マーシャの地図
@nishiyamasou
第一部 【マーシャの地図】
第1話【秋の夜長に舞い踊る蛍(上)】
目の前には、真っ赤に燃える一面の大海原が広がっていた。その、見渡す限りの赤と金に輝いて波打つ世界はあまりにも綺麗で、そして眩しくて。でも、少しでも目を反らしてしまうと消えて無くなりそうなほどに儚く見えたから、私は時間も、身動きも、息をする事さえも忘れて、ただただ眺めていたんだ。涙が頬を伝う感触がした。だけど、それを拭うどころか瞬きもせず、その光景を瞳に焼きつけた。秋の夕風が吹いていた。
―これは私の村。
―私が生まれた大好きな故郷。
足元に広がる真っ赤な大海原は、たわわに実った一面の麦畑だった。夕暮れ時、少し肌寒さを感じるようになった風が私の前髪を揺らす度、目の前に広がる景色も大きく波打って流れて行った。その様がまるで海のように見えたんだ。ランドセルを下ろしたばかりの背中が少しひんやりするのが気持ち良かった。
…ホントはね、海なんて一度も見た事がないんだ。
でも赤と金の波間には、ちゃんとお船も浮かんでた。あれは村の家々。もう、夕食時だから、どの煙突からも白い煙が立ち上って、それが絵本で読んだお船のようだった。遠くに浮かぶ小島は、収穫が終わったばかりの葡萄畑。もうすぐ始まる収穫祭で振る舞われる新酒、今年はどんな味だろうって、お父さんが楽しみにしてた。遠くには港も見えた。L字に曲がった堤防。あれは、私が通う小学校の屋根。もうすっかり影絵のようになった山々からは山鳥の声が聞こえていた。
突然、村のあちらこちらから夕方を告げる『かえりましょ』が流れ出した。割れて、擦れたスピーカーの音。少しずつズレたその音色は、まるで音楽の時間に習った輪唱みたい。麦の地平線に沈みかけた夕陽が、まるで焼き立てのパンの上で蕩けるチーズかバターのようで、なんとも美味しそうだと、ついつい私は思ってしまった。
「今年は麦の出来がいい。この分なら、中学校からはマーシャを隣町の魔法学校に入れてあげられそうだ」
不意に、ゴツゴツとした重い掌が私の頭の上に乗せられた。そしてそのままグシャグシャと撫で始めたものだから、私はおもいっきりホッペを膨らました。そう、これはいつものお父さんの癖だ。とにかく私の頭をワシャワシャするのが好きなんだ。確かに、小さかった頃はこの大きな手が頭に乗せられると、凄く安心出来て好きだったんだけど、さすがに五年生にもなると子供扱いされてるみたいで嫌なんだよ。
「お父さんはすぐに魔法使い、魔法使いって言う! それ、ちっちゃい頃の夢だからね!」
わざとらしく不機嫌そうな顔を作って振り向くと、すぐ目の前に私が結婚記念日にお小遣いを貯めてプレゼントした、お母さんとお揃いのブローチがあった。見上げると、眩しそうに目を細めた麦わら帽子の顔があった。
「ママから聞いたぞ! 何でも、マーシャはクラスでも一番世界地図を見るのが上手で、色んな町の名前を覚えているそうじゃないか! これはまさに、神様が『冒険者になりなさい』って言って下さってるんだよ。これは凄い事だぞ、この村始まって以来、初めての冒険者の誕生だ!」
お父さんは、凄く大げさな口調でそう言うと、不意に黙って麦の海を眺めた。
「この世界は広い。この夕陽の先、地平線の向こうにも色んな街や景色がある。パパもママも、この村から出た事が無いからね、若い頃に外の世界が見れなくて少しだけ後悔しているのさ。だから、マーシャにはこの広大な世界を見てきてほしい。僕は心からそう思ってるんだ。お金の事を苦にして魔法使いになるのを諦めたのなら、それは気にしなくてもいい。ほら見てごらん、この麦達もそう言って笑っている」
…あのね、お父さん。私はべつに、我慢して魔法使いになるのを諦めたんじゃないんだよ。
それに、そもそも魔法使いになりたいって言い出したのだって、二人とも刈入れの時期になると『腰が痛い』『腰が痛い』って言うじゃない。だから私が魔法使いになって、重い麦の穂達を宙に浮かせて運んであげようって思っただけなんだよ。冒険者だとか、そもそも関係ないんだよ。
実は、私には二人には言えない本当の夢があるんだ。それは、お父さんやお母さんと一緒にこの村で暮らしていく事。ほら、私って一人っ子じゃない? だから、いつか結婚したら隣に家を建てるの。そしたら絶対に毎晩賑やかになって楽しいって思うんだよ。そして、皆で麦を育てるの。私の未来はそんなんでじゅうぶん幸せなんだよ。この村を離れて私だけどっか行くなんて、やっぱりそれは寂しいよ。二人の傍がいいんだよ。
「二人ともーっ! 晩御飯、冷めちゃうわよーーーっ!」
それからしばらくお父さんと二人、風に吹かれながら一面の麦畑を眺めていると、突然お母さんの声がして、私は思わずギクリとしてしまった。だって本当はお父さんを晩御飯に呼びに来ただけなのに、すっかり景色に魅入ってしまっていたのだから。振りかえると、お家の前でお母さんが手を振っていた。皆の影が長く、長く伸びていた。
この日の晩御飯は凄かった。何が凄いって、肉が出た! 最後に食卓にお肉が出たのはいつの事だろう? しかも今晩のメニューが、私の大好物のヒューナーフリカッセだったから、これはもう夢としか言いようが無かった。思わず「何かいい事でもあったの!?」って聞くと、お父さん「裏のシューマッハさんが、勘定を間違えて鶏を多く落としちゃったからタダで分けてもらったんだ」だなんてバカ正直に言うもんだから、せっかく感じた幸福感が半減してしまった。
この夜のお父さんは、とにかく上機嫌だった。いつもは節約ばかりしてお酒なんて飲まないのに、この日ばかりはヴァイスビアーを片手に、何度も何度も「やっぱりビールも小麦がいいなぁ!」って言ってるんだもん。そして、機嫌が良いのはお母さんもだった。突然「マーシャ、秋祭りには踊りの衣装を新調しないとね! 去年一年で随分背が伸びちゃったから!」なんて言い出すから私は驚いた。だって、収穫祭の衣装なんてずっと近所のお姉さんのお下がりしか着た事が無かったんだよ?
「…豊作でも値の落ちない小麦を。そう思って誰も育てていない新種の麦を育て始めた」
突然、グラスをランプに掲げてお父さんはそう呟いた。
「去年も、一昨年も、その前もダメだった。ママにも、マーシャにも貧乏な想いをいっぱいさせてしまった。村の連中が裏で僕の事を『馬鹿』だと罵っているのも知っている。でも見ろ、今年は実った! ついに! しかもたわわにだ! これでマーシャを魔法学校に入れてあげられる!」
そしてお父さんはまた一口、泣きながらビールを飲んだ。いつもなら、この話が出るとすぐに私とお母さんで『またはじまっちゃったね』って顔を見合わせるのに、この時ばかりは喜んでる二人が嬉しくて、私は思わず収穫祭の舞いを踊りだしてしまった。そしてお母さんもそれにつられて踊りだすと、二人でテーブルの周りをクルクルと回ったんだ。
私は、どうして自分の名前が『マリー・シャルロット』なのか知っている。私が生まれた時、お父さんは『マリー』、お母さんは『シャルロット』と名付けたかったらしい。でも、結局二人とも頑固で譲らなかったから、この名前になったそうだ。そんな頑固な二人だから、魔法学校に行きたくない件もなかなかい出せずにいたけれど、この時ばかりは『こんなに嬉しそうにしてくれるなら、私、魔法使いになってもいいかなぁ?』と、真剣に考えてしまったのは内緒の内緒だった。
「お母さん、今年も一緒に踊ろうね!」
「まだまだ村一番の踊り子の座は譲らないわよ、マーシャ!」
この日は、随分遅くまで私の家には笑い声が溢れていた。
そして、これが私の覚えている二人の最後の笑顔になった。
その夜、私は巨大な狼男に食いちぎられる二人を見た。お父さんも、お母さんも鍬や鋤を手に持って、突然村の中に湧いて出た魔物から私を守ろうとした。どんなに血だらけになっても、一言も『痛い』だなんて言わなかった、逃げなかった。それどころか、首筋に噛みつかれてもなお、腹を切り裂かれてもなお「お願い、逃げてマーシャ!」「振りむかずに走るんだマーシャ!」と、何度も私の名前を呼んだんだ。
転びながら、何度も何度も後ろ髪を引かれながら、私は暗い山道を走った。至る所が擦り剝けて血が滲んでいた。木の枝が当たる度、色んな所が切れて痛かった。それでも逃げた、走り続けた。そして、山道を登り切り、見覚えのある峠の辻の茶屋まで来た事に気が付くと、私は初めて振りむいたんだ。
燃えていた。
お父さんの自慢の麦畑が燃えていた。
村中が炎に包まれていた。
そして、巨大な咆哮が聞こえた。
この夜、私達の村を襲ったのは、神様が定めた絶対のルール『魔物は町には入れない』その断りの外に極々稀に生まれる『結界破り』と呼ばれる魔物(バグ)だった。
ゆっくりと瞳を開くと、朝陽が私の顔を照らしていた。カーテンの隙間からはゲイローの街のシンボル、背の高い時計塔が見えていたから自分が今どこにいるのかすぐには理解が出来なかった。いったい何年ぶりだろう、この悪夢を見るのは。本当は、途中で気づいてた。これが夢である事を。もうどうにもならない過去に起きた現実である事を。でも、久しぶりに会えたあの笑顔が嬉しくて、私は瞳を開けれないまま、浅い眠りの中を漂った。でも、やっぱり最後は悲しい結末を迎えてしまった。いつだって天災は、子供達から帰る場所を奪う。
―そう、あれが私の村。
―私が生まれた、地図からも消えた帰れない故郷。
シャッフルワールド物語
【マーシャの地図】
第一話『秋の夜長に舞い踊る蛍(上)』
(一)
―打ち水。
お宿の門周りに濃いマーブル模様が浮かぶ度に、立ち上る湯気に混じって焼けた石の匂いがした。久しぶりに見る悲しい夢で目覚めた朝、私はいてもたってもいられなくて、いつもより早く出勤したのだけれども、さすがにこれは暑すぎる。もう、暦の上では九月も下旬だというのに何この熱気、ほとんど真夏じゃない。いったい何たる異常気象でしょうか。そしてそう思った途端に私は小首を傾げた。だって、よくよく考えたらここ数年、なんだかんだで『今年は異常気象だ』『今年は異常気象だ』と、言ってたような気がしたのだから。
着物の袖からハンカチを取り出して額の汗を拭う。この若草色の着物に袖を通すようになってから、これが何度目の秋だろう。と、ふと考えた。このところ、毎日の仕事の忙しさに流されるように生きていたから、月日が流れるのが異様なくらいに早かった気がする。ちょっと前の事を思い出そうにも、それが昨年の事だったのか、それとも一昨年の出来事だったのかが今一つあやふやで、寿退社で辞めていった新人ちゃん達の顔を基準に遡らないと思い出せなくなっているのだから。そして、お宿から麓の温泉街に続く長い坂道を、カタカタとランドセルを鳴らしながら元気に登ってくる小学生達の姿を眺めながら考える。確か、十八の時に女将さんに拾われたわけだから…と、思った途端にゾっとした。あらやだ、だって、もう一〇年になるじゃない。
「俺は絶対に戦士な!」
「じゃあ、私は魔法使いね!」
「ヨハンは大人しいから僧侶で決定!」
ごっこ遊びをしながら駆けて来る子供達。その中の一人が私を見つけて、「あ、手品のお姉さんだ! またアレ見せてよ!」と、大声を上げた。すると、残りの子達も集まってきて、瞬く間に私は囲まれてしまった。そして、
「仕方ないわねぇ、一回だけだからね」
と、苦笑いをすると、着物の袖の中に手を入れて一枚の紙を取り出した。そして子供達の前で鶴を折ると、そのまま注目する皆の鼻先で右の掌の上に乗せたそれを握った。その後、今度は握られた右拳の横に左手の拳を並べると、
「どっちの手に持ってるでしょう!?」
と、ほほ笑んだ。その途端、笑いだす子供達。
「仲居のお姉さん、やるならもっと上手にやりなよ!」
「そうそう、目の前で握るの見えてたもん!」
「うん、握る音も聞こえたよ!」
唯一、前に一度見せた事がある子だけが、したり顔でそんな友達の様子を見ていた。そして、私がもう一度「どっち?」と尋ねると、皆が一斉に私の右手を指さした。
「残念でしたぁ」
その声と同時に、開かれた右の掌の上に何も乗っていないのを見て皆が驚いた。
「じゃ、じゃあ、こっちなの?」
そう言って、今度は一斉にまだ握られている左手に注目する。
そして左手を開くとさらなる歓声が上がった。
「こっちも残念!」
「ど、どうやってやったの!?」
私を見上げる純粋な瞳達。
「それは、内緒! それよりもあんた達、早く帰らないとお母さんに叱られちゃうよ! さあさ、早く帰った、帰った!」
すると子供達は、軽い舌打ちをするとすぐにまた駆け出して行った。
「やっぱり俺、魔法使いになろうかな…」
「ずるい! 魔法使いは私だもん!」
と、ごっこ遊びの続きが聞こえてきて、それが昔の自分と重なって見えた。
「がんばれ、少年少女。NPCからの冒険者の道は険しいぞ!」
再び手桶と柄杓を手に取った私は、遠ざかって行く大きなランドセルを眺めながらそう呟いた。
『皆さんには、将来の夢ってありますか?
就きたい職業ってありますか?
私にもありましたよ。
あの子達と一緒、誰もが一度は夢見る冒険者です。
絶対にならなくちゃいけないって思ってたんですけどね。
結局なれませんでした。
今は、故郷から遠く離れたこの温泉街で、旅館の仲居をやっています。
まあ、二十八年も人間やってりゃ分かります。現実ってそんなもんですよね』
再び打ち水を始めてしばらくすると、次に坂の下から聞こえて来たのは
「キーーーーーーーーーーッ!」
という奇妙な鳴き声だった。私は思わず魔物が現れたのかと思って、ついつい手にした柄杓と手桶を構えてしまったのだけれども、いつまで経っても一向に襲って来ないから、そのまま小首を傾げて、しばらく身構えて立っていると、今度は背後から
「まッ、マーシャちゃん、なんてはしたない格好!」
「マーシャせんぱーい、さすがにそれは女子としてダメでしょー!?」
という声がして恐る恐る振り返った。すると、少し離れたお宿の玄関先に居たのは定刻通りに着替えを終えた、入社当時の私の教育係り、仲居頭のウェムラーさんと、今まさに私が教育係をしている今年入ったばかりの新人のマコちゃんだった。ふと、我に返ると確かに太ももの辺りがスースーする。そして、恐る恐る下を見て恥ずかしさで硬直した。だって、着物の前がはだけて、太ももどころか下着まで露わになっているのが目に映ったのだから。
その後、私はお宿の玄関先でウェムラーさんからは仲居としての在り方を、10個近く年下のマコちゃんからは女子としての在り方について有難いお小言を頂いていると、さっきの奇声がますます近づいて来る事に気がついた。慌てて振り向くと、それは魔物じゃなくて、魔物のような風貌の年配のご夫婦だった。旦那様よりも頭二つ程ひょろりと背の高いスーツ姿の神経質そうな奥様は、魔物に例えると怪鳥系。そして背が低く、真夏のような日差しを反射する頭に浮かぶ汗をハンカチで拭いながら平謝りしているガマガエルのような旦那様。そんなご夫婦が、うちのお宿めがけて歩いていた。
「キーーーーッ、どうして貴方は駅から近いお宿を予約しなかったの! 新調したばかりの靴でこんな坂道を登らされたらたまったもんじゃありません! もう、足が痛いったらありゃしない!」
「い、いや、だっておまえ、調べたらここのお宿がゲイローでは一番の老舗で、評価だって一番高いんだよ…」
「うるさい! だから貴方はバカなのよ! 結婚記念日にこんな痛い思いをさせられるくらいなら、駅から近い二番のお宿の方が良いに決まってるじゃないの! それに、何ですか『一番の老舗』って、そんなのただ古臭いだけじゃないですか!!」
そんなやり取りが聞こえてきて、私達は思わず顔を見合わせて固まってしまった。
『面倒くさいお客様が来ちゃいましたね…』
『誰がお部屋に案内するんですか、嫌ですよ、私!?』
恐らく、皆の頭にあったのはその言葉だと思う。そう、確かにあのご夫婦が言った通り、このお宿『ヴェステンベルガーホフ』は、『都外れの温泉街ゲイロー』と呼ばれるこの街の中でも一番歴史が古くて、すこぶる評判も高い。だから、うちにみえるお客様のほとんどが、そもそも好印象を持って来て下さる方が多く、品の良い方も多いから、私達仲居も随分とそれに助けられている。そう、一言で言えば仕事が『やりやすい』んだ。でも、あのご夫婦、特に奥様を見る限りいきなりの低印象。しかも激怒しているとなると、担当するのは正直ご勘弁こうむりたかった。
『ほら、中堅ドコロの切り込み隊長、頑張りなさいマーシャちゃん!』
『いやいや、やっぱりここは仲居頭の実力を…』
そんな短いアイコンタクトの後、二人して
『じゃあ、いっそビギナーズラックに期待してマコちゃんに…』
と、横を向くと、ぴょこたんぴょこたんと三つ編みを弾ませて、わくわくしながら『どちらが修羅場を見せてくれるんですか!?』と期待に胸を膨らませている笑顔が見えた。うん、さすがに間違ってもこの娘にだけは任せちゃいけないような気がする。
「すみませーん、今晩予約しているー…」
という旦那様の声が、いよいよ門の辺りで聞こえると、私はしぶしぶ踵を返す決心をした。
「…しかたないなぁ」
と、大きなため息をつく。そう、昔、女将さんから聞いた話を思い出したんだ。
『あのね、マーシャちゃん。ご機嫌が悪いお客様にそのまま敷居を跨いでもらっちゃダメよ。それこそ仲居の腕の見せ所なんだから。そのために私達は、玄関先でお客様をお出迎えするの。お宿では楽しい思いだけしてもらわなきゃね』
それは、そんな言葉だった。しかし、実際それをやるのはさすがに至難の業だと思った。特に、私みたいになりたくて仲居になったワケでも、夢を持ってこの仕事を続けているわけでもない『なんとなく』な人間に、そんな『腕』あるとは到底思えなかった。
―やれやれ、まずはどんな言葉をかけるべきか?
そんな事を考えながら、渋々引きつった笑顔を作ったその時だった。振り向きかけた私の鼻の先を優しい山野草の香りが横切った。
「あらあら! これは遠路はるばるありがとうございます!」
続けて聞こえてきたのは、そんな可憐な言葉だった。そして、完全に振り返った私は見た。淡い藤色の着物の袖が揺れているのを。それは、春風のように吹き抜けて、頬笑みながらお客様のお荷物に手を伸ばす女将さんの姿だった。
―当館十五代目女将、清音 シュミット・クライメンダール。
年齢だけ聞けばウェムラーさんよりもさらに年上だと聞かされているから、もう随分なご高齢なんだと思う。でも、その立ち振る舞いは、まるで可憐で純真無垢な少女のようだった。そして、彼女こそがこのお宿を街一番にしている最大の存在であることを、私達仲居は全員が知っていた。
「あらあら、靴ズレですか? それは大変!」
「い、いえいえ女将さん、重いですから…」
「こう見えて私、力持ちなんですよ!」
あの見るからに神経質そうで、つい今の今まで激怒していた奥様の顔がみるみるほぐれていくのが分かった。そして、無様な格好で呆気に取れている私の横を通り過ぎ、玄関の暖簾をくぐる頃には、笑い声さえ聞こえて来てたんだ。分からなかった。いったいどんな魔法を使えば、あんな芸当が出来るのか見当もつかなかった。
「あれは、清音さんの天性だから、落ち込まなくても大丈夫」
不意にそんな声がして、私の肩に手が置かれた。そして、同じようにいつまでも暖簾の向こうに消えて行った後姿を眺めるウェムラーさんがいたんだ。
「…天…性?」
「そうそう、昔からああなのよ女将さん。経験とかじゃなくていきなり出来ちゃうの」
そして私はそれを聞いて、また大きなため息をこぼしてしまった。どうにも無理だ、私には。たとえこの先、どれだけこの仕事を続けようと、あの高みには行ける気がしなかった。
『あなたには夢がありますか?
憧れていた職業には就けましたか?』
その問いに、多くの人はこう答えるのだと思う。
『子供の頃に夢見た職業に、そのまま就けるのなんて人は一握りもいないよ』
『それとは違う仕事を続けるうちに、やりがいを見つけて人はプロになって行くのさ』
って。じゃあ、どっちにもなれない私みたいな人間は、どうしたらいいの?
夢見た仕事にはことごとく就けなかった。一〇年続いているこの仕事だって、自分の本当の居場所とは違う気がする。そう、天職ってのはたぶん、女将さんみたいな人だ。私みたいな腰かけは、この先何十年続けてもあんな高みになんて行けやしない。
もう一度、大きなため息を漏らすと、そんな私を見てニシシと笑う三つ編み眼鏡がいた。…くそ、あとで覚えてやがれ。
(二)
女将さんに呼ばれた私は大急ぎでツッカケを脱ぎ捨てると、スリッパも履かずにそのまま玄関を上がって、まだ明かりが点いていないフロントに飛び込んだ。
「おや、どうしたんだいマーシャちゃん、そんなに慌てて!?」
たぶん、あまりに私がドタバタ上がりこんだせいか、フロントと暖簾一つで繋がっている厨房から板長の松さんが驚いた顔を覗かせた。
「チェックイン前に到着しちゃったお客さんが靴ズレおこしちゃって、絆創膏探してるんですけど、松さん救急箱知りません!?」
フロントの中でしゃがみ込み、棚の中を漁りながらそう言うと、松さんは
「ああ、スマンスマン、さっき丁稚のシノが指切ったんで借りてるよ。ちょっと待ってておくれ」
と、言うと、厨房の奥にある板場から救急箱を持って来てくれた。そして、それを受け取って小走りで女将さん達が居るロビーに向かって駆け出すと、手前の土産物売り場のあたりまで、淹れたてのコーヒーの香りと、皆の笑い声がした。
「まあまあ、お子様を二人とも魔法学校に? それはまた大変だったでしょう?」
という女将さんの声が聞こえて、私は思わず足を止めてしまった。そう、正直あまり好きな話題じゃ無かったんだ。ズキズキと、胸の奥の古傷がうずく感覚がした。
「それがそれ、主人の仕事以外に、クエスト発注のお仕事がありましたからね」
「まあ、クエスト発注って、それはまた大変なお仕事じゃありませんか!?」
「そうなんですよ、この人、結婚するまでそんな家督のある家だなんて、一言も言わなかったんですよ! しかも、聞いてみたらクエストの発生条件が『晴れた夜』だ、なんて言うじゃありませんか! それこそ毎晩、冒険者達が家まで訪ねて来て寝れたもんじゃありませんの! 毎日天気予報をチェックして、枕が高くして眠れる曇りとか雨の日がどんなに嬉しかった事か。それがまた、夜半になって晴れたりすると、深夜にドアが叩かれるんですよ。何度寝ぼけてクエスト発生のセリフを間違えて冒険者に怒られた事か! まあ、そんな無礼者は叩き返しちゃうんですけどね!」
そこで皆が楽しそうに爆笑した。
「ただ、幸いにも主人の家が代々受け継いでいたのが地元のボス戦クエストだったものだから、入ってくる成功報酬は馬鹿にはならなくて。おかげで私達NPCでも、なんとか子供二人、魔法学校を卒業させる事が出来ましたの」
さすがに苦手な話題で会話に割り込む気は起きなかったけれど、そんな私でも思わず「クエスト発注の成功報酬だけで二人も魔法学校卒業させるって、いったいどんだけ大きな街に住んでるのよ…」と、思わず土産物コーナーの天井を仰いでしまった。そして話題が、
「それが、先日長男の嫁が『そろそろ私が仕事を引き継ぐから、御父様御母様は、久しぶりにご旅行にでも』って言ってくれたんですのよ? 今までこんな晴れた日に夫婦で旅行なんてした事なくて…」
という感動話の流れになった辺りで、私は三人の前に姿を現す決意をした。
「あら、ちょうどよかったわ、マーシャちゃん。私はコーヒーの準備で手が離せないから、奥様の御足を見てもらえる?」
その言葉に、私は短く「はい」と頷くと、ロビーのソファーでくつろぐ奥様の足に消毒をし始めた。そりゃあもう、めっちゃ注意してやりましたよ。ここで機嫌を損ねたら、女将さんの苦労が台無しですからね。
絆創膏を貼りながらつくづく思う。なんだかんだ言って、この奥様も苦労をされたのだなぁ、と。そう、この世界には大きく分けて二種類の人間が居る。俗に言う冒険者と呼ばれる人種と、私達のようなNPC、ノーマルピープルカテゴライズドだ。そして、確かに星の数ほど冒険者はいるけれど、実際のところその何百倍も、何千倍も世の中にはNPCが生きていて、そんな私達がこの世界の日常を回してる。そして、あの子供達のように、多くのNPC達は冒険者になる事を夢見るけれど、それはかなりの狭き門、文字通りの夢物語だということを私は身をもって知っている。
勇者、僧侶、戦士に魔法使い。四種類の職業。そもそも勇者様にはいきなりは成れない。初級エリア、中級エリア、上級エリアと別れたこの世界で、長い旅路の末に中級エリアの最深部まで辿りつかないと転職が出来ないんだ。エリアごとにかかる平均的な月日を巷では『6・3・3で12年』って言うから、勇者様に転職するまでに実に9年近くがかかることになる。と、なると、まずは残り三つの職業のいずれかで冒険を始めるわけだけど、魔法使いになるにはとんでもなくお金がかかった。まず、魔法学校を卒業しないとフィールドで魔法が使えない。それが最大のネックだった。ちなみにこれは、許可の類ではなくて、魔力の源『魔法の種子』に由来する。魔法学校を卒業しないと、そもそもこれを植えて貰えない。だから、私のように貧乏な家に生まれたNPCは逆立ちしても魔法が使えないし、魔法使いにお金持ちの三男坊や、ワガママなお嬢様が多い理由がこれだ。そして、僧侶様になるにはお金は要らない代わりにとんでもなく時間がかかった。寺院で悟りを開くまでお坊さんとしての修行が必要で、最終的に自分の寺院を持つか、僧侶としての『魔法の種子』を植えてもらうかを選ぶんだそうだ。僧侶様のほとんどが爺ちゃんな理由はこれだ。そう言った意味では、お金も時間もかからず、わりかしすぐ成れる職業は戦士なのだけれども、それこそ各パーティの残り一つの空席を求めて、そこら中から体力自慢や、怪物級の運動神経の持ち主なんかが集まるから、結局冒険者になるのはかなりの難関だった。
「ところで、その記念的なご旅行にゲイローを選ばれた理由はどうしてなのですか?」
そんな、思わず上の空でほろ苦い過去の経験を回想していた時、女将さんが不意にそう尋ねた。確かに、言われてみるとその通りだと思った。だって、この人、あまり温泉とかお宿の質とかには興味が無さそうだったのだから。それが、何を思ってこんな『都外れ』を選んだのか、全く興味が無いと言うと嘘になった。すると一口コーヒーを口にした奥様はロビーの壁に貼ってある一枚のポスターを眺めると
「ほら、あれですよ、あれ」
と、答えた。それは、明日の晩に麓の温泉街の中心、マーケット広場で開催される旅の一座の公演の物だった。演目は『氷の竜』。一座の花形だと思われるえらく流し目が色っぽい厚化粧の男性が、アップで写っていた。どうやらこの奥様、その花形俳優のファンらしく、それが理由でこのゲイローを旅行先に選んだみたい。そりゃあ、温泉や御宿の評判は二の次になるわよね。でも、その続き聞くと、次第に話の雲行きが怪しくなった。奥様は不意に、沈んだ表情を浮かべると、
「それがこの演目、今回の公演のためだけに書かれた新作だって言うじゃありませんか、ファンの間では前評判が高くて前売り券が手に入らなかったんです。それでも、せめて一目でもリョータロー様のお顔が拝見したくて立ち見の当日券でも思って来たのですが、この足で立ちっぱなしは…」
と、それまでの元気はどこへやら、突然俯いてしまわれたんだ。
「あら、マーシャちゃん?」
「はい、女将さん!」
それを聞いた私達は、思わずある事に気が付いた。そして女将さんが
「各旅館、今回の公演には協賛していますから、温泉組合から招待席のチケットを頂いていますのよ。よろしければ奥様、いかがです?」
と、提案すると奥様は驚いた顔をすると、その後物凄く恐縮がられた。
「いえいえ奥様、タダ券貰ったって、明日は土曜日ですから、私達仲居は誰も行けなくて逆に困ってたくらいなんですよ」
と、私が言うと、ますます恐縮した顔をされたけど、女将さんの「チケットも、本当に公演を見たい方に使われた方が幸せだと思いますよ」の一言がトドメになって、ようやく首を縦に振ってくれたんだ。そして、私は慌てて立ちあがると、小走りでフロントに向かって駆け出した。
チケットはすぐに見つかった。なんてことない、フロントのカウンターの上に茶封筒に入れられたまま置いてあった。そして私は何気に広げられていた今日の部屋割り台帳に目をやった。そう、あのご夫婦が誰の担当になるのか気になったんだ。そして、それもすぐに見つかった。だって、すでにチェックイン済みのお部屋は一つしか無かったのだから。だけど、担当の仲居を見て青ざめた。だってその部屋、マコちゃんが担当だったんだ。確かに『ザマミロ!』という気持ちもあったけれど、それ以上に不安が勝ってしまった。だって、いくら笑顔が戻ったとは言え、それは湖に張った薄い氷のような物で、あの子だと確実に踏み抜いてしまいそうな予感がしたのだから。
そして、その悪い予感は、ものの見事に的中する事となってしまったんだ。
(三)
夜の七時半を回る頃、厨房は鬼のような忙しさに包まれていた。まあ、これはいつもの事と言ったら、いつもの光景なのだけど。それでも、夏休みシーズンが終わってしばらくの間は、客入りも控えめで、少しのんびりした空気が流れていたから、久しぶりにやって来たこの怒涛のラッシュに私は目の回る思いだった。
夜の六時頃を皮切りに、各部屋のお食事が始まる。そして、そこから三〇分おきに次の部屋のお料理が始るわけなんだけど、まさにこの夜七時半というのは、私達仲居にとっては地獄のような時間帯だったんだ。だって、最初の方はお料理を出すだけで済んだのに、この頃になると、平行して御食事が終わった部屋の片づけや、布団敷きまで発生するのだから。
そして、もう一つ、うちのお宿ならでわの大変さもあった。それは、私がここに来た頃から始まったお料理改革。かつて、お宿のお料理と言うと、見た目は豪華でもどれもこれも冷たいのが定番で、メインの牛肉だって固形燃料に火をつける程度が関の山の味気のない物だったらしい。それが私が勤め始めると板長の松さんが「こんだけ動ける娘が来たんだから、そのままにしてては勿体ない!」と、まるでレストランのコース料理のように、出来たてのお料理を常時厨房からお部屋に運ぶスタイルに変わったんだ。という事で、私のポジションは、客室を持たないリベロ。とにかくうちは年配の仲居さんも多いから、彼女達に何往復もさせれないじゃない? だから、私が走り回って追加のお料理を各部屋へと届けたり、進行が遅れているお部屋を見つけてはヘルプに入るのが当たり前のようになっていたんだ。
「マーシャちゃん、つくしの間と穂高の間、天ぷらが上がったよ。両方同時に行けるかい?」
その声に一瞬顔がひきつる。
