鍵を掛けずに出掛けてはいけないという話

金糸雀

第1話

 はて、これはどういうことだろう。

 悪戯だろうか。

 恐怖よりも困惑が勝る。



 会社から帰ってきたばかりの私は、右肩にバッグを掛け、左手にはコンビニのビニール袋を提げたまま、立ち尽くしていた。


 一人暮らし仕様の狭い1Kの部屋の中、PCの前に椅子、兼抱き枕として置いていた細長いパウダービーズクッションのファスナーが開けられ、中身が床に零れ落ちていた。 

 クッションの青、パウダービーズの白、そしてフローリングのこげ茶色。一つ一つはありふれた色なのに、その三つの色のコントラストは、やけに眩しく感じられた。


  

 零れているものをそのままにしておくわけには行かないから、食事を後回しにして、パウダービーズの始末をした。幸い、零れた量は一掴みほどで、ざっと掃除機をかけて元通りクッションのファスナーを閉めれば、それで終わりだった。


 問題は、誰がこんなことをしたかということだが、もちろん私はたとえ寝ぼけていたとしても、こんなわけのわからないことはしない。する意味もない。悪戯をするようなペットも、飼っていない。となると、残されるのは、何者かが私の留守中に部屋に入り込んだ可能性である。

 留守中に部屋に入り込む者といえば泥棒。そう考えた私は、部屋の中全体をチェックした。もとより金目のものなどほとんどないのだけど、こつこつ貯めている500円貯金が減っていることもなければ、ピアスや指輪の類も無事だった。干しっぱなしの下着も、どうやら手付かずのようだ。


 ならば部屋に上がり込んだ何者かは、何も盗らず、ただパウダービーズクッションに悪戯だけして、出て行ったことになる。

 一体何のためにそんなことをしたのか――全くもって意味がわからない。そんなことをして楽しいのだろうか。

 物盗りならば、実害はあってもその行動の理由に説明が付く。理解できる。だが、この侵入者は何だ。何を盗るでもなく、ただみみっちい悪戯だけをして去った。意味がわからない。理解できない。


 理解できないものは――怖い。



 そうして遅ればせながら恐怖を覚えた私だが、それではどうすればよいのかと躊躇した。

 何者かに家に入られた形跡があるのだから、110番通報するのが最善ではあるのだろうが、なんだか知らないけど私の留守中に誰かが部屋に入った形跡があって、部屋は荒らされてなかったんですけどパウダービーズクッションのファスナーが開けられてて――などと伝えるのか。実害があったわけではない、ただ意味がわからないだけの、被害ともいえないこんなことを、わざわざ? そもそも、"証拠"のパウダービーズクッションはもう、片付けてしまったし。

 そんなふうに迷ったのが躊躇した理由の一つだが、もう一つ、もっと大きな理由があって、それは、私はここ最近、施錠せずに外出していたということだった。


 一週間ほど前に部屋の鍵のありかがわからなくなった。鍵にまつわる最後の記憶は、現にその鍵を開けて部屋に入ったというものだから、部屋のどこかにはあるのだとは思う。どこか適当なところに無造作に置いて、どこに置いたのか忘れてしまったのだろう。

 私にはこういうふうに、自分の持ち物を部屋の中で見失ってしまうことがよくあって――見失うものは鍵以外にも印鑑とかスマホとか、果ては財布まで、時によっていろいろなのだけど――ないと気付いた直後に血眼になって探しても絶対に見付からないのに、ちょっとクールダウンしていつも通りに過ごすようにすれば、あっさりと見付かるのが常だった。

 だから私は焦らず騒がず、以前鍵が行方不明になった時にもそうしていたように、ないものは仕方がないし、どうせ私の家に入ったとしても盗るものないんだからと高をくくって、鍵を掛けずに外出していたのだ。


 部屋の鍵を開けっぱなしにしていたら誰かに入られて悪戯された――これ、勝手に入って悪戯するほうが圧倒的に悪いけれど、鍵を開けっぱなしにしていた私にも落ち度はある。警察を入れたら、まず絶対にそこを突かれる。あなたも不注意だったでしょうとか言われる。それは嫌だ。



 そういうわけで、私はこの件に関して、警察は入れなかった。

 警察を呼ばないと決めた後で探したところ、鍵は、玄関に並べた靴と靴の隙間に落ちていた。


 鍵は見付かったのだから、とりあえず安心なはず。まぁ、閉まった鍵をこじ開ける方法だってその気になればいろいろあるんだろうけど、少なくとも鍵開けっぱなしの状態よりはまだ、安全だろう。

 私はそうあっさりと割り切って、家の中に誰かが入り込んだこと、クッションに悪戯されたことについては忘れてしまうことにした。

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