第4話【動き始めた時計(下)】
―毎日が辛い?
私もそうだった。
―前を向いても八方ふさがりで、生きる事に希望が持てない?
そうだよね、そういう時は本当に辛い。
―いっそ生まれ変わって、こことは違う何処かでやり直せたら幸せになれる気がする?
うんうん、私もずっとそう考えてた。
でもね…
今は違う。
胸を張って、声を大にして私は言う!
毎日が面白くなくて、不安で、辛いなら、それはこれから始まる君の…
今、君が生きているこの世界で始まる、君だけの大冒険の序章なんだって!
真っ赤に染まる夕暮れ時の大平原で、私は、私達は大の字に寝っ転がって笑っていた。お腹の底から笑っていた。もう体中が傷だらけで、立ちあがる元気も残ってないというのに、生まれる笑いは止まらなかった。
いやあ、それにしても強かった。まさか、始まりの街を出てすぐにエンカウントした魔物が、こんなにも強敵だとは思わなかった。そう、角の生えた肉食のウサギ! ちっこくて、愛くるしい見た目のくせに早い早い。それに、痛い痛い。だって、角どころか牙はあるは、爪は鋭いはで、いきなり私達は大苦戦をしたんだよ! いったい何時間、一匹のウサギと死闘を繰り広げたんだろう。最後はもう、皆して落ちている石や木の枝を投げつけて何とかかんとか勝利した。そして、ドロップしたお金やナイフも拾う元気が無くて、そのまま草の上にぶっ倒れちゃったんた。見上げた夕暮れの空は目が痛いくらいに羊雲がピンクに輝いて、夜が始まりかけた東の空には気の早い一番星が顔を出していた。すぐ近くの街道を、すでに馬車まで手に入れて次の村まで向かう別の勇者様の一行が通り過ぎて行った。転がる私達を見つけて「なんだあんたら、何そんな所で遊んでるんだ?」って不思議な顔をして見てたけど、聞かせてあげられるモノなら聞かせてあげたい。この、私達の最高の武勇伝を。誰もがパスして通る初級も初級の街の外で繰り広げられた伝説級の戦いを。忘れない。私は一生忘れない。この空の色を。響き渡った私達の笑い声を。ついに始まった私の大冒険を。
シャッフルワールド物語
【マーシャの地図】
第四話『動き始めた時計(下)』
「いいの? 本当にいいんだね、シュテフ。勿体ないなあ、こんなに綺麗な髪なのに…」
「いいんだよ、マーシャ姉! これ、戦ってる時に凄く邪魔なんだ」
勇者様だけが張る事の出来る魔法、宿泊用の簡易結界『ツェルト』。その青白く輝く輪の中、揺れる焚火の炎に照らされたシュテフの髪とハサミを手に、私はゴクリと息を飲んだ。
「…や、やっぱり明るい時にしない?」
「いいんだよマーシャ姉。だって、朝になったらまた冒険したくなっちゃうだろ?」
「…ま、確かにそうね」
私は苦笑いをすると、覚悟を決めてジョキリと綺麗な髪にハサミを入れた。そんな私達を先生は、とても幸せそうな顔で眺めていたんだ。
旅を始めて数か月が過ぎていて、色んな事が変化していた。まずは二人に対する呼び名だった。『学者』と呼ばれた勇者様を、私とシュテフは『先生』と、呼ぶようにした。これはまさに読んで字のごとし。十四歳の私と、十一歳のシュテフを連れている中年のヒョロリとした風貌は、まさに学校の先生のようだったのだから。
次はシュテフ。これは単純に『シュテファン』という名前を短くした。すると彼は、「シュテフっていう短縮の仕方は、まるでシュテファニーみたいで、女の子のようだ!」って反抗したんだけどね。でも、しょうがないじゃない。だって、本当に女の子みたいに可愛いんだから。そう、あの時小学校で出あった少女剣士、その正体は男の子だったんだ。
私達へっぽこチームの足取りは、他の勇者様の一行とは違い、かなりマイペースでゆっくりとした物だった。その理由は全員にあった。勇者様は転職したてで、僧侶としては中級魔法まで習得していたのだけれども、レベルが一に戻って魔力量もそれ相応にリセットされちゃったから、初歩の魔法しか使えなかった。シュテフはまあ、頑張っているのだけれど、さすがに成長期前で重い剣が使えなったから、攻撃力の低い安物のナイフでの参戦だった。そして私。結局魔法学校に通い、数か月もの冒険を経て幾つもレベルは上がっていたものの、種子の中の書庫に地図魔法以外の新しい魔道書が追加される事は無かった。
「僕達は全員が弱い! でも、僕はそれでいいと思っている。だって、皆で強くなって行く喜びを分かち合えるじゃないか!」
それが先生のいつもの口癖で、私達はその通りに旅を続けた。幾つもの村や街を見た。炎に燃える山を見た。向こう岸が見えない程に大きな川、砂漠。これが、お父さんが私に見せたかった景色なのだと涙した。そしてその度に空を見上げ、星になった二人に感謝をした。
「…あ」
「ど、どうしたのマーシャ姉?」
「い、いや、なんでもないから…」
ただでさえ他人の髪を切るのなんて初めてで、しかも、夜にたき火の明かりだけを頼りに手探り状態だというのにも関わらず、ついつい回想にふけってしてしまった私は一度に予定より沢山の毛を切ってしまった。それにしても難しい。何が難しいって、左右対称に切るのが想像してたよりも遥かに難しい。片側だけなら何とかなったと思うのだけど、全く同じ形に反対側もって、これはもう無理難題としか言いようがない。
