第10話【決断】

                    (一)

〽そ~らは青いな嬉しいな

 綿菓子みたいな雲もながれてる~じゃ~あ~りませんかっ

 るるる~

 今日は秋晴れ良い天気~

 らんらんらんらん

 山登り~ん♪

「ちょ、ちょっと馬鹿乳! あなた静かにしなさいよ! そんな大声で歌って魔物に見つかったらどうする気なのよ!?」

深い森の中、辛うじて地図に載っている獣道から外れないように、魔物に見つからないようにと細心の注意を払いながらルートを選んで進む神経質な私とは対照的に、後ろからはさっきから能天気な歌声が聞こえてくるもんだから、本当は声を出すのだって慎重にならなければいけない状況だというのに思わずそんな不機嫌な本音が零れてしまった。まったくもう、現地に着いてからがクエストじゃないんだよ。中級冒険者と初級冒険者の私、そんな混合チームにとって、上級の魔物と出くわす可能性のある山道を隣駅に向かって進むってだけで命がけだというのに、この牛乳(うしちち)ときたらどんな神経の持ち主なのかしら。軽く舌打ちをしながら正面を向きなおすと、不意に『やっぱり頭の発育に必要だった養分を全部胸に取られちゃったのかな?』なんて考えが頭を過ぎる。そして、広げていた地図に目を落とした瞬間に慎ましやかな自分の着物の胸元が視界に入ってさらに舌を打ってしまったんだ。まったく、世の中ってのは不公平すぎる。そんな怒りがこみ上げて来てもう一度後ろを睨むと、相変わらず鼻歌を歌っている呑気な女剣士はどこ吹く風。私の視線なんてまったく気付きもしないで森の中で珍しい物を見つける度に指さしながら楽しそうに小躍りをしてるもんだから、ついには呆れて大きなため息が漏れてしまった。

「なあなあ、爺ちゃん!? あそこに咲いてるピンクの花、あれは何て名前なんだい!?」

「あの肩を寄せ合っておるように咲いておる小さな花か?」

「そうそう、それそれ!」

「あれは、藤袴(ふじばかま)じゃな」

「じゃあさ、じゃあさ、あっちの真っ赤でカッコいいヤツは!?」

「あれは大文字草(だいもんじそう)じゃな。…それにしても、随分と高くまで登って来たのじゃのう。ゲイローの街ではまだ見んかったような秋の野花が良く咲いておる」

一歩、また一歩と登る深い山道、背後からはそんなのどかなやり取りが聞こえている。私のすぐ前を終始無言で歩くシュテフの背中に、広げた地図に日差しと木の葉が作り出す濃いマーブル模様が描かれていた。出発してからこっち、彼は一言も話すことはなく、ただ黙々と先頭を歩いていた。きっと、私が半ば強引にパーティに加わった事が許せないのだろう。『やっぱり、怒らせてしまったのかな…』そう思うと、話したいことも、伝えたい事もあったけど、ついつい声がかけ辛くなって、私も無言のままその後ろを歩いていた。小さなため息が漏れる。額に手を当てて見上げると、木々の葉の隙間からすっかり高くなったお陽様が見え隠れしていた。着物の袖から出した海中時計を見ると、すでに出発から1時間が過ぎていた。見下ろす眼下にはゲイローの街並みが広がっていた。

 今朝、私は一人の冒険者に戻った。もうコソコソと隠す必要なんて無かった。だって、人前で『自分は魔法使いだ』と、宣言したのだから。そして、始まりの街へと続く転送門(ゲート)を潜って消えて行ったペーターに代わってシュテフのパーティの残り一枠に加わった。   

 お宿の門と冒険の酒場のある別館に挟まれた細い路地には、私達の出発を一目見ようと駆け付けた街の人達がひしめき合っていた。子供達の歓声が聞こえた。当たり前のように来るはずだった明日を取り戻して欲しいと切願する大人達の眼差しがあった。大粒の涙を浮かべ、火打石を打つ女将さんの姿があった。そして、出発前の冒険者のルーティンワークである僧侶様による生体データのスキャンを受けていると、とても、とても懐かしい感覚と同時に『戻って来た』という実感がわいて来た。ただ、長年後ろ髪を引かれ、恋焦がれていたそれは、感動の涙で視界が歪んで見える程だったかと言うと、意外な事にそうでもなかった。懐かしくはあったけど、それ以上の感情が自分の中にあったんだ。もちろんそれは、浮かれたくなる心を凌駕する使命感だった。あと、実のところ懐かしさの中に多少の違和感もあったんだ。

『あれ、冒険者ってこんなんだったっけ?』

それは、そういう違和感だ。ずっと長い間恋焦がれていた。いつかは冒険者に戻りたいと思っていた。でも、いざ戻ってみると想像していたのとはズレがあって、何だかシックリ来なくって思わず小首を傾げてしまったんだ。そして少しの間、空を見上げてその違和感の正体を探っていると、不意に腑に落ちて思わず頷いてしまった。

『十年以上の月日が流れていた』

それが、全ての答えだった。そう、私はもう純粋な魔法使いでは無かった。あの頃の少女でも無かった。『魔法使いでありながら温泉宿の仲居』『冒険者でありながらNPC』それが今の私だ。この長かった回り道のようなゲイローでの生活や経験ですら、今では私という人間を形成するのに欠かせない要素になってしまったのだと気がついたんだ。

『生きて帰る』

もう一度、自分にそう言い聞かせる。そう、もう死にたいだけの、未来が見えなくて消えたいだけの自分では無かった。『生きて戻り、また皆の笑顔に触れたい』『何としてもシュテフ達は死なせない』方法は見つからないけれど、その漠然とした目標だけが、ギリギリのところで私を突き動かしていた。それが、シュテフを怒らせてもなお、私がついて来た意味なのだと、改めて心に刻みつけた。

「行ってきます」

木立の切れ間から見えるゲイローの街並みの中に一際大きなお宿の屋根を見つけて、私は呟いた。コルセット代わりに巻かれた腰の帯に触れると、そこには固い感触があった。出がけに板長の松さんから受け取ったサラシに巻かれた出刃包丁だった。長年使いこまれ良く手入れされたそれは、耐久性は確かに冒険者用のナイフには及ばないものの、切れ味、攻撃力だけならばつい数日前まで中級エリアの入り口にあったこの街で手に入るどの武器よりも勝っているだろう。それに、厳密には武器ではなく調理器具である包丁は、レベルの低い初級魔法使いの私には装備制限無く使う事の出来る有難い物だった。

「…また、返さなくちゃいけない物が増えちゃったな」

もう一度帯の上から包丁を撫でる。そしてギュっと気持ちを強く引き締めた。

「その格好でバンデルング(山歩き)とは、清音さんの計らいとは言え、なかなかに大変な作業じゃろう?」

瞳を閉じて意識を集中した途端、そんな優しく気遣う声がした。慌てて目を開くと、そこには心配そうに私を見ている白くて長いお髭の僧侶様が立っていた。

「あ、これ? それが、そうでもないから驚いたのよ。見た目よりもずっと軽いし、蒸れないし。おかげ様でいつものパーカーよりも楽なくらい」

そう言って私は、指先で着物の袖をクイっと引っ張ると、両腕を上げてお爺ちゃんの前でクルリと回転して見せた。

「ほほう、そうかそうか。きっと清音さんの優しさで出来ておるのじゃろうな」

その後、爺ちゃんは、もう一度まじまじと私の着物姿を眺めると、不意に頬を赤らめた。そして、恥ずかしそうに

「しかし、なんと言うか、歩きやすいのは良いが、お嬢ちゃんが着ると女将と言うより東方の女学生のようじゃのう」

と、言って咳払いを一つする。改めて、まじまじと自分の姿を確かめてみる。言われてみればそうかもしれない。『山道でも歩きやすいように』と、女将さんが丈を詰めてくれた『女将の証』は袴仕様になっていた。確かにこれは振り袖では無いけれど、華やかな着物に袴と冒険者のブーツの組み合わせ。もしこれで小脇に卒業証書が入った筒でも持っていたら、完全にこの街に来て何度か見た女子大の卒業生みたいだと我ながら思わず感慨深くなってしまった。だって、小学校も魔法学校も中退で、一度も卒業式なんて経験したことが無いのだから。

