17:腐乱屍臭6

―――――



 ボフッ!

 ゴプゥッ、コポッ、ボコッ、ボコボコゥッ――

 に覆い尽くされた沼面しょうめんにわかに泡立つ。

 その気泡は、生命の呼吸が、肺やえらによる好気こうき呼吸のもたらす生命の証では決してない。単に、外気に触れていた際、損傷の少ない内臓や器官に溜まった空気が肉体の可動に伴い押し出され、排出されただけに過ぎない。

 そう、はもう、呼吸などまるで必要としない、唯の物体に過ぎない。

 それが、――屍等かばねら


 真銀エルクリオを精製して得た陰鐵いんてつを鍛造した大太刀エスパルダ・グランデ著大ちょだいにして幅広の諸刃もろはに長大な十字鍔キヨンを持つ両手剣ツヴァイハンダー。その形状は、“死”の真璽マハトす。

 刀身の中央を走るフラーから刃に向け、網目状の葉脈、乃至ないしは木目のように伸びる縞模様ダマスカスが見られる。刀身根元リカッソまで伸び、顎刀ジョーと云う小さなかぎが付いている。これを“血流しスプラッタ”機構と呼ぶ。

 この美しくも異様な大太刀はディーサイドだけが持つ。

 その太刀を、屠鬼ヴェノン、と呼ぶ。


「――やはり」


 汚泥から這いずり出た屍等を屠鬼ときの刃が襲う。

 独特な感触。麦わらを刻む様な、砂利じゃりに突き立てた様な、骨切りをした時の様な、ざくっとした斬れ味。

 肉を斬った時とは丸きり違う弾性に乏しい手応てごたえ。

 それが正に、もの、である事を触覚を通して伝える。


 燃える、ナフサのように。

 すでに生命としての血液の役目を終えた、そのを動かすだけの燃料と化した毒の血ヴラッダは、陰鐵にって強烈な酸化を引き起こし、燃焼。

 屍等の全身に隈無くまなく流れる毒の血は各組織に類焼し、燃え上がる。

 間もなく、体内温度の急上昇に伴い、内圧は限界を迎え、爆発。周囲の霧が一瞬にして蒸発しながら掻き消え、腐った燃えかすが沼に散る。


 ザブッ、ザザッ――

 ザブン!

 次々と水面から現れる屍等共――

 ――そして、


「ディィィィィィサァァァァイド!」


 不意に逆巻く水面が5ヤード程の水柱を上げ、限界を迎えた風船さながら破裂。

 ざわめく沼面に寂寞ひっそりたたずむ者。汚泥とこけ青粉アオコまみれれた外套ローブに身を包み、深々と被った薄汚れた頭巾フードから黒ずみただれた不気味な口許くちもとが覗く。

 はすに構えた前傾姿勢のまま、鉤爪のように曲げた皮膚疾患を伴う示指ひとさしゆびをマリアに向け、まるで水底から地鳴るかの如きしわがれた声。


「待っていたぞ、ディィィィサイド」

「殺されるのを、か?」

「くくくっ、ほざきよる。屍等共おどれら、掛かれ」


 沼から跳ね上がるようにして一斉におどり掛かってくる屍等たち。死した脳機能は抑制リミッターを失い、筋組織と運動性はたがが外れ、自らの肉体への損傷を無視して爆発的な動きを見せる。