そして、ああでもない、こうでもないと試行錯誤を繰り返した結果、シュテフの頭はギリギリの所で坊主頭を免れ、何とか短く刈り揃えたスポーツ刈りにおさまった。鏡を見た本人は、男の子らしく生まれ変わった髪型に随分とご満悦で「さすがマーシャ姉!」って感動してくれたのだけど、私の心境は複雑だった。
『カムバック、麗しの妹分よ…』
そう、心の中で何度も涙したんだ。そして、そんな私達を火の番をしている先生は、やっぱり頬笑みながら眺めてた。
『うん、このチームで旅に出れて良かった。本当に良かった』
私は感謝した。だってそこには二度と手に入れる事がないと思っていた『家族の温かさ』があったのだから。そう、私は再び家族を手に入れたんだ。
(二)
冒険の旅を初めて二年が過ぎようとしていた。私は十六歳、シュテフは十三歳になっていた。その足並みは相変わらずゆっくりで、通常六年かかると言われている初級エリアの、半分どろころか一年分にも満たない距離しか進めていなかった。私は相変わらず、地図の魔法しか使えなかったし、先生も徐々にレベルが上がる速度が落ちてきて、魔力の増大幅は、ほぼ横ばいになっていた。シュテフは…小さいままだった。確かに、私が魔法学校中等部の時も、クラスにはまだ初潮を迎えていない女の子は何人か居た。男の子の身体の事は良く分からないけれど、恐らくシュテフもそういう部類なのだと思う。それでも、少しずつでも冒険が進むのは楽しかった。地図しか出せない魔法使いは杖の代わりにナイフを持ち、少年剣士と二人のツートップで戦った。まるで本当の姉弟のように試行錯誤を繰り返し、二人で沢山相談して作った色んな作戦、色んなフォーメーションはすでに一〇〇を超えていた。
そんな毎日が楽しかった。
…そう、まだ少しずつでも前に進めているうちは。
それから程なくして、私達の足は完全に止まってしまった。フィールドでの経験値稼ぎですらままならなくなっていた。敗走する回数が徐々に増え、一日かけても経験値が全く入らない日も目立つようになっていた。そして、駐留している村のボスに何度挑戦しても倒せなくなると、旅は完全に頓挫した。ただ、そういう状況についてだけ言えば、これは私達だけに限った事では無かった。とくにこの初級エリアでは。
毎年毎年、沢山生まれる勇者様とその一行。その全てが魔王討伐を目指しているワケじゃない。実際、自分達の身の丈に合う場所で冒険を止める組も少なく無かった。『冒険者上がりは就職に有利だから』と言って、そもそも良い職に就くための手段として旅をしている人も多かったし、『生まれ故郷の自警団で働くための修行』という人もいた。中には、PT内恋愛の末に行きついた村や街に住み、生活の糧として日銭稼ぎで魔物を狩ったり、わざわざパーティ枠の一つを開けておき、NPC相手にフィールドの観光ガイドをするような初級エリアを出れない人達も沢山いるという話を聞いた事がある。まあ、そういうのは巷で『丘勇者』っていわれるのだけれども、私達にはその選択肢は無かった。単に、もっと先へ、もっと長く冒険を続けたいと思ったんだ。
そこで私達は相談の結果、お金を出し合って一人の僧侶様と契約した。本当は、ずっと三人で旅を続けたかったけれど、そうとも言っていられない状況だった。新しく仲間に加わったのは、先生よりもさらに年上の中年男性で、無口な方だった。その僧侶という職業としては珍しく、顔に幾つも傷跡があり『他人事には我関せず』というタイプの人だった。そして、四人目を迎えて、ある時は先生も前衛に、ある時はツイン僧侶という攻撃の幅を持った私達は、さらに先へと足を進める事が出来たんだ。
でも、それも長くはもたなかった。
またさらに幾つかの街や村を越えた先で、私達の足は再び止まってしまった。そこまで来ると原因は明確だった。そう、私とシュテフ。このパーティはあからさまに攻撃力不足だったんだ。そして、僧侶様はある提案をしてきた。
「無理だ! そんな事をこの子達にはさせられない!」
ある夜、ツェルトの中に先生の声が響き渡った。そんな声を荒げる先生を見るのも初めてだったし、その相手が普段は私達の輪には入ろうとしなかった無口な僧侶様だったから、私はますます驚いてしまった。
「…じゃあ学者さん。それ以外に何か方法があるって言うんですかい?」
「…ッ!」
そう言い返されて俯いている先生に何があったのか尋ねると、それに答えたのは僧侶様だった。
「PLだよ、お譲ちゃん」
「…P…L…??」
その言葉には何となく聞き覚えがあった。そう、確か魔法学校時代に同室だったマイケが好きで、机の引き出しの奥に沢山薄い本や小説を隠し持っていた。そして、素直にそう告げると
「そうじゃない、パワーレべリングの略だよ、お譲ちゃん」
と、僧侶様は言われたんだ。
――PL、パワー・レべリング。