「ま、まあ、女学生って歳でも無いんだけどね…」

思わず照れくさくなって舌を出す。そして、もう一度淡い紫色の着物を見つめた。

『きっと清音さんの優しさで出来ておるのじゃろうな』

ヨーゼフの言葉に間違いは無かった。でも、この着物が女将さん一人の優しさで出来ていない事は、この時の私にはすでに分かっていた。袖を通してすぐに理解したんだ、この着物もまた、松さんの出刃包丁同様にただの着物ではない事に。一言で言うならば長年培われた想いと技術の結晶。それはステイタスウインドウを開いても見て取れた。確かに戦闘用では無いけれど、その軽さ、俊敏性、そして防御力や耐久性はちょっとした神器クラスの装備にも勝るとも劣らなかったんだ。そして、さらに驚いたのが、付与されている特殊スキルの数々だった。もちろんこれも戦闘用ではなく、あくまで街の中、お宿の中でしか使えない、魔力を持たないNPCのための擬似的スキルだったけれど、私が知ってる念話やのらりくらりを見ただけでも分かる。歴代十五人の女将さん達、皆がお宿を守るため、お客様に楽しい旅の思い出を作ってもらうため、その一心で綿々と作り上げ、長い年月をかけて改良に改良を重ねられた逸品なんだって。

「へぇー、それってお洒落で着てるのかと思ったけど、実はかなりの優れ物だったんだな!こりゃああたし達のクエストも益々安泰。上級相手でも楽勝だな!」

感慨深く紫色の着物を眺めていると、不意に今の今まで山野草に気を取られていたはずのハイディが私とヨーゼフの着物談議に首を突っ込んできた。どうやら今度は野花よりもこっちに興味が湧いたんだろう、またしても小さなため息が漏れる。まったく、もうすぐ死んじゃうかも知れないというのに、この馬鹿女の緊張感の無さと言ったら…

…ん?

っていうか、今、何か変な事言わなかった?? 少し遅れてその事に気が付いた。

「え? なに?? 益々安泰、楽勝って、なにそれ?? あなた、まさか私を戦わせる気?? 言っときますけど私、道案内くらいしか出来ないからね??」

時間差で彼女の言葉尻に反応して思わずそんな言葉が口をついて出ると、ハイディは私を見つめたまま『またまたぁ』という表情を作った。

「何、謙遜してんだよ。あんたには物凄いスキルがあるじゃんかよ!」

「…物凄い…スキル??」

「そそ! シュライフ(研磨)さ! あれ、あんたが使うと、どんな武器や装備だって粉々にしちまうんだろ? ほら、それこそあたしの炎の剣ですら一撃だったもんな!」

そこまで聞いて、何だか悪い予感が湧いてきた。うん。もしかしたら、彼女は大きな勘違いをしているのかも知れない。

「…だから私にどうしろと?」

「だからさ、あたしはあれ、戦闘で使えると思うんだよ! ほら、仲居が敵の剣や防具をことごとく粉々にしてくれたらさ、いくらレベル差があっても相手は丸腰なワケだろ? それなら、こっちにはシュテファンの一閃もあるしさ、今回のクエスト、意外と何とかなるかなって思うんだよね!」

まさか『もしかしたら…』と、思ってた悪い予感が的中してしまった。彼女が自信満々の笑みを浮かべると同時に、私達全員の口から大きな溜息が一斉に零れて落ちる。どうやらこの馬鹿乳、本当にお馬鹿さんだったみたい…

「…あのね、武器や防具を粉々って、どうすれば初級の、しかも魔法使いの私が上級の魔物の懐に入れるって思えるのよ? それに、そもそも…」 

「…そもそも??」

ハイディが『あたし、なんか変なこと言った??』みたいな顔をすると、今までの道中ずっと無口で、不機嫌な様子だったシュテフが困った表情を浮かべながら会話に参加してきた。

「…ハイディ、僕はマーシャ姉を戦闘に参加させるつもりは無いよ。それに、そもそも『シュライフ(研磨)』は鍛冶屋さんが使う生産スキルだよ? NPCのお仕事スキルが街の外、ましてや戦闘で発動するワケないじゃないか…」

その言葉と同時に大きく腕組みした私とヨーゼフが大きく頷いた。そう、これもまた藤色の着物・女将の証に付与されたスキル同様、NPCがお仕事の効率化をするために神様が使用を許してくれている職業生産スキルなのだという大前提をこのお馬鹿さんは気付いていなかったようなのだ。

「見てなさいよ…」

私はそう言うと、ハイディの腰に刺された細身の長剣に手を伸ばして引き抜き、彼女にも見えるように両手の掌に乗せて目の高さに掲げた。

「シュライフ(研磨)!」

一瞬の緊張と沈黙が流れる。でも、彼女が切れ長の目をお皿のように見開いて見つめている長剣は震える事すらなく、ただただ森の静寂と、遠くを吹き抜ける風の音だけが聞こえていた。

「シュライフ(研磨)!」

「シュライフ(研磨)!」

「シュライフ(研磨)!」

これでもか、とばかりに立て続けに三回スキルを当ててみる。だけど、やっぱり長剣は私の手の平の上で静かに横たわっているだけだった。というか、そもそもシュテフの言葉通り、鍛冶屋の工房内どころか街の中ですらない森の中ではこのスキルが発動するはずもなかった。そして、まるで絵に描いたようにハイディの顔が青ざめていくのが見えたんだ。

「…マジかよ? ヤバいじゃん。それって、めっちゃヤバいヤツじゃん!?」

力無く呟くと、彼女はその場で尻もちをついてしまった。私もヨーゼフも、もう一度大きな溜息をもらしていた。どうやらこのお馬鹿さん、本気でこの生産スキルを奥の手にするつもりだったみたい。そんな中、シュテフが『しかたないなぁ』という表情を作って、茫然と尻もちをついたままのハイディに手を差し伸べた。

「大丈夫だよハイディ。そんな絶望的な事態にはさせないから」

そして、グっと腕に力を込めて彼女を引っ張り上げると、そのまま踵を返し、再び無言で山道を登り始めたんだ。

「…シュテフ?」

思わず、そんな言葉が口からこぼれた。だって、違和感というか疑問が浮かんでしまったんだ。正直、女将さんには生きて帰ると約束したし、そうするために私に何が出来るか? その答えを模索しながらここまで歩いて来た。でも、どう足掻いても、何通りもの未来を頭の中でシミレートしてみても、その答えは見つからないままで、まるで出口の無い真っ暗なトンネルの中にいるような心境だったんだ。なのに、彼は『そうはさせない』と、言い切った。いつもとは違う、一段と重々しく無口なシュテフの背中が見えた。振り返らずに先を進んでいた。私は勘違いしていたのかも知れない。怒ってるんじゃない、彼もまた、いや、リーダーである勇者の彼だからこそ、私達なんかよりも重々しくこの状況を受け止めて、何とか打破しようともがいているのかも知れない。

『君はいったい何を考えているんだい、シュテフ?』

やっぱり声はかけることが出来なかった。出かけた言葉を飲み込んで、もう一度大きく息を吸い込み天を仰ぐ。森の空気は驚く程に濃く、そして甘かった。木々の葉を揺らす梢には私達を見降ろす栗鼠の親子の姿があった。耳を澄ますと近くを流れるせせらぎの音や、山鳥の羽音が聞こえる。もう随分と長い間忘れていたような気がする。世界はこんなにも色鮮やかで美しいという事を。たとえ、いま歩いているこの道が死地へと繋がっているとしても。私はもう一度、腰の包丁を手で撫でるとゴクリと息を飲み込んで再び地面を踏みしめた。




