第9話【契り(やくそく)】

シャッフルワールド物語

【マーシャの地図】

第九話『契り(やくそく)』



                  (一)

 久しぶりのお宿の湯。これほどまでに清々しく、晴れやかな気持ちで湯船に浸かるのはいったいどれくらいぶりだろう。淡く硫黄の香りがする温泉を両手にすくい、首筋から胸元へと向かってゆっくりと落として行く度に、今までの人生で知らず知らずに溜まってしまった疲れや悲しみ、そして辛さまでもが優しく洗い落されていく感覚がして思わず瞳を閉じた。瞼の裏には、いろんな光景や思いが浮かんでは消えていった。

―ミノタウロス。

突然現れた結界破りの魔物。破壊された商店街と、あまりにも慌ただしかった一日の幕開け。そして、さらなる苦難への旅立ち。私が浸かるこのお湯は本来、死地へと赴くシュテファン達のためにお宿の皆が沸かし直してくれた貴重な物だった。なのに、一緒に浴室に入ったはずの肝心のハイディは、見事なくらいのカラスの行水で「熱い! これ熱いってば仲居!!」と、叫んだかと思うと、髪や体を洗うのも適当に、早々にお風呂から飛び出して行ってしまったのだから、何とも勿体ない気がしてならない。でもまあ、あまりに緊張感のないその姿は、確かに牛乳(うしちち)らしいと言えば彼女らしいのだけど。

―陸の孤島と化したゲイローの街。

遮断された物資と源泉。世界大シャッフル後に発生してしまった街の存亡をかけた湯元源泉駅の開放クエスト。街の外側にある広大な砂漠を闊歩する巨大な魔物達やサンドワーム。それに、今朝現れた上級魔物のミノタウロスを思うと、隣駅を占拠し、シュテフ達を待ちかまえる敵もやはりそのレベル帯の魔物で間違いないだろう。そう考えた瞬間に身震いがした。だって、本能が、冒険者だった頃の経験が警鐘を鳴らしているんだ。そう、クエストという事は、本丸には必ずボスがいて、軍隊化された手下達がいるはずなんだ。それも、フィールドを闊歩する一般階級の魔物とは格が違う、精鋭や英雄クラスといった魔物達だ。そう考えれば考える程、初級を卒業したばかりの彼らにはどうにも荷が勝ち過ぎているようにしか思えてならない。溺れて藁をも掴みたい街の皆の気持ちは痛いくらいに分かるけど、実際問題、こんなの大人と子供の戦いだ。シュテフ達には無理だ。駅の解放どこか、瞬く間に全滅していく姿がしか目に浮かばないんだ。

でも…

淡く立ち上る湯気の向こう、ガラス越しに見えるお宿の庭園、枯山水。木漏れ日と小鳥の囀り。目を閉じて大きく鼻から息を吸うと、身体の中から新しい自分になっていくような気分がした。そう、シュテフ達を、私達を取り巻く状況はそれほどまでに絶望的だというのにもかかわらず、胸が躍っている事に気が付いたんだ。こんなにも酷い状況なのに、嬉しくて楽しくて仕方無かったんだ。天井を見つめてもう一度瞳を閉じると、今朝の、天へと登って行く光の矢が目に浮かんだ。それはまさに、私を全ての苦悩から解き放つ希望の光だったんだ。



                (二)

 一閃が生んだ光。勇者の剣から放たれたその一撃は、物凄い勢いと速さで真っすぐに白みかけた秋の空へと高く高く登って行った。目を開けるのですら辛い程の土煙の中で私は見た、両断され、前後にズレながら崩れ落ちる巨大な魔物の姿を。両足が震えていた。握る拳は硬直し、自分の意思では開く事すら出来なかった。そして、恐る恐る振り返ると、そこにあったのは目を疑うような光景だった。生きていた。そう、朝風が土煙を洗い流すと、瓦礫の上で眩しい朝日を浴び、天高く勇者の剣を掲げるシュテフが立っていたんだ。まるで、時間が止まったかのように、誰もがその信じられない光景に目を奪われていた。でも、一番目を疑いたかったのは私よりも、その場に居合わせた街の誰よりも彼自身だったのかも知れない。だって、あんなにも強大な敵を斬り伏せた英雄だと言うのに、今だって、かっこよく胸を張り、剣を振り上げているというのに、間の抜けた顔をして、目が右へ左へと泳いでいるのだから。

 次の瞬間、瓦礫が散乱する商店街から一斉に歓喜の声が上がった。そして彼は、みるみるうちに街の人達にもみくちゃにされていった。…私は、私は苦笑いしながらその光景を見ていた。見ている事しか出来なかった。色んな事が理解出来なくて、色んな感情が胸にこみ上げて、どうしていいのか分からなかったんだ。