詳しく話を聞くと、それは強引なレベルの引き上げだった。そしてその後、僧侶様が提案されたのは、通常それが意味する方法とはかなりかけ離れた方法だった。
本来、パワーレべリングとは、攻撃力の高いパーティにお邪魔させてもらう形で行う。ようは、残りの三人がガンガン敵を倒すのを、後ろで指を咥えて眺めつつ、経験値だけを分けてもらう行為だった。現に、初級エリアのどの街や村にも、それを目的とした丘勇者様の一行は沢山居て商売にされていたのだけれども、私達にはその高額な代金を支払うだけの金銭的余裕はなかった。そこで、僧侶様が提案されたのが私達ならではの変則PLだった。それは、僧侶が二人居る利点を最大限に活用して、私とシュテフに絶え間なくヒールを与え続け、経験値が多く手に入る各上の魔物達との連戦を繰り返す。というものだった。それを聞いて、私もシュテフも喜んだ。だって、ヒールを受け続けるって、何て豪勢で心強い事だって思ったのだから。それと同時に、どうして先生があんなに声を荒げて反対したのか理解が出来なかったんだ。
…そう、実際にそれをやるまでは。
次の日、私達は駐留していた街のダンジョンに入った。そして、例の変則PLを始めたんだ。暗い洞窟の中、道中何度も魔物に出会った。そしてそれらは案の定、私達よりも格上の相手だったけれど、傷ついても即座に治してもらえるという安心からか、いつもと違って私もシュテフも思い切り戦えた。そしてそれが良かったのか、敗走どころか次から次へと大した怪我もしないまま圧勝していった。
そして、とうとうボスの間まで辿りついたんだ。
「痛いよマーシャ姉!」
「シュテフッ、腕がッ! ゴフッ!」
「お譲ちゃん達、寝っ転がってる暇なんか無いぞ! 立つんだ! 戦え!」
ボスの間に、そんな悲鳴と声が響き渡っていた。
―地獄。
それは、まさに地獄だった。腕が千切れても、腹が裂けて内臓が出ても即座に治されて、私とシュテフは戦う事以外を許されなかった。でも、いくら治されると言っても、その都度与えられるボスからのダメージは耐えがたい激痛を伴って全身を駆け巡った。かと言って、戦う事を止めてしまえば私達は全滅する。そんな精神的な圧力の中、完全に身体や頭の感覚がマヒするまで私達は戦わされたんだ。そして、まさに死に物狂いで何とかボスを倒すと、一旦タンジョンの外に出てクエストを受けなおす。そんな戦いを延々と続けたんだ。そしてまた旅を続けた。だけど、そんな地獄の沙汰を繰り返しながらも、冒険のスピードは一向に上がらなかった。いくらレベルが上がっても地図魔法しか使えないポンコツ魔女と、掛け算式に上がるレベルアップの体力補正があっても、そもそもの数値が『1や2』で、何を掛けても大した戦力になれなかった貧弱なシュテフ。それが全てだった。
その頃、私達のパーティにもう一つの変化が起き始めていた。それは先生が街の古本屋で見つけてきた一冊の本が原因になった。
『シャーバー流剣術』
そう書かれた古い本は、どうやら筋力のない人間でも扱える剣の技が記された物のようだった。そしてそれを読み始めた先生は、冒険の合間にシュテフの特訓をするようになっていた。そして、それが私にはとても辛かったんだ。
シュテフは、初めて会った時から変わらなかった。お世辞にも器用とは言えず、とにかく根性だけで立ちあがって戦うタイプだったから、それなりの技術を要するこの剣技の特訓にもすぐに落ちこぼれてしまった。また、問題は先生にもあったと思う。何せ僧侶上がりで普段も後衛の回復係。そんなまともに剣など握った事が無い人が、本だけを頼りに技を教えているのだから。自分が理解していない事を、人に伝えるなんて、そんなの無理に決まってた。そして、いつしかそれは『特訓』という言葉の枠を超え、体罰に変わって行ったんだ。私は、シュテフの身体が木刀で打たれる音を聞くたびに、荷馬車の影で膝を抱えて震えた。「戻して、あの日の私達に戻して」と、何度も何度も呪文のように繰り返すようになっていた。
その日も、ボス戦でボロボロになったシュテフは先生に呼ばれた。最初は何てことのない反省会だったのだけど、いつの間にかそれはいつもの稽古に変わってしまった。荷馬車の先では『やれやれ』という顔をした僧侶様が、我関せずという姿勢でお酒を飲んでいた。私も、いつものように影に隠れて膝を抱えると、必死に耳を塞いで震えていた。
「どうして君は、こんな簡単な理屈も理解してくれないんだ!」
聞こえた。耳を塞いでもなお、それは聞こえてきた。
「僕は、君のためを思って剣を教えているんだ! なのに、当の君がそんな姿勢でどうするんだ! 真摯に向き合わないから覚えられないんだ! 理解が出来ないんだ!」
そう言って、泣きながらシュテフを打つ音がした。だけど、いつもと違ったのはここからだったんだ。長かった、それはいつもより長かったんだ。「ごめんなさい、先生!」「ちゃんと覚えます、ちゃんと覚えますから!」そんな声がしても、彼を打つ木刀の音は止まらなかった。そして、泣き叫ぶ先生の呂律がおかしい事に気が付いた私は見た。地面に空になったワインのボトルがある事に。
