第四話 飴と知恵、そして
コト、と小さく音を立ててボールペンを机に置く。まだ調べたい事はあるが、一先ずはこれで充分だろうか。一息つき、椅子の背もたれに寄り掛かる。ギィという軋みが書庫内に響いた。
大きな机の上、広げられているノートへ手を伸ばし、ページを一ページずつ捲っていく。二十ページぐらいは書いたかもしれない。ただのメモとは言え、こうして眺めてみると達成感があった。
一番最初のページになる。メモしたものを確認してみようと考え、一行目から読み始める。
☆分かったこと☆
◎私の住んでいたアパートについて
・既に取り壊されていた。理由は建物の老朽化。→私の住む所、無し。
◎私の職場(工場)について
・既に取り壊されていた。こちらも理由は建物の老朽化。今は別の工場に移ったらしい。→私は……確実に解雇されているだろうと思うので、とりあえず、働く所も無し。
◎私の入院していた病院について
・既に……同上。念の為入院していただけなので、まあ病院については良いのだが。
◎服のポケットに入っていたキーホルダーについて
・キーホルダーに付いていた、緑、黄、赤、白、紫の五枚の布。この布は神楽鈴に使用される五色布に似ていた。何かの記念品?
◎私が眠っていた間に起こったこの世界の出来事について
・二千二十年六月十日。咲耶市に、宇宙人《プレシア》、襲来。最終的にプレシアは《四人の英雄たち》によって撃退された。この一連の事件は《プレシア事件》と呼ばれている。
「…………」
私は、読むのを中断する。
改めて見ると、やっぱり……頭大丈夫かな、私……と思う。宇宙人なんて、あまりにも現実味が無さすぎる。無さすぎるけど……紛れもない、事実なのだ。それは、数々の情報が証明していた。私は眠っていたので当時の状況は映像や写真、記事でしか確かめられなかったが、世界規模で大混乱になっていたらしい。それはそうだろうなあ、と感じた。宇宙人が襲来しただなんて、大混乱になるに決まっている。
プレシア事件に関しては驚きだが、同じくらい驚いた事があった。
プレシアが襲来した日付は、二千二十年六月十日。私が眠った時の日付も二千二十年六月十日。そう──ぴったり一致しているのだ。私は、こう考えた。私が眠った時の日付とプレシアが襲来した日付が同一ならば、プレシアの襲来は私が今の状態になった件と関係があるのではないか──と。だから、私はプレシア事件とプレシアについてを出来る限り調べてみた。だがプレシアについては、不確定な情報ばかりだった。何でも、プレシアを撃退したと言っても捕獲などは出来なかったらしく、そのためプレシア自体を調査する事も出来なかったため、プレシアについては未だに分かっていない事が殆どらしい。まあ、目撃者の証言や写真でどういう存在なのかは知れたのだが。
とりあえず、現状分かっている情報だけでもメモはしておいた。どのページに書いたかな、と思いながらページを捲る。すぐに、プレシア事件とプレシアについてをメモしたページを見つけた。
◎プレシア事件について
・二千二十年六月十日の夜に起こった事件。
・最初にプレシアが襲来したのは咲耶市で、咲耶市は一番被害が酷かった(現在はほぼ復興している)。
・咲耶市だけでなく、咲耶市周辺も咲耶市ほどではないが被害が酷かった。
・社会への被害も甚大であり、しばらくは世界規模の混乱が続いた。
・プレシアによって多くの人が殺され、多くの人が攫われた。現在も行方不明者は百人にも上る。プレシアが人を攫った理由は判明していない。一説では、
◎プレシアについて
・人間のような姿をしていた。
・プレシアが襲来してきた目的は世界を支配するためと噂されている。
・魔法のような力を使っていた。
この「実験の実験台」に関しては、もしかしたら私と関係があるのではないかと思った。だが、判断材料が少なすぎる。そもそも、人間を攫っていった張本人であるプレシアが既にこの地球に居ない以上、どれだけ考えても仮説に過ぎない。確かめようがないのだ。この疑問は、気にはなるが保留する事に決めた。
様々な情報から色々思考してはみたが、結局私が今の状態になったことに直接繋がるような手掛かりは、無かった。容易く見つかるとは思ってはいなかった。でも、こうして現実を突き付けられると辛い気持ちが心を満たした。
まだ全ての希望が潰えた訳ではない。読み終えてない本も沢山ある。だけど、今は──頑張ろうという気力は湧いてこなかった。
この一週間の間、空いた時間は殆ど書庫での調べ物に費やしていた。睡眠はきちんととっていたし、ご飯も食べていたので、そこまで疲れは溜まっていない。まああまり根を詰めすぎるのも良くないので、少し外に出て散歩でもしようか──
「わあっ!」
「きゃっ……!?」
突然、後ろから大きな声が聞こえた。私は驚いて、椅子に座ったまま咄嗟に振り返る。
「こ、小鈴さん」
「そうですぅ。五戸家の使用人で一番可愛いと言われる、小鈴ちゃんですよぉ」
もう何度このフレーズを耳にしただろうか。このフレーズは小鈴さんが現れる時のお決まりのものとなっていて、私もすっかり聞き慣れてしまった。
「何か、ご用ですか?」
「ん~用って程でもないんですけどぉ……栞様とお話したいなあ~って思いましてぇ」
「お話ですか? 私は構いませんけれど、お仕事は大丈夫なんですか?」
「大丈夫ですよぉ。サボった分の仕事がやっと全部片付いたので、今日は午前だけお休みなんですぅ」
「ならいいんですが……」
「そ・れ・でぇ。私、栞様に沢山お訊きしたいことがあるんですよねぇ……」
使用人服姿の小鈴さんは真剣な表情で私を見据え、顔を接近させてくる。
「な、何が訊きたいんですか……?」
たじろぎながら、小鈴さんに問う。
「それはですねぇ…………」
「は、はい……」
ごくり。私は唾を飲み込む。私を見つめてくる小鈴さんを見て、身構える。
そして、小鈴さんが、ゆっくりと唇を動かす──
「栞様がぁ、前に住んでいた所についてですよぉ!」
「……へ?」
無意識に、私の口から間抜けな声が出た。
小鈴さんは呆然としている私に構わず、話を続ける。
「私、あんまり咲耶市の外に出る機会が無くてぇ……だから栞様が前にどんな所に住んでたのか、ずうっと気になってたんですよぉ」
「あ、ああ……そういうことですか……」
緊張が解け、ほっと一息つく。何を質問されるのかと思った。ええっと、前に住んでいた所……私の住んでいた天原市の事でいいのだろうか。あそこには何があっただろうと、天原市の風景を頭に浮かべる。
「そうですね……以前住んでいた所にはとても大きな水族館がありましたね」
「水族館ですかぁ! 行ったこと無いですぅ……他には、他には何があるんですかぁ?」
「他には……」
それから私は、小鈴さんに天原市の話を沢山してあげた。観光地だけでなく、どんなお祭りがあるのかとか、色んなことを。小鈴さんはメモ帳を取り出して私の近くの椅子に座り、メモしながら熱心に聞いてくれたので、私もついつい長く話してしまった。
「……これぐらい、ですかね? 参考になったでしょうか?」
「はい~! 興味深いことがいっぱいありましたぁ。ありがとうございます、栞様ぁ!」
にこやかな顔でお礼を言ってくれる小鈴さんの姿に、私は心地よい気分になる。
「色々お話してくださったお礼に、いいものを差し上げますねぇ。手、出してくださいますかぁ?」
「…………?」
なんだろうと不思議に感じながらも、片手を小鈴さんの前に出す。小鈴さんはエプロンのポケットから何かを出し、私の掌に置いた。
「これは……飴、でしょうか」
置かれていたのは、カラフルな包み紙に包まれた二つの小さな飴だった。
「そうですぅ。私、いつもポケットに飴ちゃんを入れて持ち歩いてるんですよぉ。それは外国の飴ちゃんなんですけどねぇ」
「へえ……小鈴さんは飴がお好きなんですか?」
「好きですよぉ! 飴ちゃんは人類の創り出した至高のお菓子ですぅ!」
「そ、そんなにですか……」
小鈴さんの気迫に、私は少し圧倒されてしまう。
「初めて飴ちゃんに出逢った時は驚きましたぁ……舐めているだけで果物などの味を味わい続けられるだなんて未知の体験でしたし、何よりもこんなに小さな粒で何個も楽々と持ち運びが出来るだなんて……飴ちゃんはすごいですぅ」
小鈴さんは椅子から立ち上がり、恍惚とした表情で飴の素晴らしさを語る。こんなに興奮した様子の小鈴さんも珍しい。よっぽど飴が好きなんだなあ……と思った。
「小鈴さん。飴、ありがとうございます。大切にしますね」
「大切にするのは構いませんけど、ちゃんと舐めてくださいねぇ?」
「あ、そうですね……あはは……」
ふっと、私のノートの近くにあるデジタル時計が視界に入る。デジタル時計は午前十時二十四分を表示していた。散歩には良い時間かもしれない。
私はワンピースのポケットに飴を入れ、椅子から腰を上げる。
「それじゃあ、私はちょっと外にお散歩しに行ってきますね」
「分かりましたぁ。玄関までお見送りしましょうかぁ?」
「大丈夫ですよ。小鈴さんは、お仕事があるでしょう?」
机の上にあるノートとボールペンを片付けながら、言う。
「嫌なこと思い出させないでくださいよぉ……もう、
「あはは……私にも何か手伝えることがあったら、いつでも頼ってくださいね」
「いえいえ、流石に栞様のお手を煩わせる訳にはいきませんよぉ。姉さんに怒られちゃいますぅ。お気持ちだけ、頂いておきますねぇ」
「そう、ですか……」
私は居候の身だし、何かお手伝いをしたいのだが。
食事の時もそうだった。準備や片付けを手伝おうとしたら万鈴さんに止められてしまったし、仕舞いには万鈴さんに「栞様は、手伝っていただかなくて結構ですので」ときっぱり言われてしまうし。五戸家には多くの使用人さんが働いているし、私がお手伝いする事も無いのかもしれない。だけどどうしても、万鈴さんは私にお手伝いしてほしくないのだろうかと、不安になってしまう。私は、万鈴さんに嫌われているのか。……まあ、今は考えても仕方無いか。
「分かりました。お仕事、頑張ってくださいね」
「そうですねぇ……午後だけですしぃ。腹を括ってお仕事、頑張っちゃいますよぉ!」
気合いを入れている小鈴さんを微笑ましく感じながら、ノートとボールペンを持ち、先程まで座っていた椅子の位置を整える。本はもう本棚に戻したし、忘れ物も無い。
「では、行ってきます。小鈴さん」
「はい~行ってらっしゃいませぇ。栞様ぁ」
小鈴さんが花のように可愛らしい笑顔で私のことを見送ってくれる。小鈴さんの笑顔を見ていると、調べ物での疲れも吹き飛ぶ気がした。こうして話す前は初めて会った時とのギャップに戸惑ったりもしたが、私の話を熱心に聞いてくれたり、お礼に飴をくれたり……いい人なんだろうなと感じた。
万鈴さんとも、こんな風に仲良くなれたら、いいのだが。
久しぶりの空は、雲一つ無い青空だった。今日はとてもいい天気だ。
私は空から目の前へと視線を移動させ、暖かな日が照らす石畳の上を進む。服は先程五戸家に居た時のまま、サンちゃんさんから借りたワンピースを着用したまま出てきた。サンちゃんさんは「もう必要の無い服なので全部栞さんにどうぞ」と仰っていたのだが、あんなに何着も無償で頂いてしまうのは申し訳なかったので、今の所は“借りるだけ”ということにしてある。……いずれサンちゃんさんの押しに負けてしまいそうな予感はするけれど。
少し歩くと、一週間前にも通ったあの公園の前に来た。公園のベンチには一週間前と同じく、咲耶中学の制服を着た女の子が座っていた。一週間前と同じ、暗い顔で。外出する前に確認したデジタル時計では、午前十時二十四分だったはず。今日は平日だし、もう学校は始まっている時間だ。一体、どうしたのだろうか。
この前とは違い、今は何の予定も無いので、私は女の子に近付いてみることにした。女の子の様子を窺いながら、そーっと、女の子の座っているベンチへと歩みを進めていく。女の子の座るベンチの隣のベンチに、音を立てずに腰掛けた。まだ、女の子は気付かない。俯いているので考え事でもしているのだろうか。
私はそのまま女の子の姿を見つめる。千歳緑色のセミロング。ツーサイドアップにして束ねた二本の髪をそれぞれ広がらないよう、三分割し、ヘアゴムで縛っている。物静かな雰囲気の女の子だと感じた。……あまり見つめるのも失礼なので、私は顔を女の子から逸らす。
思い切って、ちょっと声を掛けてみようか。不審者だと勘違いされるかもしれないという不安はある。かと言って、ここで尻込みしてしまったら、この疑問が解決されないままになってしまうかもしれない。
悩んだ末に──私は決心する。
「こ、こんにちは」
「えっ……?」
私が挨拶をすると女の子は顔を上げ、驚いた顔で私へ目線を向けた。いつの間にか隣のベンチに知らない人が居て、しかも突然挨拶をされたら、驚くのは当然だ。
さあ、これからどうしよう。ここで、私は声を掛けた後のことを何も考えていなかったのに心付く。……失敗した。
「えっと……あ、今はこんにちはじゃなくて、おはようございます、ですかね?」
無い知恵を絞り、なんとかそう口にした。
「……あの、
女の子は怪訝な表情で私に尋ねる。
「用と言うか……その、あなたの制服、咲耶中学の制服ですよね? 学校は、お休みなんですか?」
「…………」
女の子はまた俯き、押し黙ってしまう。もしや何か気を悪くするようなことを言ってしまったのだろうか。
「…………あ、あの」
女の子が私に話し掛けてくる。
「は、はい! な、なんでしょう?」
「あなたは、誰、ですか……? あまり見掛けない顔ですけど……」
「私ですか? 私は……最近、五戸さんの家に住み始めたと言いますか……」
どう説明するのが適切か判断出来ず、少し変な説明になってしまった。ますます怪しまれてしまいそうだ。
「……もしかして。あなたが、桜川栞さん?」
「えっ、ど、どうして私の名前を……!?」
予想もしない出来事に、反射的に大きな声を出してしまう。幸い、周りに人は居なかったため、白い目で見られる事は無かった。
「か、楓ちゃんが、送ってきたメッセージで話してたんです。新しい友達ができたんだって……あと、サン先輩の家に住むことになったんだって、言っていたので」
「楓さんが……? あなたは、楓さんのご友人なのですか?」
「は、はい……」
「そうでしたか……! まさか楓さんのご友人とは……すごい偶然ですね」
「そ、そうですね。あ、あの……私、
「あっ、はい! 桜川栞です。こちらこそ、よろしくお願いします」
私と幸恵さんはお互いに自己紹介をして、座ったままお辞儀をし合った。
それにしても、本当にすごい偶然だ。楓さん、交友関係が広いんだなあと感心する。誰とでもお友達になれそうだとは思うし交友関係が広いのも頷ける。
ふと、幸恵さんの近くに、ペンと何かのプリントが置いてあるのを見つけた。意識を集中させてみると、それは数学の問題が印刷されたプリントであるように感じられた。
「そちらは、学校の宿題ですか?」
プリントを指差して、幸恵さんに訊く。
「は、はい……」
幸恵さんは隠すように、プリントの上に片手を載せる。あまり見られたくはないのだろうか。
「すみません。不快にさせてしまいましたか……?」
「い、いえ! そ、そうじゃないんです……その、私、頭良くないから……恥ずかしくて」
「そうなんですか……? そんな風には見えませんが……あ、もし宜しければ、私がお教えしましょうか?」
「え……?」
幸恵さんの顔に、戸惑いの色が浮かぶ。──まずい。流石に上から目線すぎた。しかし、もう口に出してしまったのだ。後悔してももう遅い。後は、幸恵さんの答えを待つしかない。
それから、私はじっと幸恵さんの返答を待っていた。……もう三分くらいは経っているかもしれない。謝るべきかと考え始めた、その時。小さな声が私の耳に届いた。
「え?」
すぐに私は聞き返す。小さすぎてはっきりとは聞き取れなかったが、確かに幸恵さんの声だった。
「……ほ、本当ですか?」
今度は、ギリギリ私にちゃんと届くくらいの声で、幸恵さんは発した。
「え、ええ。そこまで勉強が出来る訳ではありませんが、中学生の勉強ならお教えするのは可能かと……」
意外な返答に狼狽しながらも、私は答える。
「そ、それじゃあ、その、お願い出来ますか?」
幸恵さんは遠慮がちに、上目遣いで私を見た。その言葉に、幸恵さんの気に障っていなくて良かったと私は一安心する。
「構いませんよ。なのでその、そちらのベンチに座ってもいいですか?」
私の座っているベンチと幸恵さんの座っているベンチは少し離れていて、勉強を教えるには些か不便そうだった。
「あ、そ、そうですよね。えと、ちょっと待ってください」
幸恵さんは手際良く、幸恵さんの居るベンチに置いていた荷物を整理して、私の座るスペースを作ってくれた。私は、ちょっとびっくりする。失礼だが……ついさっきまでの幸恵さんの佇まいからは想像出来ない程の手際の良さだ。
「ど、どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
ベンチから立ち上がり、幸恵さんの方のベンチへと移動して着席する。
「では、早速始めましょうか。どの教科からお教えしましょう?」
「あ、じゃあ、この数学のプリントから。……この問題が、分からなくて」
幸恵さんはプリントの問題を人差し指で指し示して私に見せた。
「えっと……ああ。ここはですね……」
私は分かり易い説明を心掛けながら、幸恵さんに勉強を教え始めた──
「教えるの、上手いんですね。すごく分かりやすかったです」
プリントの問題を全て解き終えた時、幸恵さんはそんな風に私の教え方を褒めてくれた。褒められて嬉しい私は思わず変な表情をしてしまいそうになって、急いでぎゅっと顔を引き締める。いけないいけない……。
「そんな、幸恵さんの飲み込みが速いおかげですよ」
「そう、ですか? ありがとう、ございます」
勉強を教えて、ほんの少し仲良くなったからだろうか。幸恵さんは私に対して笑顔を見せてくれるようになっていた。これなら、どうして平日に暗い顔でベンチに座っていたのか、話してくれるかもしれない。私は意を決して、口を開く。
「幸恵さん。一つ、お訊きしても宜しいでしょうか?」
「はい……?」
「一週間前も、幸恵さんは朝からここに居ましたよね? 平日に、学校の制服を着て。それは、
「……どうして、それを?」
取り乱した様子ではなかった。ただ僅かにびくりと肩を震わせてから、これまでとは違う、どこか冷たさの宿る声色で幸恵さんは質問を返してきた。
「この公園の前を一週間前にも通ったんです。その時も、幸恵さんをお見掛けして……」
「そう、だったんですか」
そこで幸恵さんは、顔を伏せる。
「あ……もし答えたくないことでしたら、無理に答えていただかなくても大丈夫ですよ」
「……いえ。……その、実は私、病気で。つい最近まで療養してて、ずっと学校を休んでて。やっと、今年の春からちゃんと学校に行けるようになったんですけど。でも、休んでたから、授業についていけなくなっちゃってて」
「…………」
私は、幸恵さんの話を黙って真剣に聞く。
「私、あんまり人と話すの、得意じゃないから。先生やクラスの子に、分からない所を教えてもらうことも出来なくて……家族も今は別居してるからあまり教えてもらえなくて。授業もついていけないし、勉強もどんどん分からなくなっていくし、人と話せないからずっと一人だし……いつの間にか、学校に行くのが嫌になってたんです」
「だから、公園に?」
「はい。……駄目、ですよね。学校をサボっちゃうなんて」
「……幸恵さんは、どうしたいんですか?」
「私、は……」
幸恵さんは自身の膝上にある両手の片方を、もう片方の手で包み込む。
「学校は、行きたくないけど……でも、学校は行かないとって思います。それに私、このままは、嫌だから……」
震えた声になりながらも、それでも声を振り絞っているのだと感じた。本当に心からそう思っているのだろう。なんとか、幸恵さんの助けになってあげられないだろうか。
少し考え、あるアイデアを閃く。
「ではこうしましょう。私が、これから幸恵さんに、お教えすることが出来る日は勉強をお教えします。そうすれば幸恵さんは勉強が分かるようになって、学校が今よりは嫌ではなくなる……そうでしょう?」
「それは、そうですけど……でも、栞さんにも用事があるんじゃ」
「私は……暇ですから」
「そう、なんですか?」
幸恵さんがきょとんとして小首を傾ける。そういう反応になるのは当然だろう。今の私は、俗に言うニートだ。流石にはっきりと「ニートです」と宣言するのは気が引けるので言わないが。
「そうなんです。どうでしょう? 良いアイデアだと思いませんか?」
「……お、思います」
「でしょう?」
「……じゃあ、その。これからも、教えてくれますか? 勉強」
遠慮がちに、けれども幸恵さんはしっかりと顔を上げて私にお願いしてきた。
「もちろんです」
私の答えを聞いた幸恵さんの表情が、ぱあっと明るくなる。
「とりあえず、暗くなってきましたし今日はもうおしまいにして、また明日にしましょう。明日は何時からでしたら大丈夫ですか?」
「明日は……私は午前八時くらいからなら」
「では、その時間で」
その時、私はふっと小鈴さんに貰った飴のことを思い出す。小鈴さんに貰った飴は二つだったはず。
「頑張った幸恵さんに、プレゼントをあげます。手を出してください」
「…………?」
幸恵さんはゆっくりと片手を私の前に差し出す。私はワンピースの腰ポケットから、小鈴さんに貰った飴を一つ掴み、そのまま幸恵さんの掌へと載せた。
「飴、ですか?」
「はい。もう一つあるんですけど……二つも舐め切れないので、幸恵さんに差し上げます。時間が経ってるのでちょっと溶けちゃったかもしれないですけど……」
「い、いえ! その……嬉しいです。あ、ありがとうございます!」
「どういたしまして」
私が渡した飴を、幸恵さんは大事そうに両手で持つ。その様子を眺めて、私は自然と笑みがこぼれていた。
それから、私はほぼ毎日公園に行き、幸恵さんに勉強を教えた。
幸恵さんは勉強についていけていないだけで本当に飲み込みは速く、分からなかった所もどんどん分かるようになっていった。勉強を教えている内に、幸恵さんも少しずつ心を開いてくれたようで、幸恵さんは私に対して敬語ではなく普通の友達のように……タメ口、と言うのだろうか。そんな風に話してくれるようになった。
そして、私と幸恵さんが出逢ってから二週間程経ったある日のこと。
「幸恵さん、すごいですよ! このプリント全問正解ですよ!」
「か、簡単な問題だし、そんなにすごくないよ……」
「いいえ、この短期間でここまで解けるようになるなんて……この調子で行けば、今幸恵さんのクラスで勉強している範囲にもすぐに追い付けますね」
「…………」
先程まで明るい笑顔を浮かべていた幸恵さんから、笑顔が消える。……どうかしたのだろうか。私は心配になり、幸恵さんに声を掛けようとする──
「おーい! 栞ー! 幸恵せんぱーい!」
突然、遠くから私達の名前を呼ぶ声が聞こえてきた。聞き覚えのある声。私は声のする方へ向いて、声の主が誰なのか確認する。
「か、楓さん!? それに芭蕉さんも……!」
制服姿の楓さんと芭蕉さんが、私達の居るベンチを目指して走ってきていた。そして、楓さんと芭蕉さんが私達の近くで足を止める。
「うう~かえかえ、走るの速いよ~」
「そうかな? これでも抑えたんだけど……」
「ええ~嘘だあ~」
芭蕉さんは息を切らしながら、その場にへたりこんでしまう。走ってきたからなのか、芭蕉さんの前髪を留めている三角形のヘアピンが少しずれていた。
「お二人とも、どうしてここに?」
私は尋ねる。楓さんが顔を私へと移動させる。
「それはこっちの台詞だよ~! 学校終わって時間があるから芭蕉と一緒にサンちゃんの家に行こうとしたら、栞と幸恵先輩が一緒に居るんだもん! びっくりしちゃったよ」
「ご、ごめんね……実は、この前栞ちゃんと公園で知り合って……」
私の隣に座る幸恵さんが説明してくれる。
「へえ~……そうだったんですね。あ、そうだ! 幸恵先輩!!」
「は、はひっ!」
いきなり楓さんが幸恵さんの両肩を掴んだからか、幸恵さんは声が裏返っていた。
「
「う、うん……体調は、大丈夫だよ。心配してくれてありがとう」
「そうですか……! よかったあ~……」
安堵の表情を見せた楓さんは、幸恵さんの両肩から手を離した。
「かえかえ、ずっと心配してたもんね~私も早く元気になりますようにってお守り持ってきたんですけど、もういらなくなっちゃいましたね~残念」
「そ、そんなことないよ。もし良ければ、お守り貰えるかな?」
「いいですよ~今、出しますね~」
芭蕉さんは鞄のチャックを開け、中からお守りを出して幸恵さんに差し出す。幸恵さんは、お守りを大事そうに両手で受け取った。
「ありがとう。芭蕉ちゃん」
「どういたしまして~ところで、しおりんとゆっきー先輩は、ここで何してたんですか~?」
「あ、えっと……栞ちゃんに、勉強を教えてもらってたんだ」
「そうなんですか? いいな~私も教えてよ、栞!」
「じゃあ私も~」
「私は構いませんけど……幸恵さんも、それで宜しいですか?」
「うん。大丈夫だよ」
「やったー!」
「でも、四人だとここじゃちょっと狭いかもね~」
芭蕉さんの言う通り、ここは四人で勉強するにはちょっと狭い。私と幸恵さんが座っているベンチはもう人を座らせるようなスペースは無いし、かと言って隣のベンチは私と幸恵さんの居るベンチとは離れているし……二つのベンチを私達四人で埋めてしまうのも申し訳ない。どうしたものか。
「……あの。なら、私の家、すぐ近くだから。そこで勉強するのはどうかな?」
幸恵さんが片手を挙げてそう提案してくれる。
確かに、幸恵さんの家が良いかもしれない。楓さんと芭蕉さんの家は公園からは少し時間がかかるし、サンちゃんさんの家も同じくらい時間がかかってしまう。それに、サンちゃんさんの家では室内が豪華すぎて、勉強に集中するのが難しそう……幸恵さんの
「私も幸恵さんの御家が良いと思います。お二人は?」
「全然大丈夫!」
「おっけーだよ~ゆっきー先輩のお
「よかった。今から荷物を片付けるから、ちょっと待っててね。すぐ終わるから」
すぐに、てきぱきとプリントなどの勉強道具を片付け、鞄を肩に掛ける幸恵さん。その姿を視界に入れて、私は以前抱いた思いを改めて感じる。
「……前から思っていましたけど、幸恵さんって、とてもてきぱきと行動なさいますよね。幸恵さんのそういうところ、素敵です」
「そ、そう、かな? 一人暮らししてるから片付けとかには慣れてるのかも」
「ゆっきー先輩、一人暮らしなんですか? すご~い。大人っぽい~」
「幸恵先輩っていつも行動速いなあと思ってましたけど、そういう理由だったんですね……謎が一つ解けました」
「あはは……ありがとう。じゃあ、家まで案内するね」
「はい! ほら、芭蕉も休んでないでそろそろ立って!」
「わ、分かったよお~分かったから立たせて~」
「自分で立ちなさい!」
まるでお母様のように楓さんが芭蕉さんを叱る。微笑ましい光景に、私は自然と頬が緩む。結局、芭蕉さんは力を振り絞り自分で立ち上がった。幸恵さんは芭蕉さんが立ち上がったのを確認してから歩き出す。楓さんと芭蕉さんが幸恵さんについていく。私も、三人の後ろに寄り添うように歩を進め始める。
三人は横に並んで、和気藹々と談笑している。──でも、どうしてこの三人が仲が良いのだろう? 素朴な疑問。前に聞いた話では、幸恵さんは中学二年生、楓さんと芭蕉さんは中学一年生のはず。学年が違うのにここまで交流が深そうなのは不思議だ。恐らく、部活仲間か何かだと予想しているのだが……どうしても気になってしまう。そういえば、楓さんとサンちゃんさんも学年が違うのに仲が良かった。しかも楓さんはサンちゃんさんに対してはタメ口だ。何か、理由があるのか。私がまだ知らない、“特別な理由”が。
幸恵さんの家に到着し、私達は幸恵さんの自室に居た。幸恵さんはマンションの一室で暮らしており、部屋は綺麗に整えられていた。
「綺麗なお部屋ですね。幸恵さんがお掃除しているんですか?」
「うん。流石に私一人だと体力的に辛いから、たまにお手伝いさんが来てくれるけどね」
「お手伝いさん!? もしかして幸恵先輩、サンちゃんみたいなお金持ち……?」
「サン先輩ほどじゃないけど……裕福な方だとは思うよ。こうして病院に通院するために、一人暮らしまでさせてもらってるし。本当、恵まれてるなって……それよりも、早く勉強始めないと」
「そうですね。では、始めましょうか」
私は、テーブルの周りに配置された座布団の上に全員が座り終わったのを視認し、皆さんに向けて口を開く。
「幸恵さんは先程のプリントの続きを。楓さんと芭蕉さんは、まず分からない教科と、具体的にどこが分からないか教えてください」
「はい」
「はーい!」
「は~い」
皆さんがテーブルの上に教科書やノート、シャーペンなどを広げていく。私は、テーブルの上に置かれた教科書の学年をちらりと見た。幸恵さんが出したのは、中学二年生の教科書。楓さんと芭蕉さんが出したのは、中学一年生の教科書。やはり私の記憶に間違いは無いようだった。ならば、何故。
「どうしたの~? しおりん。急に黙って~」
気が付けば、芭蕉さんは動きを止めていた。
「いえ……些細なことなのですが、皆さんに一つ、質問があるんです」
その言葉で、楓さんと幸恵さんも私の方を向く。一斉に私に視線が集まったので、少し緊張してしまう。私は、躊躇いながらも皆さんに問い掛ける。
「楓さん、芭蕉さんのお二人と幸恵さんは、違う学年ですよね? なのに皆さんとても仲が良さそうでしたので、どうしてなのだろうと思いまして……」
──カチーンと、皆さんの体が固まる。急に極寒の地に放り込まれたかのように。……沈黙。コロコロと音を立てて、誰かのペンがテーブルの上を転がる。
「……えっ、えーっと! それは……どうしてだっけ! ね、芭蕉!」
最初に答えたのは、楓さんだった。だが、すぐに芭蕉さんに話を振る。話を振られた芭蕉さんは珍しく狼狽していた。
「わ、私~? んーとね~その~……そう! 私たち、学校の部活仲間なんだよ~! そうですよね、ゆっきー先輩~!」
「う、うん……! そ、そうだったと思うよ!」
幸恵さんが、外れそうなくらいに首をこくこくと激しく縦に振る。
「…………」
怪しい。明らかに焦っている。……だが、三人の事情にこれ以上首を突っ込むのもよろしくないと考え、その説明で納得することにした。
「……そうなんですか。楓さんと芭蕉さんと幸恵さんは、とても仲良しなんですね」
「そ、そう! 私たち、すごい仲良しなんだー! ね!」
「な、仲良しこよしだよ~」
「う、うん! 仲良しだね!」
皆さんが顔を見合わせて不自然な程に「仲良し」という言葉を連呼する。その様子を眺める私は、皆さんは隠し事が下手なのだな、と思った。
勉強会が再開され、私は幸恵さんの近くでプリントの問題の解き方を教えていた。
「だから、そこはそうじゃないって」
「え~もう一回説明してかえかえ~」
「仕方無いなあ……これはね……」
楓さんと芭蕉さんはと言うと、隣り合わせで教え合いながら宿題をやっている。二人の力でも分からない所は私に訊きに来るという感じだった。
「楓ちゃんと芭蕉ちゃん、本当に仲が良いよね」
シャーペンで文字を書きながら、幸恵さんが言う。
「幼なじみでしたっけ……? だから、なのでしょうね」
「そうだね……羨ましいな」
ぼそりと、幸恵さんがそう口に出す。
「幸恵さんも、お二人とはお友達じゃないですか」
「それはそうだけど……越えられない壁ってあるから。私にはそんな風に……誰にも越えられないような壁を作れるくらい、仲の良い友達は居ないもの」
抑揚の無い声だった。抑揚が無いから、だろうか。その声色には諦めにも似た感情が混じっている気がした。幸恵さんの前髪の隙間から覗く瞳はどこか悲しげで、私の心にも悲しいという感情が感染するかのように生まれていた。
勉強会が終わった後、幸恵さんは私達を見送ってくれた。
楓さんと芭蕉さんの二人と道の途中で別れる。本当はここで、私も幸恵さんとお別れしなければならない。でも、私は幸恵さんに伝え残した言葉がある気がして、なかなか一歩を踏み出せなかった。
「どうしたの? 栞ちゃん」
一向に別れようとしない私を不思議に感じたのか、幸恵さんが心配そうな顔をしていた。
「あ、えっと……ゆ、幸恵さん、本当に勉強、出来るようになりましたよね」
私はなんとか幸恵さんを引き止めるために、会話を続けようとする。
「そう、かな。栞ちゃんのおかげだね」
「あ、ありがとうございます。でも、殆どは幸恵さんの努力の賜物だと思いますよ。これなら来週くらいにはもう学校に行けるかも、ですね」
「…………」
幸恵さんは黙ってしまった。楓さんと芭蕉さんが来る前に話していた時と、同じだ。
「……その。何か、悩み事があるようでしたら……私で良ければお聞きしますよ」
目の前の幸恵さんは、口を閉じたまま動かない。私は、じっと返答を待つ。周りには私達以外誰も居ない。時折弱い風が吹く、夕日のオレンジに染まる静かな空間。……静かな空間だ。僅かな音を立てる行為さえ躊躇ってしまう程に。
「……うん」
何かを決心したような呟きが、幸恵さんから発された。私は幸恵さんのその声により漸く解放された感覚がした。
「確かに、勉強は分かるようになったし、今学校で勉強してる範囲にも追い付いてきてる。でもそれだけじゃ……学校に行くのは、まだ不安かなって」
「幸恵さん……」
「だ、駄目だよね。もう勉強は大丈夫なんだから、学校行かないと、だよね」
その幸恵さんの笑顔は、無理に作っている笑顔だと私は確信した。幸恵さんにそんな顔をさせる理由は、一つしかない。
「クラスの方と、上手くいっていないから……ですか?」
「…………」
驚いた表情で、幸恵さんが私を見る。どうやら私の予想は当たっていたらしい。
「……そうだよ。前にも、言ったけど。私、あんまり人付き合いが得意じゃないから……クラスに馴染めてないんだ」
「そう、なんですね」
「うん。だけど、それは私の問題だから。気にしないで」
優しい口調で、幸恵さんは言う。ここで幸恵さんの口車に乗ってやれたらどんなに楽かなんて、考えるまでもないだろう。でも、それが無理だということも考えるまでもない。
……何か、幸恵さんに掛けてあげられる言葉はないのだろうか。何か。必死に、思考する。思いを巡らせる。しかし──無理に何か言おうとしても軽々しい言葉になるだけだと、浮かんだ言葉を頭の中から消した。
「ごめんね。私、そろそろお夕飯の支度しないと」
「あ……わ、分かりました。引き止めてしまってごめんなさい。さようなら、幸恵さん」
「ううん。ばいばい、栞ちゃん」
私に別れの言葉を告げて、幸恵さんは背を向け、歩いてきた道を戻って帰っていく。私は段々と小さくなっていく幸恵さんの背中を見つめることしか出来ない。
勉強は、教えてあげられた。クラスでの問題は……幸恵さんと同じ学校に通ってもいない私には、何もしてあげられない。私はどうしたって、幸恵さんのクラスメイトにはなれない。私なんかじゃ、何も変えられない。……変えられないけど、それでも私は、幸恵さんのために何かしたいのだ。
「幸恵さん!」
私の大きな声で幸恵さんが振り向く。私は、幸恵さんのクラスメイトにはなれない。だけど。
「もし、学校に行って辛くなったり悲しい思いをしたら……いつでも、頼ってください! 私は幸恵さんのクラスメイトにはなれません。でも、それでも相談に乗ることぐらいは、出来ますから!」
必死に言葉を紡いで、幸恵さんに私の気持ちを伝えた。少し離れた場所に立つ幸恵さんの表情はよく見えない。驚いているだろうか、戸惑っているだろうか。もしくはそれ以外だろうか。
再び、静寂が私達の空間を支配する。一つの瞬きの間に長い時が過ぎ去ったような感覚を覚える。それは周りから見れば錯覚だ。しかし私にとっては真実だった。
──幸恵さんの唇が動く。凝視していたからか、はっきりと、私には分かった。
「うん。ありがとう、栞ちゃん。栞ちゃんがそう言ってくれるなら私、もう少し頑張ってみるね」
幸恵さんは、笑顔だった。諦めも悲しみも混じっていない。透明な笑顔を、私にくれた。
「それじゃあ、またね」
二度目の別れの挨拶をして、背を向け、幸恵さんは帰ってゆく。
姿が見えなくなるまで幸恵さんを見届けた後。私は幸恵さんが進んでいった道を眺め、魂が抜けたように立ち尽くしていた。
「もう少し頑張ってみる」と、幸恵さんは言った。私の言葉は、幸恵さんの救いになれただろうか。救いになれなくても、きっと、何もしないよりは良かったと思う。
──私も幸恵さんと同じように、学校の人とは上手くいっていなかった。上手くいかないままで、終わってしまった。だから幸恵さんには私のようにはなってほしくない。人生でたった一度の、学生生活なのだから。
幸恵さんは、優しくて強い人だ。そのことに気付いてくれる人が幸恵さんのクラスメイトに居ると、信じたい。そして、クラスメイトの人と仲良くなって、幸せな学生生活を過ごしてほしい。
私は幸恵さんの進んでいった道に背を向け、一歩を踏み出す。
……どうか、幸恵さんが幸せになれますように。私のように、なりませんように。私は、心の中で深い祈りを捧げた。
(四話完)
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