シャッフルワールド物語

【マーシャの地図】

第十話『決断』



                (二)

―午前十一時。

街を出て二時間が過ぎていた。木々の間を吹き抜ける爽やかだった朝の風はもうなく、季節外れの熱気が私達の額に大粒の汗を浮かびあがらせる。そして、その頃になってようやく、私達は街を見下ろす一つ目の山の頂上に立っていたんだ。振り向くと、もうすっかり小さくなったゲイローの街が眼下にあった。

「グローセラントカーテ!」

額の汗を拭って新しい地図を広げると、穴が開くほどに睨みつける。そして、顔を上げて山頂から見える遠くの山々を眺めると、指先でこれから進むべき道筋を景色の上に描いてみた。

「…だめだ、ぜんぜん時間が足りない」

大きな溜息と同時に、そんな言葉と頬を伝う汗の滴が零れて落ちた。

―私が提案した隣駅までのルート。

それは、砂漠地帯を行く表側の最短ルートではなく、背後から回り込む山岳コースだった。

 世界大シャッフルの影響で、まるで雑な子供の悪戯(コラージュ)のように切って貼り合わされた二つの異なる世界、大砂漠地帯と深い万年氷河を持つ緑豊かな高山地帯。その相容れない風景を強引に繋ぎ合わせるジッパーのように境界線上を走る線路。その先に、私達が目指す隣駅、湯元源泉駅はあった。直線距離にしてしまえばゲイロー駅からはほんの数キロしかない道のりだけれども、街長、組合長コンビが言った通り、上級の魔物達が闊歩する見晴らしの良い砂漠側を選択するのはまさに自殺行為でしかなかった。それに、晴れている日ならゲイローの街からもでも隣駅や、その裏の切り立った崖は良く見える。と、言う事は逆もまた然りで、駅を占拠している魔物達からも近づいて来る私達は丸見えになるに違いない。そんなの、ただでさえ絶望的なレベル差があるクエストだというのに、万全の態勢で魔物に待ち受けられてしまっては、よしんば奇跡的に砂漠を走破出来たとしても駅に到着した時点で全てが詰んでしまう。だから私はこの裏側を選んだ。

―そう、まさに裏側。

それは、山岳地帯を大きく迂回するルート。獣道を使って山を二つ越え、目指すは三つ目の山の頂。そこは湯元源泉駅を見降ろす切り立った崖の上。そう、大きく弧を描くように深い森に紛れて背後から近づく。それが、私の提案したルートだった。でもまあ、深い木々に隠れながら進むのは、確かに確実性の面では聞こえは良いけれど、その代償として私達が支払うのが途方もない時間と体力だった。

『勇者様を導くのは私以外にはありえない!』

『仲居ですから裏山は良く知っています!』

数時間前、確か、そんな事を皆の前で豪語したような気がする。でも、ぶっちゃけてしまうと、見覚えがあって足取りが軽かったのはお宿を出てからの最初の数分くらいなもので、そこから先はまるで間違い探しの絵のような、右を見ても左を見ても同じにしか見えない深い森の景色ばかりが目の前に広がった。だからと言って、私の役目は街の存亡をかけた道案内。しかも、信用しきってついて来てくれるシュテフ達の手前『自分なりに頑張ったけどダメでした!』と、頭を掻くわけにもいかず、焦りに急き立てられながらも

『何とかしてショートカット出来るルートを…』

『夕暮れまでに到着出来る方法を…』

と、何度も何度も心の中で呟いては地図を睨みつける。そんな事を繰り返しては、何とかここまで辿りついた。そして、額に浮かぶ嫌な汗を拭って藤色の着物の懐から取り出した海中時計を見て眩暈を覚えたんだ。だって、お宿を出てからすでに二時間が過ぎようとしているのに私達はまだ一つ目の山の頂上に立っているんだから。本来なら日の出と共に出発するはずだったこの行軍。なのに、予期せぬ結界破り、ミノタウロスのおかげで随分と出遅れてしまったのが痛かった。まあ、それは不測の事態で仕方なかったし、結果的に言えば、シュテフが一閃を手に入れるためにも、やさぐれてた私が目を覚まし、再びこうやって冒険の旅に出るためにも必要不可欠なアクシデントだったとは思うけれど、現実問題、遠くに霞んで見える目指す三つ目の山の頂はまだまだ先で、私達は二時間をかけても全行程の五分の一程しか進めていなかった。秋の陽は日に日に短くなる。おそらく夕方も六時になれば、この森は深い闇に包まれてしまうに違いない。そう、このまま行くと、目的地である隣駅への到着は完全に日没を跨いでしまう。正直、それだけはどうにも避けたかった。『闇に紛れて敵に近づく』というのは、とても聞こえはいいけれど、実際のところ、右も左も分からない闇の森を進むだけでも危険極まりないというのに、ましてやそんな状況で敵とエンカウントするかもしれないと想像すると身の毛がよだつ思いがした。

――魔物は街には入れない。

それは、私の村を襲った狼男や、今朝の牛頭のようにごくごく稀に生まれる例外(バグ)を除けば神様が定めた絶対のルール。という事は、街ではないこの裏山には確実に魔物が潜んでいるはずなんだ。そう思うと、皮肉な事に表側ルートは分かりやすい。だって『城壁よりも外側が街の外』なのだから。でも、この裏山側は違った。明確な境界線が存在しなかった。所々に現れる炭焼き小屋や、高原トウモロコシの畑。どこまでが『街』に分類され、どこからが魔物が住む『フィールド』なのか? 私の地図ではそれを読み取る事が出来なくて、無表情で恐怖心を隠しながら石橋を叩くようにして前進するしか無かった。そう、これが五分の一程度の道のりに、ここまで時間がかかってしまった理由だった。

『すでに魔物のテリトリーに足を踏み入れてしまったのではないか?』

『もし、上級の魔物とエンカウントしてしまったら、どうしたらいい??』

そう思う度に私の足は恐怖で重くなってしまった。

「…次は下りよね」

「…やだこれ、向こうの山から丸見えじゃない」

「…身を隠しながらも最短距離で下れるコースは???」

一人、そんな事を口ずさみながら、しきりに親指の爪を噛む。するとそんな時、不意に私の肩が叩かれた。そして、あまりに集中しすぎていたせいか、思わず驚いて素っ頓狂な悲鳴と共にその場で飛び上がってしまったんだ。慌てて振り向くと、肩に置かれていたのは心配そうに私の顔を覗き込むヨーゼフお爺ちゃんの皺くちゃの手だった。

「どうしたんじゃ、お譲ちゃん。先ほどから体中が凍ってしまったかのようにカチコチじゃぞ。ほれ、ここも」

そう言うとお爺ちゃんは、自分の眉間を指さすとグっと力を入れて深い皺をさらに深くして見せた。

「そうだぜ仲居。そんなトコに皺よせてっと、ますます老けこむぜ!」

ヨーゼフの肩越しに私を覗き込むハイディの言葉にムっとする。そして、

「こっちは道案内で神経すり減らしてるの! 魔物の警戒だってしなくちゃいけないし、そんなピクニック気分にはなれないんです!!」

と、舌を出すと、お爺ちゃんもハイディも物凄く驚いた表情を作った。

「何を言うておるお前さん? ここらの森には『ノンアクティブ』の魔物しか住んでおらんと思うぞ?」

その途端、私は再び素っ頓狂な声を上げてしまった。

「…ノン…アクティブ?」

「なんだ仲居? あんた、ノンアクティブも知らないのか!?」

ついさっきまで私のシュライフ(研磨)頼りの作戦が水泡に消えて豪快に両肩を落として意気消沈していたくせに、他人(ヒト)のアラを見つけた途端に息を吹き返してドヤ顔を見せる赤髪にムっとして、私は思わず

