第14話 もう一つの青春 ~ 高校中退者の短歌集
ここで、私の高校時代の心境を後につづった「短歌」とそれが掲載された書籍のことを紹介したい。
本来なら本書の附章でご紹介するべきであるとは思うが、この話の流れの中で必要であると思われるので、ここで紹介させていただくこととする。
定時制高校はいささか微妙な位置にあるが、とりわけ近年の広域型の通信制高校は、そもそも入学者よりも卒業者のほうが毎年多い。これはもちろん、通信制高校の持つ(特に全日制の)高校中退者の受け皿としての役割が大きく求められており、それがすでに定着していることを意味している。
昨今ではかなり高校中退者の気質も変わったように思われるが、本書が刊行された1994年当時は、社会的には問題になりつつあったものの、社会全体として「高校中退者」に対するフォローなどの必要性は認識されていなかった。
それまでの風潮としては、高校中退=家庭の事情で働く必要ができた、もしくは、病気による療養、さもなければ、「ズル」したくなっただけ、という程度の認識であった。
そんなころの高校中退者たち、とはいえ、本書で紹介されているのは、大検などを利用して大学などに進んだ者が多いきらいはあるかもしれないが、ともあれ、当時の「高校中退者」の声を短歌の形で表現されたものを、北海道の国語教諭である内山義一氏と岡山県玉野市の真鍋照雄氏が編集し、内山氏が解説を加えたものである。
この短歌集には、実は、私の短歌も紹介されているのだが、それについては、私が以前アマゾンのレビュー(本人名義)で書いた通りの内容である(現在は諸般の事情により非公開中)。
自分さがしの旅の始まり―高校中退者の青春嘆歌
内山義一・真鍋照雄 著 学事出版 1994年7月刊行
「嘆歌」ばかりでもありません、「啖呵」もあれば・・・
今から20年前の1994年、高校中退者の短歌を集めて自費出版されていた岡山県玉野市の真鍋照雄氏と、北海道で教諭をされていた内山義一氏が共著で出版された、「高校中退者短歌集」である。
内山氏はそれ以前にも、北海道の高校生の日常を描いた短歌をまとめた書を出版されていたが、これはその姉妹版としての要素をも持つ。
高校中退という経歴を持つ人物は過去いくらでもいるし、今もいるのだが、昨今のように高校中退者の問題が社会的に認知されていなかったこのころ、社会問題へとする端緒になったもののひとつであると言えよう。
さて、中退経験を持つ人たちの短歌であるが、本書の題のように「嘆歌」ばかりだと思ったら大きな間違いである。なかには「啖呵」だってあるし(あ、それ、実は私の「短歌」です~苦笑~)、苦難を乗り越えた歌もいくらとある。
ただ、高校生相手に収録した「短歌」のように、よく言えば屈託もなく明るい、悪く言えば軽くかつ平板なものは、やはり少ない。
若いうちにして、人生の澱み(よどみ)のようなものに触れた者たちならではの、味のある「短歌」が多いという印象がある。
この数年後、真鍋氏は高校中退者の「その後」をつづってもらった短歌集も自費出版された。苦難の時期を超え、落ち着いていく人が多い中、相も変わらず「啖呵」を切った歌を出している人もいましてね(私です)。
それはともあれ、人生における挫折を経験した人に、ぜひとも読んでいただきたい書です。同時に、高校や大学が合わずに悩んでいる人たちやその親御さんにも、是非お読みいただきたい。
何らかのヒントがあるはずです~私の「啖呵」は別としてもね・・・(苦笑)。
ここで、本書で紹介された、私の短歌(本書においては、(岡山県男子)としか表現されていない)をいくつか紹介する。
本書に紹介されるもととなった冊子は、玉野市の真鍋照雄氏が1993(平成5)年に編集された「もうひとつの青春 高校中退者短歌」であり、私の短歌と感想文も掲載されている。その短歌と感想文の一部を紹介しよう。
幼稚園高校共々中退でそれでもやれると司法試験に
ごたくなど聞く暇あれば勉強して結果つきつけ黙らせてやれ
高校の入試に落ちて八年間されど紙切れ学位を見たまえ
球場でマユミーマユミーホームラン中間捨てて大憂さ晴らし
わが道を行く私にも味方あり学校で知った人の世の情
中学の大恩師宅に電話かけグチやぼやきを聞いていただく
これだけの人とは違う経験の積み重ねこそ我が身の財産
紹介された短歌はこれだけで、この冊子の順番通り、原文ママで記載した。
さらに、この感想文の最後には、こんなことを書いた。
(前略) 高校など行かなくても(落ちても)大学へは行ける。司法試験もやれる。高校なんて何なのでしょうね。学歴なんて「利用する」ものである。「利用される」ものではないと思います。形云々ではない。高校ごときにこだわっても結局何にもなりません。いかに生きていきたいか、そのために何をすべきか、それだけを考えて道を探り、動くことを考えるべきだと思います。(以上、原文ママ。引用終)
今読み返しつつパソコンで「書き直して」みると、あまりにも稚拙な文章に思えて、恥ずかしい限りではある。
例えば、「思う(思います)」という言葉、今の私なら、これだけの文章で2度も使うことはまずない。原稿用紙数枚程度の短編までなら、どんなに長くなっても一度使うかどうかだ。
それはともかくとして、当時23歳の私は、ここに、10代で学ぶべき、人生を乗り切っていくための指針を簡潔に表現したつもりだった。
今まさに、「広域型の通信制高校」に通う生徒やその保護者の皆さんはもとより、10代の中高生たちにも、十分伝え得るメッセージがこもっていると思われる。
内山氏は私の短歌を総括し、
「(前略)言葉の魔力の恐ろしさを知らされた思いがする。言霊説の受け売りではないが、一度自分を離れた言葉の独り歩きの怖さを改めて確認させられた。(同書95頁より。原文ママ)」
と述べられている。
個々の短歌の解釈はともかく、氏のこの言葉は今の私にとって、実に心すべきものと、改めて痛感している次第である。
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