私は、彼の剣を折った。

私は、彼の勇者としての誇りを奪った。

私は、勇者としてのシュテフを殺した。

…はずなのに。

彼は、光輝く剣を握っていた。

彼は、勇者としての誇りを守り抜いた。

彼は今、皆から称賛を浴びる勇者となった。

シュテフを殺そうとした後ろめたさで足が動かなかった。嬉しかったのに、さっきから揉みくちゃにされている彼を見つめる目から涙が止まらないというのに、喜ぶ事すら許されないような気がして、ただただ見つめる事しか出来なかったんだ。その時だった、不意に人混みの中で大きく開かれた両腕が見えた。人と人の隙間から真っすぐ私を見つめる瞳が見えたんだ。

「マーシャ姉!!」

大空に私の名前が響き渡った。そう、揉みくちゃにされながらも、シュテフは私に向けて大きく手を広げ、名前を呼んでくれたんだ。気が付くと、硬直し震える足がぎこちなく動き出していた。そして、動き出した足は止まらなかった。もう一歩、さらに一歩と踏み出すと、緩やかに速度を上げていった。こんなにも後ろめたいというのに、こんなにも申し訳ない気持ちでいっぱいだというのに、喜ぶ事すら許されない身だというのに、身体は大きく地面を蹴っていて、走りだした心はもう止まらなかった。真っ直ぐ私を見つめ、両腕を広げたシュテフが笑っていた。

叫んだ。

彼の名前を何度も叫んだ。

蹴った。

大地を蹴った。

そして、次の一歩で後ろから来たハイディに並ばれた。

必至に粘ってはみたけれど、さすが現役冒険者。しかも物理攻撃担当。さらなる一歩で私はあっけなく抜き去られてしまったんだ。

「シュテファン! 凄いよシュテファン! 最高だよアンタ!!」

人混みに向かって、そんなのお構いなしとばかりに思いっきりダイブする赤いビキニアーマーの背中が見えた。そして、彼女は思いっきり街の皆ごとシュテフを抱きしめた。

…覚えていやがれ。

 さらに揉みくちゃになりながら苦笑いしているシュテフが見えた。その輪の外で完全に足を止め、やっぱり苦笑いしている私が居た。でもまあ、こういうのが私達っぽくっていいのかも知れない。全ての罪を棚に上げたまま、その胸に飛び込まなくて良かった。なんだかそう思ってしまったんだ。


 この日、いくつかの二つ名が生まれた。

『一閃の勇者』

これは、その名を持つ一人の英雄が生まれた瞬間だった。




          (三)

「シュライフ(研磨)の重ねがけじゃと!?」

瓦礫の街に、ヨーゼフお爺ちゃんの素っ頓狂な声が響いた。

「バカモン! そんなフザケタ理由があるものか! そんなんで一閃が手に入るなら、それこそ巷に神剣が溢れ返っておるわ!」

完全に陽が昇り新しい一日が始まると、一時の勝利の喜びを噛みしめた街の人々もそれぞれに瓦礫の撤去を始めたり、負傷した人達を担架に乗せて病院へと運び始めていた。そんな中、私達はヨーゼフお爺ちゃんからシュテフの勇者の剣に新しく宿った力について聞かされていたんだ。

『神様(三種)の 気まぐれ(神剣)』

その一の剣

『一閃』

そして、その正体は

『居合抜きの型から発せられる攻撃は、必ず会心の一撃となる』

という、耳を疑う世にも不思議な、まさに必殺の特殊スキルだった。でも、実際問題、私達はそれを目の当たりにした。そう、中級勇者になったばかりのはずのシュテフが、闘将ハンスと呼ばれるあの団長すらも凌駕した上級の魔物を一刀両断にしてしまったんだ。そして私は、思わず秋晴れの空を見上げて深いため息を漏らしてしまうんだ。だって、研ごうとすれば剣が折れ、本気で折ろうと思えば今度は神剣を生んでしまったのだから。うん…我ながら、この桁外れのポンコツ具合には眩暈を覚えてしまう。…だけど、今回はそのポンコツでシュテフは生き残る事が出来た。そう思うと、ますます複雑な心境になってしまった。

 まだ夜の名残のある涼風が私達の髪を揺らしていた。気が付くといつの間にか沈黙が流れ、それぞれがそれぞれに、風が吹いてくる方角の空を眺めていた。たぶん、皆が気付いていたんだ。彼が手に入れてしまった一筋の希望の光。それが、必ずしも幸せな未来をもたらす物では無いという事を。むしろ、引くに引けない死地へと向かう片道切符を手に入れてしまったのではないか、という事を。夜は完全に明けていた。決戦の幕が上がったのだと、誰もが口に出せないまま胸の中で噛みしめていた。…そんな中、突然足元から妙に陽気な鼻歌が聞こえてきた。あまりの緊張感の無さに不思議に思って顔を下ろすと、そこにいたのは割れた石畳の上に胡坐をかき、股で挟んだ冒険者のバッグの中をのぞき込んで楽しそうに物色しているハイディだった。