「ノンアクティブくらい知ってるわよ! 私だって元冒険者なんだからね!」

と、声を荒げた。

 そう、私はその言葉を良く知っていた。街や村以外の魔物が闊歩する場所、フィールドやダンジョン。そこには二種類の魔物が生息する。自ら攻撃を仕掛けてくる気性の荒い『アクティブ』と、こちらから仕掛けない限りは攻撃してこない穏やかで神格の高い『ノンアクティブ』と呼ばれる魔物達がいることを。

「ちょっと地図を見せてみなさい」

お爺ちゃんはそう言うと、人差し指で地図の上にぐるりと輪を描いた。

「昔から、この山岳地帯は街道部分を除けばアクティブの魔物はおらんで有名で、しかも経験値を多く獲得出来る『神獣系』ばかりが住んでおったから、ワシらのような古い世代の冒険者にとってゲイローという街は温泉ではなく、レベル上げのための山籠りの拠点として名をはせておったのじゃよ。そして今回、ワシらがこの街に来たのもそれが理由じゃ。本当はワシは嫌じゃったんじゃが、なんせウチの馬鹿ども、レベル上げなどそっちのけで初級エリアを駆け抜けおったからのう。そしておそらくじゃが、今回の世界大シャッフルでもそれは変っておらん」

「…変わってるようで、変ってないってこと??」

自分で呟いた言葉の意味が分からなくて、もう一度ヨーゼフの言葉を頭の中で反芻してみる。そう言えば聞いたことがある。最初に頭に浮かんだのは、以前女将さんや仲居頭のウェムラーさんが話してくれた『その昔、この街には多くの冒険者が訪れていた』という話だった。確か、大きな落盤事故だか土砂崩れで山への街道が閉ざされて以降『都外れ』になったという話だった。それは、お爺ちゃんの話と完全に一致していた。だとすると、ノンアクティブしか住んでいないという話も信用できるかも…と、思った次の瞬間、私の背筋が凍りついた。今の今までお宿から湯元源泉駅へと向かうルート上ばかりを穴が開くくらいに睨みつけていたから気付かなかったけれど、大きく広げられた地図の端に聞き覚えのある地名を見つけたんだ。

『氷の園』

それは、一つ目と二つ目の山の間を走る街道の遥か先、今では土砂崩れで道すらなくなっってしまった山岳地帯の中腹にあった。脳裏にはあの夜の、まるで秋の夜空を舞い踊る蛍のような氷の結晶達や、切なく響く笛と鼓の音が響いていた。

『これは、祟りに違いない』

『氷の竜なんて縁起が悪い』

怯える青年団の面々の言葉を思い出していた。そして、あれが実話だったのだといまさらながらに理解したんだ。そして、ふと顔を上げると、私と同じように無言のまま地図上に描かれたその地名を見つめるお爺ちゃんの姿があった。そして、その悲しそうな表情には見覚えがあった。それはやはりあの夜、涙を流しながら光の粒子になって消えて行く剣士と竜を眺めていた時と同じ顔だったんだ。

「…ひょっとしてお爺ちゃん」

思わずそんな言葉がこぼれた。それは、何とも不思議な感覚、直感だった。夢見の塔。冒険で命を落としたという女将さんの旦那様。氷の園と竜。幾度も街を救ったという青年剣士、二文字(にもんじ)。落盤事故。その昔、この街で起きたと言われる数々の事件。そのバラバラだと思っていた出来事達が、深い霧のようにボヤケた視界の先で繋がっているよう思えたんだ。何の根拠もない、ただの直感ではあった。でも、気がついてしまったんだ。この目の前に立つ老僧侶も、女将さんもそれらの事件の当事者なのだと。気がつくと目じりに涙の粒が浮かんでいるのが分かった。冒険は、若者の特権だと思ってた。誰かを思い胸が苦しくなるのは若さの特権だと思ってた。お爺ちゃんやお婆ちゃんなんて、そんなのとは無縁だと思ってた。情熱を忘れた穏やかな存在だと思ってた。現役を引退した昔の人。のんびり余生を過ごしている世代なのだと心のどこかで見くびっていた。なめていた。

―でも違う。

―違ったんだ。

私はこの時、何故だかそう感じた。火打石を打つ女将さんの顔が浮かんでいた。目の前で感慨深く眉間に皺を寄せるヨーゼフの顔が見えた。そう、彼らは卒業なんてしていないんだ。何故だかそう思った。今もなお、私なんかより深く悲しく終わらない冒険の渦中にいるのではないか? そんな気がしてならなかったんだ。

『ひょっとしてお爺ちゃんって、女将さんの旦那さんとパーティを…』

それは、思わずそう言いそうになった時だった。突然ヨーゼフが頭上の梢を指さした。

「お譲ちゃん、あれを見てみい。あれが、世界第シャッフルで新しい配置になってもここら辺にはノンアクティブしかおらんと言い切れる根拠じゃ」

私は一瞬、踏み入った事を聞こうとしてしまった。と、反省して口ごもると、目じりに浮かびかけた涙を拭って顔をあげた。けれど、そこにあったのはただの青々と茂る枝と葉ばかりで、彼が何を言いたいのかすぐには理解ができなかった。

「ほれ、もっと目をこらしてみなされ。今のお譲ちゃんなら見えるじゃろうに」

そう言われて目を凝らすと、きっと、シュテフのパーティに入って身体的ステイタスが底上げされたからだろう、今の今まで見えなかった細かい部分にまで焦点が合って、茂る葉っぱの影で何やらゴソゴソと動く影が見えてきた。

「リスの…親子?」

「そうじゃ。じゃが、まだ満点はやれんのう。ほら、もっと良く見てみなされ。ここじゃ、ここ」

そう言うとお爺ちゃんは自分の背中を指さした。

「…え? リスの背中?」

そう呟いて再び頭上を見上げた時、私は自分の目を疑った。だって、今の今まで栗鼠だと思っていた愛くるしい小動物の親子がまるで天使のような白い羽を広げたのだから。次の瞬間、二つの羽音を立てると秋の空へと飛び立つ小さな影。そして、耳に残ったその音にも覚えがあった。この山に入って何度となく聞いていたはずの音だった。そう、私がいままで山鳥だ思っていたのは、この羽音だったんだ。

「あれもまたノンアクティブの神獣。そして、愛くるしくは見えるが上級じゃろうな。レベルは軽くワシらの倍以上じゃ」

その言葉に慌てて視界を戦闘モードに切り替えると、すでに青空に溶け込みそうなくらいに小さくなった背中には、見たことも無いようなレベルが表示されていた。

「この山に入ってすぐにあれを見つけて確信したわい」

「…確信?」

「うむ、神様の設定じゃ」

「…神様の…設定?」

「…そうじゃ」

そして、ヨーゼフは長い眉毛を指先でつまんで撫でた。

「ワシは前々回、六十四年前の世界も知っておるが、世界大シャッフルというのは何も地図上にある全ての物がグチャグチャに混ぜられてしまうワケでは無いようじゃ」

「…それって?」

「ようは、一定の法則があるんじゃ。現に、ゲイローの街と一緒に高原地帯や隣駅もそのままの配置で移動してきたじゃろう? これは、ゲイローが『山岳地帯の登山口』であり『隣駅から源泉を引いている』という神様が定めた『設定』が引き継がれた故の結果じゃな。つまりは、山岳地帯とゲイロー、そして隣駅がワンセットでこのエリアが形成されておるのじゃよ。そして…」

「…そして?」

「こうやって見る限り魔物の設定もまたしかりじゃ。変更されておるのはレベルや外見のみ。アクティブ、ノンアクティブといった魔物の分布の規則性は引き継がれておるのじゃろう。まあ、たったの三日で世界を描き変えるとは言うが、さすがの神様とて、そういうパターン化をしてズルをせんと間に合わんのじゃろうな」

