にぼし

池田蕉陽

にぼし


 何でこうも悪いことが起きる日って雨なんやろう。映画でも小説でもそうだ。好きな子に告白して振られる、ゴジラが現れる、大切な人を失う。どれも曇天の真下で流れてるイメージ。


 今日だって、天気予報では晴れだと予想されていたのに、夜からは雨が降り出した。気象庁が翌日の天気を的中させる確率は90%やと聞いたことはあったけど、何も今日に限って残りの10%を引き当てんでもええやんと思う。


 そもそも何が原因でその10%のことが起こり得るのか。気象予報士のミスか、それとも単なる空の気まぐれか。いや、もしかしたら今回だけに限っては、悪意で湿った空の作為的によるものかもしれん。


 やとしたら、少しおもろいやんけと思ってしまう。俺は雨に打たれながら、自転車をいつもよりちょっと速めに漕いだ。


 少し離れた先の信号が赤になって、無視しようとも思ったけど、車通りが激しかったから仕方なく止まった。俺は赤い点の集合体を見ながら、脳中では数分前に送られてきた弟からのLINEを思い出していた。


『にぼしが口呼吸になってる。もうやばいかも』


 サークルの友達と先輩で大学近くのラーメン屋に居座っていた時に、このLINEが届いた。


「え、まじで」と俺はあからさまに驚いたりして先輩からの「どうしたん」を受け取った。


「飼っとる猫やばいかも。すんませんけどちょっと先帰らせてもらってええですか?」


「あ、まじで、ええよええよ。お金もまた今度徴収するわ」


「それは急がなあかんな」


 心配する友人と先輩にもう一度軽く謝罪だけして、俺は店を出た。


 それから自転車を漕ぎながら様々なことが脳裏を過ぎっていた。幼稚園の頃はにぼしを馬みたいにして乗ったことや、にぼしを抱っこしてただただ猛ダッシュしたなーと思い出に耽ったり。


 それと、さっきLINEを開いた時に弟とは別に来ていた気になってる女子からのLINEの内容はどんなものやろうかと浮き足立ってもいた。


 俺って最低なんかもな。


 信号が青になって、ペダルに足を掛けた。



 さらに激しくなった雨の中を一時間漕いで、ようやく家に到着した。


 俺は玄関扉を開けるやいなや「にぼし生きとるかー?」とリビングにいるであろう弟に向けて放った。


「うん」と無愛想な返事が返ってくる。俺は安心した。その気持ちは嘘やない。


 俺はびしょびしょの靴を脱いで、びしょびしょの靴下でリビングに入って、びしょびしょの鞄をほおり投げて、びしょびしょの服を脱いで、小便に行き、部屋着に着替えてから、掃き出し窓の傍でぐしゃりと横になっている愛猫の生存確認を行った。


 おお、たしかにまだ生きている。やけど、瀕死であることは目に見て明らかやった。弟の言う通り口呼吸になっていて、喉元とお腹辺りが速いリズムで膨らんだり縮んだりしている。おまけにおしっこが漏れていて、鼻水なのかよくわからない体液も鼻から出ている。時々辛そうにして、もがくような動作も見せる。もう死んでしまうと俺でも分かった。


 俺は試しに上下に動き続けるお腹を摩ってみた。いつもと変わらない撫で心地。ただ、3ヶ月前はもう少しモフモフだった。3ヶ月の間で、にぼしは大分衰弱してしまった。いつから、いつもと違うのに、いつもと変わらないと思うようになったんやろうか。


「にぼし」と、にぼしの目を見ながら声を掛ける。とはいっても、にぼしには俺が見えていない。半年前から壁を伝って歩くようになり、最近になってからトイレの場所に辿り着けずおしっこを漏らし、多分もうほとんど見えなくなっている。白内障だ。


「オカンには言うたん?」


「言うたで」


「そうか、高い餌あげても反応ないん」


「ない」


「そうか」


 夜勤のオカンは気が気でないやろうな、と俺は思った。


 それから俺はにぼしに寄り添うように横になった。弟は何をしていいのか分からんようで、じっと座ったり少し歩き回ったりを繰り返している。俺が帰ってくるまでずっと声を掛け続けていたに違いなかった。