 しかし、所詮は人であった

 半死半生はんしはんしょうの狂戦士の前では、路傍ろぼうの石にさえ満たない。

 余計な動きはしない。唯、流れる様に身を引き、遠間とおままま、右に左に大太刀を最小限振るい、物打カッティングエッジを屍等の動脈に這わす。

 かすめる程に些少の切り傷を与えるだけで次々と屍等は火を吹き上げ、粉微塵に砕け散る。

 怖れを知らない屍等にとって、如何程いかほどの力量差を見せられた処で攻撃を止めはしない。命じられたが最後、自身が可動し続ける限界迄、猛攻を続ける。

 故に――


「ストップだ、屍等共きさまら……流石はディーサイド。これ程の数の屍等相手に眉一つ動かさず易々やすやすと切りせるとはな」

定常攻勢ルーチンでしか動けない屍等相手等、造作もない。わたしから逃れたいのであれば自ら掛かってくるがいい」

「ほ~う……なら、沼郊狼共こいつらではどうかな?」


 生い茂る湿原植物群からよだれを垂れ流すコヨーテ達が姿を現す。

 腐敗し、損壊の激しいコヨーテの、苦しそうに吐き出すうなり声が辺り一面を覆う。


「――犬共にまで毒の血をするとは、畜生にも劣る」

「ほざけッ! 喰い殺されろ」


 死したコヨーテが襲い掛かってくる。



 此の鬼衆こいつ――

 なんの心算つもりだ。

 生きている状態であれば、人間と狼の運動能力と所作には大きな違いが現れる。速筋と遅筋の差異、反射、骨格、機能、知能の違い。何より、神経伝達における抑制性。

 だが、屍等化した今、飢餓感と定常動作に支配された肉人形の如き遺骸にしか過ぎない状態において、その反応速度に大した差はない。むしろ、噛み付く事に特化した肉食獣の攻撃等、容易たやすく読める。

 攻撃目標ターゲットへと直線的な撕咬せいこうは、前肢まえあしが地から離れた時点で座標をずらせば空転する。刹那せつな、刃を滑り込ませれば放っておいても向こうから斬られにくる。


 こんな単純な成行プロセスを知らないのか。

 いや、闘いを知らぬのであれば、そうもあろう。

 併し、それでは合点がいかない。

 何故、コヨーテ迄、屍等にしたのか。

 毒の血を与えた屍等を制御するには、それなりに意識が阻害される。同種である人間であれば行動原則も分かるのでコントロールし易かろうが、生態が不明な別種を制御するのは面倒。

 それ以前に鬼衆きすは同種、すなわち人間以外を標的にしない。

 稀に、人の心を維持しようと人間以外を捕食する者、同族である鬼衆共から獣喰いスカベンジャーと揶揄される変わりだねもいるにはいるが、こいつ自体が人喰いカニバルなのは街の犠牲者から既に知れている。

 えて、人ならざる野生の獣を屍等にする等、怪奇譚ファンタスマゴリア趣味に興じるとは。

 それに、待っていた、とは……

 こいつ、まさか――


 ――死卿デスロード……


 いな、違う。

 鴆毒ちんどくに冒された症状がその儘。

 何より、息吹鬼いぶきは大きくない。

 死卿に近しい稀代種きたいしゅあるいは、死卿の身近にある者の可能性。



 軸足を中心に旋回転ピボット

 地面と並行線上、浅い角度で袈裟けさに流し斬り、コヨーテが噛み掛かる座標点をかわぐ。

 標的マリアを噛み損なったコヨーテは、わずかに斬られた傷口から火を吹き上げ、たいを入れ替えようと胴をひねった時点で砕け散る。

 人もコヨーテも変わらない。屍等と化したうごめく遺骸は、陰鐵の齎す致死性の猛毒にさらされれば、発火を伴い瓦解する。

 尋常ではない速さとは云え、単調な突進を繰り広げるコヨーテ達を立て続けに斬り伏せ、鋒を鬼衆に向ける。


「どうした、化物? 屍等ではわたしの相手にはならない。分かっただろう」

「……確かにな。流石は白眼びゃくがんの処刑人、一筋縄ではいかんようだ。だが、おかげで時間はつくれた」

「――なに?」

「間抜けがッ! 息吹鬼いぶきを探ってみろ」

「――……こ、これは」


 周辺、至る処からの気配がする。

 ――どうなってる!?

 霧!

 実に、実に淡い、色を色と認識するギリギリのライン。それくらい淡い、薄紅色のかすみが、霧と混ざり合う。

 奴の、ねじれた爪、その指先、手許てもと、ニヤついた口許から、いや、それだけじゃない。ローブの、フードの隙間から、蒸気が湧き上がっている。薄い、淡い緋色ひいろの蒸気が。


「――なんのつもりだ、化物」

蒸散じょうさん――植物ってヤツは、根から吸い上げた水を大気中に放出する。まぁ、ヤツらは放熱の為に行ってる無意識の機能に過ぎないが、俺のそれは違う。

 沼から吸い上げた水に血を混ぜ蒸散、噴霧ふんむする。これが何を意味するか分かるか、ディィィィサイド!」

「……」

「お前達ディーサイドは息吹鬼いぶきを通じて俺達を検知する。よう鬼の血ヴラッダの流れを感じ取っている。お前達自身にも半分流れる鬼の血でだ」

「――……」

「蒸散させた俺の血で、お前の感覚は麻痺している。既にお前は、俺の姿を諸有あらゆる場所から感じているだろう。無論、お前らも夜目よめは利く。だが、その夜目の機能も鬼衆由来。乃ち、鬼衆そのものには及ばない。

 そして、――ここからがお前の地獄だ」


 沼から更に数体の屍等が出現。

 藻と泥に汚れたローブ、深々と被ったフード。

 ――同じ。

 鬼衆と同じ恰好をした屍等がぞろぞろと現れ、間合いを詰める。

 霧雨と見紛みまごう濃霧に包まれた闇夜の沼沢地ムーア、彼等を視覚で見極めるのは困難。


「くくくっ、見分けがつくまい。お前は俺を見付けられぬ儘、ここで死ぬのだ」

「――児戯じぎに等しい。以前であれば、ほんの少しだけ戸惑ったかもしれないが、知感ゲイズがあればどうと云う事はない。もっとも、それ以前の話」

「ふん、ハッタリをかしおって」


 やおら左手首を突き出す。

 太刀の刃を手首に当て、さっと引く。

 ぱっと散った鮮血が辺りに散り、血飛沫しぶきが舞う。


「な、なにをっ!?」


 飛散した鮮血がローブの人物に触れた瞬間、黒煙を上げ、竹が割れるような甲高い破裂音が辺りを包む。

 その瞬間、は狂ったように沼田打のたうち回り、間もなく石膏せっこうのように、湿潤にも関わらず、さらさらと崩れ、粉々に砕け散る。

 屍等達はことごとく石灰化し、崩れ去る。


「なっ!? なにをした!」

劇症型げきしょうがた死血性しけつせい灰化かいか反応による致死――“血の爆撃オウスゲボム”」

「なっ……なんだ、それはっ!!?」

「安心しろ。お前が撒き散らした血霧けつむ目眩めくらまし以外、わたしに影響を齎さないのと同様、わたしの血が掛かろうとお前に被害はほぼない――だが」

「!!」

「こうすれば話は別だ」


 太刀のスプラッタ機構に手首の血をしたたらせる。

 フラーを伝い、毛細管現象で縞模様ダマスカス隅々すみずみ迄が血の色ブラッダロッソに染まる。

 同じく、マリアの瞳も赫眼かくがんに染まる。


「ぐっ! な、なにかマズいッ!」


 鬼衆のからだが膨張、ローブは破れ、爛れ黒ずむ皮膚は剥き出しになり、骨格と筋肉が変貌し始め、四肢が伸びる。

 ――變容メタモルフォーゼ


「遅い!」


 泥濘ぬかるみを感じさせない速さの踏み込みからの逆袈裟。軽やかにひょんと斬り上げられたきっさきを目で追う事はできない。

 かすかにきらめく刃の軌道は鬼衆の左腋に吸い込まれ、耳の脇をかすめる。僅かに遅れ刃筋に霧が散り、ほのかな刀線を描き消ゆ。

 文様ダマスクに這った刃を流れるマリアの血は、脈動せずとも轟々ごうごうと鳴り、鬼衆の腋窩えきかの血管とリンパ節、神経系を切断、左腕ごと分断される。


「ぐああぁぁぁぁっっ」


 薄紅色の鬼衆の血は、陰鐵に因ってドス黒く変色、焼け焦げた臭いが辺りを覆う。

 続けざま、肩口の断面は急速な石灰化が進み、ぼろぼろと砕け崩壊、灰のようにさらさらと崩落。みしみしと音を立てながら石化は左胸から脇腹を侵食し、無慙むざん罅割ひびわれを引き起こす。

 如何いかに異常な再生力を有する鬼衆であっても、その斬創ざんそうを、損傷を、損壊を、いややせるものではない、と誰もが確信する。それ程、一種異様な光景、現象、事実。


「ぎっ、ぎざまぁぁぁぁ~! な、なにをした!?」

「さっきも云ったろう、血の爆撃オウスゲボム。撃ち込む手段は違うが効果は同じ。お前は終わりだ」


「おっと、そこ迄だ、ディーサイド!」


 ――!?

 矢庭やにわに後方から見知らぬ声。

 周囲の霧に混じる鬼衆の気配と屍等の放つ悪臭に気を取られ、背後の人影に気付けなかった。

 一体?

 振り向きざま、眉をひそめる。


「――なん……だと!?」

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