言葉を叫んでやった。
『どっちも嫌だ!
どっちも選んでやるもんかッ!』
その瞬間、一気に胸が楽になった。頭の中にあった靄が吹き飛んだ。
『……ない』
『………せない』
震える拳をさらに強く握りこみ、思いっきり剣戟の音がする方を睨みつけた。
『シュテフ! 私はあなたを絶対に死なせない! 何としてもだ!』
もう一度、目じりに浮かんだ涙を拭う。
『シュテフ! 男なら、愛してるという言葉は相手の目を見て言うもんだ! だから私はここから動かない! どうにも私が好きでたまらないのだと言うのなら、生きてそれを証明してみせろ! 私を抱きしめにここまで来い!!』
…クスクス、あの子でしょ?
…そうそう、地図しか出せない地図の大魔女。
耳の奥で、クラスメイト達の声が聞こえた。
―そうよ、地図しか出せないダメ魔女ですよ。だから何?
…マーシャだ
あのエセ魔法使いさえ居なければ
荷馬車の裏で悔しそうに泣く先生の声が聞こえた。
―ええ、そうね。
私がポンコツだったから、皆を窮地に追いつめた。苦しめた。
隠れるように、人目を避けるように生きてきたゲイローの日々が、鍛冶屋での日々が、お宿での日々が思い出された。
―そうね。
望んだ職業にはどれも就けなかった。
うまく出来なかった。
まったく、私という女はどれだけ不器用でダメな人間なのだろう。
そうだ、そうなんだ。確かに私はダメな人間だ。不器用でポンコツで、今までもずっと陰口を言われ続けて生きて来た。ずっとそんな人生だった。だけど、そんな自分を誰が一番蔑んでいたのだろう? 誰が、私がダメなヤツだとレッテルを貼ったのだろう? 思わず小さな笑いが零れる。まったくお笑い草だ。今頃になって結局一番自分を見下していたのは自分自身だったのだと、心底気がついてしまったのだから。
グっと正面を睨んで強く唇を噛む。そして、ゴクリと息を飲み込み、瞳を閉じて集中すると、瞼の裏に浮かんだ緑色の炎の中で大きな書庫の扉が開かれた。気が遠くなる程に広大な図書館、無数の空の本棚達。そしてその中にたった一冊だけ置いてある古い皮表紙の魔道書を手に取った。
『なめんな自分!
誇りを持て!
私は地図の大魔女、マリーシャルロット リヒターだッ!』
「グローセラントカーテッ!!!」
強く森を吹き抜ける風の音(ね)に負けないように、私は自分の知っている唯一の魔法の名前を叫ぶと、何も無かった目の前の空間に一枚の地図が飛び出した。
『青い点が見える、四つ!』
一つ目は私、ここ! 二つ目、三つ目は固まってる。ヨーゼフとハイディ! そして四つ目、シュテフ! 生きている! でも、一つの赤い点と今まさに激戦を繰り広げている。それだけじゃない。まだ距離はあるけれど、無数の赤い点が駅を離れ、崖を迂回するように反対側の緩い斜面からシュテフが戦っている場所めがけて移動を開始していた。
『シュテファン! シュテファン!!』
頭の中でハイディの声が響き渡った。
『ハイディ! あなた、もう動けるの!?』
『今しがた治療が完了したところじゃ!』
胸がグっと熱くなる。地図を睨み、ぺろりと上唇を舐める。
『OK! じゃあ、病み上がりのところ申し訳ないけれど、二人にお願いがある! まずは、崖沿いに300m先、そこでシュテフが戦っている! お願い、急行して! そしてもう一つ! 道中出来るだけ多くの敵を視認して! 森の中も、崖の下も全部!』
『仲居! あんた、何か策があるのかい!』
『分からない! でも信じて、お願い!』
まったく、自信があるのやら無いのやら。でもやってやる。やってやろうじゃないの。私は自分の魔力量を確認すると大きく頷いて覚悟を決めた。
「グローセラントカーテ!」
「グローセラントカーテ!」
「グローセラントカーテ!!!」
まったくもって無茶苦茶だ。私は立て続けに三枚、連続して地図を出現させた。見たか、嫌みなクラスメイトどもよ。腐っても大魔女。無詠唱ならではの荒業、地図の連続具現化。この広い世界中を探しても、こんな勢いで次から次へと地図が出せる出鱈目な魔法使いが他に居てなるものか!