そう言ってお爺ちゃんがニシシと笑うと、突然足腰に力が入らなくなって私はペタリと尻もちをついてしまった。

「…敵が攻撃してこないエリアなら、最初に教えてよぉ!」

天を仰いでそう言うと、ニシシと笑うハイディの顔が見えた。

「行こう、マーシャ姉!」

「ほら仲居、そんな所に座ってたら折角のオベベが汚れちまうだろ!」

落ち葉の上にへたり込み、項垂れる私の目の前に二つの掌があった。顔を上げると、それは手を差し伸べるシュテフとハイディの物だった。まるで、ついさっきのハイディを見ているような心境だった。二人の間からヨーゼフお爺ちゃんの笑顔も見えた。とても懐かしい感覚だった。私は今、再びパーティを組んでいる。改めてそう実感出来たんだ。上司や後輩ではない、三人の対等の仲間達。私がその手を掴むと、白銀と赤、二つ鎧を身にまとった二の腕にグイっと力が入って身体が起きあがる。二人の顔を交互に見てコクリと頷くと、私の胸の中に芽吹いた『皆で生きて帰りたい』という感情がまた一段と強く膨らみ始めているのが分かった。そして、このクエストがただ街を救うだけの物では無く、女将さんやヨーゼフ達の辛くて長い旅を終わらせるための物であるような、そんな気がしていたんだ。



              (三)

―午後一時。

私達の行軍には劇的な変化が現れていた。一つ目の山の頂上から二時間、正午が過ぎたこの頃には、二つ目の山の八合目まで辿り着き、目標である隣駅の裏の崖、三つ目の山の頂上までの総移動距離の半分以上を消化していたのだった。そう、私達の足取りは格段に軽く、そして早くなっていた。道案内する私からは迷いが消えていた。これは、『自ら襲ってくる魔物が生息していない』と、判明したのが大きかった。自分達を遥かに凌駕する攻撃力の敵。その索敵に神経を研ぎ澄まし続けなくてはいけない重圧から解放された途端、見落としていた地図上のコースや、実際の地形の変化なんかが急に見え始め、私達は一気に森を駆ける風になった。

それでも、一か所だけどうにも細心の注意を払わなくてはいけない個所があった。それはヨーゼフが指摘した通り、一つ目の山を完全に下り切り、二つ目の山へ登る境界。谷間を走る古い街道だった。私達が進む山岳ルートと十字に交差する今では使われなくなった雑草が茂る道は、本来、氷の園へと続く物だったのだろう。地図で確かめると、左へ進めばゲイロー門の近くに、右に曲がればその先に高山地帯があったけれど、その道は途中で地図からは消えて無くなっていた。

「中級の僕の魔法じゃあ気休め程度にしかならないけど…」

茂みに身を隠し街道を覗き込むシュテフは苦笑いしながらそう言うと、勇者の索敵魔法で放射線状にソナーを打った。そして、魔物の反応が無い事を確認すると、私達は一気に古い街道へ飛び出した。そして、そのままの勢いで突っ走り、草木が茂る二つ目の山の急な斜面を掛け上がると、少し開けた平坦な場所を見つけて踵を返し、誰が合図をするわけでもなく私とヨーゼフを後衛にして庇う陣形で戦闘態勢を取った。ゴクリ…と、一同の喉が鳴り、一拍、二拍と無音の時が流れる。そしてまたさらに一拍、二拍と時が流れ、追って来る気配も物音も無い事を確かめると、私達は一斉にグっと止めていた息を大きく吐いて、再び斜面を駆け上がり始めた。この行動の理由はシュテフが言った通りだった。レベル差から生じる索敵範囲の差。これは、どの冒険者も経験した事があるはずだった。要は、レベルが高い相手はより広い感知能力を持っているんだ。私達が感じられる範囲の外に敵が居たかも知れない。誰もがその事を理解してたんだ。急な斜面を全力疾走しながら懐の海中時計を手に取る。そして、このペースなら確実に明るいうちに目的地まで到着出来ると直感すると、少しだけ肩の荷が下りたような気がした。 


 それからまたしばらくして、最初に異変に気が付いたのは意外にも最後尾、しんがりを走っていたハイディだった。

「なあ仲居、何か音がしないか?」

それは、そんな言葉だった。

「なにいってるのよ、私には聞こえないよ? どうせ何かの空耳で…」

そう言いかけた時、私も聞いた。軽やかな小川のせせらぎの音や、風に木々が揺れる音に混じって遠くで激しい水音が聞こえるのを。

「グローセラントカーテ!」

手に握っていた地図とは別にもう一枚、縮尺を変えた詳細地図を目の前の空間に広げる。そして、その音の正体を確信して振りかえった途端、一陣の真っ赤な風が私の横を駆け抜けていった。

「ちょ、ちょ、ちょっと! 危ないから一人で先行かないでよ!」

物凄い勢いで走って行くハイディの背中に向かってそう叫ぶと同時に私達も後を追う。そして、視界の先の鬱蒼と茂った木々の風景が途切れたと思った次の瞬間、目の前に大きな水柱が上がった。

「ぷっはー! うめぇぇぇええええ! ここの水、メチャクチャ冷たくて旨めぇぞ、仲居!」

一足遅れでその場に到着した私達が見たのは、気持ち良さそうに滝つぼで泳ぐ赤い女戦士の姿だった。そう、私が地図上で発見したのは、二つ目の山の頂上付近にある大きな滝つぼだったんだ。

「ちょ、ちょっとあなた! そんなに大きな音を立てて、敵に見つかったらどうするのよ!」

呑気に泳ぐ姿に呆れて、思わずそんな言葉が口を突いて出る。でも、楽しそうに泳ぐハイディはどこ吹く風で笑うと

「気にしすぎだぞ仲居! この滝の爆音だ、それに、山が壁になって隣山の向こうにある駅からは絶対に見えやしねぇよ!」

そう言って、再びザブンと滝つぼに潜ると、今度は岩魚を咥えて水面から顔を出した。

「…まったく、いったいどんなじゃじゃ馬なのよ。滝の水なんて飲んでお腹壊しても知らないからね!」

大きな溜息をつく私の傍には、そんな様子を笑いながら眺めているシュテフとヨーゼフの姿があった。そして、呆れるどころかホッコリとしているその顔に違和感を覚えると、私は改めてこの三人がずっとずっと長い間、一緒に旅を続け、すでに彼女の奇行に免疫が出来ているのだと気がついて「野放しかよ…」と、一段と大きな溜息を漏らした。まったく、シュテフのパーティに入るまでは、大人っぽいお色気痴女だと思っていたけれど、こうやって行動を共にしてみると、なんと子供っぽい言動の多い事やら。そして、違和感もなくそれを受け入れている二人の姿を見ると改めて、本来ならば私の代わりにこの場にあるはずだったもう一つの笑顔の事を思い出していた。


 背負っていたリュック(背)ザック(袋)を足元の岩の上に下ろすと、私はその中から幾つかの包みを取り出してシュテフとヨーゼフに手渡した。それは出発の時、板長の松さんからもらったお昼ごはん、竹の皮に包まれた人数分のおにぎりだった。この滝つぼでの休憩はシュテフの提案だった。異論を唱える者は誰もいなかった。そう、もう少しで二つ目の山の頂上に辿り着く。そして、そこから先の道程、下り道は、三つ目の山から丸見えになってしまう。皆がそれを知っていた。そう、この滝つぼが安心して取れる最後の休憩場所だと私達は考えたんだ。…まあ、若干名、そんなのお構い無しで常時リラックスしてるお馬鹿さんもいるのだけれども。

