第5話【世界大シャッフル】

                (一)

――雨。

しとしとと降る静かな秋の雨。チェックイン前、私はフロントの裏にある事務所で、届いたばかりの郵便物を眺めていた。幾つもの事務的な封筒達に混じって何枚かの葉書があった。それはこの夏休みにご宿泊になられたお客様からのご礼状で、大半が女将さんに送られて来たものだったけど、よく見ると私に宛てられたものも混じっていた。その中の一枚、元気に笑う男の子が写ってる家族写真の葉書を手に取る。見覚えのある顔だった。

「ただのタンコブだったんだ…よかったね」

と、思わず顔がほころぶ。お風呂場ではしゃぎすぎて、タイルに足を滑らせて転んだお子さんだった。あの時も、大騒ぎになった。着物の背中が濡れるのも気にせず、目を回した坊やを背負って走り回った。そんな光景がまるで昨日の事のように思い出された。

「すっかり仲居が板についたんだなぁ」

しみじみと、十年という年月を噛みしめる。最初はただ、娼婦になるよりは、雪の中凍え死ぬよりは、という気持ちだけで女将さんについて来た。でも、意外にもこの仕事だけは長く続いている。憧れた職業じゃなかった。仕事自体にこだわりや思い入れがあるワケでもない。それどころか職業を聞かれると恥ずかしくて答えられない事だってある。同年代の女の子が「OLです」とか「医療関係です」と答えるのを羨ましく聞いているなんてザラな話だ。でも、何をやってもダメだった私は結局この仕事に行きついた。行きついて安定した。と、いう事は、ここが本来の私のいるべき高さで、身の丈に合っていたのだと思う。どんなに上に憧れて望んでも、身の丈に合わない仕事はいつか身を滅ぼす。あの旅の日々を通じてそう知ったんだ。やっと最近だ、やっと最近になって、サトーさんを見て自分の十年後はこういうのでいいんじゃないか? ウェムラーさんを見て、自分の四十年後はこんな感じで充分幸せと呼べるのではないか? って思えるようになって来てた。普通に勤めの仲居として働き、普通に歳を重ねて行く。それが、マリーシャルロットという女が一番幸せになれる生き方なのだと。

 若い頃、きっと誰もが夢を持つ。憧れた職業を持ち、夢を追いかけて都会を目指す。そして一部の人はそれを掴み、多くの人は諦めて故郷に戻る。どこにでもある、とてもよく聞く話だ。そして私も、そのよくある話の夢に破れたその他大勢なだけで、それは恥ずかしくも何ともない、至って普通の事なんだ。人間、上を望んでもキリが無い。そして、その生活がより幸せだとは言い切れない気がする。私の家は貧しかった。それこそ何年も食卓にお肉さえ登らなかった。でも、お金持ちの人と比べてそれが幸せで無かったのかと言われれば、幸せ過ぎるくらいに幸せだったと私は答える。お母さんが焼いたパンと、愛情をこめて煮込まれたスープがあり、毎晩食卓には皆の笑顔が溢れていた。だから、これでいいんだ。この今の仲居の生活が私の掴める幸せの最高到達点なのだと思っていた。思おうとしていた。

…なのに、どうして女将さんは私を次の女将にしようとする。身の丈に合わない上のステージに私を上げようとする。そんなのちっとも望んでいない。あんな凄い姿をいっぱい見せつけられて『私もああなりたい!』とは微塵も思えない。辛くて重荷に感じるだけだというのに。

…どうしてシュテフは私の前に現れた。どうして、繰り返し夢見の塔は過去の夢を見せ続けた。いったいそれに何の意味があると言うのだろう。今さら彼が現れた所で、私が冒険者に戻る事はあり得ない。地図しか出せない魔法使いなど、どんなに頑張っても初級エリアの半分までも辿りつけなかった魔女など、またあの切ない日々を繰り返すだけなのだから。

 葉書を持ったまま、格子窓から見える丘の下の町並みを眺めた。遠くのマーケット広場では色んな色の傘が揺れていて、まるで季節外れの紫陽花のようだった。

動きだした私の時計。音を立て、色々な物が変わりはじめようとしていた。

あれから、数日が過ぎている。

昔の夢は、もう見ていない。

そして私はまだ「おめでとう」というたった一言でさえシュテフに言えないままでいた。



シャッフルワールド物語

【マーシャの地図】

第五話『世界大シャッフル』


            (二)

