第4話 大検へ ~ 養護施設から

 ここから、私の青少年期のことを述べてまいります。


 私は、6歳の小学校入学前から18歳で大学に合格するまで、1975年から1988年までの間、岡山市内の養護施設に在籍し、そこで過ごした。その養護施設・よつ葉園は、岡山市内の中心部から少し離れた文教地区にあったが、私が小6の年(1981年)、郊外に移転した。

 そこで私が過ごしたのはおおむね7年弱となる。ただ私は、文教地区によつ葉園があったころ、小5の秋の岡山大学の大学祭に通い詰め、鉄道研究会(鉄研)の先輩方に「スカウト」されて通いだしたことがあって、それは確かに、私自身がよつ葉園から自立していく上で大いに役立った。それどころか、大学まで行くモチベーションが常時保たれたこともあり、これには本当に感謝している。

 

 よつ葉園の子どもたち(法令上は「児童」なのだが、この呼称は本書では原則として使用しない)が移転後通うこととなった中学校は、よつ葉園からかなり離れた場所にあり、自転車をどんなに全速力でこいでも、20分以下に収めることは無理な場所だった。

 小6まで自転車に乗れなかった私は、やむなく、自転車に乗る練習を始めた。

 幸いよつ葉園から道路に出るまでの数十メートルの私道は、緩やかな傾斜があった。

 そこでまず、自転車に乗って足を話していられるようにする。最初から無理にこいだりしない。それに慣れたら、今度は足をペダルに乗せる。こうして二輪車独特のバランスに慣れた段階で、下り坂をこいでみる。それができたら、今度は平地や上り坂でもこいでみる。幸いそこは上り坂といっても平地とそう変わらない程度だから、これで十分、こぐ練習もさほど苦もなくできる。

 おおよそ1週間で、自転車に乗れるようになった。


 かくして私は、中学校まで自転車で通うかたわら、土曜日や水曜日の早く終わる日には、自転車で戻ってすぐ、これまた10キロ近く離れた岡山大学まで行き、鉄研の例会などに参加していた。養護施設の中には外出のままならないところもあると聞くが、よつ葉園はそのようなことはなく、きちんと報告していれば問題はなかった。


 中学時代の私の学力は、県立普通科高校に合格しうるには十分あり、実際に受験した。当時の岡山市内の普通科高校は総合選抜で、学力その他の件が勘案され、希望校以外に「回される」可能性がある制度だった。

 幸い私は、志望校で合格判定を仰ぐこととなった。

 だがそれまでにいろいろあったことも災いし、運悪く不合格となってしまった。 

 1985年3月のことである。


 この時の私を担当していたのは、前川という保母(現在の保育士)。

 彼女はある短大の幼児教育科を卒業し、新卒でよつ葉園に就職していたが、それほど年の変わらない男の子たちの「担当」を、それも高校入試に関わることまでやらされるのは、かなりの重荷だっただろう。

 もちろん彼女の上には「児童指導員」と呼ばれる大卒の男性職員がいたのだが、彼らならともかく、彼女に私を「担当」させたのは、今思えば、仕方ないこととはいえ、お互いにとって、不幸となった。

 彼女はその年度末で、よつ葉園を退職していった。あとで聞くと、よつ葉園長(当時)の大槻氏はこの件について、指導員の梶川氏と前川さんに対し、これまで何をしていたと職員会議で詰問したそうだが、そんなものは、私にとって、何の救いにもならない。そんなことで、高校の合格が勝ち取れるわけでもない。


 結局私は、定時制高校である岡山県立烏城高校に「ひとまず」進むこととなった。

 大槻園長は、翌年再受験すればいいではないかと言ったが、私は、それを拒否した。大検を使って3年後に大学に進めばいい、高校などどうでもいいとさえ言った。だが、そんなことはできない、難しい、などと、知りもしないで、知ろうともしないで「指導」をする職員たちには常に怒りと不信感を持っていた。

 そんな人たちでも、当時の私には、必要な「親代わり」であった。

 養護施設は18歳になって高校を卒業したら出なければいけないと思われる向きもあるが、実は、18歳の高校卒業年齢に達して後も、諸般の要件を満たせれば、養護施設は子どもたちをそこで面倒を見ることができるのだ。そういうのを「措置(子ども=児童を養護施設において育てることの行政用語とご理解ください)の延長」というのだが、要は、「生活保護」を延長するようなもの。

 これがあれば、「児童」にも職員にも、そして施設経営にも資することになるから、一見悪くはない話である。もし活用できるなら、すればいいと思う。

 だが、私自身は、中学卒業時点で、こんな場所は一刻も早く「おさらば」したいと思っていたから、正直、「有難迷惑」な要素もあったのだが。


 さて、定時制高校に通うこととなったのはいいが、この年の私を「担当」したのは、高部という保母。彼女は岡山県西部の出身なのだが、短大は県外の二部を出ていて、2年間のところを3年かけ、紡績会社か何かで仕事をしながら卒業した。そういう人物なら私のような「児童」を「指導」できるのではと幹部職員たちは思ったのかもしれないが、結論から言うと、これは私に対し、後々何十年にもわたって、彼らへの不信感と怒りを増殖させただけに終わった。それまで私を担当してきた保母たちの、良い面さえも失わせるほどの結果となった。