―その瞬間、私は迷わなかった。
頭より先に体が動いていた。思い切り大地を蹴ると、今まさにシュテフに向かって木刀を振りおろそうとする先生の前に割って入ったんだ。
広げた。
私は思い切り両手を大の字に広げた。そう、すぐ後ろで尻もちをついたまま怯えているシュテフを庇ったんだ。
そして睨んだ。
私は思い切り先生を睨んだ。でも、それは憎しみからじゃない。必死に祈ったんだ。『戻って!』『お願いだから優しかったあの頃の先生に戻って!』と、必死に目で訴えたんだ。正直、怖くなかったのか? と、言われれば、怖いに決まっていた。だって、人間とは言え私よりも身体の大きな男の人だ。そして、その彼が、力任せに振りおろした木刀が、紙一重、私の額の前でピタリと止まっていたのだから。
足が震えていた。体中が震えていた。でも、実はそれだけじゃ無かった。私はあまりの恐怖に漏らしていた。ジョロジョロと嫌な水音が聞こえた。でも止まらなかった。生温かい感触が内股を伝い、ブーツの中に溜まっていく感触がした。頬を湯気がくすぐり、アンモニアの匂いが鼻をついた。そしてなにより、私のお尻のすぐ後ろにシュテフの顔があったから、恥ずかしくて死にそうだったけど、それでも、私は広げた手は下ろさなかった。まっすぐに見つめる瞳をそらさなかった。すると先生は「君までもか、マーシャ…」と、呟くと力なく木刀を下ろしたんだ。そして、泣きながらフラフラと荷馬車の影へと歩いて行くと、そのまま次のワインの封を開けた。
その夜は、やけに虫の声がうるさい夜だった。うまく寝付けなかった私は荷馬車から降りると、樽の水を一杯コップに注いで飲みほした。そして、聞いてしまったんだ、虫の声に紛れて泣いている先生の声を。
すでに、数えきれないほどのワインの瓶が足元に転がっていた。どうやらあのまま飲み続けたらしい。そして、さすがにやり過ぎたと反省した私は、せめて一言謝ろうと背を向けて座る先生に向かって歩きだすと、また聞こえてしまったんだ。
「…マーシャだ、あのエセ魔法使いさえいなければ」
「…あいつの代わりにまともな魔法使いさえ居てくれさえすれば」
愕然とした。そしてそのまま足は止まってしまった。そして、私は全てを悟ったんだ。
「…なんだ、全部私が悪いんじゃない」
そんな言葉が漏れていた。そうなんだ。先生は、元凶であると分かっていても、女の私を責める事が出来ず、その矛先が全て男の子のシュテフに向けられてしまったんだ。それにたぶん、遅かれ早かれシュテフは成長期を迎えるだろう。それに引き換え、私には何の確証もない。なにせ、魔法学校時代から数えて三年、どんなにレベルが上がっても地図以外の魔法は一つも覚えていないのだから。もし、私が前評判通り、多少ムラっ気があっても魔法を覚え続けていたら随分と状況は違ったのだろう。そして気づいたんだ。先生は変わったんじゃない、あの優しい先生のままだったんだって。優しいからそんなダメな私の首を切れなかった。優しいから三人で冒険をする夢を諦めきれずにダラダラと旅を続けてしまった。そして、優しいから壊れてしまったのだと。
そう思うと、不思議な事にいきなり気持ちが軽くなった。そうなんだ、私が居なければ全てが丸く収まるんだ。このポンコツの代わりに極々普通の魔法使いと契約さえすれば、このパーティは、いきなり強く生まれ変わる。
…そう納得してしまったんだ。
その後は話が早かった。私はこっそり荷馬車へと戻ると、シュテフの寝顔を確認して荷造りを始めた。そして、洗ったばかりの汚したズボンと下着をリュックに詰め込むと、最後に一言「ごめんね、シュテフ」と、寝顔に告げて立ち上がろうとした。
――でも、出来なかった。
後ろ手に、私の手首が掴まれていた。振り向くと、毛布にくるまったまま涙を流している顔があった。必死に声が漏れるのを堪え、大粒の涙を幾つもこぼし、小刻みに顔を振りながら必死に『行かないで』『行かないでマーシャ姉』と瞳で訴えるシュテフがいた。その姿に、一瞬心が揺らぎそうになる。でも、私はぐっと我慢した。だって、私が残ってもまた同じ日々が繰り返されるだけなんだもん。せっかく出来た私の家族がこれ以上壊れてしまうのはいやだったんだもん。何よりも、この大好きな弟分が、これ以上傷つくのが耐えられなかったんだ。
私は、寝ているシュテフを抱き起こすと、そのまま力いっぱい抱きしめた。そして、涙で濡れる頬に口づけをしたんだ。
「ごめんね。でも、やっぱり私、行かなくちゃ」
彼のおでこに額を当ててそう言うと、今度は唇に口づけた。どうしてそうしたのか分からない。ただ、高ぶる感情がそうさせた。そして、驚いて呆気に取られている顔を見て、私は小さく呟いた。
「グローセラントカーテ…」
現れたのは、荷馬車いっぱいの大きな、大きな、まるでシーツのような地図だった。そして慌てて茫然と固まっているシュテフを包むと、髪のリボンを解いて閉じた地図の口を固く縛って茶巾にした。そしてそのままリュックと共に飛び出したんだ。荷馬車の外へ!