「ちょ、ちょっとアナタ、何やってるのよ、一人だけ妙にうきうきして??」

「いやあ、仲居! アンタ、ものすんごい鍛冶スキル持ってるじゃんかよ!」

そう言うとハイディは、ますます嬉しそうな顔をしてガサゴソとバッグを漁ると、その中から赤黒い、まるで溶岩のような色をした一本の剣を取り出した。

「ねえね、仲居~。ちょっとお願いがあんだけどさ、あたしのコイツにもズバズバっとシュライフ(研磨)をかけてくんないかい? 実は、初級エリアの最終ボス戦でドロップしたんだけどさ、レベル的にあともうちょいで装備出来なくて大事に取っといたんだよ!」

そう言うと彼女は、禍々しい雰囲気の真っ赤な剣を嬉しそうに私の前に差し出した。

「ハ、ハイディ、それって確か!?」

「そうさシュテファン! 炎の剣さッ!」

その名前を聞いて私は思わず驚いた。だってそれって、その名前を知らない人間は居ないってくらいに有名な、魔剣の代名詞のような剣じゃない。

「でも、その剣って確かめちゃくちゃ高価な…」

「ああ、そうさ! 超レア物、ドロップ率0.02%を引き当てちまったんだ! 我ながら自分の強運が怖いったらありゃしないよ!」

嬉しそうにハイディはそう言うと、次の瞬間、私の両手の上にズシリとした重さの熱の塊が乗せられた。思わず剣のステイタスウィンドを開いてみると、私はさらに驚いた。だって攻撃力だけを見ても初級エリアのドロップ品とは思えない程の数値だと言うのに、中級レベルに相当する炎の魔法の追加攻撃まで付与されているのだから。

「…ど、どうなっても知らないからね?」

魔剣を手に、ゴクリと息を飲み込んだ私はもう一度空を見上げた。うん、実は色々思うトコロもあったんだ。そうまずは、上級の魔物を切り裂いたシュテフが持つ一閃の勇者の剣。もし、このパーティにもう一本、一閃が付与された魔剣が加わったならば、今日のクエストだって各段に成功率が跳ね上がるように思えたんだ。それにもう一つ、あの一閃、本当は『神様のきまぐれ』なんかじゃなくて、純粋に私のスキルの効果なのかも知れない…って思っちゃったんだ。だって、今まで一度も『折ろう』と思ってシュライフを使った事なんて無かったんだよ? 研ごうとしたら、どんな凄い剣だって折って来たこの力なんだ、ひょっとしたら、折ろうとした今回は、単純にその逆の結果が現れてしまったのかも知れない。そう、思ってしまったんだ。そして私は、もう一度腕の中の魔剣をまじまじと見つめて大きく息を飲んだ。うん、やってみる価値はあるかも知れない。


この日、二つ目の二つ名が生まれた。

…ええ、まあ、ご察しの通り『魔剣殺しのマーシャ』なんですけどね。


 皆の笑い声や、ボロボロに砕けた剣を抱きしめて泣く声が響く朝焼けの街。だけど、そんな和やかな雰囲気は長くは続かなかった。そう、笑い声の中に突如緊張の空気が流れ始めたんだ。そして、その意味は街中の誰もがすぐに理解したんだろう、一斉に作業をしていた手を止めて、一段と小高く積み上げられた瓦礫の上に立つ影、その緊張の空気の中心にある人影に注目し始めたんだ。そう、賑やかな皆の前に姿を現したのは町長と組合長のコンビだった。そしてそれは、シュテフの勝利で幕を下ろしたミノタウロス戦が、ただの前哨戦でしかなかった事を皆に思い出させたんだ。

「さてさて、勇者様の実力が明らかになったのは良い事じゃが…」

「うむ、問題も生まれてしまった」

「今のミノタウロス戦でハンスのヤツが潰されてしもうた」

「うむ、これはいかんともしがたい事態になってしもうた…」

二人のその声に、いたる所から溜息や、舌を打つ音が聞こえた。そう、誰もが眼先の勝利に酔いしれていたけれど、これはあくまで本戦じゃない。降って湧いたイレギュラーの戦闘だったという事を思い出してしまったんだ。そして長い間、この街を守り続けた『闘将ハンス』という名前の大きさを誰もが噛みしめていた。そう、上級冒険者だった団長抜きでの隣駅解放クエスト。それが何を意味しているかは、この深い溜息の数々と、落胆の舌うちに現れていたんだ。