「松さん、それ、別館と新館じゃないですか、さすがに両方いっぺんには…」
そう言いかけて天井を見上げる。そして、壁に貼ってある夕食の進行予定表を眺めて気が付いた。
「もうすぐサトーさんが戻ってくるから、つくしの間は彼女にお願いします!」
「おいおい、それはいつだい? 俺は出来たてが出したいんだぞ…」
と、松さんの頬がピリリとしたその途端、暖簾をくぐって戻ってきたサトーさんが姿を現した。
「ほら、言った通りじゃない!」
「おいおい、いったいこれはどういう芸当だマーシャちゃん!?」
と、松さんは驚いた顔をしていたけれど、これは手品でも何でもないよ。一〇年もこのポジションをやってれば分かる、頭の中の館内地図と照らし合わせて、どの仲居さんがどの部屋にいて、どれだけの作業をしてるから、今どこにいる。そういうシュミレーションをしただけ。そして、サトーさんに揚げたての天ぷらが乗ったお盆を手渡すと、私も穂高の間用のお盆を持って駆け出そうとした。その時だった、
『大変、マーシャちゃん。 りんどうの間、藤の間、白山の間から、お料理がまだ出て無いって苦情が出たの…』
という声が頭の中で響き渡った。それは、女将さんだけが使える館内念話の通信だった。
『あっちゃぁ… そんなにですか!?』
慌てて進行表に目をやると、起きていたのは思わず零れた言葉のように軽い状況では無かった。そりゃあ、今までも多少遅れる事はあったけれど、三つものお部屋で三〇分以上お料理が開始されて無いなんて、私が勤め始めてから一度もない事だったのだから。そして、私はとんでもない事に気が付いた。そう、その部屋の全てがマコちゃんの担当だという事に。そして慌てて頭の中にお宿の館内地図を広げた。
りんどうの間
藤の間
白山の間。
どこもかしこも見事なくらいにお部屋が離れてて、どう考えても掛け持ちは無理そうだった。私がヘルプに行ってチャチャっと終わる話じゃない。そう直感すると、ゴクリと息を飲み込んで覚悟を決めた。
『女将さん、今すぐ厨房までお願いします!』
と、繋がったままの念話で叫んだ。すると女将さんは
『分かったわ、いつものやつね!?』
と答えて、そのまま回線を遮断した。
とにかく、マコちゃんの身に何かが起きているのは確かだった。だけど、今は何が起きているかなんて二の次で、どうそれをリカバリーするかが最優先事項だった。そして、息を切らした女将さんが厨房に姿を現すと、私は足早に駆け寄り「お借りします!」と、頭を下げて藤色の着物の胸に手を当てた。
「どうぞ、存分にお使いなさいな」
その声に合わせて瞳を閉じる。すると、瞼の裏に回線が広がって行く感覚が走った。
『サ、サトーさん、聞こえますか、マーシャです!』
『あら、どうしたの? 女将さんの念話回線なんてジャックして? それにしてもよくそんな芸当が出来るわね、いったいどうやってるのかしら!?』
『…は、ははは、それよりも、今、どこにみえます?』
『どこって、今さっきあなたにつくしの間の天ぷらを貰って向かってるところだけど?』
『良かった! 実は、いくつかのお部屋のお料理が三〇分以上遅れています! 恐縮ですが、天ぷらを届けた後、りんどうの間を受け持ってもらえるのは可能でしょうか!?』
『もう、私を誰だと思ってるの! 困った時はお互い様。まかせて頂戴、マーシャちゃん!』
『じゃあ、次はウェムラーさん!』
『話は聞かせてもらったよ。それにしても、複数同時の念話だなんて、清音さんでも一対一しか出来ないのに、ほんとこの子ったら…。で、私はどの部屋を担当すればいいんだい?』
『藤の間、白山の間、どちらが近いですか!?』
『今いる所からだと藤の間かねぇ…』
『分かりました! ありがとうございます! それでは私は白山の間を受け持ちます!』
そしてそのまま念話を切り、ホっと胸をなで下ろすと、私は女将さんに一礼して天ぷらを持って駆け出そうとした。でもその時、私の視界に泣いているマコちゃんが映ったんだ。
彼女は、厨房の入り口の暖簾の影で泣いていた。何かを必死に抱きしめたまま、ボロボロと大粒の涙をこぼしていた。思わず咄嗟に「どうしたの! 何があったのマコちゃん!」と、問いかけると、彼女は泣きながら
「あの奥様が見つかりませんー!」
と、泣き崩れてしまった。慌てて一旦天ぷらを盛り付け台の上に置き、私は彼女を立ちあがらせた。そして、事の経緯を聞いたんだ。
マコちゃんが担当していた夕食の一組目。それは、例のご夫婦の部屋だった。そして、御食事もつつがなく進み、そろそろ次のお部屋へ、と思った矢先に、浴衣の上に羽織る丹前の交換を頼まれたそうだ。どうやら背の高い奥様には準備していた婦人用では丈が短かったらしい。とにもかくにも、この奥様だけは要注意だと思ったマコちゃんは、とりあえず次のお部屋は後回しにしてリネン室に走り、代わりの丹前を手に取ると慌てて部屋に戻った。しかし、すでにそこには奥様の姿は無かったのだそうだ。そして、ますます慌てた彼女は、奥様を探して館内を走り回った。それこそ女風呂に家族風呂、ロビーに娯楽室、果ては各階にある女子トイレに至るまで、でも、結局見つからず、そして今に至る。と、彼女は眼鏡の奥の瞳から、大粒の涙を幾つもこぼしながら語ってくれた。
「マーシャちゃん、どうにかならない?」
隣で話を聞いていた女将さんが心配そうに私の顔を覗き込んだ。私は大きく深呼吸をすると、少しの間腕を組んで考えた後に覚悟を決めた。正直、小学生の前で見せる手品と違って、こういう事を同僚の前でやるのには抵抗があったんだ。だけど、そうも言ってられない状況ではあった。誰にも見えないように皆に背を向けると、私は慌てて着物の袖の中に手を入れた。そして指先に何かが触る感触を覚えると、取り出した小さなメモ帳ほどの大きさの紙に目をやって、こっそりとマコちゃんに耳打ちをした。
「奥様、道路向いの別館。一階の冒険の酒場にいるよ。急いで行ってあげて」
マコちゃんは最初、何が起きたか分かってない様子で、半信半疑の眼で見ていたけれど、その後の女将さんの「マーシャちゃんの占いはよく当たるから、安心してお急ぎなさい」という言葉に大きく頷いて駆け出して行った。
この日、あわや大炎上となりかけた事態は、私達仲居のチームプレイで何とか切り抜ける事が出来た。
…あ、嘘。
一個だけ出てしまいました、大苦情。
まあ、それは、『風光明媚な温泉宿のはずなのに、日本庭園の中を料理を持った金髪の仲居が裸足で駆け抜けて行ったが、お宅はどんな教育をしているのだ?』という、半分笑い話のような内容だったんですけどね。
(四)
慌ただしい一日が終わる。大量の洗い物を片付けて、明日の朝食の小鉢を盛り付ける。そして大広間の準備が終了すると、私達仲居はすっかり片付いた厨房の盛り付け台の上に、思い思いのお菓子と飲み物を広げる。これが、定例行事の『終わりの女子会』。いつもならここで、キャッキャウフフの世代を超えたガールズトークが繰り広げられるのだけれども、さすがにこの日の私は燃え尽きていて、早々に内湯をもらう事にしたんだ。
控室へと戻り、帯を解いてお団子にしていた髪を下ろす。すると、何とも言えない解放感に包まれた。そして脱いだ着物をハンガーにかけて、ロッカーから取り出したパーカーとジーンズに着替えると、そのままお風呂に向かって歩き出した。すると、しばらくして後ろから何やら怪しげな気配がする事に気が付いた。ロビーを越え、お庭の中にあるお風呂へと続く渡り廊下を過ぎてもついてくる気配。こっそりと後ろを確認すると、それは俯いたまま一定の距離を保ってついてくるマコちゃんだった。
女湯の脱衣所に入ると、私は気付かないフリをして勢いよくパーカーとジーンズを脱いだ。よくよく見ると、今日の下着はかなり酷かった。たび重なる洗濯に負け、所々生地は薄くなっていたし、毛玉もあった。申し訳程度に女子だとアピールするレースだって、色んな所がほつれてもうそれが何の柄だったのかすら思い出せない。これを堂々と、門の前でさらけ出したなんて思うと、さすがの私でもため息が出たけれど、下着としての用は足しているから、どうにも捨てられないんだ。
お宿のタオルを肩にかけて浴室へと進む。正直、ここの仕事が続いているのには理由がある。もちろん女将さんをはじめ、良い人ばかりというのは当然なのだけど、このお風呂の存在も大きかった。なにせ、ハンドタオルもバスタオルも買う必要なんてないし、シャンプーとリンスだって備え付けがある。それになりより、お風呂付きのアパートメントを借りる必要が無いのが一番の理由かも知れない。だって、高いじゃないお風呂付き。あ、あとはお湯の効能ね。湯上りの体重補正、マイナス20%。たかだか二割と言うなかれ、これがなかなか疲れた体には良いのです。あと、中年のおばさま達にも人気です。特にお風呂上がりの体重計が人気で、いつも行列が出来ている。別に体型が変わる訳じゃないのにね。
洗い場の椅子にこしかけて、ヒノキの桶にお湯を張る。そしてそれでかけ湯をしていると、無言のままのマコちゃんが隣に座った。そして、何とも申し訳無さそうに「モジョモジョモジョ…」と、何かを呟いた。まあ、聞きなおさなくても何となく分かる。どうせ「ありがとう」なり「ごめんなさい」的な事を言ったんだ。たしかにまあ、私が鍛冶屋で修行してた頃は「聞こえない返事は返事じゃない」みたいな事を言われて叱られたけれど、なんだか聞き返すのは野暮な気がして、そのまま「うん、分かったから」とだけ呟いて、そのまま髪を洗い始めたんだ。
すると、マコちゃんは胸にツカエていた物が取れたのだろう、急にいつもの顔に戻って、私のシャンプーの仕方が悪いと小言を言いだした。そして、自分のシャンプーを使ってみろだとか、西方系は、どうしてそんなにお手入れが雑なのに、金髪だし、瞳は宝石みないな緑だし、背は高いは、スタイルがいいわ。と、言いがかりのような事で怒られた。あげくは太ももの付け根あたりを覗かれて「処理もしてないクセに金髪は無駄毛が目立たなくてずるい。少しは黒髪の東方系の苦労を思い知れ」と、背中をポカポカ叩かれた後に、あまり揺れなかった私の胸を見て、そこだけは憐れむ顔をされてしまった。
…こ、これは小ぶりな美乳って言うんだよマコちゃん。
そう、これが現在の私、マリーシャルロット。なりたかった職業には就けず、かと言って今の職業が天職だと胸が張れない。ただ、だらだらと忙しい毎日を過ごしているだけで、この歳になっても女としての自分を磨く事すら出来ていないダメ女。
これから始まるのは、そんな私の物語。
冒険者ですらない、ただの仲居の面白くもない一人語り。
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