そう、これが、私の旅の終わりになった。
たった二年、短くて長い旅だった。
(三)
再び目を覚ましたのは、何度も同じで恐縮なのだけれども病院のベッドの上だった。でも、今回は、どうしてここに来たのかはすぐに理解できた。いやあ、あれはマジで痛かったし怖かった。カッコをつけて荷馬車から飛び出したのはいいけれど、そこから後がマズかった。ツェルトの結界の光を出ると同時に、私は野犬のような魔物に追われる羽目になったんだ。そして、そこらじゅう噛まれながらも夜通し荒野を走り抜け、何とか近くの街まで辿りついた瞬間に気を失ってしまったんだ。
目を覚まし、看護婦さんに聞いて驚いた。あれから三日も過ぎていた。その間、誰かが訪ねて来たかも尋ねてみたけれど、残念ながら一人の面会も無かったそうだ。そして、さらに数日後、退院の際に私は驚いた。まずは、身分証明書だった。手にしたカードを見てみると、身分がNPCに変わっていた。厳密に言うとNPCW、ノーマルピープルカテゴライズドウイッチだった。思わず慌ててステイタスウインドを開いたけれど、無情にもパーティ登録が解除されていて、身体能力の補正も消えていた。でも、それはまだ序の口だった。何が一番驚いたって、医療費だった。どうやら、冒険者とNPCでは随分自己負担率が変わるらしい。おかげで私はこの二年間でコツコツと貯めていたお金の大半を失う事になったんだ。
こうして、色んな意味で帰る場所を失った私は、打ちひしがれたまま駅に向かった。切符売り場の駅員さんに聞くと、初めの街へと戻る列車の運賃はびっくりするほど安かった。どうやら皮肉なもので、私達の足取りがあまりにも遅く、出発点からさほど遠くまで来て無かったのがその理由だった。だけど、そのまま始まりの街に戻る気にはなれなかった。あの意地悪な親子がいるお屋敷もあるし、母校の魔法学校がある手前、出戻りするにも気が引けた。それに何より、あそこにいたら、またいつか先生達と会うかもしれないと思うと、それが何より辛かった。しばらく物思いにふけった後、私は大きなため息を一つして手に持ったお金と運賃表を見比べて一番遠くへ行ける場所を探し始めた。そして、一つの街を見つけたんだ。
『都外れの温泉街 ゲイロー』
それは、昔取った杵柄、小学校時代、色んな街の名前を覚えた勉強の賜物だった。そう、その街の名前に私は覚えがあった。中級エリアの果ての果て、しかも勇者に転職するための神殿へ行くコースからも、魔王城へと向かうルートからも大きく外れた辺境の地。これなら、先生達と偶然出会う事もない。そう思った私は、残ったお金を叩いて片道切符を買った。幸運にも、午前最後の次の便に乗れば、夕方には到着するみたいだったから、思い切ってお釣りでサンドイッチを買って、冒険者時代の蓄えは綺麗さっぱり使い切った。
初めての列車の旅は、目を疑う事の連続だった。なんたって、あんなに苦労して進んだ大平原を、驚くような速さで駆け抜けていくのだから。そして、お昼になった頃、小腹が減ってサンドイッチを食べると、私はそのまま眠ってしまったんだ。
次に目を覚まして驚いた。だって、完全に周りが真っ暗になっていたのだから。でも、それと同時に疑問も湧いた。なぜなら、この列車の終点はゲイローのはずなのに、到着予定の夕方を過ぎてもまだ走っているのだから。だけど、その理由は隣の席のお婆ちゃんに尋ねてすぐに判明した。なんてことはない、どうやら私は地図を見るのは得意でも、時刻表を見るのは苦手だったようだ。そう、確かに私が乗った列車は昼前に出発し、夕方にはゲイローに到着するのだけれども、その夕方というのが4日後の夕方だったんだ。どおりで切符が高いと思った。
四日後、ゲイローに到着した私は餓死寸前だった。道中、途中下車した隣の席のおばあちゃんがいくつもミカンが入ったネットをくれたから、何とかそれで飢えはしのいだけれど、まあ、どう考えても焼け石に水だった。そして私はフラフラと閉門間近の職業安定所に転がり込んだ。
運よく、仕事はすぐに見つかった。それもかなりの好条件でヤリ甲斐もありそうな職場だった。そう、それは鍛冶屋の見習い。まあ、冒険者としては完全に挫折した私だったけれど、そういうサポート的な仕事で『冒険』に携われていけたら有難いと思ったんだ。
『いつか、立派になったシュテフが私の銘の入った剣を持つ』
そんな想像をすると胸が躍った。それに、何より有難かったのが『住み込み』という条件だった。
鍛冶屋の親方も、奥様も仕事には厳しかったけれど、凄く優しい人達だった。最初の一年は、掃除ばかりだった。お店の掃除、炉の掃除。そんな事に明けくれたけど、そこはそれ、あのお屋敷でさんざんコキ使われていたから、むしろ楽しくてたまらなかった。そして、二年目に入って弟弟子、妹弟子が入ってくると、いよいよ私の本格的な修行が始まった。最初に習った生産鍛冶スキル、それは
『シュライフ(研磨)』
文字通り、刃物を研ぐ、鍛冶一年生にはもってこいのスキルだった。手渡されたのは一本の安物のナイフ。そしてそれには見覚えがあって、手に取った途端に何だか感慨深くなってしまった。だってそれは、始まりの街のすぐ外、あのウサギの魔物が落とす物で、旅の序盤、私やシュテフが愛用した物だったのだから。
「シュライフ!」
親方に教えてもらった通り、研ぎあがり、ピカピカに光るナイフをイメージして、私はスキルを発動させた。すると、次の瞬間、研げるどころか手の中のナイフは二つに折れた。
「シュライフ!」
「シュライフ!」
「シュライフ!!」
意地になった私は、何度も何度もスキルを練習した。でも、ここでも私のポンコツは発揮されてしまったんだ。だって、何度スキルを使っても、ナイフは研げるどころか、余計に欠けたり、折れたりばかりするのだから。そして、一年経っても成功しないまま、ついには弟弟子や、妹弟子達にすらスキルで先を越されるようになってしまった。どんどん、新しい鍛冶スキルを覚えて行く後輩達をしり目に、掃除ばかりに明けくれる日々が続いた。そしてある日、私はとうとう親方に呼ばれてしまったんだ。
「…マーシャ、君はマイスター制度というのを知っているかい?」