「…マーシャちゃん、ダメだよ、飲み過ぎだって」

うつ伏せた顔を上げると、目の前にはゴツゴツとした岩のような顔があった。アンバランスな程につぶらな瞳が、心配そうに私の顔を覗き込んでいた。

「いいの、ジャガイモ君! 飲むの! マスター、おかわりね、おかわり! 芋! ロックで!」

一枚板のカウンター、静かに流れるジャズ。いつも無口なマスターは磨いていたグラスを置くと、背後の棚から一本の一升瓶を選び、日本酒のお燗をつける銀のカップに注ぎいれた。しばらくして私の前に置かれたのは丸い氷の入ったロックグラスと、さっきの燗カップで、ほのかな湯気が立ち上っていた。

「何これマスター、芋?」

「いいえ、アマーミ地方の20度の黒糖焼酎です。安らぎますよ」

「…ロックにするのに湯気出てるよ?」

「ええ、日向燗です。私はそう呼んでいます。ぬる燗よりもさらに柔らかい温度。まるで天気のいい日に縁側で日向ぼっこをしているような燗です」

そう言うとマスターは、その暖かい焼酎をなるべく氷に触れないように優しくロックグラスに注いだ。

 口をつけて傾けると、それは子供の頃に食べた綿菓子のように、ふわりとした温かい甘みが口の中に広がった。面白い飲み心地だった。最初は優しく温かく、でもグラスを傾ける毎にだんだん冷たくなっていくそれは、最後には清涼感だけを残して喉の奥に消えて行った。何のひっかかる味もなく、するすると流れて行く。瞳を閉じると、そこにはアマーミ地方の景色が浮かんだ。青い海が目の前に広がる丘の上、野良仕事から戻って来たお爺ちゃん二人が縁側に腰掛けて、首の手拭いで汗を拭きながら海を眺めてる。

「今年の夏も暑いなあ」

「おかげで野菜もよく育つ」

そんなお喋りをしている二人の傍らにあるのは一本の一升瓶。片方のお爺ちゃんが振り向いて何やら声を掛けると、奥からお婆ちゃんがお盆に乗せた湯呑を二つ持ってきた。中に入っていたのはカチ割りの氷。そして互いに焼酎を注ぎ合った二人は、また海を眺めて、まるで麦茶でも飲むように湯呑を傾けた。

「今年の夏も暑いなあ」

「おかげで野菜も良く育つ」

そしてまた手拭いで汗を拭い、互いの湯呑に焼酎を注ぎ合った。目の前のお庭にはよく実ったキュウリと茄子。売り物にするにはいささか元気に、大きく育った野菜たちは風に吹かれて気持ち良さそうに揺れていた。遠くで波の音が聞こえる。青い空には大きな入道雲が広がっていた。見えたのは、そんな優しい光景だった。

「…おいしい。まるで淡い砂糖水みたい」

「ええ、この焼酎は甕仕込みしてないんです。甕で仕込むとどうしても泡盛のようなエグ味が出ます。黒糖焼酎ファンの多くは『だから好き』という人が多いんですけどね、これはどちらかと言うと、度数の低いラム酒に近くて品がいい。綺麗な女性が物思いにふける時には、芋よりもこっちの方が良く似合いますよ」

「…何よ、マスター。私を褒めたって『アッカンベー』の舌くらいしか出ないわよ?」

そう言うと、私はグラスに残った冷たい焼酎混じりの水を口に含んだ。そしてやっぱりあの夜の事が思い出されて大きな溜息をもらすんだ。



「…マーシャ姉、マーシャ姉なんだろ?」

その背の高い勇者は、涙で濡れた顔をクシャクシャにしていた。それは、十二年以上ぶりのシュテフとの再会だった。

『感動の再会』

誰しもがきっと、そう思うのだろう。でも、情けない話、私が咄嗟に感じてしまった感情はそれとは違った。感動よりも先に

『見られてしまった』

『場末で温泉宿の仲居をやっている情けない姿を見られてしまった』 

という引け目と羞恥心だったのだから。

 慌てて目深にフードを被って背を向ける。そして、パニックというのは実に恐ろしい。私はそれを身を持って体験した。だって、何を思ったのか

「わ、私はそのようなものではございませぬ。ただの通りすがりの魔法使いのババアでございます、勇者様。ケホケホ」

と、腰を曲げて訳のわからない演技をしてしまったのだから、そして、この行動はド裏目に出た。そう、周りから爆笑され、益々注目を集めてしまったんだ。

「仲居のマーシャがまた何か変な事を始めたぞ!?」

「やれやれ! もっとやれマーシャちゃん!」

そんな歓声が上がった。そしてそれはお客様の席だけではなかった。仲居の皆の間からも笑いは沸き起こってしまったんだ。ほろ酔い加減で、大喜びしながら手を叩く三つ編み眼鏡が横目に見えた。

