第2話【秋の夜長に舞い踊る蛍(下)】

               (一)

 気がつくと視界いっぱいのフローリング床があった。目の前に映る一面の板、最初はそれが何なのか理解不能だったけれど、時折雑巾を持った手が右へ左へ行ったり来たりするのが見えたから、どうやら、膝まづいた姿勢で床を掃除している事は理解が出来た。そして、よくよく考えると、どうにも慌てている自分がいる事にも気が付いた。

「マーシャ、お昼までにリビングの床も終わらすのよ!」

「あら、それなら私の部屋もよろしくね、マーシャお姉さま!」

突然、頭の上から奥様と、お譲さまの声が聞こえてきて、私はパニックを起こしそうになった。だって、今掃除している応接間だってとんでもなく広いのに、これを終わらせた後にリビングとお譲さまの部屋の床まで拭かないといけないなんて…。慌てて柱時計を見てゾっとする。だってこの調子だと、一部屋一五分で終わらせないと、絶対にお昼になんて間に合わないんだから。そしてまた視界いっぱいの板の床と、さらに速度を増した雑巾を持つ手が右へ左へと行き来した。ここら辺になると、さすがに自分でも夢だと気がついて、頭の中で「起きろマーシャ!」と声を掛けた。瞳を開けると、カーテンの隙間から大きな秋の満月と、月明かりに照らされた時計塔が見えた。

 中途半端な時間に、中途半端な起き方をしてしまった私は、とりあえずコップに一杯の水を汲むと、下着姿のままベッドに腰掛けた。昨夜、仕事上がりに自警団の面々と一緒に飲んだビールが抜けかけているのか、頭が少し重かった。

 二晩連続して、昔の夢を見た。これは今までに無い事だった。特に昨晩の両親との思い出とは違ってこの夢は、自分でも絶対に思い出したくない時期の物で、実際問題、ずっと記憶に蓋をして忘れていたはずだったから、どこをどうやったらこんな夢を見るのか、正直、見当すら付かなかった。少しだけカーテンを開け、夜の町並みを眺めて記憶を辿る。


 あの、村が燃えた夜。泣きながら一人、隣町へと続く街道を歩いていた私は、知らせを聞きつけて村へと向かう自警団と勇者様の一向に保護された。最初は皆、私の姿を見て『こんな夜更けの街道を少女が一人、よく魔物に襲われずにここまで歩いて来れたものだ』と、驚いていたけれど、その理由は、しばらくして誰もが知る事となった。

「村の中は全員結界破りの餌食になっていた…」

「いや、村の外も酷かった。逃げ出した村人は皆、外で待ち構えてた魔物にやられてた…」

膝を抱えて振える荷馬車の外で、そんな声が聞こえていた。そう、なんて事はない、村はもっとひどい有様になっていたんだ。付近に居た魔物たちは、血の匂いに誘われて村の入り口へと集まっていたから、偶然裏山側から逃げた私は生き延びる事が出来ただけだったんだ。

 その後私は、親戚中をたらいまわしになり、最後に行きついたのが夢で見た始まりの街にあるお屋敷だった。そう、あの日から一年後、普通だったら六年生、春からは中等部という頃だった。

 旦那様は、とても優しい方だった。私はそれまで一度も面識は無かったけれど、どうやらお父さんとは従兄という話で、とにかく良くしてもらった。ただし、それが裏目に出た。その頃になると、私の背は一段と伸びていた。というか、大人の身体になり始めていた。そして、毎日鏡で見る自分の顔に村一番と呼ばれたお母さんの面影を見るようになると、奥様の仕打ちが一段と強くなった。今思えば、それはごくごく当たり前な事だと思う。だって、ご自分の旦那様が突然面識の無い金髪の娘を引き取り、さらには可愛がったとなれば、誰もが愛人の子だと思うのが普通なのだから。そして私は、学校にも行かせてもらえないまま、召使いとしてお屋敷で働かされた。

 たぶん、この頃からだと思う、膨らみ始めた胸も、女らしくなっていく体つきも、本当なら嬉しいはずのお母さんに似て行く顔立ちですら汚らわしいと感じるようになってしまったのは。そう、愛人の子という虚偽のレッテルを張られ虐げられた私は、自分をより美しく、より女らしくしようとする、ある意味その年頃の女の子なら当たり前の行動ですら、まるで自分の性を売り物にする汚らしくて不潔な行為のように思えたんだ。

 そして、この頃から自分の中で『魔法使い』という存在が大きくなり始めた。でも、それは小さい頃の淡い憧れのような物では無く、むしろ呪いじみた意味合いが大きかった。そう、お父さんとお母さんの夢に向かう事で、いつまでも二人と繋がっていられるような気がしたんだ。皆を犠牲にして生き残った私には、何としてでも冒険者になって、仇を討たなくてはいけない使命があると思ったんだ。ただまあ、それは無茶な話と言えば無茶な話だった。だって、まともに小学校さえ行かせてもらえない私が魔法学校に入るだなんて、現実的にはどう考えてもありえない話なのだから。そして、肉体的に辛い仕事と、精神的に辛い魔法学校に通えないジレンマの板挟みになり、私は少しずつ疲れて行った。

 そんな日々が続く中、今思えばよく精神が壊れないでいたと我ながら驚くけれど、実のところギリギリで私の心を繋ぎとめていていてくれた物があった。それは、たまたまお遣いの途中の本屋さんで見つけた一冊の魔道書だった。まあ、魔道書と言えば大袈裟かも知れない。だってそれは、魔法学校初等部一年の教科書だったのだから。

 来る日も来る日も、私は仕事の合間にその本屋さんに足を運んだ。大通り沿いにあるガラスのショーウィンドには、いくつもの教科書が並べてあったから、たぶんそこは魔法学校指定の教科書を取り扱うお店だったのだろう。そして、それを眺めているうちに、私は閃いたんだ。そう、何も魔法学校に通わなくても、その教科書を読んで独学で勉強を重ねれば、多少時間はかかっても魔法使いに成れるのではないか、と。

 その時から、辛いはずの掃除も洗濯も少しずつ楽しくなり始めた。いやあ、目標があるって、凄いエネルギー源になるんだって初めて知った。だって、あの頃貰えていたお給金なんて、子供のお小遣い程度だったけれど、それでも床を一拭きする度に、シーツを一枚洗濯する度に、少しずつでもあの魔道書に近づいていくのが実感できたのだから。

 ある雪混じりの冷たい雨が降る日、私は小さな革袋いっぱいに貯めた小銭を持って、駆け足で本屋さんに向かった。そう、ようやく目標の額が溜まったんだ。十三歳になっていた。本屋のお爺さんはとても親切で、一枚一枚丁寧に小銭を数えると、今思えば消費税の分お金が足りてなかったにも関わらず、気づかないフリをして魔道書を紙袋に入れてくれた。そして、「お譲ちゃん、急がないと願書の締め切りが近いからね」と言って、入学願書と、魔法学校のパンフレットまで一緒に袋に入れてくれたんだ。まあ、実際のところ、それは私には無用の物ではあったのだけれども、何だか一人前に見られたようで嬉しかったのを覚えている。


 帰り道、喜びのあまりお屋敷まで待てなかった私は、途中の公園にある藤棚の下のベンチで魔道書を開けた。

『最初に覚えるのはどんな魔法だろう!?』

『お花かな、小さなお花が出せる魔法とかなら良いな』

そんな期待に胸を膨らませて教本の最初のページをめくると、そこにあったのは子供にも分かるように書かれた魔法という事象そのものに対しての説明だった。そう、俗に言う『はじめに』という部分だ。そしてそのページを読んだ私は、冷たい雨に打たれながら泣き始めた。

 そこで触れられていたのは、私の知らなかった『魔法の種子』という存在についての記述だった。そう、呪文を覚えただけでは魔法は使えないと初めて知ったんだ。この別名『魔法の図書館』『魔力の泉』とも呼ばれる種子を卒業の証として植えてらって初めて人は魔法を使う事が出来る。そう書かれていた。そして、同封されていた入学案内を見て、さらに打ちのめされた。入学金以外にも沢山のお金がかかる事を知ったんだ。毎月のお月謝、寮費に食費、教科書代に制服代、さらには、入学と同時に植えてもらう校内限定で魔法が使える『見習い魔道士の種子』にすらとんでもない額のお金がかかった。たかだか一冊の本を買うのに一年近くかかった。そのとき感じた感情は絶望そのものだった。

 私は泣いた、悔しくて泣いた。だって、あの時お父さんは言ったんだ。

『これなら中等部からはマーシャを隣町の魔法学校に入れてあげられそうだ』

と。いったい、何年間大好きなビールやお肉を我慢してそんな途方もない金額を貯めたのだろう。ひょっとしたら、まだ幼かった私が、無邪気に『魔法使いになりたい』と言ったその時から、何年も何年もかけて貯めたのかも知れない。そう思うと涙が止まらなかった。その夢と努力を踏みにじり、一瞬で灰にした『結界破り』が憎くて、憎くてまた泣いた。逆立ちしたって自力では魔法使いになれないと知って申し訳なくてさらに泣いた。


 嫌な昔話を思い出すと、ついつい胸が苦しくなってそのまま目が冴えてしまった。何年も見なかった夢。ずっと蓋をして思い出さないようにと見て見ぬふりを続けた過去。どうして今さらそんな事を思いだす? 憧れた職業にはことごとく挫折した。どれもこれも長続きはしなかった。そして一〇年、皮肉な事に、たいして思い入れのない仲居というこの仕事だけは不思議と続いている。そして私は知ったんだ。夢や憧れを仕事に持ち込んだって良い事は無いって。そういうのは、趣味でやってるくらいが丁度いいって。そして忙しい毎日に汗をして、お金を稼ぎ、そうやって私達は生きているのだと。それが普通なのだと、最近やっと思えるようになってきたというのに、どうして夢は今頃になって亡霊のように現れて、私の後ろ髪を引くのだろう。『思い出せ』『マーシャ、お前が成りたかったのは仲居なんかじゃないのだろ?』と言うのだろう。少しだけ開けていた窓からは、深夜の時計塔から聞こえる時間外れの鐘の音がした。




シャッフルワールド物語

【マーシャの地図】

第二話『秋の夜長に舞い踊る蛍(下)』


 

              (二)

 正午が近くなった頃、時間をもてあました私は予定よりは随分と早いけれど街の中心にあるマーケット広場にやって来た。実はこれには理由があって、本日の私のお仕事は仲居じゃなくて、旅の一座の公演の際に温泉組合が出店する屋台のお手伝いだったから。これ、協賛している各お宿から代表で一人ずつ出るのだけど、我がヴェステンベルガーホフからは喜んでいいのか、悲しんでいいのか絶対的な運動量という理由で何故か私が選ばれた。あと、時間よりも早くにアパートメントを出たのは、昨夜お風呂で散々マコちゃんに怒られたから、久しぶりに自分用のシャンプーを買いに来たのと、あのまま部屋にいたら、また嫌な事を思い出しそうだったから。

 私は噴水に腰掛けると、広場の屋台で売っていたライ麦パンとニシンの酢漬けのサンドイッチを頬張りながら駆けて行く子供達や、道行く観光のお客様達を眺めていた。時計塔の前の広場では、今晩の公演の舞台を作る賑やかな金槌の音が響いていて、街は活気に満ち溢れていた。普段、職場の皆やお客様達に囲まれて『元気なマーシャ』をやっているせいか、ひとりぼっちこうやって街の風景の一部になるのも何だか新鮮な気がして嫌じゃなかった。久しぶりに素の自分に戻れたような気がしたんだ。しかしまあ、一〇年近くこの街に住み、日々仕事に追われていると忘れがちになるけれど、正午が近づいて片付けが始ってもなお沢山の人々が行きかう朝市や賑わう土産物屋さんを見ると、改めてここは有名な観光地なのだとつくづく思った。