誰もいない事務所の中、私は小さく頷いた。そう、それは今まさに私が修行をしている制度だった。
「そう、マイスターは、国家試験に合格した親方で、君達のような生徒を持つ事が出来る現場の実務教員だ。そして、うちのような貧乏鍛冶屋でも、国から補助金が出るから何人も生徒を持つ事が出来る。ただし…」
「……はい」
「次、君が試験に合格しないと、いつまでも雇ってあげるわけにはいかない。近日中に、せめて第一段階の『シュライフ』だけでも習得しないと、その後は…」
親方はそこで言葉に詰まってしまった。まあ、言いたい事は充分に伝わった。要は、シュライフも出来ないようじゃ鍛冶屋になるのは諦めろっていう話だ。
その夜、私は宛がわれていた屋根裏部屋のベッドの中で色々考えた。初雪の舞う、とても寒い夜だった。まず頭に浮かんだのは、やっぱり身の振り方で、それは考えれば考える程に絶望的だった。だって、よくよく考えると魔法学校も中退、ここまで挫折ばかりしていて、この歳になっても私は何も資格を持っていない中学中退女だという事に気が付いたのだから。そうなると、石にしがみついてもこの鍛冶屋という職業だけは物にしなければいけない。…そう思ったんだ。
次に考えたのが、どうしてスキルが失敗するかの原因。そう、トライ&エラー。ちゃんと失敗を分析しないと前に進めない。今までのように『数打ちゃ当たる』ではダメだと思ったんだ。そして、原因として思いつくのは一つしか無かった。そう、このダダ漏れしている強大な魔力だ。じゃあ、どうする? と考えると、答えは二つしか無いように思われた。まず一つ目は、魔力の制御。でも、これは思いつくと同時に断念した。だってそもそもの出力が違いすぎる。最低出力でも桁違いなこの力、そんなの火炎放射気でケーキの上の蝋燭に火を付けるようなもので、絶対に成功するはずがない。
と、なると…
私は、こっそり部屋を出ると、そのまま足音を忍ばせて夜のお店へと向かった。そして静かに扉を開けて暗い店内に入ると、壁にいくつもの剣や武器達が月明かりを反射して輝いているのが見えた。それは、お店で売っていたり、親方がお客様に修理を頼まれた商品達。そう、魔力の出力を下げられないのであれば、対象の強度の方を上げればいいのだと気が付いたんだ。ナイフが折れた原因は明確。あんな安物では私の力に耐えきれなかったんだ。
早速私はいくつかの武器に目ぼしをつけた。まず、最初の一本目はマーブル模様の珍しい色合いの細長い剣。これは、親方のお爺ちゃんの代から引き受けている修復の仕事で、まだまだ完成していない一本だった。でもまあ、さすがにこれは華奢過ぎて、私の力を受け止められそうには見えなかった。そして、次に見つけたのがドラゴンキラー。拳にはめて使う剣。
「うん、これがいい!」
私は思わず腕組みして頷いた。通常よりも短くて肉厚な刀身はどうみても頑丈そうだから、相手にとって不足は無い。そして、何の躊躇もなく壁にかけられたそれを手に取ると、私は抱きしめてシュライフを使った。何度も、鋭く研げるまで何度も。よくよく考えたら、この時の私はおかしくなっていたのかも知れない。だって、もっともっと根本的な事を忘れていたのだから。
―そう、そもそもNPCの鍛冶屋が使うスキルに、魔力はちっとも関係ない事を。
翌朝、私は鍛冶屋を追い出された。そりゃそうだ、お店で一番高価なドラゴンキラーを砕けたクラッカーのようにしてしまったのだから。
魔法使い、冒険者に続いて鍛冶屋も、ものの見事にダメだった。あてもなく彷徨うゲイローの街。降り始めた大粒の雪は次第に強さを増していた。そして、真冬の昼間は、そんな私に容赦がないくらいに短かった。昼下がりになり、辺りが暗くなり始めると、歩き疲れた私はとうとうマーケット広場の近くのショーウィンドウを背に、石畳に腰を下ろしてしまった。
お手上げだった。何というか、職業安定所に行く元気も無かった。何をやっても追い出されるイメージしか湧かなかった。情けなくて泣けるばかりだった。そして、ぼんやりとオレンジ色に街灯が灯るころ、膝を抱えた私はもう立ちあがれなくなってしまったんだ。奇しくもその日は、私の十八回目の誕生日だった。
「ほら、誕生日だろ? 欲しい服を選んでごらんよ!」
その声に慌てて顔を上げたけど、それは勘違いだった。私に向けられたものじゃなかった。一組の若いカップルが、背後にあるお店のショーウィンドウを指さしながら笑っていた。
「じゃあ、あれかな。あの赤いドレス」
「え、あれ? せっかくだからもっと高いのでもいいのに!」
そんな声が聞こえてた。私は悔しくて強く膝を抱いて俯いた。でも、ますます悔しさは募った。どう見たってあの二人、金持ちのボンボンと、胸が大きいだけの馬鹿女じゃないか。どうして何の苦労も知らず、ヌクヌクと育ったあんた達が幸せそうに誕生日を祝えて、こんなに苦労した私がここで乞食のように膝を抱えている? それが理不尽すぎてますます泣けてきた。見上げた空は重い灰色で、見渡す限り一面の雪が舞っていた。街灯に照らされた辺りの結晶達だけが丸くオレンジ色に輝いている様が、とても綺麗でまた泣けた。
『努力は、続けてこその努力だ。途中で諦めたら努力とは呼べない』
頭の中で、そんな、どこかで聞いた事があるような言葉が聞こえた。
『一生懸命やった? 一生懸命かどうかは他人様が決める事で、自分で言うべき言葉じゃない』
そんな言葉も聞こえた。でも、そんなのクソ食らえだ。上から目線で弱者の事なんて気にも留めない、押しつけがましい強者のエゴだ!
胸を張って言う、何度でも言う。
私は努力した!
一生懸命やった!
魔法使いになりたかった。
でも、どんなに頑張っても地図しか出せなかった!
冒険者になりたかった。
でも、頑張れば頑張るほど泥沼になった!
鍛冶屋になりたかった。
一生懸命やったけど、ナイフの一本も研げなかった!
だから私はこうしてる。こうやって吹雪の中、膝を抱えて座ってる! したり顔で語る強者達よ、そこまで立派な事を言うのなら教えて。この先私はどうしたらいい!? 今晩、どこで眠ればいい!? 空腹を満たすのにどうしたらいい!? どうせ困った顔するばかりで答えてなんかくれないのでしょ?