 俺はにぼしの手を掴んで目を瞑った。こんな時でも肉球を触ると気持ちいい。なんか皮肉だ。そう思い、少しだけ寝ようとする。本当は2階の自分の部屋のベッドで寝たかったけど、そんなことをすれば多分後悔すると思った。


 俺は少しだけ眠る。すぐに目が覚めて、にぼしが呼吸しているのを確認すると、また目を薄ら閉じる。弟が傍でにぼしを撫でている。それで少し安心してまた眠る。また起きて、夢を見ていたことに気づく。でも、なんの夢か思い出せない。弟も疲れたのか横になって目を閉じている。それを見て、俺も目を閉じる。


 目を開けて、にぼしを見てみると、動いてなかった。俺は慌ててお腹に手を添える。さっきまで動いていた心臓が……いや、ほんまにちょっと、ほんまに少しだけ動いている。俺はにぼしの肉球をちょっと強く握った。すると、ピクんと一瞬だけ動いた。


 それだけ動いて、死んでった。それからは何をしても反応がなかった。何かを察知したかのように弟が起きた。


「もう死んでもうたわ」


 弟は何も言わなかった。何も言わずに、ただにぼしのお腹をいつもみたいに摩った。そう、いつもみたいに。控えめに鼻のすする音が聞こえた。


 俺の涙が出る気配はなかった。このまま泣かないと思っていた。泣かんやろうな、と弟からLINEをくれた時から思っていた。悲しくないからじゃない。でも、理由は分からない。


 俺は何となくスマホをつけ、Twitterを開いた。


 適当にスクロールすると、千鳥の動画が流れてきた。再生すると、大吾のボケにノブが「どういうお笑い!?」とツッコんでいる。さらにスクロールすると、清水あいりが水着姿でセクシーポーズを決める写真が。リアルであんま関わりないけどとりあえずフォローしてる同じ学科のやつの惚気話が。


 なんでやろうな。にぼしは死んだのに千鳥はやっぱおもろいし、にぼしは死んだのに清水あいりはめっちゃエロいし、にぼしは死んだのに他人の惚気話はただただうざい。ほんまに、なんでやろうな。


 その時、スマホに電話がかかってきた。画面にオカンのフルネームが表示される。嫌やな。


 俺は電話に出ると、「もしもし」


「にぼし、どう?」


 俺は一泊置いて「もう亡くなってもうた」


「ほんまにぃ」途端にオカンの声は震え出した。「夜勤行く前、にぼし待っててなって言ったのに……それでしてほしいことあんねやけどな……仏壇の前にな……っビニール袋……っ、あるからなっ……それで……」


「オカン、わからんよ、なんて?」


「……っ……LINEで送るわな」


 それで通話は終わった。少ししてからLINEがきた。


『仏壇の前に、白いビニール袋置いてその上に、お母さんがよもぎ蒸しに使ってる白いバスタオル置いてその上に寝かせてあげて、冷凍庫にあるアイスパックを身体全体に包んで、腐らないように、死後硬直くるから前足と後足折りたたんで小さくなるようにしてあげて』


『あと、ダンボールあったらそこに、ビニールひいてとかやってあげたら一番いいけど、仏壇にお線香あげて、題目あげてあげて』


『おお』とだけ返事すると、すぐに取り掛かった。


 二人で協力して書いてある通り仏壇の前にビニール袋を置いて、その上にバスタオルを敷いた。


 次は、にぼしをそこに寝かせるために移動させなければならない。俺と弟は目だけで、どっちがやる? と会話した。俺がすることになった。


 俺はどう抱えるか迷った。結局答えが出ないまま、首元に左手を回し、横腹あたりを右手で支えた。それで持ち上げてみると、思った以上に首がぐにゃりと曲がったから、自分の腕を枕にするようにした。


 もう死んでしまったにぼしは、すっかり軽くて、そしてもう既に硬くなり始めていた。


 俺は和室にある仏壇の前に移動しようとした。


 待っとけよ。待っとけよ、待っとけよ……くそーなんでやろな、なんで今更になって泣けてくんねやろうな、意味わからんなーこの涙腺、どうなってんねん、ほんまに意味わからんなー。


 出るはずないと思っていた涙が次々とにぼしの黒い毛先に落ちて、消えてった。

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