『都外れの温泉街ゲイロー』

長い、長い初級エリアを越えたその先、中級エリアに入ってすぐに広がる広大な平原地帯。その果ての山岳地帯の入り口にあるこの街は、背後を四〇〇〇メートル級の山々に、平原側は高い城壁で囲まれた歴史のある温泉地で、根強く東方の文化が息づいているこの世界でも珍しい場所だ。だから、文化が混じり合った現代でも、女将さんやマコちゃんのように、黒髪で東方系の名を持つ人達が多く住んでいるし、異文化情緒があって観光客にも人気なのだと思う。そして、こんなにも長い間、私がこの街に居られたのも、ここがその通り名どおりの場所だったからなのかも知れない。

『都外れ』

それが意味するのは、書いて字の如く最寄りの大きな街から随分と離れているという事。しかもそれが、魔王城へと向かう攻略ルートからも大きく外れているから、この街で冒険者を見る事はまずない。それでも遠い昔はこの山岳地帯には有名なマップや、えらくドロップの良いボスが居たそうだけど、なにやら危険すぎるとかでクエストが封印されてしまうと、誰もわざわざこんな遠回りはしなくなったのだそうだ。そしてそれが挫折組の私にはそれが居心地が良かった。だって、夢を叶えた人達を見なくて済むから。


 時計塔のお昼の鐘が鳴る頃になると、街は一段と賑わいを増していた。ここよりも、もう少し城壁寄り、遠く離れた最後の街から続く長い単線の終着駅、ゲイロー駅の方からやってくる人達、向かう人達。それは、お昼を食べてから駅へ向かおうとしている前日宿泊のお客様と、駅を降りてマーケット広場を目指す本日宿泊のお客様達だった。そしてそう考えると、何も冒険者だけが得をしている訳じゃないように思えてくる。だって、列車が使えるのはNPCだけに許された特権なのだから。

 それはそんな、どこを見るでもなくただボーっと人混みを眺めている時だった。一瞬眩しさに目が眩んで咄嗟に目をしかめると、私は思わず瞳を隠すように掌で庇を作った。そして慌てて周りを見渡すと、それが何だったのかはすぐ分かった。そう、人混みの中をチラチラと舞う光を見つけたんだ。きっと子供か誰かが鏡を使って悪戯をしているのかも知れない。そう思ってお茶目な犯人を捜す。そして次の瞬間、私の胸がズキリと痛んだ。そして、反射的に目を逸らしてしまった。

人混みの中、緑色の法衣に身を包んだ、老人の後姿が見えた。

その前を歩く少年魔法使いの姿が見えた。

そして、恐らく戦士の物だろう、ちらりと赤い鎧の一部が見えた後に、光を乱反射している白銀の鎧までもが見えて私は確信した。そう、それはこの街では見る事が無いはずの集団、勇者様の一行、冒険者だという事を。咄嗟に目そらしてしまったのが引け目を感じたからだと直感して唇を噛みしめた。

『どうしてこれを恥ずかしいと感じるの!?』

『いいじゃない、冒険者を目指したなんて随分と昔の話だよね、マーシャ?』

『今は仲居として、それなりに充実した日々を送ってるんだから、それでいいじゃない?』

そんな必死の自問自答を繰り返したけれど、実のところ心の中にあったのは、

『早くどっかに行っちゃって!』

『見えない所に行ってしまって!』

という感情だった。気がつくと私は、まるで呪文のようにそればかりを頭の中で繰り返していた。そして、たぶんこういうのを『泣きっ面に蜂』と、言うのかも知れない。そう、そう思えば思う程、祈れば祈る程に嫌な事は向こうからやって来てしまうのだから。

「ちょいとそこのお嬢ちゃん、少々お時間よろしいかな?」

突然、俯いた頭の上から聞こえて来たのはそんな声だった。もう、見なくてもその声の主が誰かなんて分かっていた。そう、一番後ろを歩いていた、あの僧侶のお爺ちゃんに違いない。『どうしてわざわざこの人混みの中、私の所まで来るの!?』そんな気持ちがわき上がると、そのまま私は無視をした。膝を抱え、俯いたまま聞こえないフリをしたんだ。すると今度は、

「どうしたんじゃお嬢ちゃん、お腹でも痛いのかえ?」

と、声を掛けられて、ヒールが使える僧侶相手に、私の取った方法はむしろ逆効果だったと後悔した。そして返答に困った私は、事もあろうか

「別にあなたには関係ないでしょ! ほっといてよッ!」

と、顔を上げると同時にそう叫んでしまった。そして驚いた顔をして私を見ているお爺ちゃんと目が合って瞬時に後悔した。だって、本当に心配そうな顔してこっちを見てたんだもん。それなのに私は、何も悪い事なんてしていないのに、冒険者だというだけでこんな優しそうなお爺ちゃんにひどい事を言ってしまったのだから。そしてまた俯いた。

「まあまあ、そうカリカリしなさんな。せっかくの美人が台無しじゃぞ。まあ、そんな時は芝居でも見て気分転換でもするといい。ほら」

今度はそんな声がして、恐る恐る顔を上げる。すると、目の前にあったのは白くて長い眉毛やお髭の顔じゃなくて、一枚のチラシだった。

ワケも分からないままそれを受け取って目をやると、瞬時に私は自分の行いを恥じた。だってそれは、お宿にも貼ってあるのと同じ、今晩のお芝居の案内だったのだから。確かに、よくよく見ると、その勇者様の一行の雰囲気がおかしい事に気が付いた。だって、僧侶は腰が曲がったヨボヨボのお爺ちゃんだし、魔法使いはまだ子供。人混みで後姿しか見えないけれど、勇者様なんかはヒョロヒョロと背が高くて、鎧から見えるあの細い腕ではとても剣なんて振れそうに無かったのだから。そして、極めつけは戦士だった。だって私、初めて見たんだよ、本当にビキニアーマーを着けてる女剣士を。なにあれ、ほとんどただの痴女じゃない。そして、皆が手に持った今晩のお芝居のチラシの束を道行く人に配っていたんだ。そう、ここまで来て、私はやっと気が付いた。そりゃそうよ、あんなパーティが初級エリアを越えてこんな所まで来れる訳がないじゃない。

…そう、それは今晩お芝居をする旅の一座だったんだ。

「ごめんなさい、お爺ちゃん! 私、酷い事言っちゃって!」

慌ててそう叫んだけれど、その背中はすでに人混みで見えなくなっていて、長い帽子の先だけが右へ左へ揺れていた。


                (三)

「組合長! トウモロコシが届きましたけど、どこに置いときましょう!?」

「ラムネは何本くらい水に浸けとけばいいっすかねぇ?」

「ほら、もっと強く扇げよ、そんなんじゃ炭がおきないだろうがッ!」

夕暮れ時になると、マーケット広場に組合が作ったテントにはそんな賑やかな言葉が飛び交っていた。この日ばかりは私の戦闘服も若草色の着物じゃなくて、パーカーの上に羽織った『ゲイロー温泉協同組合』と書かれた皆とお揃いの青い法被だった。あ、それとねじり鉢巻きね。そう、この時ばかりは『仲居のマーシャ』改め『売り子のマーシャ』です。

 何とか設営が終わった目の前の舞台では、見るからにお金にガメツそうな顔した町長と組合長が入念にマイクのチェックをしていて、放射線状に並べられたパイプ椅子には、すでにチラホラとお客様の姿があった。どの手にも、綿アメや焼きトウモロコシが握られていて、まだ少し早い秋の収穫祭気分を満喫しているようだった。

 私は働いた、とにかく体を動かした。本当は、チラリと舞台の袖の辺りまで行ったんだよ。一言、あのお爺ちゃんにお昼のお詫びを言いたかったから、綿アメを持って。でも、旅の一座には残念ながら会えなかった。たぶん、まだ時間が早かったんだと思う。その代わり、街の青年団の皆が慌ただしく走り回ってるのが見えたから、私は早々に退散しちゃったんだ。そして、心に引っ掛かったままのこのモヤモヤした感情が嫌だったから、いつものように、がむしゃらに働く事にしたんだ。そう、お詫びなら公演が終わってからも言えるのだから。

「ひょっとしてアンタ、ヴェステンベルガーのマーシャちゃんかい?」

一心不乱に働いていると、不意に名前を呼ばれて振り向いた。すると、そこには私と同じ青い法被にねじり鉢巻きをした数人の女の人達が立っていた。

「アンタ、凄く働くんだって? もし良かったらウチのお宿においでよ! 人手が無くて困ってんだよ!」

「いやいやそれよりも、まずは私だよ! 探し物の占いが得意だって聞いたよ。昔の男にもらったネックレス、どこに行ったか探しておくれよ!」

「…お、思い出の品なんですか?」

「いいや、質屋に入れようと思ってさ」

そして私達は一斉に吹きだした。どうやらそこに立っていたのは他のお宿の仲居さん達のようだった。そして、私なんか、毎日街外れにあるアパートメントから山の高台にあるお宿を往復するばかりで、大して他のお宿の人達とは交流もないはずなのに、いつの間にやら名前を覚えられているあたり、改めて一〇年という月日の長さと、意外と狭い業界なのだということを再確認した。でも…、それにしても探し物の占いが得意なんて噂が他所のお宿まで流れてるなんて、あまりにもゾっとして出所を尋ねてみると、質屋に売ると言っていた中年の仲居さんは、

「うちの近所のお嬢ちゃんが、何でも見つけるすごい先輩がいるって皆にふれ回ってたよ。ほら、大きな眼鏡をかけたおさげの…」

と、言いながら左右の手を耳の横で握って、エアおさげを揺らしてみせた。

…あのやろう、昨日の今日で大々的にデマを広めやがって。あとで覚えてやがれ。


 完全に陽が暮れて辺りが夜の帳に包まれる頃になると、夕方の最終列車で到着されたお客様も加わって、会場は活気と熱気で溢れかえっていた。私が担当したのは焼きトウモロコシ。ゲイローの高原地帯で取れた糖度の高いトウモロコシを炭火で焼いて、お醤油を塗ってまた炙り、お代と引き換えにお客様に渡すのがお仕事。そして、さっきからいったい何本売ったのか思い出すのが辛くなり始めた頃、突然私の頬に、何やら冷たい物が当てられて思わず悲鳴を上げてしまった。

「ほらほら、マーシャちゃんもどうせ、休日出でお給金出ないんだろ?」

慌てて振り向くと、そう言って自分の担当しているビール売り場の水桶から良く冷えたのを一本抜き、私に差し出しているさっきのネックレスの仲居さんが立っていた。

「…い、いいんですか、お仕事中に飲んじゃって!?」

「いいのいいの、飲んでなきゃやってられないでしょ。それにほら、皆ももう始めちゃってるよ!」

そう言って目配せした先では、組合の皆がテントの奥の方で、持ち寄った一升瓶を互いに注ぎ合ってる男の人達の姿が見えた。おお、ザッツ 田舎の青年団。私は炭を扇いでいた団扇を首元に向けると、そのまま受け取ったビールを一口喉に流し込んだ。シュワシュワとした冷たさが喉を通って落ちて行く。トウモロコシを焼く熱気に混じって時折吹く秋の夜風が、汗で滲んだ首元を撫でるのが気持ち良かった。開演まではあと少し、ステージの上で繰り広げられている町長と組合長の掛け合い漫才は絶妙に面白くなかったけれど、それはそれで田舎の秋祭りの雰囲気があった。そして、会場にお揃いのお宿の浴衣を着た昨日のご夫婦の姿を見つけると、なんとものどかな夜だなあと、私は自分の故郷とは随分と感じの違う祭りの風景を堪能した。


…だけど、またしても事件は起きてしまったんだ。


 会場がざわめき始めたのは、それからまたしばらく経った頃だった。最初に私が違和感を覚えたのは、会場の雰囲気ではなくて、何気に聞き流していた町長と組合長の漫才のネタだった。はじめはデジャブかと思った。でも、よくよく耳を凝らすと、その内容は聞いた覚えがある事に気が付いたんだ。目を凝らしてステージを見ると、漫談を続ける二人の顔があからさまに狼狽していた。私はトウモロコシを焼く手を止めてテントから出ると、背後にある時計塔を見上げた。そして気が付いたんだ。すでに公演開始の時間から三〇分以上も経過している事に。それでも初めは、何かトラブルでもあったのかな? その程度に考えていた。でも、テントに戻った私は、考えていた以上に大問題が発生している事を知る事になったんだ。

「あ、あの、ヴェステンベルガーホフのマリー・シャルロット リヒターさんでしょうか?」

不意にかけられた言葉はそれだった。珍しくフルネームで呼ばれて慌てて振りかえると、そこに立っていたのは、スーツの上に法被を着た若い女性だった。私はその知的な雰囲気に見覚えがあった。そうそれは、町長の秘書をやっている女性だったんだ。

「…え、ええ、確かに私がマリー・シャルロットですけど、何か?」

恐る恐るそう答えると、神妙な顔をした秘書さんは、

「実は、折り入ってご相談があるのですが、あの、ここでは人目もありますし、出来れば舞台裏に来ていただけないでしょうか?」

と呟いた。そして私は一抹の不安を覚えたんだ。



               (四)

「旅の一座の姿がどこにも見当たらない!?」

連れられて行った舞台の袖で、私は思わず大声を上げてしまった。そしてそれが機密事項だという事に気がつくと、慌てて自分の口を塞いだ。確かに、そう言われてみれば、妙に舞台裏が慌ただしかった。

「いつ一座が来ても良いように、衣装は準備しておけよ!」

「ダメだ、宿にもいない!」

「とにかくいい加減、二人の漫才じゃ間がもたん! 誰か、何か芸の出来る人間はいないのか!?」

至る所でそんな青年団の人達の声が響いていた。そして、私は何となく、どうして自分が呼ばれたのか、その理由を理解した。

「あの、私、たいした芸とか持ってませんからね?」

思い切ってキッパリと断ると、どうやら呼ばれた理由は他にあるみたいだった。それどころか、事態はますます深刻さ度合いを増している事を知ったんだ。

「…やっぱり秋に旅の一座なんて呼んじゃいけなかったんだ」

「…しかも、演目が『氷の竜』だろ。どうする、これは祟りだぞ!?」

そう、慌てふためく青年団の中から、そんな声が聞こえてきたんだ。そして、それに違和感を覚えた私が、秘書さんに問いただすと、彼女は重々しく事態を説明してくれた。

 かつて、遠い、遠い昔、この街には封印されたクエストがあったのだという。そしてそれが発生するトリガーが『秋祭りの夜』そして『街に訪れる旅の一座』。さらに、それによって召喚されるボスモンスターが『氷の竜』だったのだと彼女は教えてくれた。そして、私は愕然とすると同時に疑問も抱いた。それは、後ろの青年団の人が言った通りで、旅の一座が来る今日は秋で、賑やかなイベントはやっているけれど、厳密に言えば秋祭りの日では無いという点だった。私は知っている。まるで何十万文字からなる緻密に組み上げられた魔法の呪文のように、この現世に実在しない魔物やクエストを呼び出す条件もまた、緻密でシビアな事を。それこそ、あの神経質なご婦人が言った通り、寝ぼけて一文字セリフを間違えても魔法やクエストは発生しない。じゃあ、旅の一座に何が起きている!? 瞬間、あのお爺ちゃんの顔が脳裏をよぎった。

「…では、私は何をすれば?」

ゴクリと息を飲み込み本題を切り出すと、やはり同じように息を飲んだ秘書さんは、

「旅の一座を探してほしいのです」

と、小さく答えた。そして思わず眩暈を覚えてしまった私は、大きな溜息をこぼしたんだ。どうやら、マコちゃんが吹聴した噂は、とんでもない早さでこの街に広がっているらしい。

「マリーさん、助けて下さい!」

「マーシャさん、お願いします!」

「あなたの探し物の占いに、この街の存亡がかかってるんです!」

秘書さんだけではなく、今の今まで慌てふためいていた街の青年団の皆までが、私に向かって頭を下げていた。ほんと、こんなんだったら芸の一つでもしていた方が気が楽だった。でも、確かに皆が言うとおりと言えば言うとおりで、こんなにも沢山のお客様が遠路はるばる倍率の高いチケットを買ってまでも来てくれたんだ。これで公演が開催されないとなると、この街が被る風評被害は甚大だ。たかだか一〇年。それでもお世話になっているには違いないし、やっぱりそういうのは住民としても、観光業に携わる仲居としても避けたい事態ではあった。ただ、マコちゃんが流した噂なんてデタラメだ。私に無くしたネックレスを見つけるような特殊な力は無い。

でも…

――対象が人間なら話は別かも知れない。

 瞳を閉じて、イメージを固める。緑色の法衣、白くて長い眉毛とお髭、曲がった腰に、僧侶らしからぬヒョロリと尖った帽子と杖。そして私は確信した。人混みの中、少しだけ体の一部分が見えただけの他のメンバーは無理でも、あのお爺ちゃんだけなら見つけられる、と。ただし、確信と同時に不安もあった。それはやっぱり魔物の関与。話を聞く限り、旅の一座が魔物がらみの事件に巻き込まれている可能性は否めない。そうなった時、私一人に何が出来るというのだろう。それは、そんな不安だった。でも、昼間に謝る事が出来なかったあのお爺ちゃん。このまま死なれてしまうのは、何だか凄く後味が悪い気がしたんだ。

「…分かりました。引き受けます」

大きく息を吸って、私は静かにそう答えた。そしてその後すぐに

「ただし、誰も私が占いをしている姿を見ないで下さい。それが条件です」

と、付け加えた。『まったく、これはいったい何という鶴の恩返しなんだ?』と、心の中で苦笑いをすると、歓喜の声を上げ始めた皆をしり目に私は駆け出したんだ。


 もう一度、イメージを固めながら舞台の袖から飛び降りる。目指したのは、観客が大勢いる舞台表側ではなく裏側。真っ暗な暗がり。着地と同時に集中。色んな思い出や感情が湧きあがって来た。破れた夢、逃げてきたこの街、今頃になって目を覚ました後ろ髪を引く未練。そして全部を飲み込むと、大きく大地を蹴って、誰も居ない舞台裏の暗闇に飛び出した。

――目覚めろ、マーシャ!

私は胸の奥に眠る魔法の種子に火をつけた。

肩幅に足を広げて重心を落とし、拳を握って瞳を閉じた。血液に乗り、リンパに乗り、魔法の種子から生まれた緑色の炎が体中を巡るのを感じた。

さらに意識を集中する。

すると、瞼の裏に大きな木製の扉が現れた。

イメージの中で、左右の扉に手を当てた私は、そのまま思いっきり押した。

現れたのは、広大な書庫。

そして私はそこに置かれた一冊の魔道書を手に取った。

―そうだ、本当の私は仲居なんかじゃない。

―NPCなんかでもない。

―私は

―私は…

「地図の大魔女、マリー・シャルロット リヒターだッ!」


勢いよく、腰に当てた右手を左前方に突き出した。そしてさらに叫んだ。魔道書の表紙に書かれていたその文字を。


「グローセラントカーテ(大きな地図)!」


私ならではの力技。一気に魔道書一冊分をすっ飛ばす圧倒的でデタラメな呪文の省略。そう、魔法の名前を唱えるだけの無詠唱。それと同時に広げられた右手は、一気に左から右へと闇を切った。そして、それに合わせて何もない空間に、巨大な地図が姿を現した。

 私は広げられた地図を手に取り、一気に読みとる。すると、それはすぐに見つかった。地図上に描かれた赤い点。あのお爺ちゃんの居場所だった。パーティメンバーならいざ知らず、たった一度、短い時間だけ会った事のある、しかもNPCを地図に投影だなんて、我ながら、相変わらず常識無視のバカげた魔力だと呆れてしまった。そう、昨日の夜、奥様を見つけた占いの正体がこれだ。そして、子供達の前で鶴が消えたタネ明かしも。どんな大きさも思いのまま、任意に出したり消したり出来る中級地図魔法、グローセラントカーテ。私の得意技だ。ただし、鶴を折る程度の大きさや、館内地図を出すのとは今回は訳が違った。なにせ、投影するのはこの街全体の詳細地図。そんな大きなの、人前で簡単には出せるわけがない。

 そして、改めてお爺ちゃんの位置を確認した私は愕然とした。地図を持つ手が震えているのが自分でも分かった。

―だって、お爺ちゃんを現す赤い点は、城壁の外側にあったのだから。

 そして、地図を畳んだ私はさらに愕然とした。だって、そこに居るはずの無い瞳がこちらを見て唖然としていたのだから。大きな黒髪のおさげが揺れていた。



             (五)

 走った、私は全力で夜の街を走った。

『…あんにゃろう、途中で仕事を早引きしやがったな!』

という思いと、

『魔法を見られた!?』

という後悔が胸を締め付けたけれど、今はそんなのお構いなしだった。私は驚いたまま茫然と立ち尽くす彼女をそのままに駆け出していた。マーケット広場から直接裏路地に入ると、そのまま点々とネオンが灯る人通りもまばらな飲み屋街を一気に駆け抜ける。そう、目指したのは大平原に面した街の入り口、ゲイロー門。お爺ちゃんを現す赤い点、それがあったのは門から出てすぐの所、しかも城壁に張り付くように記されていた。私が頼まれた事、それは旅の一座を見つける事。ならば、その仕事はとうに終わっている。終わっているはずなのに、一度駆け出した足は、もう止める事が出来なかった。

嫌な想像が脳裏をよぎる。

凄惨な状況が瞼に浮かぶ。

恐らくお爺ちゃん達は、何かの拍子に城門の外に出てしまったんだ。そして、高い壁を背にして動けなくなった―。そこから連想される事柄は、たったの一つだった。

『村の中は全員結界破りの餌食になっていた…』

『いや、村の外も酷かった。逃げ出した村人は皆、外で待ち構えてた魔物にやられてた…』

あの日の嫌な記憶が蘇る。そう、きっと旅の一座は魔物に囲まれているに違いない。だったら、どうして私は走っている? こんなにも息を切らしてまで。夜に現る魔物は、昼間のそれとは比べ物にならないほどに強い。だったら、一座はすでに…。不意に弱気な想像が頭に浮かぶ。咄嗟に私は思い切り首を横に振り、それを頭から追い出した。

―いいや、助けたい。

たとえそれが数秒、ううん、一瞬のチャンスしか残されていなかったとしても、少しでも生きている可能性があるならば私は助けてあげたい。これはきっと、幼くて無力だった少女の自分に果たせなかったあの日の無念だ。その後悔が私の足を、心を急き立ているんだ。


 もうすでにお店の明かりも消えた城壁沿いに続く長い商店街をひた走る。遠くに、ぼんやりと月明かりに照らされた街の入り口の目印、城壁の上に建てられた自警団の見張り櫓(やぐら)が見えてきた。

「グローセラントカーテ!」

走りながら、右手を一閃、左から右に振り抜いた。そして現れた地図を取り、もう一度確認した私はさらに加速した。

―赤い点が消えて無い。

―まだ、生きていてくれている!


 城壁沿いの商店街を駆け抜けて街の入り口広場に出た瞬間、事態は一気に好転した。なんて事は無い、当たり前と言えば当たり前の事だけど、ゲイロー門の左右には、当番の自警団員の姿が見えたんだ。しかも、そのうちの一人はよく知っている顔だったので、私はさらに胸をなで下ろした。とにかく、強い味方が出来た!

「お願いジャガイモ君、一緒に来て!!」

私はそう叫ぶと、門番の片方、ゴツゴツとした岩のように、上にも横にも大きな体つきの割には可愛いつぶらな瞳をした若い自警団員の手首を掴むと、そのままの勢いで門の外へと飛び出そうとした。そう、冒険者上がりのこの人がいれば、門の周辺を探索するくらいなら何とかなるって思ったんだ。だけど、それは実現しなかった。

「何やってるんだマーシャちゃん! こんな時間にNPCの君が外に出るなんて死ぬ気かいッ!?」

手を引く後ろから、そんな声がかけられた。そしてその大きな体は、どんなに引っ張ってもびくとも動きはしなかったんだ。

『私はNPCなんかじゃない!』

咄嗟にそう言いかけて、ぐっと言葉を飲み込んだ。

「お願い、お願いだから一緒に来てよ、ワケは後で話すから!」

「ダメだって、見てごらんよあれを!」

逆に、手首を掴まれて引っ張られる。そして抱きつかれるように動きを封じられ、宙に浮いた足をバタバタさせる私は初めて気が付いた。門の外の暗がりに、無数に光る赤い眼があることを。それは、頭に二つの顔を持つ、狼達の群れだった。

「満月が近くて、夜の魔物達の活性が上がってるんだ! あんな数、さすがに僕達でもどうにもならないよ!」

その言葉にお爺ちゃん達の末路が目に浮かんで背筋が震えた。そして大きく一度息を飲みこんだけど、やっぱり私は諦められなくて思い切り頭を振った。

「離せ、離して! 離してくれないともう二度とビール奢られてあげないんだから! 飲み屋で会っても、当分は他人のフリしてやるんだから!」

その言葉に、一瞬拘束する手が緩んだ。そしてその瞬間、私は再び大地を蹴った。正直、この先、どうなるかなんて分からなかった。中級エリアの夜の魔物の群れを相手にして、倒すどころか、何秒ともつ自信すら無かった。それでも私は行きたかった。

 一気に手を振り払って城門の外へと飛び出すと、赤い点があった位置を思い出す。

――門を出てすぐ右手の壁ッ!!!

瞬時に体重移動して体をひねると、私は飛び出した勢いのまま城門の右手に向かって踵を返した。…そして、そこで完全に足が止まってしまったんだ。

――だって、そこにはもう、誰の姿も無かったのだから。

呆然とした。

眩暈がした。

あまりの喪失感に足にも、体にも力が入らなかった。

『間に…合わなかった…』

『助けて…あげられなかった…』

そんな想いが胸に走った時だった。案の定、無数の狼達が私に向かって飛びかかって来るのが横目に見えた。その瞬間、ゆっくりと流れる絶望的な時間の中で私はようやく悟ったような気がする。

自分が本当は何をしたかったのかを。

何のために、息を切らしてまでこんな所まで走ってきたのかを。

それは、旅の一行を助けたかったのじゃなかったのかも知れない。

走馬灯のように、色んな光景や、感情が蘇ってきた。


そうか、私は死にたかったのか。


―使命だと思っていた冒険者には成れなかった。

―大魔女、エクストラアウスナーメ(大例外)なんて呼ばれながらも魔法使いとして完全に挫折した。

―今の私は抜け殻だ。あの日から消化試合のような人生を送るただの抜け殻だ。


 そして、むき出しになった鋭い牙が私の首筋に食い込もうとしたその瞬間、思わず喜びを感じてしまった。恍惚とした表情を浮かべてしまった。ああ、これで楽になれる。皆の所にやっと行けると。そう、ずっと私は死にたかったんだ。楽になりたかったんだ。後ろめたい気持ちを抱え、このまま生き続けるのが辛かったんだ。誰かを守ろうとした大義名分さえあれば、死んでも許されると思ったんだ。そして、そう思うと、何故急に、昔の夢を見始めたのかの合点がいった。そう、それは私の死期が近付いていたから。

 だけど、いよいよ狼の牙が私の喉笛を噛みちぎる…と、思われたその瞬間、目を疑う事態が起きた。突然、その身体と首がズルリとズレたかと思うと、そのまま地面に落ちたんだ。私の瞳には、まるで鋭利な刃物で切られたような、ううん、まるで空間そのものがズレたかのような、返り血すら飛ぶ間を与えぬ鋭い切断面の残像が残っていた。そしてまた次の瞬間、左右から飛びかかろうとしていた二匹の双頭の狼の首と体が、音も無くズルリとズレて地面に落ちると、か細い悲鳴とともに無数の赤い瞳達は夜の闇へと消えて行った。

―死ね…なかった。

私はただ、茫然と立ち尽くし、その光景を眺める事しか出来なかった。何が起きたのか全く理解が出来なかった。そして突然、

「ほっほっほ、昼間の元気なお嬢ちゃんよ、ワシが思うに『夜遊び』というのは、そういう類の遊び方では無いと思うぞ」

という笑い声が、頭の遥か上から聞こえてきた。ぎこちなく、まるで油の切れた機械細工のように声がする方に向かって顔を上げた私は見た。高い城壁のさらに上、自警団の見張り櫓に身を乗り出すように腰掛けて、こちらを見降ろして笑っているお爺ちゃんの姿を。そして咄嗟に理解した。どうしてあの赤い点が、沿うように城壁の外側にあったのかを。そう、その体は、確かに城壁の外側に出ていたんだ。

「…お、お爺ちゃん…な、何をしてるの…そ、そんな所で…」

「何って、ワシはここから夢見の塔を見ておっただけじゃ。街中(まちなか)からじゃと、ここが一番見晴らしがいいんでのぅ」

そう言うと、彼は手にしたお酒の小瓶を口に運んだ。

「…夢見の…塔…?」

「ん? なんじゃお前さん、自分の街の名物も知らんのか? あの、街の真ん中にそびえ立つ、時計塔の事じゃよ。あれが夜中に鐘を鳴らす時、忘れとった昔の思い出を夢に見せてくれるんじゃそうな」

―!?

「忘れていた、古い記憶を夢に見せる?」

知らない、私、そんな話知らない。それどころかこの一〇年、一度もそんな夢なんて見た事ない。じゃあ、なんで今になって!?

 そんな疑問が頭に過ぎった時だった。櫓の上のお爺ちゃんが、ヒョイと飛び降りるのが見えたから、私は思わず心臓が止まる思いがした。でも、その体は予想に反して、ふわりふわりと宙を舞い、ゆっくりと目の前に降り立ったんだ。暗がりに淡く光る、風の魔力が見えていた。

「…お、お爺ちゃん、あなた、何者?」

「何者とな? お主、この恰好を見てまだ分からんのか? ワシは見ての通りの僧侶じゃ、それ以外の何に見えると言うんじゃ? それに『何者』とは、むしろお前さんに聞きたいくらいじゃぞ、お嬢ちゃん、NPCのフリなどしおって。昼間も、魔王のように膨大な魔力を垂れ流しておるから、遠くにおっても鳥肌が立ったぞ!」

そして思わず返答に困って口ごもってしまったその瞬間、空に大きな花火が上がった。遠くのマーケット広場からは、歓声と笛や太鼓の音が聞こえ始めた。

「お、いよいよ芝居が始まるようじゃの?」

「!? 芝居って? お爺ちゃんここに居るじゃない? 旅の一座はどうしたのよ!?」

「どうしたって、やつら遅刻でもしたんじゃろ。さっき、最終便の後の貨物列車から慌てて飛び出すのが櫓から見えおったぞ?」

その言葉で、一瞬頭がこんがらがった。

「あれ、じゃあ、お爺ちゃん達は?」

「だから、お前さんは見て分からんのか、目の前で狼どもから助けてやったろう? ワシらは旅の一座などではない、見ての通りの冒険者じゃ!」

「で、でも昼間にチラシを…」

すると腰の曲がった白いお髭の自称僧侶は照れくさそうに頭を掻くと

「いやあ、ゆうてもワシらは貧乏勇者の一行でのぅ、ああいうアルバイトもせんと宿代をねん出するのもままならんのじゃて。なんせ、この街は観光地なだけあって相場が高いんじゃよ」

と、ばつの悪そうな笑顔を作った。

そしてそのまま私は、まるで腰が抜けたように、その場にへたり込んでしまったんだ。



 この日、時間遅れで始まった演目『氷の竜』。人混みの後ろの後ろ、お爺ちゃんと並んで立ち見したそれは、美しくも儚くて、悲しい愛の物語だった。

 死に別れた最愛の妻の魂を探して旅を続ける一人の剣士は、長い旅の終わりに妻の故郷へと辿りつく。そして彼は一匹の巨大な氷の竜が暴れ回っているという話を聞かされた。すでに年老いて、剣の腕もさび付いていた彼は『どうせ死ぬなら妻の故郷で』と、その討伐の依頼を承諾した。

 長い山岳地帯の道のりを歩き、辿りついた氷の花園と呼ばれる場所で、ついに剣士は竜と対峙した。そして、彼は知る事となる。その魔物が、死した妻の魂を媒体にして具現化していた事に。

 公演もクライマックスに入ると、二人の命がけの戦いは幾つもの笛や太鼓の音に彩られた華麗な舞いとして演じられた。剣を手に舞台の上を舞う二人、目にも止まらぬ早着替え、化粧直し、互いに一太刀交える度に、まるで光の結晶のような氷の粒が夜空に舞い散って、剣士はどんどん若返り、竜は次第に美しい女性の姿に変わっていった。そして最後に二人は抱き合ったまま氷の柱に飲み込まれると、粉々に砕けて夜の空に飛び散った。光を乱反射するそれは、まるで秋の夜に舞い踊る蛍みたいだと私は思った。

 鼻をすする音がした。隣を見ると、お爺ちゃんが泣いていた。ついつい悪戯心が顔を出し、「どうしたの、感動した!?」と、尋ねると、「年を取ると涙もろくなってイカん。そもそも舞台演芸は、演出と脚本が大げさすぎるんじゃ!」と、ボヤいてた。

 プンスカと怒っているお爺ちゃんの向こうにそびえ立つ夢見の塔が見えた。気がつくと私は、お芝居の感動も冷めやらぬまま、しばらくの間それを見つめていた。

「あなたは私に何をさせたいの?」

と、知らず知らず呟いていた。

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