第二話 太陽
博物館を後にした私と楓さんは、太陽に照らされた昼間の街を歩いていた。歩きながら楓さんに街の案内をしてもらい、この街について知る事が出来た。
まず、ここは《
次に、咲耶市は《アポカリプス博物館》というとても大きな博物館がある事で有名で、それが先程の博物館だということ。私はこの県に一年ほど住んでいたが、アポカリプス博物館なんて名前の博物館は聞いた事が無い。単に私が知らなかっただけなのか。
他にも特産品などを紹介されたけど、まあそれに関しては重要ではなさそうなのでいいだろう。
「あ、ここも紹介しておくね」
そう言って、私の前を歩いていた楓さんは立ち止まり、近くにある建物を見た。私も釣られて建物を見る。
「この建物は……学校ですか?」
私と楓さんの目の前には校門らしき門と、門の向こうに建っている大きな建物があった。今日は休校日のようで門は閉められている。
「当たり~。ここが私が通ってる中学校、《咲耶中学校》だよ!」
「中学校……ということは、やっぱり楓さんは中学生なんですね」
「そうだよ~中学一年生だよ。そういえば、栞は何歳なの? 私よりは年上っぽいけど」
「私ですか? 私は……」
そこで、言葉に詰まる。私は中学生でも高校生でもなく、二十二歳なのだが……本当の年齢を明かしてしまうと、成人している私とでは中学生の楓さんは遠慮してしまうかもしれない。遠慮されるのは、苦手だ。なるべく避けたい。
「ねえねえ、何歳なの?」
楓さんが私に答えを催促してくる。
「私は……えーっと……十五歳から十六歳くらい、です」
「……何でそんなに曖昧?」
私の返答に楓さんは首を傾げる。
「あ、あはは……い、いいじゃないですか。ちょっとくらいミステリアスな方が」
いけない。焦ってつい変な答え方をしてしまった。その上、人生で初めてサバを読んでしまった。
「ふうん。でも、やっぱり私よりは年上なんだね」
「あっ……その、年上でも今まで通りで、構いませんので……」
「そう? ならよかった。私も、今まで通りがいいなって思ってたから」
顔を綻ばせて言う楓さんを見て、私は胸を撫で下ろす。楓さんが私に遠慮してしまわなくて、よかった。
「栞は十五歳から十六歳くらい、かあ。サンちゃんと同じくらいだね」
「サンちゃん?」
聞き覚えの無い名前に、私は楓さんに問い掛ける。
「私の友達。後で栞にも紹介するね」
「それは嬉しいですが……私なんかに紹介していいんですか?」
「え? どうして? 私の友達に私の友達を紹介するのって、変かな」
楓さんは不思議そうな顔をした。
「友達って……もしかして、私のこと、ですか?」
「うん。栞以外に誰が居るの?」
「……幽霊とかですかね?」
「あはは。私、幽霊とかはあんまり見えないんだよね。霊感全然無くってさ。だから友達っていうのは、栞のことだよ」
語りながら楓さんは両手で私の片手を取って、微笑んだ。──友達。私には一生縁の無いものだと思っていたが、どうやら違ったようだ。
「……そうみたいですね」
友達は私には一生縁の無いもの、という予想は外れたが、嫌な気持ちはしなかった。
大体の案内が終わり、楓さんに「少し休もう」と提案され連れていかれたのは、公園だった。
楓さんが公園の端にあるベンチに座り、私も楓さんの隣に座る。
「案内はあんまりした事無いから上手く出来てたか分からないんだけど、こんな感じで大丈夫だったかな?」
私の顔を下から覗き込むようにして、楓さんは訊いてきた。
「はい。とても分かりやすかったです。ありがとうございました」
「えへへ、どういたしまして。栞は喜んでくれたし私も良い経験になったし、一石二鳥だよ~」
「でも、良かったんですか? 博物館に何かご用があったのでは?」
「ううん。ただ暇で来てただけだから。気にしないで」
「そうでしたか……」
楓さんの返答で私は安堵する。
そこで、私と楓さんの会話が途切れてしまう。……今まで友達など居なかったので、こういう時どんな話をすれば良いのか悩んでしまう。私と楓さんでは年が離れているし、話も合わないかも。そう思うと、もっとどんな話をすれば良いのか分からなくなってきた。
何か話題になる物がないかと藁にも縋る思いで周りを眺め回すと、公園の中央辺りに大きな時計塔があるのを見つけた。時計塔の上部に付けられた丸い形のアナログ時計を見ると、針は丁度午後二時を指していた。私はそこで、聞き忘れていた事があったのを思い出す。今が、何年何月何日なのかだ。
「あの……楓さん。今って、何年、何月、何日でしょうか?」
楓さんの方を向いて尋ねる。
「今? ちょっと待っててね」
スカートのポケットからスマホを取り出した楓さんは、画面をじっと見つめ始めた。ストラップなのだろうか、腰とスマホを長い紐が繋いでいる。
「んーと……今は二千七十六年の、六月十日だね」
…………………………え?
「す、すみません。もう一度いいですか?」
「だから、二千七十六年の六月十日」
「…………」
私は、言葉を失う。その後、ゆっくりと項垂れた。
……ちょっと待ってほしい。私が眠る前は、確か二千二十年の六月十日だったはずで、今は二千七十六年の六月十日で。つまり、もう五十年以上経っているという事で。それはつまり、私も、既に老女という事で。でも私は全然年を取ってなくて。それじゃあ……私は何? 今ここに居る私は、一体……?
「栞?」
楓さんの声で、はっとする。顔を上げて楓さんを確認すると、心配そうな表情を私に向けていた。
「大丈夫……? 調子悪い?」
「は、はい……大丈夫、です」
落ち着け、落ち着け。既に私が老女なはずだとしても、実際は老女ではなくても、今、私はここに居るのだ。髪の色や服装は変わっているが、私の意識は変わってなんていない。私はちゃんとここに居る。それは、間違いない。
だが、これからどうする? 五十年以上経っているという事は、私には多分、もう帰る場所が無いのだ。住んでたアパートだってそんなに長い間留守にしていたら解約されてしまっているかもしれないし。ああそうだ。お金も無いんだった。仕事も辞めさせられちゃってるだろうな……というか、私の戸籍ってどうなってるんだろう。今後どこかに住むにしても働くにしても、そこをはっきりさせないと住んだり働いたりも出来ないだろうし。
……とにかく。まずは、泊まる所を探さなくては。泊まる所が無いと野宿になってしまう。今頼れるのは楓さんだけだが、何て説明しようか。
混乱している頭を、必死に、回転させていく。──そして、一つの案が思い浮かんだ。……うん。これで、いってみよう。
「わ、私、実は楓さんに言ってなかった事があるんです」
「へ? な、何かな?」
楓さんは唐突な私の言葉に面食らっているようだった。当然の反応だ。でも、私には時間が無い。楓さんに申し訳ないと思いながらも言葉を続ける。
「実は私、ここに来る時に乗っていた電車で寝て起きたら、持ち物が無くなっていて……」
「ええっ!? それって、盗られちゃったってこと!?」
相当驚いたのか、楓さんが大きな声を出す。
「そうだと思います。なのでお金も無くて。……突然の話で、ご迷惑をおかけする事は重々承知しております。でも、今頼れるのは楓さんしか居ないんです。どうか、一日だけでも、お金が無くても泊まれる場所を紹介していただけないでしょうか?」
「……うーん、そっかあ…………」
楓さんは腕を組んで何か考え事をし始めた。──それから、一分程経った頃。
「よし!」
いきなり楓さんがベンチから立ち上がり、私へ体を向ける。
「お金が無くても泊まれる所、あるよ! 多分!」
「多分、ですか……」
「とりあえず、行こう? 早く行かないと日が暮れちゃうよ」
両手で私の両手首を掴み、強引に立たせようとする楓さん。私は慌ててベンチから腰を上げる。
「行くって、どこにですか?」
「さっき話した、私の友達の、サンちゃんの家だよ」
「ど、どうしてですか?」
「ついてくれば分かるって。ね?」
楓さんが何をしようとしているのかは分からない。が、私には他に泊まる当てなど存在しないのだ。ここは楓さんについていくのが最善の道だろう。
「……分かりました」
「よーし! じゃあサンちゃんの家へ、れっつ、ご~!」
元気よくそう言って私の前を歩き出す楓さん。楓さんは私の片手を握っているため、私も引っ張られて歩き出してしまう。私は本当に大丈夫だろうかと不安を
到着したのは、豪邸の前だった。正確には豪邸の塀の前だ。塀は高く、私の体は余裕で隠れる。加えて、右を見ても左を見ても終わりが分からない程に長い。永遠に続いているのではないかと錯覚してしまいそうだった。
「このおっきい家が、サンちゃんの家だよ」
「……凄い豪邸ですね」
「だよね~何度見てもため息が出ちゃうよ……サンちゃんのお父さんはね、《
「五戸、カンパニー……?」
「聞いたことない? よくCMとかやってるんだけど」
途端に楓さんが不思議そうな表情になる。
五戸カンパニーという名前は、全く耳にした覚えが無い。それくらい大きな会社ならば私でも知っているはず。恐らくは、私が眠っている間に創設された会社なのだろう。
「すみません……あまりテレビを見ないもので、だからかもしれません」
「あー、なるほど……まあ、そういう人も居るよね!」
楓さんは納得してくれたようで、それ以上は私に何も訊いてこなかった。上手く誤魔化せたと、私はこっそり胸を撫で下ろす。
「っと、のんびりお喋りしてる場合じゃなかった。サンちゃん居るかなあ」
そう口にして、楓さんは塀に備え付けてあるインターホンを鳴らす。
『はい』
すぐに、インターホンから女性の声が聞こえてきた。
「玉谷楓です。サンちゃんに用があって来たんですけど、サンちゃんは居ますか?」
『……玉谷楓様ですね。少々お待ちください』
「はーい」
「……あの、突然来て大丈夫なんですか?」
私の隣に立っている楓さんに話し掛ける。
「あっ、連絡するの忘れた……」
やってしまったという表情で楓さんは言った。
「だ、大丈夫なんですか……?」
「え、えへへ……前にも連絡しないで来て、サンちゃんに怒られたんだよねえ……また怒られるなあ……」
落ち込んだ様子で首を垂れる楓さん。「前にも」と言うと、以前にも同じように連絡を忘れた時があったのだろう。やはり楓さんはおっちょこちょいな所があるみたいだ。
『お待たせ致しました。門をお開けしますので、そのままお進みになって、玄関の扉の前でお待ちください』
インターホンから再び女性の声が響く。
「あっ、はーい!」
慌てて楓さんが顔を上げ、女性へ返事をした。
女性の声が途絶えた後、重々しい動きで目の前の大きな扉──門がひとりでに開き始める。私は観音開きの門が奥へ開いていく様子を眺める。数秒後、ピタリと、門の動きが止まった。門が開き切ったのだろうか。
「行こう。栞」
「は、はい」
楓さんがサンさんの屋敷の敷地内へと入っていく。迷いの無い足取りだった。私は初めて来る家という事もあり、少し緊張しながら楓さんの後ろをついていく。歩きながら、豪邸の庭を眺め回す。本当にここ一帯が全て庭なのかと思うくらいの広大無辺な庭である。今までも豪邸にお邪魔する機会はあったが、ここまでの豪邸は久しぶりだ。前を向くと、風格のある佇まいの壮大な邸宅がはっきりと見えてきていた。童話に登場するお城のように美しい洋風の邸宅に思わず惹き付けられた。
邸宅の正面にある扉前で楓さんが立ち止まる。私も立ち止まった。
「すぐに誰か出てきてくれるだろうけど……はっ」
何かに気付いたのか、楓さんは急に後ろ歩きで何歩か後方へ下がった。
「どうしたんですか?」
「……栞も、下がった方がいいよ……怪我したくないならね」
「は、はあ……」
真剣な面持ちで警告してくる楓さん。よく分からないが楓さんが真剣だという事は理解出来たので、私も後ろに、楓さんの居る場所まで下がる。
「来る……!」
楓さんのその声とほぼ同時に、目の前の両開き扉が勢いよく左右に開いた。あまりにも勢いよく開いたので、風が起こり、私の髪が少し揺れた。
「楓さん!? あなた、家に来る際には前もって連絡をしなさいとあれほ……ど…………」
邸宅の中から出てきたのは、紫色のワンピースを着た可憐な女の子だった。まるで西洋人形のような、ほんの少し黒みのある、銀色の長髪。髪の一部は縦巻きにしている。女の子は私の方へと視線を向けて言葉を失ったように固まっている。
「さ、サンちゃん、こんにちは~」
どうやら私を見て固まっているこの女の子が、楓さんの仰っていたサンちゃんという方らしい。
「こ、こんにちは」
楓さんに続いて、私もサンちゃんと呼ばれた女の子──サンさんに挨拶をする。だが、サンさんは私達に挨拶を返す事無く、ゆっくりと扉を閉めて、家の中へと戻っていってしまった。
「あれ? サンちゃーん! どうしたのー?」
楓さんは閉まっている扉に向かって声を掛ける。待ってみても、サンさんは出てこない。
一分くらい経った後、また扉が開いた。
「どうぞ、お入りください」
姿を現したのはサンさん──ではなく、どこか神秘的な雰囲気の美しい使用人さんだった。若く、私の目には二十歳前後に見える。先程インターホン越しに応対してくれた人の声と同じ声だったので、この使用人さんが応対してくれた人なのだろうと思った。
「
「お嬢様は、先に客間でお待ちです」
使用人さん──万鈴さんがそう答えた。
「そうなんですか? いきなりどうしたんだろう……いつもなら玄関で十分くらいお説教されるのに。とりあえず、入ろっか?」
楓さんが私へと視線を移動させる。
「そ、そうですね」
私達は、万鈴さんに案内され、サンさんが居る客間を目指すのだった。
「先程は、お見苦しい姿をお見せしてしまい、申し訳ありませんでした」
客間のソファーに座っている私に、サンさんは立って、深々と頭を下げた。
「いえ、そんなにお気になさらなくても……私なら気にしていませんので」
「そうだよ~ああやって家の中から飛び出してくるのはいつものことじゃん」
私の隣に腰掛けている楓さんは、軽い口調でそう発した。
「……そもそも、誰のせいで
サンさんが頭を上げて、鋭い眼光で楓さんを射貫く。その鋭い眼光には楓さんも蛇に睨まれた蛙のように怯えてしまう。
「きょ、今日はたまたま連絡するのを忘れちゃっただけで……」
弱々しい声で弁明する楓さん。
「それ、この前も、この前の前も聞きましたわよ」
「うっ……」
しかし、即座にサンさんに言い伏せられてしまう。確かに、悪いのはほぼ楓さんだと私も思うが、ちょっと楓さんが可哀想に感じた。
「それと万鈴。どうして楓さん一人ではないと、教えてくれなかったの?」
サンさんの数歩後ろに立っている万鈴さんを見つめ、サンさんは問い質す。
楓さんによると万鈴さんはサンさんの侍女さんで、サンさんとは数年来の付き合いであり仲が良いのだとか。
「……お教えしようとしましたが、お嬢様が楓様の名前を聞いた途端、物凄い速さで部屋から飛び出していきましたので」
万鈴さんはサンさんの鋭い眼光に全く怯まず、落ち着いた態度で述べる。
「それは……そう、ですわね。今回は、私にも非がありましたわ。ごめんなさい、万鈴。楓さんも、申し訳ありませんでした。少し怒りすぎましたわ」
サンさんは申し訳なさそうな表情で、二度目の謝罪の言葉を口にした。
「うん……私も、ごめん。今度からはちゃんと連絡するよ……た、多分」
楓さんも、サンさんに謝罪する。これで一件落着、だろうか。仲直りできたみたいでよかった。
「多分という部分が気になりますけれど……まあいいですわ。今はそれよりも、優先しなければならない事がありますものね」
サンさんはそう言ってから、私の目の前にあるソファーに座る。私と楓さんが座っているソファーとサンさんが座っているソファーの間には長方形のテーブルが置かれているため、テーブルを挟んで向かい合う形になる。
「私も、あまり時間はありませんの。ここに来たという事は何かおありなのでしょう? ええと、そちらの方。お名前は……」
サンさんが私へと目線を移す。そういえばまだ名前を名乗っていなかった。
「私は、桜川栞と申します。よろしくお願いします」
「桜川……素敵なお名前ですわね。栞さん、とお呼びしてもよろしいかしら?」
にっこりと、サンという名に恥じない、太陽のように温かな笑顔を浮かべるサンさん。私は、サンさんの笑顔に魅了される。ちょっと忘れてしまっていたけど……やっぱりお嬢様なんだ。
「は、はい」
「ありがとうございます。では、私も自己紹介を。
「中学三年生……そうなんですね」
楓さんは中学一年生で、サンさんは中学三年生。仲睦まじい様子だったので、年が離れていたのは意外だ。どのようにして知り合ったのだろうと気になったが、今はそれを訊いている場合では無いと考え、気になる気持ちを抑えた。
「私は、何とお呼びすればよろしいでしょうか?」
「私のことは、サンとお呼びください」
「じゃあ……」
サンさん。と、言い掛けて心付く。今までは頭の中で呼んでいたので違和感は
「どうかしましたの?」
「……えっと、サンさんとお呼びしたいのですが、失礼ではないかと思いまして」
「え? ……ああ、いいんですのよ。慣れてますもの」
私の言いたい事を察してくれたらしい。サンさんは優しく微笑んでくれた。だけど、やっぱりちょっと躊躇ってしまう。
「どうしても気になるのでしたら、楓さんと同じように、サンちゃんでも構いませんのよ?」
サンちゃん……か。そっちの方がいいだろうか。だけど、誰かをちゃん付けで呼んだ経験なんて無いから戸惑ってしまう。うーん……サンさん、サンちゃん……あ、そうだ。頭の中に、一つの良いアイデアが閃く。
「サンちゃんさん、っていうのはどうですか?」
「サンちゃんさん、ですの?」
私の言葉に、サンさんはぽかんとしていた。そしてサンさんは、口に手を当てて考え込んでしまう。まずい。明らかに対応に困ってる。
「良いアイデアだと思ったのですが、駄目、ですかね?」
「いえ、そんな風に呼ばれたのは初めてで……って楓さん。何笑ってますの?」
私の隣を見ると、楓さんが口を片手で押さえて体をぷるぷると震わせていた。
「わ、笑ってなんかないよ?」
楓さんは否定するが、にやけているのが私の方からは分かった。
「嘘ですわね。絶対に笑ってますわ」
笑われるのが不愉快なようで、サンさんが強い口調になる。
「だ、だって、サンちゃんさんって……そうくるとは予想してなくて……」
「それは、私も思いましたけれど……」
サンさんも楓さんの言葉に同意する。楓さんは相当ツボにはまったらしく、今もにやけ顔を繕うのに必死なようだった。そんなに面白い呼び方だろうか……?
「やっぱり、駄目でしょうか?」
サンさんの気に障っていないかと不安になり、私はサンさんに尋ねる。
「別に、駄目だなんて一言も言ってませんわ。いいですわよ。サンちゃんさんで」
ちょっぴり恥ずかしそうに、サンさん……いや、サンちゃんさんはこの呼び方を許してくれた。私の中にあった不安が安心へと変化していく。
「よかったです……では、改めてよろしくお願いします。サンちゃんさん」
「ええ、よろしくお願いします。栞さん。……やっぱり、その呼び方は慣れるのに時間がかかりそうですわね。さて、と。話を戻しましょうか。ご用件をお伺いしますわ」
サンちゃんさんに言われて思い出す。私達は、サンちゃんさんに大事な用事があってここに来たのだ。
隣に座っている楓さんの方へ私は顔を向ける。先程の笑いは収まってきたようで、今は呼吸を整えていた。
「楓さん。一体、どうするんですか?」
サンちゃんさんに聞こえないよう、顔を楓さんに近付けて、なるべく小さな声で話し掛ける。
「もちろん。サンちゃんに、栞をサンちゃんの家に泊めてって頼むんだよ」
楓さんも私に顔を近付け、私と同じくらいの声で返答する。楓さんからの予想外の発言に私は驚く。
「そ、そんな、迷惑ですよ」
「でも、言うだけならタダだよ? それにサンちゃん以外に頼めそうな人知らないし……ね?」
──確かに楓さんの仰る事も一理ある。言う前から諦めるのは良くないし、お嬢様でありこんな豪邸に住んでいるサンちゃんさんなら、もしかしたら。
「お二人とも、早く話してくださるかしら」
痺れを切らしたサンちゃんさんが、若干苛立った声を発した。
「ご、ごめんねサンちゃん。あのね」
「楓さん、私がお話しても良いですか?」
私は楓さんの言葉を遮る。元々、これは私の問題だ。サンちゃんさんに頼む事まで楓さんに任せる訳にはいかない。じっと楓さんを見つめる。楓さんは理解してくれたのか、静かにこくりと頷いてくれた。
「ありがとうございます、楓さん。サンちゃんさん、実は──」
私は、楓さんに公園で話した事をサンちゃんさんにも打ち明けた。
「──と、いう訳なんです」
「まあ……それは災難でしたわね」
「なのでもしサンちゃんさんが宜しければ、私をサンちゃんさんのご自宅に何日か泊めていただけないかと……どうか、お願いします」
立ち上がり、深々とサンちゃんさんに頭を下げる。断られるかもしれないけど、それでも頼めるのはサンちゃんさんしか居ないのだ。ぎゅっと両手を握り締め、サンちゃんさんの返事を待つ。
「いいですわよ」
あまりにもあっさりと、サンちゃんさんは答えた。
「えっ、い、いいんですか?」
とてもびっくりしてしまい、咄嗟に顔を上げてサンちゃんさんを見る。サンちゃんさんは不思議そうな表情をしていた。
「何か問題でも?」
「い、いえ、泊めていただけるのでしたら本当に助かるのですが、すぐ了承してもらえるとは考えもしなかったもので」
「別に、一人増えた所で何も変わりませんわよ。部屋はいくつも余ってますし。ねえ、万鈴?」
「はい、お嬢様」
万鈴さんは冷静に、短く受け答えをする。
……まさかこんなにすんなり承諾を得られるとは。意外な展開すぎて、私は固まってしまう。流石、こんな広いお屋敷に住んでいるだけあって心の広さも並みではない。
「なら、これで決定ですわね」
サンちゃんさんが「ぱん」という音を立てて両手を合わせる。その音で私は我に返った。
「あ、ありがとうございます……!」
もう一度深く頭を下げる。そして、ゆっくり頭を上げた。
「よかったね、栞!」
隣で話を聞いてくれていた楓さんが満面の笑みでそう言った。これも全部、サンちゃんさんと、サンちゃんさんを紹介してくれた楓さんのおかげだ。
「楓さんも、本当にありがとうございます」
私は頭を下げて心からの謝意を示す。
「あ、頭まで下げなくていいよ~気持ちは嬉しいけど……」
楓さんの戸惑う声に、頭を下げるのは止めた方が良いかと思い、頭を上げる。
「すみません……ですが、楓さんにはとても感謝しています」
「あはは。そんなに感謝してもらえるなんて、私も嬉しいな」
笑顔を浮かべる楓さんを見て、心が晴れやかになるのを感じる。サンちゃんさんの笑顔も素敵だったが、楓さんの笑顔も素敵だなあと思った。
「お二人とも、喜びを分かち合っている所に悪いのですけど、一つ宜しいかしら?」
「ん、何? サンちゃん」
「流石に、いきなり来られてはお迎えする準備も何も出来ていませんの。ですから、今日は楓さんの家に栞さんを泊めてくださいます?」
「はーい、了解です!」
「栞さんも、それでよろしくて?」
「はい」
「では、そういう事で──」
「お嬢様」
万鈴さんがサンちゃんさんの耳元で何かを囁く。
「あら。もうそんな時間ですの……分かりましたわ。ごめんなさい。私、これから用事があって、もう行かなくてはいけないのですわ」
「そうなんですか……大変ですね」
「いえ、五戸家の人間として当然の責務ですから」
そう言って退けるサンちゃんさんの姿に、すごいなあと尊敬の念を抱く。……本当に、同じお嬢様でも私とは大違いだ。私の場合はお嬢様“だった”が正しいか。
「栞さん。明日は午前十時までにはいらしていただけるかしら? 空いている時間がその時間しかなくて……ごめんなさいね」
「は、はい。分かりました」
考え事をしていたため、答えるのがちょっと遅れてしまった。サンちゃんさんはその事に気付いていないようで、そのまま言葉を続ける。
「ありがとうございます。それでは、お二人とも。私はここで失礼致しますわ。
「承知しました」
万鈴さんの隣に立っていた、小鈴と呼ばれた使用人さんが返事をした。これも楓さんから聞いた話だが、小鈴さんは万鈴さんの妹らしい。確かに万鈴さんよりは幼く、高校生くらいにも見える。万鈴さんと同じく端整な顔立ちだが、万鈴さんとは違い“美しい”よりも“可愛い”という印象だった。
サンちゃんさんがソファーから起立する。その様子を見て、万鈴さんも動き始めた。侍女さんなので一緒に移動するのだろう。
「ばいばい。サンちゃん、万鈴さん」
楓さんが別れの挨拶をする。
「さようなら、サンちゃんさん。万鈴さん」
私も、楓さんに続く。
「ごきげんよう。楓さん。栞さん」
優雅に挨拶を返してくれるサンちゃんさん。万鈴さんは、ぺこりとお辞儀をしてくれた。
サンちゃんさんと万鈴さんが客間から出ていくのを見送った後、私達も小鈴さんの案内で客間から退室したのだった。
外はもう、夕方だった。
サンちゃんさんの家から御暇した私達は、五戸家の塀の前に立っていた。
「これから、楓さんのご自宅に行くんですよね?」
「それはそうなんだけど……栞、一緒に
「芭蕉さん、ですか?」
「私の友達で幼なじみなんだけど、家がお隣さんでね。よくご飯をご馳走になってるんだ。で、今日丁度ご飯をご馳走になる約束をしてるんだよ。栞も、一緒に行かないかなって」
「い、いいんですか? 私もお邪魔してしまって」
「大丈夫だと思うよ。でも……一応、連絡しないとね」
楓さんはスカートのポケットからスマホを取り出し、スマホを操作し始める。
「えーと、芭蕉芭蕉……あった」
手慣れた手付きでスマホに触れる楓さん。どうやら電話ではなく、メールで連絡したようだ。
「よしっ。これで連絡したから、すぐに返信が届くと思うよ」
「今度は、忘れませんでしたね。連絡」
「あはは、気付いてよかったよ……うわ、もう返信きた。相変わらず速いなあ。えっと……大丈夫だって」
「本当ですか? それならよかったです」
「うん。じゃあ、芭蕉の家に行こっか」
楓さんはスカートのポケットにスマホを戻し、歩き出す。私も一歩踏み出して歩いてゆく。
「そういえば、サンちゃんさんの
並んで歩きながら、楓さんに話し掛ける。
「あれねー……前にいきなりサンちゃんが出てきた時は扉が直撃してさあ。いやー、あれは痛かった……」
「もしかして、その時も」
「うん。連絡するの忘れちゃったんだ。……どうしても、直らないんだよねえ。おっちょこちょいなの。直そうとは考えてるんだけど、なかなか直せなくて。それが、ちょっとつらいかな」
楓さんが苦笑いする。私の瞳には、その苦笑いの表情はどこか悲しそうに映った。
「楓さん……」
「でもね。おっちょこちょいなのも私の個性かなって思うんだ」
「個性?」
「そう。いつだったかは忘れちゃったんだけど、言われたんだよ。楓はいつもおっちょこちょいだけど、それも楓らしい、楓の個性だよねって。そう言われて、気付いたんだ。私が直したいと考えてる部分も、他の人からは個性に見えるんだなあって。直せないなら無理に直そうとするんじゃなくて、直そうとしたい部分を、個性として受け入れるのもありなのかなってさ。そのことに気付いてからは、前よりは、つらくなくなった。直すのを、諦めた訳じゃないけどね」
「直したいと思っている部分を、個性として受け入れる……」
ふっと。私の脳裏に、私が直したいと思っている所が過った。──性格が悪い所。それが、私の直したいと思っている所。消し去るべき私の敵。そんな宿敵の存在を、個性として受け入れる……?
「……馬鹿馬鹿しい」
とても小さな声で発された私の呟きは、楓さんの耳には届いていないようだった。
隣で歩みを進めている楓さんの横顔を見る。その横顔が眩しく感ぜられたのは、夕日のせいか、それとも。
(二話完)
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