そして、開いた右手を横なぎ一閃、勢い任せに宙に浮いた地図達をまとめて鷲掴みにすると、慌ててさっき出した地図と重ね合わせた。自信なんて無かった。確証なんてあるはずも無かった。でも、地図をめくると同時に口角が上がった。ハイディとヨーゼフが私のお願いを聞いてくれたのも一目瞭然だった。一枚、また一枚と地図をめくる毎に、みるみる赤い点が増えていた。それこそ遠くの森、崖の下、至る所で増殖してる。これは、二人が新たな敵を視認してくれた証拠だった。でも、重要なのはそこじゃない!
『やっぱりだ、やっぱり思った通りだ!』
『ど、どうしたんだよ仲居!?』
『ナイスだよシュテフ! そのままのスピードを保って一時の方向に走って! 5カウントでジャンプ! そこに小さなぬかるみがある! 魔物を小沼にハメるんだ! ハイディ達は進路が少しズレてる! 軌道修正、二時半! 一〇秒後、ぬかるみにハマって慌ててる魔物の背後に出る!』
『…な、なんだよそれ、予言か!?』
『いいから信じて!!』
瞬間、目を閉じて祈る。すると瞼の裏に皆の姿が浮かんで見えた。シュテフがジャンプしていた。腰から細身の長剣を抜き、赤い疾風になるハイディが見えた。風に乗って舞いあがり、緑色の刃を繰り出すヨーゼフが見えた。そして、念話から歓喜の声が上がった!
『やったぞい! 背後から毛の柔らかそうな膝裏の関節を狙ったら風の刃が通った!』
『こっちもだよ! 深手は無理だけど、何とか足の腱に刃が届いた!』
そして次の瞬間私は見たんだ。夕暮れの空を高く飛びたつ輝く一閃の光の矢を。そう、私が見たのはまるでパラパラ漫画のように地図の上を移動する青と赤の点だった。そしてそれは、誰がどの方向に動いているか、どこに向かっているかを私に教えてくれたんだ。姑息と言われるかも知れない。勇者の一行らしく、堂々と戦えと怒られるかもしれない。でも、この方法、卑怯な三人がかりの奇襲、可能な限りの各個撃破の一対三、これならば倒せる。確かにそれは、気が遠くなりそうな地道な戦いかもしれない。でも、生き残る確率が跳ね上がるのだと確信した。
『…マーシャ姉』
一拍の間を置いて私の名前を呼ぶ声が聞こえた。でも、そこから先は言葉にはならなかった。でも分かった、一度を死を決心したシュテフが、その際に立ち戦っていた彼が何を考えているのかを。でもそれは、喜怒哀楽、きっとどの言葉でも表す事が出来ない複雑な物なのだろうと、私は思った。
『…シュテフ?』
『…!?』
『帰ろう。皆で街に帰るんだ』
そうなんだ。守るとか、守られるとかじゃないんだ。彼の心にあったのがどんな感情であれ、全てはその一言でかたがつくのだと私は思った。そして、少しだけ間を置いて小さく『…うん』という声が聞こえると、もう一度地図を握りしめた手に力を込め、彼らが立つ遥か先の森を睨んだ。さあ、ここからが私達の反撃だ! 今まで馬鹿にされ続けた女の大反撃だ。魔物ども、舐めてかかったら痛い目みるよ!
「グローセラントカーテ!」
「グローセラントカーテ!」
「グローセラントカーテ!」
「グローセラントカーテ!」
「グローセラントカーテ!」
勝利の喜びを噛みしめたい感情をグっと押し殺して、矢継ぎ早に五枚。急いでそれを見比べ地図を読み解き指示を出す。そして間を置いてさらなる歓喜の声が頭の中で響き渡ると、私は小さなガッツポーズを作った。
『やった! やったぜ仲居! さっきよりもスムーズに倒せた!』
『三人がかりの連携と奇襲、敵が一匹なのにも助けられたわい。それに…』
『うん、ちゃんとカウントしてるよ討伐数! シュテフ、ハイディ共に三。ヨーゼフ二!そして、大幅レベルアップおめでとう! まあ、残念ながら、私は経験値取得圏外みたいだけど…。でも、さすがのレベル差ね、まるでとんでもパワーレベリングだよ。入ってくる経験値がえげつないわ。シュテフもハイディも、すでに一五個以上レベルが上がってる!』
『…まあ、あたしは最初の一匹は寝てたから参加出来てないんだけどな…』
これは、まさに追い風だった。確かにレベルが上がってもまだまだ差はあるけれど、それでも生還する確率がさらに上がった事は確かだった。でも、私の地図は楽観的な情報だけを現してはいなかった。それに気付いて苦笑いする。
「何が5、60匹よ、馬鹿ハイディ。どんどん舎屋から溢れ出してるじゃない…」
ますます増殖し、森へとなだれ込む赤い点達を睨みつけて舌を打つ。そして、さらに心の紐をきつく結び直して指示を出す。一点には留まらせない。奇抜な方向へ、あり得ない方向へ走らせる。そして、一つ、また一つと赤い点が消えて行く。一瞬たりとも気の抜けないタイトロープな奇襲作戦。でも、夕風が撫でる頬が熱かった。自分の心の大半を占めているのが恐怖ではなく高揚感だということに気がついて驚く。そして、それはよく知っている、馴染み深い感情だった。一瞬瞳を閉じると、お宿の皆の慌てふためく姿が目に浮かんだ。
―乗鞍の間の焼き魚が遅れてるぞ!
えーっと、一番近くにいる仲居さんは…
御岳の間のマコちゃんだ!
あ、だめだ。マコちゃんだと絶対にお客さんにつかまってて動けない!
ならば、そう! 別館から戻って来るウェムラーさんだ!
そう、この感覚はカオスなお宿の晩御飯時に良く似てる。誰がどこにいて、どこで何がおきている。それを頭の中でつなぎ合わせて指示をだす。そう、それなら私は慣れたもんだ。負ける気がしない。なんせ、一〇年間、毎日修羅場を経験してるんだ。そう、この戦いは飲みこまれたら終わり。後手に回ったらあれよあれよと言うまに押し流される。ならば勝つのみ、こなしてみせる! ことごとく先を読み、やられる前にやってやる!
「グローセラントカーテ!」
「グローセラントカーテ!」
「グローセラントカーテ!」
「グローセラントカーテ!」
「グローセラントカーテッ!!」
問答無用、次から次へと地図を出しては指示を出す。そして、一つ、また一つと赤い点が消える毎に胸は感謝の気持ちでいっぱいになっていた。今、ギリギリのところで皆の命を繋でいるこのスキルは、お宿で働いていたから身につける事が出来た物だった。この大量に出された地図だってそうだ。少女時代、こんなヤンチャな魔法の使い方なんてした事が無かった。考えにも及ばなかったし、たぶん出せなかったとも思う。でも、この遠回りのような時間で私は変わった。変わっていた。寂しい時、色とりどりの地図を出しては気持ちを紛らわしたんだ。出せるようになってたんだ。無駄だと思われたゲイローでの日々が知らず知らずに私を、私の魔法を磨きあげていた。
―魔法使いでありながら仲居。
―冒険者でありながらNPC。
私は、そんなやるせない日々に感謝した。
今の自分を誇りに思った。
倒れぬよう、折れぬよう、ずっと私を支えてくれていた街の皆に感謝した。
「グローセラントカーテ!」
「グローセラントカーテ!」
「グローセラントカーテ!?」
三枚目は具現化しなかった。あわててステイタスウィンドを見ると、完全に魔力がスッカラカンのガス欠だった。そりゃそうね、いくら魔力量が多いエクストラアウスナーメの私でも、初級魔法使いが自然回復待ったなし、湯水のように中級魔法を連発し続けているのだから。慌てて着物の袖の中にあった三本パックの二本目に手を伸ばしてカリリと封を開けると、甘苦い液体を喉の奥に流し込み「ごめんね、後で拾うから」と、足元に落としてさらなる地図を夕焼けの眩しい西日の中に具現化させた。
『どうしたんじゃお譲ちゃん? 指示が止まったぞ??』
『ご、ごめん、ユンカー飲んでた!』
『なんじゃ、もう魔力切れか? なら、ワシのリュックザックを漁ってみい。こんな時のために買い溜めしておいたのがあるからの!』
着物の袖の上から残り一本の感触を確認して苦笑いをする。確かにこの状況、どう考えても本数が足りなかった。私は短くお礼を言うと、巨石に立てかけてあったヨーゼフのリュックを開けて手を突っ込む。するとその瞬間、とんでもない数の小瓶の感触が指先に触れて驚いた。そして、そのうち一本を取り出してさらに驚いたんだ。
『ちょ、ちょ、ちょっとお爺ちゃん! これって一番高いヤツじゃない! 一本四〇〇〇ゴールドとかするんだよ、このグレード!?』
『よいよい、気にするな飲め飲め! 全部飲め! なんせ、ワシらの命はお譲ちゃんにかかっておるんじゃからの!』
さすが高齢者、ちゃっかり貯めこんでるわね…。短くお礼を言って気を引き締める。確かに、凄く勿体ない気はするけれど、とりあえずこれで魔力が枯渇する心配は無くなった。
…ならば。
見せてやるわよ、私の往生際の悪さってヤツをね!!
「グローセラントカーテ!」
「グローセラントカーテ!」
「グローセラントカーテ!」
それは幸運だった。相変わらず森の中を吹き抜ける強い夕風が地図を召喚する声をかき消してくれていた。さらに腹に力を込めてその名を叫ぶ。
「グローセラントカーテ!」
「グローセラントカーテ!」
「グローゼ…」
突然、変な音と共に声が出なくなると、喉に鋭い痛みが走った。でも、お構い無しだった。私はヨーゼフのリュックからユンカーを取り出すと、カリリと封を開けて回復薬で喉を洗って飲み込んだ。
「グローセラントカーテ!」
「グローセラントカーテ!」
「グローセラントカーテ!」
不意に、減ってるはずの赤い点が再び増えだしたのに気がついて慌てて指先で触ると、それは私の鼻や瞳からしたたり落ちた血の滴だった。でも、それも気にしない。グイと鼻の下を拭うと、さらに地図を出し続けたんだ。
―帰るんだ。
誰一人欠ける事無く、皆で街に帰るんだ!
ただ、ひたすらそれだけを願って、私は地図を出し続けた。
(四)
戦況に変化が現れ始めたのは、それからしばらく経ってからだった。正直、どれくらい時間が過ぎたのか、そんな感覚も無くなっていた。私達の作戦は、お世辞にも連戦連勝とはいかなかった。一匹、また一匹と、群れから逸れそうな敵を見つけ出してはスムーズに撃破出来る事もあったけど、もたつき、他の敵に気付かれてあわや全滅しそうになったり、慌てて逃走する。という肝を冷やす場面も少なくは無かった。それでも私達は長い時間をかけて少しずつ赤い点を削っていった。
そんな中、最初に気がついた変化は地図だった。いや、何てことはないんだ、ただある瞬間、暗くて地図が見辛い事に気がついたんだ。そして、真上を見上げて驚いた。梢の隙間から見上げた空はすでに見事な程の星空で、大きな月が上がっていた。微かに、遠く西の空の端だけが紫色に輝いて、まるで沈みたくないと言っているようだった。着物の袖から懐中時計を出すと、すでに開戦から一時間半が過ぎていた。
二つ目の変化は、言うまでもなく敵の数だった。目を凝らし、月明かりを頼りに睨んだ地図上の赤い点は確実に減っていた。最初は密集して溶けあい、まるで血の池のように表記されていた敵達。確かにまだまだいるけれど、それでも今では随分と散らばり、一つ一つが数えられる程になっていた。
そして、三つ目の変化。これは、良い方にも悪い方にも大きな変化だった。いっ時は五〇も離れていたレベルも、この頃になると残り十五程に縮まっていた。それは、とてもとても有難い材料だった。実際、各個撃破に失敗し、三匹の魔物に囲まれた瞬間もあったけど、辛勝ながらもシュテフ達は生き伸びる事が出来ていた。これは、確実にレベル差が縮まって来ている証拠だった。ただ、その半面、嬉しくない副産物もあった。
『お、お譲ちゃんすまぬ… こりゃあジジイには重労働じゃて、全部飲めとは言ったが魔力切れじゃ、一旦、ユンカーを取りに戻りたいのじゃが、良いかのう…』
その声を聞いて、原因はすぐに理解出来た。そう、これが悪い方への変化だった。一時間半もの間、シュテフ達はほぼほぼ無補給で、私が提案する無理難題の各個撃破の奇襲作戦を実践出来ていた。でもそれは、切れ間無く入っていたレベルアップボーナス、レベルが上がる度に全回復する体力と魔力のお陰だったのだと、この段になって気がついたんだ。だけど、目まぐるしい程にレベルが上がっていたのは最初のうちだけで、差が縮まり始めると徐々にその間隔は伸び始め、残り一五となった辺りで完全に止まってしまったんだ。そう、レベル差からくる経験値ボーナスがどんどん少なくなっていたんだ。
『シュテフ、ハイディ。お爺ちゃんが抜けても大丈夫?』
それは、苦肉の提案だった。魔法使いと僧侶、職業の違いこそあれ、どちらも魔力を使って戦う者同士だから分かった『魔力の枯渇』それが何を意味するかを。そう、おそらく風の精霊の加護が弱まっている今のヨーゼフはただの老人。しかも義足となると、これ以上は戦闘どころか山歩きですら辛い状況のはずだった。
『ああ、僕達ならば問題無いよ、マーシャ姉! なんせ魔力をほとんど使わない肉体労働専門だからね!』
『おうよ、それにこの感じなら二人でもしばらくは持ち堪えれると思うぜ。ただまあ、出来れば二対一になるようにナビゲートしてもらえると有難いんだけれどな』
私はコクリと頷くと新しく開いた地図を確かめる。そして改めてまじまじと見ると、縦横無尽に森を駆け抜けた作戦が功をなしていた事を再確認した。ツェルトから一キロ以上離れた場所で戦うシュテフ達。そして、場所を特定できない敵の戦線は伸びきっていた。地道に削り、半減していた敵の数も相まって、その密度は今までとは違い完全に隙間だらけになっていた。
―今ならお爺ちゃん一人くらいならここまで戻ってくるルートは確保出来る。
それが、私の判断だった。そして大きく頷くと、そのまま沢まで下り、小川沿いにツェルトまで戻るようにヨーゼフに指示をした。
そして、この段になって四つ目の変化が露呈した。
改めて足元を見ると、その光景に私は思わず絶句した。月明かりを反射してキラキラと輝く無数の小瓶達は見れば見る程とんでもない数だった。夢中だった。ひたすら無我夢中で地図を出し続けた答えがこれだった。そしてふと、嫌な感覚を覚えてヨーゼフのリュックに手を入れて思わず愕然とした。真っ暗で見えない袋の中の手を左右に振ってみる。でも、さっきまで手さえ入れれば簡単に指先に触れていた固い感触は無くなっていた。さらに深くへ手を入れる。そして、とうとう底に触れてしまった掌を左右に動かしてやっと、指先に小瓶の感触を感じて大きく息を吐く。
…残ってた。
残ってたけど。
安堵と共に溜息も漏れた。だって。取り出したユンカーは残りたったの五本だったのだから。嫌な想像に背筋が凍る。確かに、一時間半かけて半数近くの敵は倒せていた。でも、それに費やしたユンカーは数えきれない。そして、残りが五本。これでは、どう考えても足りない。それに、ここから先、これを必要とするのは私一人では無かった。レベルアップボーナスが期待出来なくなった以上、ヨーゼフもまた必要とするのだから。一度は頭から完全に消し去った悪いイメージが思考の片隅に湧いて出る。
―このままいくと詰む。
それは、そんな無情なイメージだった。
―自分なりには頑張った。
またしても、弱気な自分が顔を出そうとした。だけど、私はそれを思い切り否定して一つの決心をしたんだ。そう、それは簡単な、とても簡単な方法だったんだ。
「グローセラントカーテ!」
たった一枚の地図を出す。そして、食い入るように全ての点を頭に叩き込む。
「グローセラントカーテ!」
さらに一枚。時間を置いて具現化させた地図を手に取って見比べる。そう、私が選んだのは魔力の節約、具現化させる地図の枚数を極端にセーブする方法だった。時間差のある二つの地図を穴のあく程見比べて瞳を閉じる。そしてその間に欠けている情報を頭の中で補完していく。
もっとイメージするんだマーシャ
この見えていない間になにがあったマーシャ!
この赤い点は、何を考えてここまで移動した?
この点は、どうしてゆっくり移動している?
個々の魔物達は私の見ていない時間の間に何があって、何を考えた!?
もっと細かく、もっと繊細に地図からの情報を読み解くんだマーシャ!
こうして私のさらなる戦いが幕を開けた。
戦闘は、硬直状態が続いていた。一進一退、それでも二人はいくつかの赤い点を消していた。でも、それはいままでのペースと比べると、お世辞にもスムーズとは言い難いものだった。私からの指示も、的確と呼ぶには程遠い場面もいくつもあった。読み間違え、勘違う。そういったミスが目立ち始めていた。また、魔物達にも変化が表れ始めていた。それは、一言で言うならば狩る者から狩られる者への心情の変化。そう、今まで単独行動が多く、それぞれがバラバラに動いていた魔物達が、二匹から三匹のチームを作り始めていた。こうなると、正直撃破は難しかった。攻撃的に来てくれるから何とか出来るのであって、こうもディフェンシブになられると、上げ足を取るような隙や粗なんて見当たらなかったんだ。
そんな中、嬉しい事もあった。そう、悪い事ばかりでも無かったんだ。それは、完全に戦闘エリアを離脱して、こちらへと向かって来る青い点の存在だった。よほど疲れているのだろう、とてもゆっくりとしたペースではあるけれど、ヨロヨロと、フラフラと、右へ左へ蛇行しながらも確実にこのツェルトへと近づいてくるヨーゼフお爺ちゃんがいた。それは、心の励みになった。皆が皆、頑張っている。生き残ろうとしている。その事実がこの状況では光だった。それに何よりも、もうすぐ相談相手が出来る。一人ぼっちじゃなくなる。それが何よりも心強かった。手元にあるヨーゼフのユンカーは残り三本になっていた。袖の上から固い感触を確かめる。
『さすがに、これだけ高級品を馬鹿飲みしておいて、代わりに私の特売品をあげる…ってワケには行かないわよね』
そして、短い苦笑いの後にまた地図を睨んだ。
―早く来い。
―早く戻って来て、お爺ちゃん!
私は、指示を出しながら、緩やかにこっちに向かって移動する青い点を待ち望んだ。
そして、ついにその時が来たんだ。
『そこから先30メートルの位置にひと際大きな巨木がある! このまま行くと、10秒後に二匹がその脇を通り過ぎる。シュテフは木に隠れて私のカウントダウンで北東の方向に向けて一閃。巨木ごと切り倒して! ハイディは倒れる巨木の上からの奇襲、右側の敵。シュテフはそのまま左手! 行ける!?』
それは「おかえりなさい」を言うにはとても難しい状況だった。二人はチームを組み始めた魔物と遭遇していた。そして一瞬だけ地図の中心に目をやると、ようやくツェルトに辿り着いた青い点が見えた。私が身を隠している巨石の反対側に立っていた。
『ごめんね、お爺ちゃん。積もる話は沢山あるけど今はちょっと手が裂けない!』
よほど疲れているのだろう、ヨーゼフからの返事は無かった。でもそれは、状況的にはとても有難かった。そして私はカウントダウンを始めた。
『…どう!?』
『今回は読みがバッチリだったぜ仲居!』
『やったよマーシャ姉! 二対二でも何とかなった!』
ツェルトの中心、巨石の影で思わず渾身のガッツポーズを取る。その瞬間だった。何か冷たい物が私の頬にペタリと触れた。慌てて横を見ると、至近距離にお爺ちゃんの唇があったから、私は思わず悲鳴を上げそうになった。
『ちょ、ちょちょちょちょちょちょお爺ちゃん! な、何やってるのよ! セクハラ! セクハラ! それ、セクハラだから! 悪い冗談にも程があるわよ!』
そう言いきった直後、遅れて色んな違和感が湧いて来た。
―冷たかった。
そう、最初に頭に浮かんだのはそれだった。触れたお爺ちゃんの唇が冷たかったんだ。そして、恐る恐るキスされた頬を拭った手を見てさらに悪寒が走った。
…ぬるりとした。
…手の甲が…血で濡れていたんだ。
月明かりしかない闇の中、巨石の陰から現れたヨーゼフ。彼の顔面は血で濡れていた。でも、それだけじゃなかった。血の気を失い、土色になった顔、完全に白目をむいた瞳。
そして…
…呼吸をしていなかった。
「…ミ、ミヅゲダゾ」
突然、頭の上から声がした。まるで、地響きのような声だった。その瞬間、体中がさび付いたかのように動けなくなった。どんなに力を入れてもギシギシと軋むばかりだった。辛うじて動いた瞳で、開いていた地図を見る。そして、私が致命的な見落としをしていた事に初めて気付いたんだ。そう、ユラユラと移動していた青い点、それに重なり隠れていた赤い点があった事を。
「…オ、オマエガ、ゴイヅラノリーダーカ?」
その言葉に混じって頭の上から腐臭が降ってきた。あまりの恐怖に悲鳴なんて出なかった。ただ短く「ヒッ」という甲高い音が何度も漏れただけだった。そして、震える首を軋ませながら恐る恐る見上げると、そこにあったのは巨石の上から私を見下ろすありえない程に大きな、人間の身の丈以上あるトカゲの顔だった。じっと私を見つめていた。指先で摘まみ上げられていたヨーゼフの骸がドシャリという音を立てて足元に落ちる。
…結界内に敵がいる。
…結界破りの魔物?
パニックは起きなかった。それ程までに絶望的な光景だった。
そして漆黒の恐怖の中、私は今から死ぬのだと理解した。
つづく
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます