第30話 職員室がアホやから、勉強にならへん

 「ベンチがアホやから野球がでけへん」と言ったとか言わなかったとかで、プロ野球選手を「降りた」投手がいた。

 彼の名は、江本孟紀。

 その経歴を簡単にご紹介しよう。

 法政大学卒業後社会人を経て東映フライヤーズに入団するも、1勝もしないまま1年でトレードに出されて南海へ行き、エースとなり、日本シリーズでも勝ち投手となった(南海ホークスの日本シリーズ最後の勝ち投手でもある)。

 その後阪神の江夏豊投手とのトレードで阪神入り。しかし1981年8月下旬、彼はそのようなことを言ったとか言わなかったとか、マスコミに書かれ、ついに退団となった。一時は「無職」となってどうなるかと思われたのも束の間、彼が翌年出した本が大ヒット、一躍、野球評論家として名を成し、後には参議院議員も務めた。

 

 江本氏風に表現すれば、こうなるであろう。

 「職員室がアホやから、勉強にならへん」

 

 梶本暢子さんは、広島県東部のある街外れに住んでいた。高校は地元の公立普通科高校に進学した。

 1990年代初頭、大検がようやく世間一般に広まった頃のことである。

 この手の学校は、都市部の進学校のように大学進学実績をそれほど出しているわけでもない。なかには大学に進学する生徒もいないではないが、そのような生徒は大抵、近辺の都市部の進学校へと流れていく。

 勢い、そこに入学するのは、失礼ながら学力がお世辞にも高いとは言えない層が中心となってしまう。その地域だけでなく、近隣の都市部からも生徒は集まるが、彼らもまた、お世辞にも学力が高いとは言えない。

 岡山県では総合選抜制度が廃止され、学区も拡大されたため、街外れのかつて名門だった高校までが深刻な学力低下を引き起こしている例が見受けられる。

 それに拍車をかけているのが、特色を前面に出して生き残りをかけて勝負に出てくる私立高校や中高一貫校。

 トップクラスの学校は公立と私立を問わず難なく生き残るどころか、さらに進学実績を上げている例もある中、公立でもかつてより街外れにあって地元の生徒と都市部の低学力層の受け皿となっていた高校は、どこも、レベルを落としている。かつてならその手の学校すら合格できなかった生徒が、今やかつての滑り止めと思われていた私立高校にも合格しえず、やむなく街外れの公立高校に入学するという例も多々見られるようになった。

 もっともこれは、岡山県だけでなく、他府県でも似たような傾向がみられる。

 言葉は悪いが、「安かろう・悪かろう」を地で行くような光景。

 総合選抜で「守られていた」不人気の進学校はまだしも、都市部から外れた地にある「底辺」の公立高校は、この頃すでに、学力低下を招いていた。


 暢子さんは、そんな学校に嫌気がさし、高2になって間もなく中退した。

 その時、担任だった教師が、こんなことを言ったという。

 

 学校に勉強しようと思ってこなくたって、いいじゃないか。勉強なら、塾に行ってやればいいだろう。それよりも、この学校でみんなと楽しく、仲良く、学校生活をエンジョイする方が、社会性も身につくはずだ。それを何だ、退学するとか、そんなことでは社会に出てやっていけないぞ。

 近所の目もあるだろう。卒業まで我慢しろよ。


 その話を真鍋氏経由で聞いた時、私は、これが教師の言う言葉かと、一瞬びっくりしたほどだ。

 彼女はその教師の言を黙殺し、毅然として校長相手に退学届を提出し、学校を去った。校長も何か話したそうだったが、これも無視。

 

 あいにく大検の願書提出期限は過ぎている。だが、現段階で高2だから、来年までに合格すればいい。その足で彼女は、玉野市の真鍋氏に相談した。真鍋氏の答えは、こうだった。


 来年に大学受験資格を確実に得るためには、大検だけではリスクがあるので、まず、高1修了時点で免除要件を満たした科目を確認しよう。そのうえで、来年受検する科目を確認し、万が一どの科目かが不合格になってもフォローできるように、通信制高校を併用すればいい。

 そうすれば、毎週日曜日だけでも、人とのつながりを作ることができるし、大学受験資格も確実に得られるようになるから。


 アドバイスに従い、彼女は早速、岡山県のS高校の通信制過程に「編入」した。親戚が岡山県内にいるので、これで編入資格が得られた。同時に、大検受験科目の勉強も始めた。

 毎週日曜日は、福山まで出て、そこから電車で約1時間、岡山で通信制過程のあるS高校のスクーリングに通った。

 通信制高校は、その地域の進学校に併設されるケースが多い。

 福山にも同じような通信制高校があるにはあるが、地元の生徒たちと顔を合わせるのを避けるため、親戚のいる岡山まで通うことにしたのだ。岡山には親戚がいるとはいえ、知っている人はほとんどいない。

 在来線の湘南色の電車に揺られること1時間、週1回の通学。

 彼女には、一種の「気分転換」になったようである。

 通信制高校には老若男女問わずいろいろな生徒がいる。S高校の赤田先生は、スクーリングの後に生徒の有志と、食事に出た後、カラオケスナックに度々飲みに行くなどしていた。彼女はさすがに遠方から通っているので同席することはなかったが、そんな先生たちに囲まれた通信制高校の居心地は、悪くはなかったようである。

 翌年大検に全科目合格を果たしたが、彼女はそれで中退せず、3年時修了まで在籍した。結局彼女は、岡山県内の短大に「現役」で合格した。

 その短大では、中退した高校の単位取得証明書の提出を、受験願書提出時に求めていた。大検合格だから不要ではないかとも思うが、免除科目もいくつかあるのが、その理由だった。

 かの高校に電話し、調査書を受取りに、約1年半ぶりに出向いた。彼女を見た教師たちが、びっくりしていた。

 ただ、彼女に捨て台詞のようなことを言った教師だけは、顔が青ざめていた。

 彼女は最後に一言、職員室の教師たちに言った。


 両親はこの春にも、F市の街中に転居します。この町は、もう二度と、訪れることもありません。先生方とも、もう二度と、お会いすることもないでしょう。

 短い間でしたが、お世話になりました。

 

 暢子さんは、申し訳なさそうに頭を下げかけた教師に、一言だけ、最後に言った。


 「謝罪には及びません。これ以上の問答は無用です。ごきげんよう」

 

 それだけ言って、彼女は、職員室のドアを静かに閉めて、その高校を立ち去った。

彼女は短大卒業後、関西圏のある街で就職し、やがて結婚した。

 その後両親が街中に引っ越したこともあり、その高校は言うに及ばず、高校まで住んでいた町にも、その後一度も訪れていない。

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