「さすがマーシャ先輩、本職の魔法使いはお婆さんの真似も上手ですー!」

そう言ってはしゃぎ始めたんだ。

『何なのよあんた達、揃いも揃ってマーシャ、マーシャって。お願いだからそれ以上、私の名前を呼ばないで!』

って、冷や汗をかきながら必死に祈ったけれど、もう、時すでに遅しだった。

「え、え? マーシャちゃんが魔法使いってどういう事!?」

という声が仲居さん連中から上がると、不意にマコちゃんが立ちあがった。

「え? 皆さん知らなかったんですか!? 昨日の夜すごかったんですよ!」

そして、あの時の私の真似をし始めたんだ。

「私は仲居じゃない! ヒック」

「私は地図の大魔女、マリーシャルロット リヒターだ! ヒック」

シャックリをしながら芝居がかった大声を出すと、突き出した右手を横一文字になぎ払ってドヤ顔のマコちゃん。その姿にお店中から拍手が起こる。それはもう、どうにも言い訳も、言い逃れも出来ない状況だった。恐る恐る振り返ると、案の定、「…やっぱり、やっぱりマーシャ姉なんだね」と、感動で泣き崩れるシュテフが見えた。

―次の瞬間、私が取った行動。

それはもちろん『逃走』だった。

私は思わず逃げ出した。そう、全速力で旅の酒場から。

走った、一目散に麓へと続く坂道を叫びながら駆けおりた。

「ばかぁぁぁああああ!」

「ばかぁぁぁああああああ!」

「マコちゃんのばかぁぁああああ!」

「私のばかぁぁぁああああああああああ!」

と、夜道を泣き叫びながらひた走った。そして、繁華街の入り口の辺りまで来ると完全に息が上がっていて、そのまま飲み過ぎがたたって路地裏で吐いた。泣きながらしこたま吐いた。満身創痍、よろよろとアパートメントに戻り、長い木造の階段を四階まで登って自分の部屋の前まで来ると、酒場にバッグを置いて来た事を思い出して、部屋に入れないままドアの前で膝を抱えてまた泣いた。


 それからというもの、ゲイローに拠点を置いたシュテフは毎日のようにお宿を訪れた。さすがにうちのお宿は高価だから街中のペンツィオンを取っているらしく、仲居達がチェックインのお出迎えで玄関先に来る頃に現れて、毎度毎度フィールドで見つけた一輪の花を届けてくれるようになったんだ。

「ヨーゼフが、持っていくならこういうのが良いって言うもんだから…」

照れくさそうに頭を掻き、私達が並ぶ玄関先で花を差し出すシュテフ。

「…ヨーゼフ?」

「…ああ、うちのパーティの僧侶だよ」

「…ああ、あのお爺ちゃん。ヨーゼフって言うんだ」

「うん。で、赤い鎧の女剣士がハイディ」

「…ああ、あの頭の悪そうな胸だけ大きい赤髪の露出狂」

「う、うん、まあ…。そして魔法使いがペーター。皆、ここまで一緒に旅をした仲間なんだ」

そう言うと、シュテフは照れくさそうにほほ笑んだ。

…それにしても、何のギャグだ? ハイディにヨーゼフにペーター。なんだそれ、どこのアルムの森の出身だ。クララがいたらほとんどコンプリートじゃない。そんな事が頭を過ぎったけれど、突っ込む元気は湧かなかった。それどころか、ちゃんと顔さえ見る事が出来なかった。

 正直、シュテフに会えたのは嬉しかった。ずっと心配していたからこうやって再会できたのは本当に良かった。でも、それ以上に辛さが募った。ひょっとしたら、私は彼を見くびっていたのかも知れない。これまでもずっと『私の代わりに旅を続けてくれていたら嬉しい』『今日もどこかで剣を振っているのだろうか?』遠い平原の向こうを眺める度に、短く刈り揃えたプラチナブロンドの髪を風に揺らしてほほ笑む少年剣士を頭に浮かべ、そう願っていたのにも関わらず、その実、心のどこかで彼が挫折するのを期待していたのかも知れない。『彼に旅が続けられる訳が無い』と、思っていたのかも知れない。それが再び私の前に、しかも冒険職の頂点である勇者様になって現れたのだから。正直、乱れる胸中は穏やかでは無かった。あの夜、分岐した二つの人生。旅を続けた落ちこぼれと、諦めた落ちこぼれ。十二年以上が過ぎ、改めてその差を見せつけられているような惨めな気持ちで一杯だった。

 何だかシュテフの顔を見るのも辛くなって、隣で一部始終を聞いてた女将さんを見て助け舟を求める。『仕事に差し支えるから、お客さん以外の訪問は控えて下さいね』そう言ってくれるのを期待して横を見る。でも、野花が大好きな女将さんは、その一輪の可憐な花にえらく感動されたんだろう。ポロポロと沢山の涙をこぼしながら。

「そうなの? お花をくれるのね? 大事に飾らせてもらうわ、ありがとうシュテファンさん」

なんて感動しているもんだから、それから毎日、彼はお宿を訪れるようになってしまったんだ。

 それからというもの、私はお仕事のお出迎え以外の時間は極力外には出なくなってしまった。幸いここ数日は秋雨が続いて打ち水する必要が無かったし、出勤時間も退勤時間もあえてバラバラにした。いつもだったら内湯を貰った後、道路向いの旅の酒場でお風呂上がりの生ビールを飲むのが日課になっていたんだけれど、何だかまたシュテフに会いそうな気がして、こうやってアパートメントからほど近いバーでやさぐれるようになっていた。ほんと、骨の髄からダメ女だ。だって頭に浮かぶのは自分の気持ちばかりで、いまだに『おめでとう』の一言さえ言えて無いのだから。



               (三)

「…大丈夫、マーシャちゃん? いくらなんでも飲みすぎだよ」

「らいじょうぶ、らいじょうぶっ!」

バンとカウンターの上に五千ゴールド札を置くと、私はよろけながら席を立った。見事に椅子の足に躓くと、慌てたジャガイモ君が私の身体を支えてくれた。

「いいの、いいの! 今日は送ってくれなくてもらいじょうぶっ! 一人で帰れるから」

そう言ってお店の入り口を目指したけれど、正直目の前の景色はくるくると回ってた。

「ほら、無理だってマーシャちゃん!」

足がもつれた途端に差し出された手をぺチンと叩く。そして後ろも振り向かないまま頭の上でバイバイと手を振ると、「いいのいいの。一人がいいの!」と、言って店を出た。


 秋風に揺れる落ち葉のようにゆらゆら歩く。ちょっとだけ悪い事したかな? と思って振り返ろうとしたけれど、今頭を振ったら確実に転ぶ気がしてやめた。

 ヤグアー(Jaguar)君。凄く、凄く優しい人。私の一番の飲み仲間。飲みの席にはだいたい隣に座ってる。代々このゲイローの街を守る自警団の家系の三男坊。何度二人で千鳥足で歩いた事か。いつも鎧着てるし、上にも横にも大きいから、肩組んで歩きたいのに上手く出来ない。その都度、私がモンクを言うと「ごめんね」「ごめんね、マーシャちゃん」って申し訳無さそうに言う。そんな本当にいい人だから、こんな時は辛い。思わずその優しさに甘える嫌な女になっちゃいそうで怖い。弟分とは言え、違う男の事で悩んでいる時に、優しさに期待してしまうなんて、ますます自分が嫌いになりそうだ。

「…ひとーつ」

「…ふたーつ」

灯った街灯を指さしながらフラフラ歩く。いつの間にか雨は上がっていて、雲の切れ間から見えたお月さまは、綺麗な半月だった。

 正直、何度か『この人となら所帯を持ってもいいのかな?』と、思った事がある。お家柄も素敵だし、私は別に相手のビジュアルにこだわり無いし。何より、彼となら何となく温かい家庭が作れるような気がしたんだ。まあ、毎度そう思うのは酔った席で…なのだけだけど。でもそんな彼は、いつだって私の傍でニコニコしているだけで、プロポーズどころか、告白すらして来ない。お酒が入った勢いでもだ。自警団の他のメンツには「…いい加減、察してあげろよマーシャちゃん」とか言われるけれど、この冒険者スキルよりもさらに貧弱な恋愛スキルしか持ち合わせていないアラサー処女に何が出来ると言うのやら。

『大人になると子供の頃に美徳とされていた事が悪となる』

いつも、そんな事を思う。小さい頃は『正直』で『素直』が美徳とされたし「そうありなさい」「嘘はダメよ」と、教えられたけど。大人になってみたら逆だった。思ったままに言うと怒られるし、オブラートに包んだり、思っても無いオベッカを言わないと円滑な人間関係が築けない。むしろ、上手に作り笑いする人の方が「あの人良い人ね」とか言われちゃうし、真面目で真っ直ぐな人間は『ヘンクツ』とか言われちゃう始末だ。

 不純性異性交遊的な事もそうだ。男女が裸でイチャイチャする事は『いけない事』と、教わるけれど、実際問題大人は皆そうしてるし、そうしないと次の世代が生まれない。気が付くと、いつまでも過去のトラウマに縛られて『性的な事はいけない事』と、思い続けている私の方が圧倒的に少数派の変わり者扱いだ。正直、どこまでか不純性で、どこからが不純じゃない性なのかよく分からない。

 思い切り半月を見上げて手を伸ばす。あまりにそれが綺麗で大きかったから、何だか掴めそうな気がしてぐーぱー、ぐーぱー繰り返す。…正直、こういう性格で助かっている所はあると思う。それは『結婚願望が薄い』という事だ。

――女二十八歳。

たぶん普通ならそろそろ焦り始める年代なのかも知れない。『何歳までには子供が産みたいから、逆算していつまでに結婚して、さらにそこから逆算すると…あらやだ、もう旦那様と知り合ってなきゃヤバいじゃない。空くじ引いてる余裕とか無いじゃない』って。そして、そんな事を考えて益々慎重になって重箱の隅を楊枝でつつくように相手を吟味し始めるから、本来なら『多少の事』を目に瞑れば充分幸せになれるだろう相手ですら、その『多少の事』が納得できずに切り始め、どんどん婚期が遅れて行く。ただでさえ、自分の事で精一杯なのに、さらにそんな厄介事を背負うのは御免だから、少々ネガティブっぽい理由ではあるけれど、実際助かっているような気がする。


…ただまあ


――暖かい家庭。

そんな私でも、そういうのを考えた事が無い訳でもない。憧れなかったわけでもない。多少カッコは悪くても優しい旦那さんと、子供達。そして、仲居を続けている私。何とも温かくて、柔らかい感じのするとても平凡な妄想。だけど、ダメだった。

…見てるんだ。

その温かい家庭の風景を、窓の外の暗がりから、昔の、冒険者時代の私が見てるんだ。そして呟くんだ。

「マーシャ、いつかお前はその男を憎む」

「いつか、その子供達を恨む」

「結婚さえしなければ、子供さえ産まなければ、お前はいつだって覚悟一つでこっちの世界に戻れたんだ。可能性は残されていたんだ。お前はいつか、それを手に入れた温もりのせいにする。責任転嫁を始める。『この男と結婚したから冒険者に戻る事を諦めた』『この子供達のせいで、自分は憧れ続けた職業を断念した』と」

そして背筋が凍るんだ。

幼き日の憧れは、忘れた頃に亡霊のように現れて後ろ髪を引く。

今さら戻れやしないというのに。

そんな、社会人としてちゃんと自分に納得いってない私が結婚とかしちゃダメだ。

お酒は嫌いだ。

ついついおセンチになる。ガラにも無くいろいろ考える。そんなの、ちっとも私らしくないっていうのに。

「お酒のばかー!」

「マコちゃんおたんこなすー!」

「私の大ばかやろー!!」

腕をぶんぶん振り回し、大股開きで歩いてやった。



              (四)

 秋風に吹かれて歩く。火照った頬を冷たい空気が撫でて行く。私は視界も定まらないままブツクサとボヤキながら石畳の上を歩いた。そして、少し開けた場所に出た途端、正気が戻って驚いた。だって、アパートメントを目指していたはずなのに、まったく明後日の方向に歩いていたのだから。

 目の前には何組ものカップル達の、寄り添い、ベンチで愛を語らう姿があった。そう、そこはこの街では恋人達のメッカと呼ばれる、ライトアップされた時計塔とマーケット広場の噴水を見降ろす高台の公園。普段だったら夜には絶対に近寄らない場所だった。

「ケッ、嫌な物を見ちゃったよ」

と、よろけながら踵を返そうと思ったけれど、私はグっと我慢した。だって、それではまるで逃げるみたいで癪に障ってしまったのだから。いったい何に張り合っているのやら、私はどこ吹く風を装って、鼻息を荒くしながら高台の展望台目がけて公園を一直線に突っ切った。そしてそのままマーケット広場を見下ろす手すりまで行くと、頬杖をついて遠くの夜景を眺め始めたんだ。失策だった。これではもう一度、カップル地帯を通らなくてはいけないじゃないか。本当はとっとと帰ってベッドで横になりたいというのに。


「…グローセラントカーテ」


頬杖をつき、手持無沙汰になってしまった私は、指先で何も無い夜空に四角を描いた。すると、それに合わせて古ぼけた羊皮の地図が現れた。

これがデフォルトの地図。

「グローセラントカーテ」

次に現れたのは、淡い緑色の生地にクローバー模様が描かれた地図。

「グローセラントカーテ」

「グローセラントカーテ」

「グローセラントカーテ」

桜吹雪。水色と紫の紫陽花柄。水玉にボーダー、雪の結晶が描かれたクリスマス仕様。私の目の前の空間には色とりどりの地図達が落ちる事なくフワフワと浮かんでいた。この魔法しか使えなかったから、いつの間にかこんな芸当が出来るようになっていた。まるで頻繁にブログの背景を変える寂しがり屋のOLのようだと、地図達を眺めて自分でも苦笑いした。

「見て、見て、あの青。まるで南の島の海の色みたいじゃない?」

「え、マジで!? 偶然だね! 僕も同じ事を考えてたんだ!」

「同じ物が同じ色に感じられるなんて、何だか幸せね」

少し離れた隣のカップルからそんな笑い声が聞こえてきた。見下ろすと、足元のマーケット広場の噴水が間隔を置いて七色に照らされているのが見えた。

「ケッ、同じ色に見える? そんな事ある訳ないじゃない」

心の中で、そんな言葉を吐き捨てる。だって、人には個体差があるはずで、確実に、見えている色あいも微妙に違っているはずだ。と思った時、またしても酔って偏屈になっていると気づいて情けなくなった。

―でも、私は知っている。

本当に寸分の違いも無く、同じものが同じに見える瞬間がある事を。そう、あの時の私達がそうだった。私とシュテフ、ポンコツと不器用。ブサイクながらも転げ回り、擦り傷だらけになっても肩を並べて戦った日々。あの時、私達は一つだった。その手が自分の物なのか、それともシュテフの物なのか、それさえ分からなくなるほどにシンクロし、溶けあう瞬間が何度もあった。言葉どころかアイコンタクトさえも要らなかった。まるで自分が考えているように、彼が何を思っているのかが分かった。そう、同じものが同じに見える。それは、そういう高みでの話なんだ。そう思うと、急に涙が止まらなくなった。『おめでとう』の一言も言えないまま、自尊心だけで逃げ隠れしている自分が恥ずかしくなった。


「また増えたんだね、地図の柄(がら)」


突然、背後からそんな声がした。驚いて振り向くと、そこには白銀の鎧があった。きっと急いで走って来たのだろう、膝の上に手を置いて、背中を丸めて息を整えている一人の勇者の姿が見えた。

「広場の近くの、食堂で、皆で晩御飯を食べてたんだけど、窓から幾つもの地図を出してる人影が、見えたからさ」

そういって、息を切らしながら笑っていた。そしてグっと背を伸ばすと

「やっぱりマーシャ姉だった!」

と、ほほ笑んだ。頭一つ分以上、私よりも背が高くなっていた。

「…背が…のびたねシュテフ」

無意識にそんな言葉が零れて落ちた。

「…うん」

真っすぐ私を見つめる彼が答えた。甲冑から見えていた細いだけかと思われた腕は、脂肪のかけらもない研ぎ澄まされた鋼のような筋肉で出来ていた。…無数の傷跡が刻まれていた。

「…強く…なったんだねシュテフ」

いつの間にか涙が出ていた。

「…どうだろう、でも必死だった」

「…あれからも、いっぱい、いっぱい戦ってきたんだね、シュテフ」

泣きながらほほ笑んでみたけれど、うまく笑えている自信は無かった。

「…ああ、僕にも目標があったから」

「…おめでとうシュテフ。ほんとうにおめでとう」

そして、そのまま両手で顔を隠し、私は大声で泣き出した。

やっと言えた。素直に伝えられた。

そんな気持ちで一杯だった。

でも、そこから先、私の声はもう涙で音にはならなくて、本当はもっと色々言ってあげたかったのにダメだった。涙は後から後から出てくるのに、言葉はちっとも出て来なかった。


「僕にその目標を僕にくれたのはあなただよ、マーシャ姉…」


突然、かかとを打ち鳴らす音が聞こえた。慌てて顔を隠していた掌を下ろすと、そこには背筋を伸ばし、左手を勇者の剣に添え、握った右拳を胸に当てる騎士のポーズのシュテフがいた。そして恋人達が寄り添う静かな公園に、彼の声が響き渡った。

「僕は勇者になった。どんなに辛くても、苦しくても貫いた。でもこれは、魔王を討伐したいからでも、魔物から人々を救いたかったからでもない。ただ一つ、どこかで生きているだろうあなたを見つけ出すために旅を続けた結果だ。勇者になれば、自分のパーティを持てば、あなたを探すために自由に行き先を決めれると思ったからだ!」

そう言うと、今度は腰の勇者の剣を抜き、私の前に片膝をついた。懐かしいリボンが巻かれた抜き身の剣の柄(つか)が差し出されていた。それは高位の者に対して一生の忠誠を誓う姿勢だった。

「…シュ、シュテフ…何をやってるの…」

「マーシャ姉…いいや、マリーシャルロット。僕はあなたのためだけに冒険を続け勇者になった。そして、再び出会えた今、ここで僕の旅は終わった。あの日、あの夜、ここが僕のゴールだと決めたんだ。だから今誓う。僕はあなただけの騎士になる。あの頃、あなたが守ってくれたように、これからの人生は僕があなたを守り続ける! そのためだけに強くなった!」

そして深々と頭を下げたんだ。

 涙が止まらなかった。心が揺れた。シュテフが来てくれた。シュテフが私を迎えに来てくれた。そんな思いが胸の中に溢れて止まらなかった。この時感じた感情が何なのか自分でも良く分からない。いいや、おそらくこれが『愛』なのだろう。

 でも、やっぱり私はズルくて弱い女だ。だって、これから先、この感じた『愛』が、最愛の弟分に向けられる物ではなく、男と女のそれに発展するという確信なんて微塵もないのに、温かい家庭を築く自信なんてこれっぽっちも無いのに。女として生きて行く覚悟もないというのに、こうやって高ぶる感情に任せて差し出された勇者の剣に手を伸ばしているのだから。『結婚願望が無い』と言いながら、いとも簡単にその手を取ろうとしているのだから。


でもその時、大地が揺れた。

今まで真夜中だった空間が、突然真昼のように明るくなった。

青く澄み渡った空からは、耳をつんざくファンファーレが聞こえていた。


てっきり、手のこった魔法を使ったドッキリで、どっかの誰かが『プロポーズ大成功!』とか言って出てくるのかと思った。でも違った。慌てて周りを見渡すと、今の今まで私達に釘付けだった公園にいる誰も彼もが驚いた顔で空を見上げていた。眼下のマーケット広場に目をやると、慌てた人達が飛び出して来るのが見えた。街の至る所で窓という窓が開かれて、そこから頭を出して街じゅうの人々が上を見上げていた。そして響き渡ったんだ。


…神様の声が。


『このシャッフルワールドに生きとし生ける者よ、聞くがよい!称えるがよい!

今宵、この時、六十三年の長き時を経て、新たに魔王を討伐せしめし勇者が現れた! よってこれより三日、この世から魔物が消えるフェスト(祭り)とし、その後、新たな元号を迎えると共に、世界大シャッフルを取り行うものとする!

このシャッフルワールドに生きとし生ける者達よ、飲むが良い! 歌うが良い!

いっときの太平を謳歌するのじゃ!』


それは、生まれて初めて聞く神様の声だった。すっかり呆気に取られて勇者の剣を取ることを忘れた私もシュテフも、街の人達も、ただただポカンと口を開け、空を眺めるだけだった。

そしてこれが、全ての始まりとなった。




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