「さて、どうしたものかのう…」

「うむ、ハンスの役割は戦力としてだけでは無かったしのう…」

「そうじゃ、道案内も兼ねておった」

「そうよ。まさか、何の遮蔽物もない砂漠の上を線路伝いに隣駅まで…と、いう訳にもいくまい」

「それでは、あのひしめき合う巨大な魔物達から丸見えじゃ、とても隣駅まで辿り着けまい…」

「誰か、誰かおらんのか!?」

「上級とは言わん、誰かハンスの代わりになる者は街に残ってはおらぬのか!?」

まるで双子のように息の合った掛け合いに誰もが俯いた。そして、皆が決して町長と組合長と目が合わないように息を潜める中、高らかな声が瓦礫と化した商店街に響き渡った。

「私が行きます! 私が四人目として勇者様一行に同行します!」

それは、頭の上一杯に広がる青空のように一点の曇りも、迷いも無い清々しい声だった。一斉に皆の注目が集まった。希望に満ちた瞳があった。冗談はよせ、とばかりの鋭い視線も少なくはなかった。でも、一度挙げられた手は、決して下げられる事は無かった。そう、沈黙を切り裂いた声…


―それは私の声だった。


「し、しかしマーシャよ、お前さんが威勢が良いのは知っているが、さすがに上級の魔物討伐というのは荷が勝ち過ぎておる…」

「そうじゃ、さすがにお前さんを行かせるよりは、誰でも良いからとにかく若い男を選んだ方が幾分でもマシというものじゃ…」

いつの間にか、私の後ろにシュテフが立っていた。振り向かなくても分かる。どうせ、とても困ったような、悲しそうな顔をしているに決まってるんだ。それだけじゃない。街中の人達が『何いってるんだ、あの女は?』という顔してこっち見てるし、その気持ちも充分すぎるくらい分かった。でも、ダメなんだ。気が付いてしまったんだ。

大きく空を見上げる。

『ああ、これが私の運命なんだ』

『このために、動かないはずの夢見の塔は、私に昔の思い出を見せたんだ』

『そう、本来の自分に戻る時間がやって来たんだ』

全てに合点が行っていた。迷いも無かった。むしろ清々しいくらいだった。

『シュテフが死地へと赴くのなら、その傍らには私が居る』

それはあまりも当たり前すぎて、何の違和感もない答えだった。それだけじゃない。同時に、今まで私の中で複雑に絡まり合い、もつれて出口が見えない暗いトンネルのようだった状況や事柄が、一気に解決して眩しい光が見えたんだ。

―就きたかった職業に挫折し、諦めてしまった。

―生活をするために続けている夢も希望もない仕事と、それを繰り返すだけの毎日。

―三〇歳を目前に控えても尚、恋が出来ない自分と、その先にある孤独な将来への不安。

この道を進んでも先が無いのは分かっていた。でも、もう考えるのにも疲れ果て、立ち止まる事も、方向を変える事も出来ずただただ歩いていた。そんな、手詰まりだと諦めかけていた人生に、この瞬間、光がさしたんだ。不意に解決してしまったんだ。再び手に入れて気が付いた。今思えば、私は、もう何年も『目標』という物を持っていなかった。俯いてばかりいた。そして、再びそれを手に入れ、顔を上げてみて思う。目の前にたった一つ目標があるだけで、これほどまでに世界が輝いて見えるのだという事を。

「グローセラントカーテ!!」

ざわめきを隠せない街の人々を前に、私は大きな声で叫んだ。そして、何もない空間に浮び上がった大きな地図を手に取ると、そのまま、まるでローブのように身に纏ったんだ。

「かつて、エクストラアウスナーメ、地図の大魔女と呼ばれる一人の魔法使いが居ました。訳あって今まで隠していましたが、それこそが私の正体です。ご覧の通り、無詠唱にて魔法を自在に使いこなす大魔女です」

その瞬間、まわりからどよめきが起こった。もちろんハッタリだった。だって、私が使えるのはこの魔法だけだもの。それでも心は揺るがなかった。言葉を止めなかった。

「それに、それだけではありません。私は仲居でもあります。隣駅までの道のりであれば、魔物がひしめく表側の街道を行かずとも、裏山を越えて行く術を知っております。春にはお宿で出す山菜を、秋には木の子を取りに入るよく見知った山道です。ならば、一閃の勇者様を導く役目、この私以外の誰に出来ましょうか!?」

その声に合わせて地図のローブから出た右腕を大きく横殴りに広げると、瓦礫の商店街から歓声が上がった。

 大きく息を吸って胸を張り後ろを振りむくと、案の定、困った顔を通り越し、今にも泣き出しそうな顔をしたシュテフが立っていた。その口は何かを言いたげに開いたり、閉じたりを繰り返しているけれど、そこからは「マーシャ姉…」という音が何度もこぼれるだけで、その先は全く言葉になんてならなかった。

分かってる。

分かってるよ、シュテフ。

そりゃそうさ、私だって自分の大事な人には生きていて欲しい。

でも、決めたんだ。

自分の一番大事な誰かが死地へと赴くのであれば、自分も一緒にありたい、って。

そして私は、強く握った拳を彼の白銀の鎧の胸にコツンと当てると、顔を上げ、目じりに涙が浮かび始めた勇者様の青い瞳を真っすぐに見つめた。短く刈り揃えたプラチナブロンドの髪が秋の朝風になびいていた。

「シュテフ、私も今ここで誓う。

 私達はずっと一緒だ!

 もう離れない!

 いつまでも、どこまでも一緒だ!」

そう言って目いっぱいほほ笑んでやった。


この朝、私は冒険者に戻った。

そう、再び自分が主人公の物語を始めるために、動かなかった足を前へ進めたんだ。胸の中には眩しく光る希望があった。



                (四)

 不意に身体と意識がガクリと揺れたかと思うと、何かにぶつかって、私はギリギリのトコロで溺れるのを免れていた。鼻の奥いっぱいに硫黄の香が広がっていた。どうやら、湯船に浸かりながら、今朝の出来事を思い出してウトウトとしていたみたい。まあ、確かにここ数日は慌ただしかったから仕方ないと言えば仕方ない気もする。だって、世界大シャッフルからフェストと走りに走り回り、昨日に至っては寝てすらいなかったのだから。でも、それだけじゃ無かったような気がする。そう、気が抜けてしまったんだ。色んな悩みが一気に解決して気が緩んでしまったんだ。私は両手でお風呂のお湯を救うと、そのまま顔にかけて瞳を閉じた。

「…まったく、女子なんだから湯船のお湯で顔を洗わないでください、マーシャ先輩」

突然、隣からそんな声が聞こえた。驚き、慌てて横を見ると、そこにはいつの間にか私と並んで湯船に浸かっているマコちゃんの姿があった。そして、つい今しがた溺れなかったのも、実は彼女が隣にいてくれてたおかげなのだという事を理解した。うん、どおりでぶつかった割にはポニョンと柔らかい感触がしたと思ったんだ…

「…結婚、おめでとうね、マコちゃん」

いっときの沈黙の後、最初に口を開いたのは私だった。その言葉はあまりにも自然に、流れるように口からこぼれた。気が付けば確かに、ずっと言えないままだったような気がしたんだ。そして、これまた不思議なものだ。だって、ついさっきまで、自分の生き方に納得が行っていなかった時は、仕事を覚えるどころか次から次へと男を見つけて『あがり』を決めて行く後輩達なんて、憎くて憎くてたまらないだけの存在だったというのに、いざ自分の悩みが解決すると、こんなにも簡単に、素直に祝ってあげたくなる心境になってしまったのだから。確かに『三つ子の魂百まで』とは言うけれど、意外と人は簡単にその時の心の持ちようで変われてしまうのかも知れない。私はそんな事を考えていた。そして、もう一つ気が付いた事があった。それは、これまで、まるで念仏のように『私は間違っていない』『私は正しいんだ』って口ずさみながら歩いていたはずのこの道が、いざ吹っ切れてから振りかえってみると、実は随分と曲がっていた事だった。

「…ごめんねぇマコちゃん。私、教育係だって言うのに、あんまり褒めてあげれなかったよね」

濡れたタオルを頭に乗せ、顔を上げて湯気でけむる天井を見つめながらそう呟くと、隣からブンブンと首を振る音がした。

「…仲居頭から聞きました。マーシャ先輩は、見どころが無い新人だけは妙に褒めるんだって」

「あはははは、そうだっけ?」

思わず照れくさくなってついつい鼻の頭を掻く。

「…やっぱり、寿退社しちゃうんだよねぇ」

少しの間天井を見つめた後にこぼれた言葉。マコちゃんは俯くだけで、その問いには答えなかった。私もそこから先は言葉にならなくて、ただただ天井から落ちる滴を眺めてた。言いたい言葉、伝えたい事。色々あったような気がする。でも、肝心な時に限って言葉って出て来てくれなくてもどかしい。結局私達は、そのまましばらく並んで天井の雫を眺めてたんだ。

 出発の時間が迫り湯船から出ると、マコちゃんは私の髪を洗ってくれた。それは、まるで美容室にでも行ったかのように丁寧に、丁寧に洗ってくれたんだ。でも、そのうち彼女の中で何かが目覚めてしまったらしく、いいかげんお風呂から出て準備を始めなくちゃいけないというのにフルコースで全身を磨かれる羽目になってしまった。それどころか、そもそもが金髪だし、毛だって濃い方じゃないから目立たないし必要無いって言ったのに、腕やスネどころかチョロチョロ程度にしか生えてない腋の毛まで完璧に処理されてしまった。さすがに下の毛まで剃られそうになった時は暴れに暴れた。いやほんと、あれはまさに死守だったと思う。

お宿のお風呂に私達の声がこだましていた。

笑った。

『さよなら、マコちゃん』

最後まで言えなかった言葉の代わりに私は笑った。

…あと、多少怒った。

 

 ゴシゴシとバスタオルで髪を拭きながらお庭の中の渡り廊下を本館のロビーに向かって歩く。そして誰も居ない厨房を抜けていつもの控室へと入ると、私は自分のロッカーを開けて中に掛けてあったパーカーとジーンズを手に取った。まあ、これでも一応は、一度アパートメントに戻って、洗いたてのわりかし新しいのを持って来たつもりなのだけれども、正直いつもと変わり映えしがないどころか、今から街の期待を一身に背負って旅立つ魔法使いとしてはあまりにもパっとしない格好だと正直思ってしまった。でも、よくよく考えたら現役時代もこの姿で冒険を続けたワケだし、何だかんだで動きやすい一番しっくりくると言えばしっくりくる出で立ちだった。

 パーカーに袖を通し、うなじに手を回して髪を中からすくい出す。そして普段は着物の帯を見るための長い姿見に映る自分を眺めた。私には出発する前にどうしても会わなくてはいけない人が居た。その存在たるや、ひょっとしたら今から隣駅で出くわすであろう魔物のボスよりも強大かも知れない。そう、気を抜くと思わず尻ごみしそうだったから、私は鏡に映る自分に言い聞かせたんだ。

「マーシャ、これはケジメなんだ」

って。

奇しくも、私が故郷を失ったのも秋だった。そして、冒険者として挫折して、荷馬車を飛び出したあの夜もやっぱり秋だ。あれから何年も、十何年もあの尻切れトンボのような最後を後悔した。だから、今回はちゃんとやろう。悔いを残さないようにしよう、って思ったんだ。

「がんばれ、マーシャ」

私はもう一度、鏡の中の自分を見つめて呟いた。


 旅立つ前に私がどうしても会わなくてはいけない相手、女将さんの姿はすぐに見つかった。お宿の玄関から一番近い、昨晩、私が寝かされていた庭園を望む藤の間にその姿はあった。客室の畳の上にお庭を背にして座って私を待っていた。その、静かな水面(みなも)のようなたたずまいにたじろいだ私は、お部屋のドアノブを後ろ手に握りしめたままただ俯いてポリポリと頭を掻くばかりだった。おかしいなあ、本当は色々お礼とか言わなくちゃいけないはずなのに、それがケジメだというのに、何度も頭の中で反芻していた言葉がちっとも出て来ない。それどころか、本来なら女将さんに向かい合って座り、深々と頭の一つも下げなくちゃいけないはずなのに、足が震えて一歩も前に出てくれないんだ。

「…はは、ははははは」

これじゃダメだ。と、一念発起して何とか顔を上げたけれど、出てきたのは苦笑いだけだった。でも、そんな私を女将さんはとても愛おしそうな目で見つめていた。

「まあ、マーシャちゃん大変、髪がボサボサじゃないの!?」

突然、そんな声が聞こえた。私はてっきり、もっと重々しい事を言われるのかと思って、内心ひやひやしていたのだけれども、聞こえてきたのは意外にも、そんないつもの女将さんらしい言葉だった。

「あ、急いでたんで、とりあえずバスタオルで…」

「もう、マーシャちゃんはいつもそうなんだから! 髪は女の子の命なんですからね、ちょっとこっちにいらっしゃい」

女将さんはそう言って立ち上がると、バツが悪くて益々頭を掻いていた私の手を取って客室にあるお客様用のお化粧台の前まで引っ張るとそこに座らせた。そして、後ろに立ち、懐から柘植の櫛を取り出すと、静かに私の髪を梳き始めた。

「…マーシャちゃん」

「…は、はい」

しばらく無言の時間が流れた後、不意に女将さんが私の名前を呼んだ。

「…惚れた男と一緒に行けるというのは、とても幸せな事ね」

続くその言葉に思わず照れくさくなって、ついつい『いや、その、惚れたとかそういうんじゃなくて…』と言いそうになったのだけど、さらに続いた

「世の中には、見送る事しか出来ずに、帰らぬ人を何年も、何十年もただただ待っている馬鹿ない女もいるんですよ。だから、今までで一番綺麗なマーシャちゃんでついてお行きなさい」

という言葉にウェムラーさんから聞いた話を思い出した。そして、それが冒険者だった旦那様を亡くした女将さん自身の事だと分かって何も言えなくなってしまうと、私は小さく

「…はい」

と、頷いた。

 ゆるやかな、まるで春のせせらぎのような時間が流れていた。いつの間にか話題は変り、女将さんは優しい口調で、時々小さく笑っては私がこのお宿に来てからの思い出話しをしながら髪を結ってくれた。閉じた瞼の裏に、色んな光景が蘇っていた。

西方地域生まれの私には『純和風』という言葉の意味が全く理解出来なかったこと。

着物の帯が一人では結べなかったこと。

はんなりとお淑やかには出来ず、いつも走り回ってばかりいたこと。

不思議なものだ、旅館の仲居なんて望んだ職業じゃなかった。それどころか、いやいや続けていた仕事だったはずなのに、今振り返ると、その一つひつの光景が、どれもこれもキラキラと眩しく思えるのだから。気が付くと、閉じた瞳から零れた涙の滴が頬を伝う感触がした。そして、髪が結い上がると、女将さんは最後にご自分の簪(かんざし)を抜き取って私の髪に挿すと、とても穏やかなお顔で呟いた。


「マーシャちゃん、あなた死ぬ気なのでしょ?」


俯いたまま、数拍を置いて私の口から出てきた言葉は「…はい」という短い物だった。ごまかそうと思った。はぐらかそうとも思った。でも出来なかった。さすが女将さんだ、やっぱり本心を見抜かれていた。

―そう、私の悩み達を一気に解決した眩しい光。

久しぶりに見つけた目標。私がパーティの最後の一人として隣駅へと向かう理由。それは、彼らを導きたいからでも、ましてや魔物達をせん滅し、帰還する確率を少しでも上げるためでも無かった。

私は…

ただ死にたかったんだ。

『街を救うために、無謀なクエストに挑戦する』

やっと、死んでも許される免罪符を、目標を手に入れたんだ。

シュテフと一緒に、恋焦がれた冒険者として死ねるんだ。

これほどまでの明解が、結末が他にあるだろうか?

本当は、気付かれないまま出発したかった。

『また後でね!』

と、誰にも心配されず、気軽に旅立ちたかった。だから、マコちゃんにも『さよなら』を言わなかったんだ。

泣いた。

私は泣いた。

肩を震わせ、化粧台の前に座ったまま涙を落とした。

だから、女将さんには会いたくなかった。

絶対に私の本心を見透かすから。

絶対に、覚悟が決まったはずの私の後ろ髪を引くのだから。

もう嫌なんだ。このまま意味もなく、健康だからといって死ぬまで生き続けるのは地獄以外の何物でも無かったんだ。どんなに体が健康で、あと何十年か生きられたとしても、心はもう限界なんだ。生きるのが辛くて辛くてたまらないんだ。心と体が対になる存在ならばいいじゃない。時が来て体の限界が来て死ぬのは許されて、心の限界が来て死ぬのはダメなのは納得が行かないんだ。

「…マーシャちゃん」

背後から女将さんの声が聞こえた。

『振り向くな』

『振り向いちゃダメだ、マーシャ』

『どうせ引き留められるんだ』

『死ぬ気ならば行かせない。そう言われるだけだ』

硬く瞳を閉じ、肩を震わせながら私は何度も自分自身に言い聞かせた。

…でも、だめだった。

気が付くと、私は正座をしたまま、ズルリと座布団の上で身を捻り、女将さんに身体を向けていた。そして、恐る恐る瞳を開いた時、私達の間の畳の上に信じられない物が置かれている事に気が付いた。そして、その時になってやっと、女将さんのお召し物がいつもと違う事に気が付いたんだ。

「ごめんなさいね、マーシャちゃん。私にしてあげれるのはこれくらいしか無いの…」

そこに置かれてあったのは、丁寧に和紙に包まれた女将の証。藤色の着物だった。

「…だ、ダメだ女将さん!」

すぐにその意味を悟って私は首を振った。何度も振った。でも、女将さんは言葉を止めなかった。

「私には魔力はないから魔法なんて使えません。でも、代々受け継がれたこの着物なら、あなたの事を助けてくれるかも知れません」

「…ダメだ、私は死にゆく人間なんだ、いっときの感情でそんな事しちゃダメだ!」

だけど、静かに顔を上げた女将さんの瞳には一点の迷いや曇りはなく、ただ真っすぐに私を見つめていたんだ。

「いいえ、私は元よりこうするつもりでした。あの雪が降る夜、すぐに分かったわ。ああ、この子だ。この子と巡り合うために私は女将を続けたのだ。この子にバトンを渡すために辛くても、悲しくても生き続けたのだ…と。そして分かったのです。今がまさにその時だと。再び動き出した夢見の塔と、毎夜繰り返し見るようになったあの人の夢。街を襲う未曽有の驚異。この地に戻ったヨーゼフ様。これらが因果ならば私に課せられた役目は一つ、あなたという希望を消してしまわない事」

そう言うと、女将さんは静かに畳まれた着物の上に、束ねられた人差し指と中指をスっと置いた。

「十五代女将、清音 シュミット・クライメンダールがここに契りの扉を開く!」

その瞬間、着物を中心に私と女将さんを包み込むように淡い紫の魔法陣が部屋いっぱいに広がった。

「ここに女将の全権限、全能力を十六代女将、マリーシャルロット リヒターに譲渡する! 集え、宿を守りし歴代女将の魂達よ! 今より全力をもって次代女将を、未来を担う私達の娘を守りたまえ!」

その瞬間、女将さんの背後で弾けた紫の光の粒子達が私に向かって降りそそいだ。振った、私は泣きながら思い切り首を横に何度も何度も振った。だけど、女将さんは優しくほほ笑んだ。

「マーシャちゃん、あなたは女の私から見ても、とても純粋で真っすぐな人なの。だから人一倍傷付いて生きてきたの。辛かったでしょう、自分も、取り巻く環境も大嫌いになったのでしょう。でも、ごらんなさい。今、瞳を閉じれば皆の笑顔が見えるはず。このお宿の皆も、街の人達も誰もがあなたの事が大好きなの。皆がマーシャちゃんに幸せになってほしくてたまらないの。それが、泣きながらもあなたが必死に歩くのを止めなかった道の畔に咲いた笑顔という花達。苦しみながらも生きて来た証。

だから…

第十六代女将、マリーシャルロット。惚れた男と行くのならば勝ってらっしゃい。そう、誰でもない、あなたが勇者様を勝利に導くのです。そして、どうにも女将になるのが嫌ならば、生きてこれを返しにいらっしゃい。いい、マーシャちゃん。生きるの。あなたは生きて幸せにおなりなさい」

身体が紫色に輝いていた。気が付くと、私は頷いていた。何度も何度も頷いていた。まるで子供のように泣きじゃくりながら、女将さんにすがり付いて泣いていた。


死にたかった。

死んで楽になりたかった。

なれると思ってた。

だけど、私達は杯を交わした。

泣きながら契りの酒を飲み干した。


 その後、女将さんは私の為に丈をつめてくれた藤色の着物を着付けてくれた。確かにそれは白無垢では無かったけれど、客室の鏡に写るその姿は、まるで私をお嫁に出す母親のようだった。

女将さんは色んな話を聞かせてくれた。

歴代女将達の話。

女将の心得。

ご自分の失敗談。

そして、かつて今と同じようにこの街を幾度も脅威が襲った過去の出来事と、その度に現れ、街を救った若き英雄がいた事。その二文字(にもんじ)と呼ばれた剣士様に魅かれ、女将になる事を決意したくだりでは、ぺろりと舌を出してまるで少女のようにほほ笑んでいた。

死にたかった。

死んで楽になりたかった。

なれると思ってた。

でも、それ以上に思ってしまったんだ。

また見たいって。

またこの笑顔に触れたいって。



 この朝、お宿の前の広場には旅立つ私達を見送る街中から集まった人々と、四人の冒険者の姿があった。

一閃の勇者シュテファン。

風の精霊の加護を持つ老僧侶ヨーゼフ。

燃えるような赤髪の痴女…もとい女戦士ハイディ。

そして、えーっと、その…若女将マーシャ?

そう、今まさに無謀な戦いに挑まんとする勇敢なる者達の姿だった。不思議なものだ、かつて現役の冒険者だった頃は、これほどまでに声援と期待を受けて旅立った事など無かったというのに。振り向くと、幾つもの真っすぐな瞳があった。どれもこれもが、私達が生きて帰ってくると信じて疑わない目だった。

瞳を閉じて思い描く。

いつの間にか、そこには凄惨な未来は写っていなかった。

戻りたい。

また、ここに戻って来たい。

いつの間にか、強くそう願う自分がいた。

朝日は登る、明日も、明後日も。

これからも人生は続く、命がある限り。

こんな所で終わらせてなるものか。

そう思える自分になっていた。

そう、私達の冒険は今始まったばかりなのだから!



…いや、まだまだお話は続くんですけどね。

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