「ほら! 早く来ないとあなたの分も食べちゃうからね!」

相変わらず楽しそうに泳いでいるハイディに声をかける。そして、

「マジかよ! それは勘弁しておくれよ!!」

と、慌ててこっちに向かってくる姿を見ると、改めて色んな事を思うんだ。

『仲居、あんた気が強いクセにいっつも泣いてんだな』

『良く見ろ! 目をそらすな! 大事な男の大事な場面だ!』

頭の中に、そんな言葉が蘇っていた。まるで猫の瞳のようにコロコロと変わる彼女の表情。大人っぽく叱咤激励する真面目な顔もあれば、まるで天真爛漫な子どものように笑ったり泣いたりする。そして、気を抜くと常にシュテフにすり寄ってくかと思うと、いざという時はその場所を躊躇いもなく私に譲る。本当に掴めない。でも…

『きっと、彼女がいたからだ…』

そんな言葉が頭に浮かんでいた。

何気ないヨーゼフの『レベル上げもそっちのけで初級エリアを駆け抜けおった』という一言。それは、ふとすると意味も分からず聞き逃してしまいそうな言葉かも知れない。でも、私はその一言だけで理解した。それが、どれだけ辛く、血と汗と涙に濡れた旅路だったのかを。『駆け抜ける?』このデコボコカルテットが、レベル上げもそっちのけで六年かかると言われてる初級エリアを? それはそんな簡単な物じゃない。私には出来なかった。どんなに頑張っても、どんなに唇を噛みしめても半分までも辿り付けなかった。挫折した。それを、駆け抜けてしまったのだ。優しく、見守るように、泳いでくるハイディを見つめる二人の目。彼らがここまで辿りつけた原動力の一つは彼女の存在なのだろう。と、私は素直にそう思った。ハイディ ジンゲルマン。名字が『歌う人』とは良く言ったものだ。そう、良くも悪くも彼女には『華』がある。彼女がこのパーティのムードメーカーなんだ。どんな辛い局面だって『大丈夫さ!』『何んとなるさ!』と笑ってる。それが、幾度となく皆の折れそうになる心を救ったのだろう。二人の優しい目はそんな旅路を物語っていた。瞳を閉じて昔を思う。

『大丈夫だよ、シュテフ!』

『何とかなるよ、シュテフ!』

あの時の私に、その一言が言えただろうか? いいや、どんなに頑張っても言えなかったからこうなっちゃったんだ。そう思った途端、不覚にも彼女に対して尊敬の念のような物が芽生えてしまった事に気がついて慌てて咳払いすると、私は足元まで辿りついたムードメーカーに向かって手を伸ばした。

「何やってるのよ、鎧着たまま泳いで溺れても知らないんだからね!」

すると、すぐ横からクスクスという笑い声が聞こえた。

「うちの孫にはおっきな浮き袋が二つもついておるから大丈夫じゃよ」

それは、両手で胸の前に二つの大きな弧を描くジェスチャーをするヨーゼフだった。

「ば、馬鹿言ってんじゃねえぞクソジジイ! この鎧には炎の魔女って呼ばれた婆ちゃんの遺髪が付与されてるからメチャクチャ丈夫で軽いんだ!」

「あら? もしかして、あなたのお婆様の名前ってクララさん?」

きっと、私も彼女の奇行に緊張がほぐれてしまったのだろう。手を伸ばしながらそんな冗談がでた。すると、驚いた事にハイディが物凄い顔でこっちを見ているんだ。

「な、なんで知ってんだ? やっぱりそうか! 婆ちゃん超有名だったんだな!!」

感動で目じりに涙を浮かべながら私が伸ばしている手を掴もうとするハイディ。その姿から凄く感動してるのが良く分かったから『冗談だったのよ』なんて言えなくなったじゃない。だってほら、ハイディ、ヨーゼフ、ペーターときたら、ロッテンマイヤーは名字だし、後はクララくらいしか女性の名前が思い浮かばなかっただけなのよ。うん、これは内緒にしてた方がよさそうだ。そう思った次の瞬間、緩みかけていた私の気持ちに電気が走った。

―震えていた。

私の手を握ろうとしたハイディの手が震えいたんだ。でもそれは、冷たい水で身体が冷えたからじゃない事はすぐに分かった。だって、微かに触れた指先から伝わる彼女の体温は、恐らく炎の魔女の加護が付与された鎧のせいか、私よりもずっと、ずっと温かったんだ。なのに、彼女は震えていた。上手に私の手が取れないくらいに震えていた。そして、ようやくこの段になって私も理解したんだ。どうしてミノタウロスと対峙してからこっち、命がけのクエストに向かうというのに彼女のテンションが、それとは似つかわしくないくらい、まるで遠足に赴く子供のように高かったのかを。

そう、彼女もまた怖かったんだ。

怖かったからこそ、強がって不自然なくらいに浮かれて見せていたんだ。そうしないと、正気を保てなかったんだ。

「ほら、冷たい水で泳ぎすぎよ」

「…す、すまねぇ仲居」

私は気付かないフリをしてもう片方の手で彼女の手首を握ると、差し伸べた手へと導いた。そして、そのまま照れくさそうにする女剣士を引っ張り上げた。何だか、ようやく彼女という人間を理解出来たような気がした。それと同時に、やっぱり言わなくちゃいけない気がして、今さらだけどハイディにだけ聞こえる小さな声で告げたんだ。

「ありがとう」

って。そして、なんでお礼を言われたのか理解できなくて切れ長の大きな目をパチクリさせている顔に向かって、もう一つ言っておきたい事がある事に気がついて

「最後の一枠が私でごめんね。本当ならこんな大変なクエスト、本来のメンバーで…弟さんと一緒に向かいたかったでしょうに」

と、付け加えた。すると、小さな水しぶきを上げて滝つぼから半分身体を出していた彼女は目を閉じて、短く「ふっ」っと笑った。

「いいんだよ、仲居。あいつはまだ若い。未来も婆ちゃんから受け継いだ魔法の才能もある。こんな酷なクエスト、あたしらだけで充分さ」

そう言った笑顔が少し寂しそうだったから、私はあえて頷かなかった。頷かない代わりに、笑い飛ばしてあげようと思ったんだ。あの時、そう出来なかったから。そう、彼女のように。少しでも胸の中の不安が軽くなるように、と。

「何言ってんのよ、まるでお先の短いお年寄りみたいな事言って。見た感じ、私と同じくらいか、せいぜいちょっと年下でしょ? まだまだ先は長いんだから」

そして、満面の笑みを作ったけれど、意外にも彼女の眉間には皺が寄っていた。さらに、握る手は今まで以上にプルプルと震えてた。

「…あんた、結構失礼な女だな! 仲居、あたしゃまだ十五だよ!」

次の瞬間、再び滝つぼに大きな水柱が上がった。いや、何てことないのよ、驚いて手を離しちゃったんだ。…恐るべしニュージェネレーション。いったい何食べたら十五歳でそんな犯罪染みた身体になるっていうのよ?? 牛乳か? やっぱり牛乳なのか? アルムの森でとれた栄養満点の新鮮な牛乳のせいなのか!?



                 (四)

―午後四時。

私達の旅は一応の終着点へと到着していた。背中のリュックザックを足元に置いて振りかえると、陽に照らされ少しだけ赤みを増した連なる山々が見えた。今まで歩いて来た道のりだった。急に軽くなった背中が少し汗ばんで、風に吹かれてひんやりとする感覚がなんとも懐かしかった。そう、私達はついに目的地である隣駅を見降ろす崖の裏側へと到着していた。長い道のりを制覇した達成感があった。疲労感もあった。だけど、それ以上にこれから始まるクエストへの重圧があった。『どうやって勝つ?』『どうやって生き残る?』結局、ここまで来ても良い案は浮かばなかった。何通りも考えてはみたけれど、やっぱり魔物と遭遇した瞬間に八つ裂きにされる姿しか思いつかなかった。誰もが無口だった。意外にも、ハイディさえもが重苦しい顔をしていた。

 私達が辿りついたこの場所は、山の頂、崖の頂上から数百メートルばかり下った場所にある猫の額程の平地だった。都合良く、頂き側に小さな崖がり、茂った木々や、平地の中心にある石柱のような巨石の存在も相まって山頂からは完全な死角になっていた。

「どうじゃ、今のうちに一本やっておかぬか?」

膝に手を付き背を丸め、肩で息を整えていると、突然視界に何かが飛び込んできた。顔を上げてよく見ると目の前には茶色いガラスの小瓶があった。

「あは、あははは。ユンカー(万能回復薬)ですね…。実は私も持ってきちゃいました。まあ、言っても仲居の財力ですからね、ドラッグストアで特売の、三本で998ゴールドのヤツなんですが…」

私はそう言うと、着物の袖の中から金色のパックに入った3本セットを取り出して、ヨーゼフに見せると「でも、998ゴールドってやり方がズルイですよね。だっていかにも『ウチはギリギリ3桁で止めましたよ』『安いですよ!』って感じがするのに、支払いの段になると消費税が乗って、すんごく中途半端な1097ゴールドになるんですよ?」と、本当は息も切れ切れで、喋るのも辛かったけれど強がって笑って見せた。すると、お爺ちゃんは可愛そうな子を見るような顔で苦笑いをすると「そうじゃな、いっそキリ良く税別で1000ゴールドの方が、税金乗っても100ゴールド玉一つ出す手間だけじゃし、お釣りの1ゴールド玉で財布がパンパンにならんで済むのにのう」と言って、ますます困った顔になった。…一応、ハイディを見習って冗談を混ぜてみたつもりなんだけど、どうやらこれも完全に空振って、アルミニウムで出来たたった数ゴールドをケチって目くじらを立ててるアラサー女子だと思われちゃったみたいだ。

 ヨーゼフと並んで立ち、三本パックから一つを取り出してカリリと勢いよく封を開けると、腰に手を当てた姿勢で二人揃って甘にがい液体を喉の奥に流し込んだ。すると、この道中で使い切った体力と、ルート確認で何度も地図を出して底を尽きかけていた魔力がみるみるみなぎるばかりか、活性化された生命力で小さな擦り傷や切り傷が治癒していくのが分かった。うん、特売の一番安いのでもこの威力。さすが万能回復薬ユンカーの名前は伊達じゃない。ただまあ、難点を言うとすれば、毎日飲み続けると上のグレードしか効かなくなるのよね、これ。

『よし、ここを拠点にしよう』

突然頭の中に響いたシュテフの念話の声に私達は一斉に頷くと、平地の中心にある巨石の影に片膝をつける形で円陣を組んだ。私達の中心には、大地に着けたシュテフの右手があった。そして、彼の呪文の詠唱が始まった。

「ツェルト(宿泊拠点)!」

その言葉に合わせて、大地に着けた掌から波紋のように淡い水色の光が辺りに広がった。出来あがったのは、平野ならば荷馬車一台をすっぽりと包みこむような直径15メートルほどの光の輪。かつて私が冒険者として旅を続けた時、幾度となく目の当たりにした結界の光だった。あの日、先生が使っていた勇者呪文をシュテフが使っている。その光景はその身にまとう白銀の鎧よりも、腰に差した勇者の剣よりも、本当に彼がこの高みまで登ってきたのだと実感させて、思わず目頭が熱くなった。

『よし、ここから先は念話で話すけどいいね?』

頭に響くシュテフの言葉に、岩陰で円陣を組んだ私達は頷いた。

『マーシャ姉、まずはこの拠点と隣駅の正確な位置関係を教えて欲しい』

『うん、まずは私から見て十二時の方向に斜面を200メートル。そこがこの山の頂上。目印になるのはひと際大きな一本杉。そして、そこから真下に崖を100メートル程下った先が湯元源泉駅』

その言葉に合わせるように、私は前方を差した指先をググっと左側に向けた。

『この方向が駅。地図を真上から見た直線距離ではおおよそ150メートル。この位置だと確実に崖が壁代わりの障害物になって敵の索敵にはひっかからない』

その言葉に、皆の喉が大きく鳴った。そう、すでに目と鼻の先、この崖を隔てたすぐ先に敵の本丸がある。皆が改めてその事実を把握したんだ。

『じゃあ、続いて今回のクエストと、僕達のミッションの再確認をしたい』

短い沈黙の後、頭に響いた言葉にさらに皆の喉が鳴った。いよいよだ。いよいよこのクエストが始まってしまうんだ。皆の顔から余裕の色が消えていた。そして次の瞬間、私達は耳を…念話の言葉を疑った。


『僕はこのクエスト、放棄しようと思うんだ』


それは、そんな言葉だった。目の前には、大きく目を見開き驚いた顔をするハイディとヨーゼフの顔があった。二人とも正に『寝耳に水』といった面持ちで、シュテフと私の顔を交互に見比べているけれど、ぶっちゃけこっちだって驚いているのだから、そんなに見つめられても困ってしまう。というか、きっと私も凄い顔してる。

…でも

胸の中で何かが晴れた、何かが繋がった、何かが腑に落ちた。そんな感情が芽生えていた。そう、道中、一つ目の山の山頂を目指していた時に彼は確かに言ったんだ。

『大丈夫だよハイディ。そんな絶望的な事態にはさせないから』

あの時の胸に小さな棘が引っかかったような感覚を思い出していた。ここまでの道中、彼はずっと無口だった。そして、恐らくずっとこの事を考えていたに違いないんだ。

『な、何言ってんだいシュテファン!?』

一拍、二拍置いて、ハイディの荒々しい声が頭の中でこだました。だけど、当のシュテフは、少し困ったような、でも、覚悟を決めているようなそんな表情を崩さなかった。そして、静かに、ゆっくりと語り始めた。

『皆、よく聞いて欲しい。今回発生したクエスト、そのクリア条件は『魔物の討伐』そして『隣駅の開放』だよね。でも、それって本当にこの現状を打破するんだろうか? 本当に最善の方法なんだろうか? 僕達が犬死するだけなんじゃないか?』

『ッ! シュテファン! だから、ボスとは戦わないって言うのかよ!? ここまで来て、クエスト放棄するってどういう事だよ!? 街の皆を見殺しにするのかよ!? 皆の前で勇者として受領しちまったんだろ!? そんなの、無理でもやるしか無いに決まってるじゃないか! そうじゃないとアンタ、この先一生、皆から嘘つき呼ばわりされちゃうよ! 臆病者のレッテル貼られちゃうよ!? それって、勇者として終わっちゃうって事じゃんかよ!?』

そのままハイディは立ち上がろうとしたけれど、それを制したのはヨーゼフで、半べそをかきながら訴える彼女の背中に覆いかぶさるようにして押さえつけていた。

『…ごめん、ハイディ。でも、僕は考えたんだ、思ってしまったんだ。それは違うって』

『どうせアレなんだろ! あたしは聞いたぜ! あの噴水の時も、その前の時だって! 良かったな! ずっと探してた仲居と会えて! あの時、あんたの冒険は終わっちまったんだ! あれがゴールだったんだ! だから怖気づいたんだろ! そうなんだろ!! どこ行っちまったんだよ! あたしが憧れた、あの真っすぐでカッコイイシュテファンはさ!』

その語尾に乾いた音が重なった。それは彼女の頬を叩いたヨーゼフの掌の音だった。私は…胸が、胸が痛かった。私の存在が、シュテフを歪めてしまったのかも知れない。そう思って苦しかった。心のどこかで『そうよ、皆で逃げればいいじゃない』と思ってしまった自分がいて辛かった。でも、私達の目をまっすぐ見つめる彼の瞳には一点の曇りも、迷いも無かった。そして、言葉を続けたんだ。

『違うんだ。そうじゃないんだハイディ。もう一度、良く考えて欲しい。そもそも、どうして僕達はこのクエストを受けた?』

『そんなの決まってる! 街を救うためじゃないか!!』

『そうなんだ。一番大事な事は、僕達が魔物を倒す事でも、僕達の手で駅を開放する事でも無いんだ。『ゲイローの街を救う』それが一番重視されなければいけない事だったんだよ。でも、あり得ない強大なクエストを前に、僕達はそれしか見えなくなっていた。心が恐怖で囚われてしまってたんだ』

ゴクリと、皆の喉が鳴った。そしてその途端、ハイディの瞳から怒りの炎が消えていた。おそらく彼女も、自らの心が囚われていたのに気付いたのだろう。そして、それは私も同じだった。このクエストで命を落とす事ばかり考えていた。生きたいと願った後は迷路の中に居た。どんな光明も見いだせなかったんだ。

 次の瞬間、ふとシュテフの顔が緩んだ。

『だから僕は、このクエストをやらない事にした』

もう一度そう呟き、微笑む顔があった。

…意味が

…意味が分からなかった。

だって…だって…

『ちょっとシュテフ、じゃあなんでここまで来たのよ?? 私達が逃げ出したら、どうやって街を救うのよ!?』

思わず本音が突いて出る。そう、そうなんだ。逃げるなら逃げるでここまで手の込んだ事をする必要なんてない。変に気を持たせるほうが残酷なのだから。

…一〇年以上の月日が流れていた。

またその言葉が脳裏に浮かんでいた。少女だった私が二八歳になってしまったように、純粋な魔法使いでは無くなってしまったように、彼もまた私の知らないこの月日の中で、私の知らないシュテフになってしまったのだ。不意にそんな事が思い浮かんでしまった。だけど、目の前にあるその笑顔は『僕は変わってなんかいないよ』ってほほ笑んだ。

『…ここまで来たのには意味がある。凄く大きな意味だよマーシャ姉。まず、このままクエストを続けたらどうなるか。良く考えて欲しい』

『まあ、絶望的なレベル差じゃからのう、焼け石に雀の涙と言ったところかのう? ワシらごときはボスどころか兵隊クラスに出会うと同時にチュンと軽い音を立てて蒸発するじゃろうな。雀だけに』

その言葉に小さくクスリと笑ったシュテフは小さく咳払いすると、もう一度私達の目をまっすぐ見つめた。

『…だからこそだよ。それでどうやってゲイローの街を救うんだい? でも『このクエストを遂行しない』そう考えた時、僕は気付いたんだ。ゲイローの街を救うために、僕達にはもっと沢山出来る事があるって!』

『…出来る…事??』

『そう、皆、忘れてやいないかい? 実は僕達以上に隣駅を開放するのに打ってつけの戦力があるって事を?』

次の瞬間、脳裏に浮かんだのはハンス団長の顔だった。でも、浮かぶと同時にその想像を頭から追い出した。だって、今朝のミノタウロス戦で彼は重傷を負ってしまったのだから。そして、慌てて頭の中の引き出しを次から次へと開けて行くと、幾つ目かの引き出しで不意に人懐っこいゴツゴツとした岩のような笑顔が頭に浮かんだ。その途端、私は思わず念話ではなく、実際に声をあげてしまった。

「自警団!」

『そうだよ、マーシャ姉。十日から二週間程で再編された自警団が始まりの街から列車で到着する。上級の魔物に対抗できるのは、やっぱり上級の戦力なのさ! でも、これにも問題がある』

『…問題??』

『そう、世界大シャッフルで情報網が復活していない今、やって来る自警団に隣駅が占拠されている事を知らせる術がない。そしてもし、無防備な状態で戦闘が始まってしまったらどうだろう?』

『うむ、いかに上級の自警団と言えど対処しきれぬかも知れんのう。若い頃、そのようにして瓦解した冒険者達を見た事がある。うむ、まず間違いは無いじゃろうな』

『そこでだよ、今僕達がゲイローの街を救うために出来ること、自警団の勝率を少しでも上げるために出来る事。それは…』

『…情報収集!』

『…情報収集!』

『…自警団の戦闘にこっそり便乗するんだな!』

若干名を除いて、綺麗に声が重なった。

『ゲイローの街には女将さんがいる。組合長達だっている。確かに食糧は底を尽きかけているかも知れない。でも、何もお店やお宿を再開する訳じゃない。あの人達が先導して街の皆が協力すれば、一〇日や二週間は何とか食いつなげていけるはずさ。なら、玉砕以外に僕達が出来る事は沢山あるんだ! 僕達はここに拠点を置き、可能な限りの敵の情報を探る。そして一〇日後、拠点を移動する。自警団の面々が隣駅に到着する前に、この事実と情報を提供するんだ! これが、僕達が達成しなくちゃいけない本当のミッションだよ!』

力強いその言葉に、一斉に私達の瞳に生気の明かりが灯った。

そう

『クエストを放棄する』

これが、ずっと悩み続けて彼が導きたした答え、決断だった。

―生き残れる

―私達の命も、街も、両方を救える方法があった

それは、そんな光明だった。ずっと彷徨っていた答えの見えない暗闇に射した眩しい陽の光だった。

『じゃあ、早速作業に取り掛かるとすっかね!』

その言葉と同時にハイディは立ち上がると、ポキポキと背骨を鳴らしながら大きく伸びを始めた。

『ちょ、ちょ、ちょっとあなた、まだ打ち合わせの途中じゃない、何やってんのよ? セッカチにも程があるわよ!?』

思わず反射的に見上げてそう言うと、彼女はまるで子供のような笑顔を作った。

『何言ってんだよ仲居? 片足義足のヨボヨボ爺さんと、我らがリーダー様、それに温泉宿の若女将ってメンツだぞ? あたし以外の誰が斥候を出来るって言うんだい。相談したってどうせあたしになるんだから、それなら早い方が良いに決まってるさ! それに偵察は慣れた仕事さ。自慢じゃないが、あたしが一番身が軽いからね!』

そして、今度は伸ばした身体を左右に曲げて、さらにポキポキと骨を鳴らすと、足元にあった冒険者のバッグを肩からぶら下げて私達に向かって背を向けた。

『ハイディ、無理はしないように!』

シュテフの声を背中で聞いた彼女は、

『はいはい。崖の上からちょいっと覗く程度さ。まずは暗くなる前にヤッコさん達がどんな面してんのか確かめてやんよ!』

と言うと、軽快に後ろ手を振りながら青白く光るツェルトの結界を出て行った。その姿が、まるで「ちょっと風呂にでも行って来る」といった感じだったから、ますます緊張がほぐれて私はその場で尻もちをついてしまった。巨石にもたれかかり、梢の隙間から見える少しずつ茜色に染まり始めた空を見上げた。

―帰れる。

―帰れるんだ!

一度は本気で死ぬつもりだった。でも、思いがけない事に私の人生はまだまだ続きそうだ。そして、辛くて仕方無かったこれからも長く続くだろう人生が、今は楽しみで仕方が無いのだから私という女はつくづく現金なものだ。シュテフがいる。私がいる。生きている。それ以上は何もない未来だけど、それが楽しみで仕方がなかったんだ。木立を吹き抜ける風がうなじを撫でた。空気が変わっていた。それは涼しい夕暮れ時の風だった。

「一〇日間、長ければ二週間かぁ、これはこれで長い戦いになるぞ」

小さな声で呟いた。そして、その先を考えて思わずニヤけてしまった。だって、今まで恋愛とは無縁で、女らしさなんてこれっぽっちも磨いてこなかった私が、シュテフに体臭を嗅がれたくないからお風呂をどうしよう? だとか、やっぱりおトイレは男女別がいいわよね…だなんて、もっと重要な水や食料の心配があるでしょうに、そんな事ばかりを考えているのだから。だけど、そんな些細な希望や妄想も長くは続かなかった。そう、ほんの数分後に頭の中に響き渡ったハイディの悲鳴や、夕暮れ時の森の静寂を破った骨を折り、肉を潰す音に脆くもかき消されてしまったんだ。そして、それが私達を地獄へと誘う開戦の狼煙となった。

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