ふと、道路向いの路地を、辺りを気にしながら歩く人影があるのに気が付いた。でも、それは一人や二人じゃ無かった。気が付くと、さっきから幾人もの男の人達が、人目を気にしながら角の細道を曲がって行くのが見えた。その先にあったのは色とりどりのネオンだった。こんなに寒い夜だと言うのに、透けるような薄い寝間着姿の女性達が次から次へと扉を開けて、そんな男性達を迎え入れているのが見えた。そして私は笑ってしまった。こんなダメ女でも、まだ生きて行く方法が一つだけ残されていると気が付いたんだ。
皮肉なものだ。村一番とうたわれたお母さんに似るのが辛かった。
どんどん女の身体になっていく自分が嫌いだった。
愛人の子供と言われるのが嫌で、自分の中の女性を否定してきたそんな私なのに、今晩暖かい寝床と一杯のスープを手に入れるために売れる物が残っているとすれば、もうそれくらいしか無いと思ってしまったのだから。
初めて男に抱かれるのならば、お父さんのような人がいいと思ってた。
美男子でなくてもいいから笑顔の優しい人がいいと思ってた。
そう思うと、情けなくて涙が止まらなくなった。でも仕方ない、もう私に残ってる価値のあるものなんて、この処女くらいしかないのだから。
そして、散々泣くに泣いて、いよいよネオン街に向かって腰を上げようとした時、私は不思議な事に気が付いた。だって、さっきまで強く頬を叩いていた雪が、いつの間にか止んでいるのだから。そう、周りを見てもまだ降り続いているというのに。
見上げると、赤いジャノメ傘があった。淡い紫色の着物の袖が揺れていた。
「まあまあ、ダメですよ、若いお譲さんがこんな寒い日に地面に座ってちゃ。腰が冷えたら大変じゃないですか」
まるで、野花のような可憐な笑顔がそこにあった。きっと気に入った傘でも買えて上機嫌なのだろう、その老婦人は風呂敷に包まれた細長い何かを抱きしめてほほ笑んでいた。
…この日、私は女将さんに拾われた。
(四)
「なあ、ちょっとでいいから触ってごらんよ。昔からあたしの家系は、形だけじゃなくて柔らかさも格別なんだ」
「や、やめてくれハイディ… 人がいっぱい見てるじゃないか」
まったく、もっと空気を読め、このバカカップルめ。こちとら女将さんとの涙の出会いの真っ最中でいい感じの雰囲気だったというのに、ものの見事にぶち壊してくれちゃって。誕生日の服を買うだけじゃ飽き足らず、公衆の面前でイチャコラし始めるとはいい度胸だ。
…ん?
まてよ? 何かおかしくない? だって、よくよく考えると寒いどころか暖かいのだから。そして薄らと目を開けると、目の前にはすっかり汗をかいたビールのジョッキがあった。フガフガと腰の抜けたアコーディオンの音と、沢山の武勇伝や笑い声が聞こえてた。そして、自分がいつの間にか寝ていた事や、またしても昔の夢を見ていた事に気が付いた。
「そんなツレない事いわずにさあ、ちょっとくらいいいじゃないか」
「ハ、ハイディ、ダメだって!?」
またしても後ろからバカップルの声が聞こえた。どうやらさっきからイチャついていたのはこいつららしい。思わず寝起きの悪さも手伝って、キっと睨んでやると、視界の先に赤い鎧の端が見えた。そして私はますます不機嫌になった。だってそれがビキニアーマーだったのだから。そう、あんな痴女は二人も居まい。恐らくお爺ちゃんのパーティの女剣士だ。と、言う事は相手の男はあのヒョロヒョロ勇者様か。あんな凄い風魔法を使うお爺ちゃんの仲間だから、どんな人達かと思ったら、見かけ通りの馬鹿じゃない。そりゃあ、こんな辺境までくる訳よ。そして私は、飲み残しのビールを一気に喉に流し込み、またも「ケプリ」と、と息をもらした。まだ乙女だ。と息と言ったらこれはと息だ。文句あるまい。
円卓の反対側では、まだ三つ編み眼鏡がのろけ話をしていた。改めて柱時計を見ると驚いた。だって、あんなに長い夢を見たというのに、実際にはほんの数分しか時間が過ぎて居なかったのだから。
それは私が再び退屈をもてあまし、パーカーのフードの右の紐と左の紐で一人綱引きに興じている時だった。不意に頭の中に女将さんの声が響いた。でもそれはおりいった相談でもなんでもなく『お店のレジ閉めで女子会に遅れちゃったけど、まだ会はやってる?』 という質問で、私が『…残念ながら』と返事をすると、
『良かったわ、丁度、松さんにお祝いのお魚を焼いてもらってたとこなの。今から一緒に持って行くわね』
と、可憐な喜び方をされたんだ。でも、これがまたしても事件の幕開けとなった。
しばらくして、巨大なお魚の塩焼きをお皿の上に乗せた女将さんが酒場の奥の暖簾をくぐってお店に姿を現すと、それを待ち構えていたかのようにそこら中の席から口笛や歓声が響き渡った。まったく、桁違いの看板娘だと苦笑いが出る。こんな物を見せつけられると、益々『十六代目』という言葉がプレシャーになるというもんだ。
「あら、皆さま今日もありがとうございます」
そう言ってお客様達に軽く会釈をすると
「ちょっとごめんなさいね、ちょっとごめんなさいね両手が塞がっているものですから」
と、大きなお魚の乗ったお皿を持って人混みを縫うようにこちらの席に向かってくる。そして、さすがにあのお皿は重そうだと思って席を立ったその時だった、私は一人の怪しい動きをする荒くれ者の姿を見つけてしまったんだ。それは、えらく露出の多い衣装を来た筋肉質なモヒカン頭の大男で、丸太のような腕にも胸にも鳥肌が立つくらいにびっちりと剛毛が茂っていた。そして、あんな大柄なのにもかかわらず、こそこそと湧きたつ常連さん達の後ろを隠れながら、女将さんに近づいていたんだ。
「危ない、女将さん!」
私はそう叫んで駆け出そうとしたのだけれども、人混みに阻まれて為す術もなくその犯行の一部始終を目の当たりにする事になってしまった。
不意に伸びた男の手。私が息を飲んだ次の瞬間、その一本一本が私の腕程ある毛むくじゃらの指達が、女将さんのお尻をムギュリと鷲掴みにした。
「きゃッ」
という声と同時に、あれほど賑わいを見せていた酒場が、まるで水をうったように静まり返った。そして一拍置いてそこら中からガタリと椅子が倒れる音がし始めた。
「こんちくしょうッ!」
「ふてえ野郎だ、俺達の女将さんに何て事しやがる!」
顔面蒼白。それを何かに例えるなら正にその時の私の顔がそうだったのだと思う。恐る恐る辺りを見回すと、何人ものお酒の入った男の人が袖を捲しあげて、拳を握りしめているのが見えた。その中には、驚く事に法衣の袖をめくって、煮干しのような腕を見せている昨日のお爺ちゃんまで混じってた。どんだけワールドワイドなんだ、女将さんの人気は。
―とにかく何とかしないと、数秒後には店がとんでもない事になる。
直感的にそう思った。でも、じゃあどうやって防ぐのか。私に何が出来るのか。と考えを進めても、こればっかりは答えが見つからず、ただ茫然とその様子を眺めている事しか出来なかった。そして、暴徒化した女将さんファン達が一斉に痴漢の大男に飛びかかろうとしたその時、ぺチンというという乾いた音が店に響いた。
「もう、お客さんったらオイタはいけませんよ。どうせ触るならこんなお婆ちゃんはおやめなさいな。うちのお宿は若くて美人が揃ってますからね。あ、でもやっぱり見るだけですよ!」
優しく大男の手の甲を叩いた女将さんはそう言うと、私の方を見てウインクをした。すると、今度は棒立ちのまま立ちつくす私が皆の注目の的になってしまった。
「おお、あのパーカーの娘もなかなかの美人だぞ」
「見た目は良くても、あれはやめとけ。有名な仲居だ、大酒のみだ」
「いいじゃないか大酒のみ、毎晩晩酌に付き合ってくれそうだ」
辺りからはそんな声が聞こえていたけれど、混乱した私の頭にはその意味までは届かなかった。だって、ムギュリだったんだよ。指、もの凄く食い込んでたんだよ。なのにどうして女将さんは、あんな余裕のある春風みたいな涼しげな対応が出来るのだろう。そんな事ばかりが頭の中を占領していたんだ。
「大丈夫よ、マーシャちゃん。あれは女将のスキル『のらりくらり』触らせてる幻影を周りに見せているだけで、実際は触られてなんかいないのよ」
すれ違いざま、女将さんは小さな声で私に耳打ちした。そしてその途端、安心すると同時に強張っていた全身から力が抜けてしまい、思わずペタリと椅子の上に尻もちをついてしまった。同僚の仲居さん達の間から
「だ、大丈夫マーシャちゃん!?」
「しっかりしてくださーい、マーシャせんぱーい!」
という声が一斉に上がった。そして、今さらながらにガタリと席を立つ音が背後のバカップルの席から聞こえた。
「…パーカーの…マーシャ…?」
続いてそんな声が聞こえると、私は即座にムっとした。
『ツボに入る』
そんな言葉がある。たいして悪気も含みもない言葉なのに、不意に心に突き刺さる。そんな例えだ。そして、後ろから聞こえたのが正にソレだった。ついさっきまで見ていた昔の苦い夢の数々。私を差し置いて寿退社するマコちゃんのお別れ会。背後でいちゃつくバカップル。女将を譲ると言い始めた女将さんと、見せつけられた絶対に追い着けない背中と度量。お酒の力も手伝って、私のムシャクシャした感情は一気に臨界点を迎えてしまったんだ。
『ヤツ当たりだ?』
ああ、そうよ。それがどうしたの? ヤツ当たりして何が悪いと言うの?
勢い任せに立ちあがり、腰を捻って思い切り後ろを睨む。
「いい年してパーカー着てて悪かったわね! それがアンタに何の関係があるって言うのよ!」
そこに見えたのは案の定あのバカップルの男の方。そう、昨日の昼間、人混みの中でちらりと見えた、あのヒョロヒョロした勇者様だった。
茫然と立ち尽くし、私を見ていた。
白銀に輝く鎧の胸には光り輝く勇者の紋章があった。
腰の勇者の剣には、見覚えのあるリボンが結んであった。
短く揃えた透けるくらいに明るいプラチナブロンド。青い瞳からはいくつもの大粒の涙がこぼれおちていた。
「…やっとみつけた」
震える唇がそう呟いた。
「…やっと会えた」
端正な顔立ちがクシャクシャになった。そして、震える唇は続けたんだ
「マーシャ姉…」
と。その瞬間、胸が、時間が止まる思いがした。いいや違う、反対だ。今まさにガチンと大きな音を立て、歯車と歯車がかみ合ったんだ。そして、忘れていた夢を見続けたその訳も理解した。全てはこの再会を予言していた。そう、ずっと停滞し止まっていた私の時計が再び動き出したんだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます