第5話 養護施設の「年度替わり」
後にご紹介するが、真鍋氏は高校中退者に「短歌」という形で当時の心境を読んでもらい、さらにコメントをつける形で、「もう一つの青春」という名の冊子を自費出版された。
全日制の高校生たちが「青春」を送るのとはまた別の、「もう一つの」青春。
これはマスコミにも取り上げられ、後に北海道の国語教師と共著で単行本にも紹介された。
さて、養護施設というのは、そこに「住む」子どもたちの「家庭」という要素も持っている。その意味では、「もう一つの家庭」と言えなくもない。だがこちらは、どうあがいても、「もう一つの家庭」たり得ない。そこに住む子どもたちは、途中で両親や親せき、里親に引き取られて去っていく場合もあれば、途中から諸般の事情で入ってくる場合もある。職員にとっては、そこは所詮「職場」の一つに過ぎない。いやなら、辞めて別の仕事をすればいいだけのこと。しかも、「生活」を「仕事」とするわけで、それゆえの難しさもある。
それはともあれ、年度替わりともなれば、職員も辞めたり入ってきたり。「担当者」が「変わる」のも、ごく普通のこと。
そんなところが「家庭」になれるはずもないだろう。もっとも職員の側としては、「家庭」の要素をできる限り・・・と考え、良かれと思って子どもたちに接するのだが、それで何とかなるほど甘くはないし、子どもたちも馬鹿じゃないから、安っぽげな家庭論や仲間ごっこなど直ちに見透かされてしまう。
そうは言っても、一概に悪いことばかりでもない。養護施設という場所で生活せざるを得ない者にとっては、上手くいけば、この「年度替わり」は、嫌な環境を変えるチャンスを与えられることにもなる。
これがなまじ「家庭」だと、メンバーが変わるなんてことはそうそうないから、確かに、きつい。それゆえの問題が多々起こっているのは、毎日ニュースでも見ていればわかることだ。
1986年4月。
年度が替わり、今度は、ベテラン、といっても当時30歳の、尾沢氏という男性の児童指導員が私の担当となり、その後2年、お世話になることとなった。
彼は幼少期より剣道をしていて、大学も剣道部、ものすごくまじめで良心的な人物だった。
尾沢氏もまた、高校という「場所」を「信じて」いた。それゆえに、個々の言動には問題点のあるものも確かにあった。
彼は情緒的な言動で私の考えや行動に異を唱えることもあったが、それを私が「下らん郷愁論ですな」といって論破したことも。私に対して、大検よりも高校生活を大事にした方が、友だちもいてどうのこうのと度々言ってきた。
私はそれに対して「この期に及んで、そんな素人考えのないものねだりのような情緒論はやめてもらいたい」と言い返したことさえあった。
さすがに彼は、下を向いて、しばらく、何も答えられなかった。
尾沢氏は、「自立援助ホーム」を開いて、定時制高校などに通う若者たちの「自立」を支援したいという夢を持っていた。彼は、私のほか、後に別の定時制高校に通うことになった2名の前で、こんなことを言ったこともある。
「よつ葉園を出たら、この3人で家を借りて共同生活をして・・・」
それがいわゆる「自立援助」なのかどうか知らないが、私は大いに腹が立った。
ある人が指摘されたが、そんな「共同生活」など下手にしようものなら、トラブルが起こる可能性はきわめて高い。
それをあなたは、きちんと収拾つけられるのか?
くだらない仲間ごっこを押し付けるなと思っていたが、こんな話が折に触れて出るようでは、彼もまた、信用できない人物のひとりとみなさざるを得ない。結局、大学合格後、知人に仕事を見つけてもらい、下宿先も確保して、よつ葉園をさっさと「退所」したのだが、そうなる兆候はすでにこの頃から大きく出ていた。
彼らにしてみれば、私をしばしよつ葉園にとどめることで「措置費の延長」を引き出し、経営に資することを考えたのかもしれないが、だとすれば、こんな不愉快な話もない。
尾沢氏は後に至るまで、いわゆる「自立援助ホーム」を立ち上げることに相当な夢を持っておられたようだが、残念ながら、私に通用しなかったばかりではなく、大槻園長も、その実施には難色を示していた。
理想は大いに素晴らしいのだが、それで「社会性」が身につくわけでもないことを、私も大槻氏も見抜いていたわけだ。
ともあれこの年からは、高部保母のようなヒステリックな対応を職員からされることは、さすがになくなった。
尾沢氏も、大検という制度を知らなかったが、知ろうという努力はされた。これは、当たり前のこととはいえ立派だ。私にとっては、ありがたかった。
他にも彼は情緒的な「仲間ごっこ」の延長になるような言動を私にしてきたことはあるが、言葉と言葉で戦い合うという土壌が成り立たせられたことはありがたかった。たとえその件について「意見が違う」となったところで、それでも最後は、お互いに理解し合えるようにはなった。
よつ葉園との信頼関係は、この年で幾分「回復」した(それで全面的に回復しえたわけではないが)。
大槻園長も尾沢氏も、私が烏城高校を「足場」的に利用しつつ大検を取得して大学に行くという方針を、ようやく理解した。これまでのように、若い保母に無責任に「丸投げ」されることはなくなった。
現在では「広域型の通信制高校」に通う生徒たちの受け皿として全国に展開している第一学院は、当時「第一高等学院」といって、大検予備校を運営していた。
岡山あたりの地方都市にはこのような予備校などなかったが(そのかわり、高校再受験のための「予備校」があったらしい)、東京にはすでに、このような予備校が成り立っていた。この通信教育を大検合格までこなせたのは大きかった。そういうお金は、養護施設でも出るのだ。
この年1986年、昨年度烏城高校で取得していた現代社会と保健の2科目の「免除」に加え、ほとんどの科目で合格した。1科目、生物だけ手が回らず不合格になったが、それは大学受験で必要な数学Ⅱ(当時)に切替え、翌1987年に再受験し、合格した。
中学では一時期数学が苦手だったが、高校の数学はそれなりにできるようになっていたのと、大検自体の問題のレベルがさほど高くないこともあって、この数学Ⅱは、なんと、85点で合格していた。これは大検受検科目中、最高得点であった。
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