第三話 親愛なる友
芭蕉さんの家に到着した私と楓さんは、リビングにある椅子に座り、料理が出来上がるのを待っていた。
「それで、あなたがかえかえが言ってた……」
テーブルを挟んで私の前に座っているほんわかとした雰囲気の女の子──芭蕉さんが、私に訊いた。
「はい。桜川栞といいます。よろしくお願いします」
「
「し、しおりん……?」
唐突なあだ名呼びに、私は当惑する。
「あれ、嫌だった~? かえかえに送ってもらったメッセージで名前を見た時、思い付いたんだけど~」
少し残念そうに芭蕉さんは言う。
「いいえ、嫌ではないのですが……あだ名で呼ばれたのは初めてでして」
「そうなの~? じゃあ、私がしおりんをしおりんって呼んだ人、第一号だあ~」
芭蕉さんは、見る者全てを癒すような、ほわ~っとした笑顔を私に向ける。その笑顔で私の中にあった戸惑いの感情も、ゆっくりと無くなってゆくのを感じた。
「そう、ですね。第一号です」
今までの人生で、あだ名で呼ばれたことなど一度も無かったが……こうしてあだ名で呼ばれてみるとなんだか心地よい。あだ名で呼ばれたことによって、私も芭蕉さんの友達になれた気がした。
不意に、いい匂いが近付いてくる。芭蕉さんのお母様が料理をテーブルへ運んできていた。
「お待たせ~。今日のメニューは、ハンバーグとエビフライよ」
「わーい! ハンバーグとエビフライ!」
私の隣で楓さんが大きな声を出して喜ぶ。テーブルの上に置かれたハンバーグとエビフライのお皿を見つめる楓さんの瞳は、キラキラと輝いていた。
「芭蕉ちゃん、お父さん呼んできてくれる?」
「は~い」
芭蕉さんは席を立ち、肩に掛かるぐらいの淡黄色の髪をゆらゆらとさせながら、リビングから退室していった。リビングには、私、楓さん、芭蕉さんのお母様の三人が残った。
芭蕉さんのお母様は、芭蕉さんの座っていた椅子の隣にある椅子に座る。
「……栞ちゃん、だったかしら? 今日は沢山食べていってね」
優しい声で、芭蕉さんのお母様はそう言ってくれた。
「はい。ありがとうございます」
「それにしても……すごく綺麗ね。アイドルの子が来たのかと驚いちゃった」
「い、いえ、そんな……お母様も、とても綺麗だと思います」
「あら、本当? お世辞でも嬉しいわ~」
「スミレさん、私は~?」
ハンバーグとエビフライでご機嫌だった楓さんが、一転して不機嫌そうな表情をしていた。
「楓ちゃんも、今日もとっても可愛いわよ」
「ほんとですか? やった~! あ、スミレさんも、今日も可愛いですよ!」
「なぁにその取って付けたような台詞は~スミレさんちょっと傷付いたな~」
「えっ、ええ!? ご、ごめんなさいスミレさん! 本当に可愛いって思ってますよ~!」
慌てふためく楓さんを見て、芭蕉さんのお母様──スミレさんが「ふふっ」と笑う。
「楓ちゃんは相変わらず、からかうと面白いわね~」
「からかってたんですか!? うう、酷い……」
ショックを受けたようで、涙目になってしまう楓さん。
「ごめんね~
「エビフライを!? ……そ、それなら許します!!」
喜んだり落ち込んだりとコロコロ表情を変えていく楓さんと、楓さんをからかいながら楽しそうに微笑むスミレさん。二人は、まるで本当の親子のようだった。長い付き合いなのだろう。こんな風に水入らずの場所に、私がお邪魔してしまって本当に良かったのだろうか。
「どうしたの? 栞」
黙っている私が気になったのか、いつの間にか楓さんが私へ顔を向けていた。
「あ、その、私がお邪魔してしまって、良かったのかと思いまして……」
「何言ってるの、全然いいわよ~それに、いつもは私とお父さんと芭蕉ちゃんの三人だから……子供が二人増えたみたいで、賑やかで嬉しいわ。だから、気にしないでね」
「……はい」
スミレさんの柔らかで慈愛に満ちた表情に、自然と心が安らぐ。同時に、こんなに素敵なお母様がこの世界に居るのだなと思った。私が他の人のお母様とあまり話した事が無いから、こう思うのかもしれないが。
「あら、芭蕉ちゃん~って……あらあらまあまあ……」
スミレさんのその声で気付く。芭蕉さんのお父様を連れた芭蕉さんがリビングに入ってきていた。
「ほらお父さん~寝ぼけてないでちゃんと歩いて~」
まだ芭蕉さんのお父様は意識がはっきりしていないようで、芭蕉さんに引っ張られながら歩いている。
「お父さんたら……遅いとは思ってたけど、さっきまで寝てたみたいね。昨日遅くまでお仕事だったからかしら」
ふらふらと覚束無い足取りで、芭蕉さんのお父様がスミレさんの隣に座る。芭蕉さんも、先程と同じく、私の前に座った。
「それじゃあ、みんなでいただきますをしましょう。せーのでいくわよ~」
私は両手を合わせて、いただきますの準備をする。楓さん達も同じように両手を合わせた。
「みんないいわね~せーの」
「いただきます」と、五人の声がリビングに響いた。
ご飯を御馳走になった後。私は楓さんと芭蕉さんと一緒に、楓さんの家を目指していた。既に外は真っ暗になっていて、近くにある街灯がぼんやりと光を放っている。
「すぐ隣なんだから、毎回送ってくれなくてもいいのに」
「駄目だよ~女の子だけで夜道を歩くなんて~」
「芭蕉も女の子でしょ。むしろ芭蕉の方が危ないと思うけど……いつもふわふわしてるし……」
「そうかなあ~?」
「そうだよ。まあ、それが芭蕉のいいとこでもあるんだけどね。あ、ほら。着いたよ」
玉谷家の一軒家は、本当に波部家の一軒家のすぐ隣だった。こんなに近いのに毎回送っているというのは、確かに些か心配しすぎな気もする。でも、友達だから、それでもきっと、心配なのだろう。
「ばいばい、芭蕉。また学校でね」
「うん。また学校でね~しおりんも、えーっと、またね~」
「はい。おやすみなさい、芭蕉さん」
私達に片手を振りながら芭蕉さんは自宅へと戻っていく。芭蕉さんの姿が見えなくなると、楓さんは私をちらりと見遣った。
「じゃあ、入ろっか」
楓さんは首に提げたネックストラップを外す。先程までは洋服に隠れて見えなかったけれど、ネックストラップの先には鍵が付いていた。鍵を玄関扉の鍵穴に差し込む楓さん。──そういえばと、自分の服の腰ポケットに入れている鍵を布越しに触る。固い感触。使った後、そのまま持ってきてしまったが、大丈夫だったのだろうか。まあ、返しようもないし……。
「どうかした?」
気が付くと、楓さんはもう家の中に居て、私が中に来るのを待っていた。いけない……つい考え事をしてしまった。
「いえ。何でもありません。お邪魔します」
私はそう言って、楓さんの家に上がる。私が上がったのを確認してから楓さんは玄関の片開き扉をぱたんと閉めた。
室内は玄関以外、電気が点いておらず真っ暗だった。不意に、カチリという音がする。次の瞬間、目の前がぱっと明るくなり、廊下が姿を現す。どうやら楓さんが電気のスイッチを押したようだ。
「
「うん。お母さんは明日の夜まで仕事で、帰ってこないから」
「お父様は……」
「ああ、お父さんはね。六年前に、病気で死んじゃったんだ」
「えっ……」
あっさりと、それは楓さんの口から告げられた。
「……ごめんなさい。私……」
「気にしないで。お父さんが死んじゃった時はそりゃあすごく悲しかったけど……今は大丈夫だから!」
楓さんは私を安心させるように、いつもと同じ笑顔で明るく振る舞う。
まさか、楓さんのお父様が亡くなられていただなんて。……知らなかったとは言え、私はなんてことを。
「……もう! そんな顔しないで! 今の私には、芭蕉やサンちゃんに、もちろん栞も、他にも色々な人たちが私の側に居てくれるから全然寂しくないの。だから、ね。そんな悲しそうな顔しないで」
「楓さんが、そう仰るのでしたら……はい」
「よーし! じゃあもう遅い時間だし、お風呂に入って寝ないと。私は学校の宿題をやらなくちゃいけないから、栞が先に入っていいよ。今用意してくるからちょっと待ってて!」
そう言い残し、楓さんは階段を上っていった。私は廊下に佇み、楓さんに気を遣わせてしまったなと反省する。
しかし……楓さんはああ仰ってはいたが、お母様もお仕事で忙しいとなれば、きっと本当は寂しいだろう。なのに、あんなに明るくて元気で──まだ中学生なのに、どうしてあんな風に出来るのだろう。ほんの少し、不思議に思った。
私は脱衣所に入室し、服を脱ぎ始める。脱いだ服のポケットから鍵とキーホルダーを取り出し、服と下着を洗濯機に入れる。背中を覆う程に長い髪をまとめてくれていた髪飾りも取り外す。そして鍵とキーホルダー、髪飾りを、籠の中にあるパジャマの上に置く。このパジャマは楓さんが用意してくれたものだ。
近くにある洗面台に付いた大きめの鏡で、自分の姿を視認する。目が覚めた時に居たあの部屋で少しだけ姿見に映った自分の姿は見たが、しっかりと見るのは初めてだった。薄い、光に当たれば白髪かと見紛う程に薄いピンク色の長髪。病人のような白い肌。でも体格は中肉中背で健康そう。身長もこれまで違和感は無かったから前と同じ一六〇センチくらいか。顔は、元々の私の顔にとてもよく似ているが、この体が私の体の訳が無いので、この体はよく似た別人の体だと思う。世界には自分と似た顔の人が三人居る……と、どこかで聞いた事がある。多分この体は、その三人の内の一人の体なのだろう。
そもそも、私は何故今、こうしてこの他人の体で生きているのだろうか? 考えられる可能性があるとすれば──憑依。例えば、私はあのまま病院で死んで、未練があるか何かでこの世に魂だけが残り、私にそっくりな他人の体に憑依してしまった、とか。
「いやいやいやいや……」
頭を左右に振ってその仮説を否定する。いくらなんでも憑依って……しかし、考えられない話ではないと感じてしまう自分が居る。いや、むしろそれしか考えられないのではとさえ思えてきた。今のこの状況にも辻褄が合うし、尚更だ。
仮に、そうだったとして。どうしてこの体の持ち主は、博物館の地下室で眠っていたのだろうか。もしかして、あの老人のお孫さん……? 孫を普通、博物館の地下室で寝かせるだろうか? ……そういえば。前にテレビで耳にした覚えがある。小さな女の子に性的嗜好・恋愛感情を持つ人のことをロリコンと言うのだと。あの老人はもしかして、ロリ──
「……話した事も無い方に、失礼ですね」
私はそこで思考を一旦止めた。この体の持ち主にどんな事情があるのかは知らないが、それはこの体の持ち主の問題なので私が関わるべきではない。それに、想像を広げすぎてしまったが、これはあくまで仮説に過ぎないのだから。……一応、あの博物館にはしばらく近付かないでおこう。
洗面台に背を向けてお風呂場へ足を踏み入れようとした時、パジャマの上に置いてある鍵が視界に入った。鍵は、ネックレスに付いたままだ。ネックレスと言えば……まだ、預かってくれているだろうか。その前に、生きているかどうかさえも分からないのだけど。他の人達もそうだ。五十年以上経ってしまっているのだ。“
私は、それ以上を考えなかった。心
の中であったとしても、その言葉を言ってしまったら、真実になってしまう気がしたから。
「それで、その時サンちゃんがね」
「……楓さん。いい加減寝ませんか?」
「えーっ、まだまだ話し足りないよー夜はこれからだよ!」
「元気ですね、楓さんは……」
私は、楓さんの部屋にあるベッドの隣の床に布団を敷いて寝る事に決めたのだが、横になってからというもののずっと楓さんの話を聞かされていた。
「と言うか、明日学校じゃないんですか?」
「うっ……何故分かった」
「適当に言ってみただけですが……」
「そ、そんな……まさか栞、エスパー!? それか読心術の使い手!?」
「私はエスパーでも読心術の使い手でもありませんよ。ただの人間です」
「そこは乗ってよ~栞は夢が無いなあ」
「夢……」
夢──その可能性も、無きにしも非ず、だろうか。
「……とにかくです。もう寝ないと、朝に起きられなくなっちゃいますよ?」
「え~。なんか栞、お母さんみたい」
「申し訳ないですが、私にはこんな大きな子供は居ません」
「あはは。そうだね。栞は私のお母さんじゃなくて、友達だもんね」
「そ……そうですよ。私は楓さんの、と……友達、ですから」
躊躇いながらも私は答える。やはり自分から友達と言うのは、まだ恥ずかしい。
それからぴたりと、会話が止まる。沈黙が、しばらく続く。楓さんはもう眠ってしまっただろうか。私もそろそろ寝なければ。明日はサンちゃんさんの家に行く予定があるのだ。
「栞、起きてる?」
目を閉じようとしたその時、楓さんが私に話し掛けてきた。
「起きてますよ」
「……明日、栞はサンちゃんの家に行っちゃうんだよね」
「はい」
「本当はね、私が栞を、この街を観光してる間、泊めてあげられれば良かったんだけど……私の家さ、お父さんが居なくなってから、ずっとお母さんが朝早くから夜遅くまで働いてて。お母さん、すごく一生懸命で。だから、これ以上お母さんに負担を掛ける訳にはいかなくて……ごめんね」
電気は消してあるので顔は見えないけれど、とても申し訳なさそうな声で、楓さんは言った。そんなことを気にしてくれていたのか。……本当に、優しい子だなあ。
「謝る必要なんて、無いですよ。むしろ楓さんにはとても感謝しています。サンちゃんさんのことを紹介してくれて、芭蕉さんの御家でご飯を食べさせてくれて、こうして泊めてくださって……本当にありがとうございます。楓さん」
これまでの感謝の想いを正直に、そのまま楓さんに伝えた。
「……そっか。よかった。ありがとう、栞。私、栞がサンちゃんの家に行っても、また会いに行くからね」
楓さんの声が、いつもの調子に戻ってくる。
「ええ。私も、楓さんに会いに行きますね」
「うん。楽しみにしてるよ」
「ですがとりあえず、今日は明日の学校に備えてもう寝ましょう」
「そ、そうだね! ……じゃあ、おやすみ」
「おやすみなさい」
その後、すぐに楓さんのベッドの方から小さな寝息が聞こえてきた。きっと疲れていたのだろう。私も、今日は色々な事がありすぎて疲れた。このままぐっすりと眠れそうな気がする。
目を閉じる。そうしてゆっくりと、私は眠りの世界へ招かれてゆくのだった。
目が覚めた。起き上がり、隣を見る。そこには、楓さんがまだ小さな寝息を立てて眠っていた。
「……やっぱり、夢じゃなかった、ですか」
少しだけ、夢かもと期待していたのだが。その期待は裏切られた。
ため息を一つついてから立ち上がり、楓さんのベッドに置いてある手の平サイズのデジタル時計を確認する。六月十一日、午前四時。結構早い時間に起きてしまった。眠くはないので、私はこのまま起きている事にした。
布団を畳み、昨日楓さんが布団を出していた押し入れへと運ぶ。「朝ご飯はキッチンにある籠の中にパンが入ってるから、適当に食べていいよ」と、昨日楓さんに言われたので、適当に籠の中にあったクロワッサンを取り食べた。歯ブラシと歯磨き粉、コップは楓さんが使い捨ての物(旅行の時に貰ったアメニティーグッズらしい)を用意してくれたためそれを使用した。櫛も楓さんの物を貸していただいた。服は、私の服だけ乾燥機を使ってもらったので、もう着れるようになっていた。
「なんと言うか、本当に、お世話になってばかりですね……」
服を着ながら、呟く。中学生の子にお世話になりっぱなしの自分が酷く情けない。
何かお礼が出来ればいいのだが、私には自分の持ち物が殆ど無い。どうやってお礼をすればよいのだろう。私に出来る事……何か、特技でもあれば。
「……あ」
特技なら、一つだけある。料理だ。何もかも満足に出来ない私だが、料理だけは自分でも満足に出来ると思える。一人暮らしで自炊もしていたし。……まあ、かなりブランクはあるが。後で楓さんに、お礼に料理を作らせてくれないかとお願いしてみよう。喜んでもらえれば、いいな。
私と楓さんは、玉谷家の前に居た。これから楓さんは学校で、私はサンちゃんさんの家に行く。学校とサンちゃんさんの家は反対方向。なので、ここでお別れだ。
「じゃあね、栞。サンちゃんの家に行っても元気でね。絶対にまた会いに行くからね」
楓さんは名残惜しそうな顔で私に声を掛ける。まるで、よくドラマである上京する娘を見送る母親だ。そんなに別れを惜しんでもらえるのは嬉しいのだが、握られた手がちょっと痛い。
「はい。さようなら、楓さん。……そろそろ行かないと、遅刻しちゃいますよ」
「うん……」
私の手から、楓さんはゆっくりと手を離す。
「またね、栞!」
笑って、学校へと走っていく楓さん。私は楓さんに片手を振る。あ、お礼に料理を作らせてくれないかとお願いするのを、忘れてしまった……でも、いいか。また会うのだから、その時にお願いしてみよう。
──さてと。ポケットから楓さんに書いていただいたサンちゃんさんの家への地図を取り出す。昨日行ったとは言え道を完全に覚えている訳ではないので、念の為書いてもらったのだ。
地図と周りを交互に見ながら、楓さんとは逆の方向へ歩き出す。地図で道をきちんと確認しながら進んでいく。
途中、昨日楓さんと来た公園の前を通る。楓さんと一緒に座ったベンチが視界に入った。ベンチには、制服を着た女の子が座っている。
「あれは……」
確か、咲耶中学の制服だ。もう学校に行く時間のはずだが、どうかしたのだろうか。遠いのでしっかりとは見えないけど、女の子は俯いているような感じがした。……気になるが、今はサンちゃんさんの家に行くのが最優先だ。私は女の子へちらりと視線を向けてから、公園の側を離れた。
「いらっしゃいませ、栞さん。お待ちしておりましたわ」
サンちゃんさんは昨日のように勢いよく玄関扉を開ける事は無く、優雅な立ち居振舞いで私を出迎えてくれた。今日はセーラー服を身に纏っている。咲耶中学のものとは異なるデザイン。どうやら、楓さんとは学校が違うみたいだ。
「おはようございます、サンちゃんさん。今日からお世話になります」
私は、深く頭を下げた。
「こちらこそ。さあ、どうぞお入りになって」
「はい。お邪魔します」
家の中に入る。玄関には、万鈴さんが立っていた。
「そういえば、きちんと紹介していませんでしたわね。
「……よろしくお願いします。栞様」
私に挨拶をして、お辞儀をする万鈴さん。三角巾から出ているとても長い黒髪が揺れる。頭の下辺りで二つに結んだ髪は足にも届きそうだった。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
万鈴さんに挨拶を返して、同じようにお辞儀をする。頭を上げて、万鈴さんへ目線を向ける。万鈴さんは、私を無表情でじっと見つめていた。万鈴さんの瞳は宝石のように透明な輝きを放っていて、思い掛けず、私はどきっとしてしまう。
「それでは、まずは栞さんのお部屋に案内しますわ。栞さん、ついてきてくださる?」
「あ、はいっ」
サンちゃんさんの言う通りに、サンちゃんさんの後ろについて廊下を進み始める。万鈴さんは、いつの間にかサンちゃんさんの側に立って歩いていた。
昨日通された客間は玄関のすぐ近くにあったので、廊下はあまり見る機会がなかった。廊下には花や絵画などが飾られている。どれもとても綺麗で高そうなので、ぶつかったりしないように気を付けて歩く。
「栞さんが来てくださって、私、嬉しいんですの」
私の前で歩を進めているサンちゃんさんが、話し始める。
「嬉しい、ですか?」
思いも寄らない言葉に、私は驚く。「迷惑だ」ではないのだろうか。
「ええ。今までこの家には私と、使用人たちしか居ませんでしたから」
「サンちゃんさんと使用人さんたちだけって、ご家族の方はいらっしゃらないんですか?」
「家族は、色々と忙しくて。遠方に行ったり海外で暮らしていたりと……そういう訳で、家族は全員、この家には居ませんの」
「そうなんですか……」
「ですから、これからは栞さんが来て賑やかになりますわ。そろそろ万鈴の髪で遊ぶのも飽きてきましたし」
「……栞様。お気を付けください。お嬢様は、長髪の方の髪で遊ぶのがお好きなので……」
「まあ! お気を付けください、とはなんですの? まるで私が普段万鈴の髪で遊んでいるのが迷惑だと、言っているようではありませんの」
「そうですが、何か」
「……万鈴? そんなにお給料、減らされたいのかしら……?」
急にサンちゃんさんの声が低くなる。しかし、万鈴さんは意に介さない。
「給料が減るなら、ここを辞めるのもありかもしれませんね」
「なっ……!?」
万鈴さんの予想外の反応に、サンちゃんさんが動揺する。
「でも
「くっ…………こ、今回は許してあげますわ! 別に、万鈴が居なくても髪のお手入れもセットも、出来るんですからね!」
「分かっていますよ、お嬢様」
サンちゃんさんが万鈴さんに仕返しをするつもりが、逆に万鈴さんにサンちゃんさんが仕返しをされてしまったようだ。……失礼かもしれないが、サンちゃんさんと万鈴さんはお嬢様と使用人さんと言うよりも、普通の仲の良い友達同士のようだった。
「……ふふっ」
「ちょっと、栞さん? 今笑いましたわね?」
「へっ、あっ、これはその……」
私は慌ててしまい、上手く言葉が返せない。
「……万鈴も栞さんも、酷いですわ」
そうしている間に、サンちゃんさんは立ち止まり、しょんぼりと項垂れてしまった。もしやサンちゃんさんは、私がサンちゃんさんが一人で髪のお手入れやセットが出来ない事を笑ったのだと勘違いしてしまったのか。
「ご、ごめんなさいサンちゃんさん……! 違うんです、私はサンちゃんさんと万鈴さんが友達同士みたいで微笑ましくて、つい笑ってしまっただけなんです!」
誤解を解かねばと、私は急いで弁明する。
「そ、そうなんですの……? って、万鈴のような無礼な方と友達なんて、それこそ失礼ですわ!」
「……私も、お嬢様のように回りくどい方と友達は嫌です」
「ちょっと、今なんて言いましたの!? 私が回りくどいですって……!?」
「そういうすぐ怒るところも嫌ですね」
「ま、万鈴……あなたという人は……!」
──まずい。言い争いが始まってしまった。どうしよう、私のせいだ。私がちゃんと考えもしないであんなことを口にしてしまったせいで、お二人が……ど、どうすれば。と、とにかく、お二人のことを止めないと──
「はいはぁーい。そこまでですよ、お二人ともぉ」
何の前触れも無く、その声は響いた。あれ、この声って。私は声のした方──私の隣へ顔を移動させる。万鈴さんと同じロングスカートにエプロンを付けた五戸家の使用人服。そこには、いつの間にか小鈴さんが立っていた。
「こ、小鈴……! あなた、いつからそこに居たんですの……!?」
「いつからって、ついさっきですよぉ。近くを通り掛かったらお二人が喧嘩してたので、こうして止めに入ったんですぅ」
「聞き捨てならないわね、小鈴。私は喧嘩なんてしていないわよ。お嬢様が勝手に怒っているだけだもの」
「万鈴が失礼な発言ばかりするせいで怒っているのではないですか!! 私だけが悪いみたいに言うのは──」
「はいはいはぁ~い!! もう止めましょうよぉ、今日はお客様だっていらっしゃるのにぃ」
「あ…………」
サンちゃんさんが私を見る。私はどういう反応をすれば良いか困ってしまい、とりあえず苦笑いする。
「分かりましたかぁ? ほら、お二人とも仲直りしてくださいよぉ」
「え、ええ……言いすぎましたわ、万鈴。ごめんなさい」
「……いえ。私もお嬢様に失礼なことを言ってしまい、申し訳ありませんでした」
サンちゃんさんと万鈴さんはお互いに頭を下げる。よかった……お二人が仲直りしてくれて。私だけでは、お二人の喧嘩を止めて仲直りさせることは、きっと不可能だっただろう。
「あ、あの、ありがとうございます。……小鈴さん」
で、合っているのだろうか。昨日会った時とは雰囲気が違って、ほんの少し不安になる。
「いえいえ~いつものことなので、お気になさらずぅ」
「そ、そうなんですね……それで、その……小鈴さん、ですよね?」
「はい、そうですよぉ。五戸家の使用人で一番可愛いと言われるのはこの
胸に片手を当て、もう片方の手を腰に添え、セミロングの黒髪を揺らし自信満々に公言する小鈴さん。や、やっぱり、昨日の小鈴さんと同一人物とは思えない……。
「小鈴。栞様の前でその話し方は止めなさい」
万鈴さんが小鈴さんに注意する。万鈴さんの言葉に、小鈴さんは唇を尖らせる。
「ええ~いいじゃないですかぁ。だって普通に喋るとかいうの、疲れますしぃ」
「だからって……」
「万鈴。いいのですわ。私たちのことも止めてくれましたし、許してあげましょう?」
万鈴さんの言葉を遮って、サンちゃんさんが発言する。
「……お嬢様がそう仰るのでしたら」
「わぁ~い! ありがとうございます、お嬢様ぁ!」
とても嬉しそうに喜ぶ小鈴さん。会話を聞いていて思ったが、もしかして昨日の小鈴さんの喋り方は演技で、今の小鈴さんの喋り方が素、なのだろうか。
「そして……栞さん。先程はまたお見苦しい姿をお見せしましたわね。本当に、申し訳ありません」
「私も、申し訳ありませんでした」
サンちゃんさんと万鈴さんが私に頭を下げる。
「い、いえいえ! 気にしていませんので、大丈夫ですよ」
私がそう声を掛けると、サンちゃんさんと万鈴さんは頭を上げてくれた。
「ありがとうございます。なんだか栞さんにはお見苦しい姿をお見せしてばかりですわね」
「そんなことないですよ。むしろ、サンちゃんさんもちゃんと中学生なんだなあって安心しました」
「そ、それは私が子供っぽいという意味ですの?」
「あ、いえ! そういうつもりでは……」
「お嬢様が子供っぽいのは事実でしょう。好きな食べ物だってキャラクターの甘口のカレーで──」
「ちょっ、無闇に言い触らさないでくださいな! 万鈴!」
顔を赤くして、サンちゃんさんは両手で万鈴さんの口を塞ぐ。万鈴さんはサンちゃんさんに口を塞がれたおかげで「むー」と可愛い声を出している。その微笑ましい光景に、自然と再び笑みがこぼれた。
「喧嘩するほど仲が良いって、こういうことなんですかねぇ?」
小鈴さんが私の隣で呟いた。サンちゃんさんと万鈴さんを眺めながら、私は答える。
「きっと、こういうことですよ」
小鈴さんは「それじゃあ、私は他に仕事があるのでぇ」と言い残し、そそくさと去っていった。万鈴さんによると小鈴さんは仕事をサボっている時が多いらしく、サボった分の仕事を今日は頑張って片付けなければならないらしい。大変だなあ……と思いながら、私は小鈴さんの小さくなっていく後ろ姿を見送った。
案内が再開され、私はサンちゃんさんにキッチンや食堂などの説明をされながら廊下を進んでゆく。
「──で、こちらが書庫ですわ」
サンちゃんさんの視線の先には、大きな扉があった。
「歴史に関する書物など、様々な本が所蔵されていますの。全部で……二百万冊ぐらいあったかしら」
「に、二百万冊……すごいですね」
「……おかげで、お掃除をするのが大変ですが」
万鈴さんが、ため息まじりにそう呟く。確かに、二百万冊もあったら掃除するのも一苦労だろう。でもそれだけの本があったら、この街や今の世界についてをもっと知る事が出来るかもしれない。楓さんに街は案内してもらったけれど、まだ知らない事は多い。それに、調べなければいけないものもある。
「あの、後でしばらく書庫の本を読ませていただいても大丈夫でしょうか?」
「ええ、構いませんわよ。書庫内に読みたい本を検索するパソコンがありますから、後で使い方を説明しますわね」
「ありがとうございます」
よかった。これで、色々な知識をもっと得られるだろう。二百万冊もあるから、きっと何日かはかかると思うけど……もしかしたら、私がどうしてこうなったのかも分かるかもしれない。頑張って調べよう。そう、強く意気込んだ。
(三話完)
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