 もっとも、今思えば、高部さんも大変だったと思う。それほど年齢の変わらない、自分よりもはるかに知的レベルの高い(私はそうは思わないけど)であろう、高校生の「生活の世話」なんかするのは。

 だがそれは、免罪符にはならない。

 高部「保母」には、私に対して、「指導者は私です」といわんばかりの言動が多々目立った。具体例は述べないが、養護施設の職員には、子どもたちにそのような態度をとる者が多かった。

 この年より岡山市内にある養護施設くすのき学園からよつ葉園に転職して児童指導員を務めていた山崎氏が、よつ葉園退職後、養護施設という環境を「オウム(真理教)のサティアン」みたいなものと評された。

 当時のよつ葉園は、話に聞く他の施設ほどひどくはなく、むしろ良い方だった。

 それでも、閉鎖的な環境ゆえの「支配する者とされる者」的な関係が生まれる土壌はあった。もっとも現在では、「虐待」などの家庭の事情で子どもたちを養護施設が預かるケースがほとんどで、いわゆる「孤児」は、今や、ほとんどいない。いても、そういう場合はおおむね親戚筋が誰か引き取って育てるパターンが多いと聞いている。

 それはともあれ、施設の子どもたちの「入退所」のサイクルは以前より短くなっており、その点においては「閉鎖的」な要素は以前よりは改善されていると信じたい。


 高校の最初の1年は、大人しく通いつつ、大検についての情報を得ることに終始した。幸い烏城高校の先生方は、大学進学を希望する生徒に対し、大検の受検を拒むどころか、むしろ勧めていた。そりゃそうだろう。進路の多様性を保証しない言動をしたら、直ちに県の教育委員会から指導が入り、責任問題になるに決まっている。

 ただ、過去問などの情報はなかった。

 そこは、岡山市内の本屋を回り、結局、紀伊国屋書店にあった「大学入学資格検定便覧」という、味もそっけもない表紙の本が1冊だけあった。


「夢のようなことを言っていないで、現実を考えなさい!」


 などと、大検について知ろうともせず、幹部職員の方針をそのままうのみで、ヒステリックにわめいていた高部保母。彼女は、こんなことも言っていた。


「烏城高校を「足場」のように利用して大学に行くのはだめ。高校は高校でしっかり通わないと・・・。1年遅れたっていいじゃない、普通科を受け直せば・・・」


 そんなことを言う割には、定時制高校を全日制高校の再受験のための「足場」にしろと言っているのはあんたらだろうが、と思ったが、とりあえず最初の1年は、黙っていた。

 動くのは翌年からでも間に合うから、ここで慌てて動く必要などない。

 もっとも最後には、彼女も、私が本を買うための金を出してきた。

 

 「大学入学資格検定便覧」を入手し、私は早速、過去問を検討した。これなら、普通科に行く程度の学力があれば、1年、遅くとも2年で十分。問題は、大学入試にどう対応するか。それが、高1の終わりごろ、私の出した結論。

 普通科高校の再受験など、はなから眼中になかった。

 この年度の終わりから翌年度にかけ、私は書店の参考書コーナーをじっくりと見て回りつつ、同時に岡山県庁内にある教育委員会の学事課というところにも行き、情報収集に努めた。青臭い青春論など聞くヒマがあったら、こういう形で真剣に情報を集め、分析した方が正味ですからね。

 

 この年の3月、烏城高校の坪内校長が定年退職された。坪内氏は、全校生徒を前にした最後のあいさつで、こんなことを言った。


「本校の中には、学力があるにもかかわらず、定期テストなどをないがしろにしている生徒がいるようで・・・」


 この弁を受け、烏城高校に長く務めるベテランの香山先生が、さらに注意を与えてきた。どうも、私のことを言っているみたいだ。

 この頃私は、かなり投げやりになっていて、中間テストや期末テストなどまったく眼中にもなかったし、順位を争う気もなかった。まあ、真面目に学校の授業など聞いていなかったし、聞く気も起きなかった。

 そしてよつ葉園に帰れば、高部保母が何やら分かったようなことを言う。

 なるほど、四面楚歌とは、こういうことかと実感するよりなかった。

 この年私は、そこそこ「サボって」はいたものの、「精勤賞」なるものをもらった。この学校の通知表など大学受験には何の役にも立たんだろうとは思ったが、あえてこの年までは、見せていた。

 彼女は、言った。

 

「テストで1番をとって、皆勤賞をもらうぐらいでないと・・・」


 いろいろ思うところはあったが、私は黙っていた。

 彼女にとってここは所詮、仕事場。

 どうせいつかは辞めていく。

 こんな人間といつまでも一緒にいることはないし・・・、と思っていたが、1985年の年度末、彼女はよつ葉園を退職していった。


 私としては、「当て逃げ」にでも遭ったような感情だけが残った。

 そしてその精神的「後遺症」は、その後数十年にわたり、私を苦しめることとなった。

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