第2話

 足音に気付く。

 私の布団の周りをぐるぐると歩き回っている。ぱた、ぱた、というその音は軽く、きっとこの音の主は素足なのだろう。

 私は目を閉じて、そんなものには気付いていないというふりをする。

 できる限り呼吸を乱さないようにして、すやすやと寝入っている演技をする。

 そして、思い込もうとする。これはただの夢だと。


 だけど。


 足音が不意に止まり、それまで歩き回っていた誰か私の寝顔――実際、寝てはいないのだけど――を覗き込み、頬をぺたりと触り、鼻の辺りにふっと生暖かい吐息を掛けてくるに至ると、私はもう演技も何もできなくなって、目を開けてしまう。


 恐る恐る目を開けると、私の視界には黒い薄ぼんやりとした人影が見えたかと思うと、ほんの数秒かそこらで、かき消えてしまう。


 布団から這い出しながら時間を確認する。午前二時半すぎ。いつも、同じ時間だ。


 念のため戸締まりを確認する。玄関も窓も、しっかりと施錠されている。確認した後、だめ押しにもう一度施錠し直す。おそらくは玄関も窓も使ってはいないと知りつつも。

 そうして朝まで、努めて眠ろうとしても浅い眠りしか得られないまま、あきらめて起き出す。ここまでが一連の流れだ。




 この、不可解な事象――誰かに聞かされたとしたならばいくらなんでもベタすぎると笑ってしまうような、それでも、紛れのない心霊現象――が起こり始めてから十日ほどが過ぎただろうか。

 満足に眠れないから頭はぼんやりしていて、会社には通えているものの、能率は目に見えて落ちている。集中力もすぐに切れてしまう。この調子では何か取り返しの付かないミスをしかねない。

 ここニ〜三日はずっしりと肩が重い。本当に何かが乗っているのではないかと、ありえない想像をしてしまうほどに。

 そして、今朝。化粧をしようと鏡を見ると、目の下にくっきりと浮いたクマよりも先に、右頬の赤みが目に付いた。湿疹のように見えたが痒くはないし、触っても違和感はない。不定形に広がるその赤みは、見ようによっては人の手の形をしているような気もして、薄気味悪かった。  


 頬の赤みはファンデーションで隠せて、ホッとしたのだけど、その日の仕事帰り、会社の入っているビルから地下鉄の出入り口に向かう信号を渡ろうと四歩、五歩と歩いたところで、ものすごい勢いでクラクションを鳴らされた上になにやら罵声まで飛んできて、私はハッとして立ち止まった。

 目の前を見る。信号は、赤だった。道理でクラクションやら罵声やらが飛んでくるわけだと慌てて後ずさりながら、訝しく思う。私は、確かに青信号だと確認してから渡り始めたはずなのに、と。



 その後はさして危険なこともなく家に帰ることができたけれど、化粧を落とそうと鏡を見ると、よれたファンデーションの上から、赤みは朝よりも強く主張していて、私は、歯を食いしばりながら思った。そろそろ、向き合わなければならないと。


 何に向き合うのか。

 それは――何者かが家に入り込み、パウダービーズクッションに悪戯をして行った夜から奇妙なことが起こり始め、ここ数日は事態がエスカレートしてきている、という事実である。

 私は、悪戯でパウダービーズクッションの中身をと思っていた。だから、パウダービーズが零れ落ちていたのだと。

 だけど、それは思い違いで、実際はパウダービーズクッションの中に何かをのかもしれない。何なのかよくわからないけれど、霊を呼んだり、呪ったり、とにかく、よくないことをするを――。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る