名前のない駅

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名前のない駅

「なんだよこれ……、はあ、死にたい」


 駅のベンチで頭を抱えて、俺はそう呟いた。

 目の前には目に眩しいほどの青い空と青い海が広がっていて、自分の置かれた状況が明らかにおかしいことを嫌でも自覚させられる。

 俺はついさっきまで都内を縦横無尽に走る地下鉄の中の一つの路線、その車内の座席に悠々と腰を下ろしていたはずだった。出勤時には乗車率100パーセントを超える地獄の満員電車を生み出す路線だが、俺が帰る時間には大抵がらがらになっている。座れてうれしいと思えばいいのか、残業を憎いと思えばいいのか、残業代をお気に入りのゲームアプリの課金につぎ込んでいる俺にはちょっと微妙なところだ。

 車内では読書をして過ごすことが多いが、今日のように本を開く前に寝入ってしまうこともある。特に今夜のような忘年会の後――、つまり、酒を飲んだあとはより一層危険だ。好きでも嫌いでもないアルコールだが、仕事の付き合いのせいで全く口にしないわけにはいかない。ほろ酔いの体で感じる地下鉄の振動は揺りかごのように心地よく、気がついたらうとうと……、なんてよくある話だ(俺も何度か寝過ごしてしまったことがある)。

 しかし、電車の中で眠っていたらいつの間にか知らない駅のベンチに座り込んでいたなんて聞いたことがない。

 今、俺が座っているのは地下鉄車両のシートではなく、濃い緑色のペンキで塗装された木製のベンチだ。目の前に広がっているのは車窓と灰色のトンネルの壁ではなく、青い空と青い海。きらきら輝く水面が目に眩しい。

 あまり大きなホームではないらしく、左手側には自動改札機があるのが見えた。ICカードをタッチする部分が無い気がするが、それは見なかったことにする。

 さっきまで地下鉄に乗っていたはずなのに、気がついたら地上の駅。いくら寝ぼけていたんだとしても、こんなことにはならないだろう。

 しかも、どう見ても真っ昼間だ。太陽はちょうど屋根の真上にあるらしく、ホームには屋根の影が落ちている。それでも怖いと感じなかったのは、この景色に見覚えがあったからかもしれない。

 この景色は確か、俺の母校の最寄り駅のものだ。

 この駅は、昔の俺が通学のために使っていた駅だ。さっき見た自動改札を通り抜けてすぐ左折して、その坂を上ったところに俺の母校がある。偏差値はそこそこで、学年の三分の一ほどの生徒が国公立大学を受験する、普通科高校。俺はそこで、青春と呼ばれる三年間を過ごした。

 しかし――、ここが本当に俺の知るその駅なのかはわからない。

 俺が毎日使っている路線はこの駅まで直通運転をしている路線ではないし、寝ぼけて乗り継いでやってこられるような場所でもない。大体、会社の飲み会を終えて電車に乗ったはずなのに、いつの間にか真っ昼間になっているというのも異常事態だ。

 これからどうしよう、と俺は頭を抱えた体勢から上半身を起こし、顔を上げて――、

「う、うわっ!?」

「うわ、だって」

 ――驚いた。

 俺の前には、見知らぬ女の子が立っていた。

 女の子は俺の顔をじっと見下ろして(俺がベンチに座っていて、彼女が立っているから自然とその位置関係になる)、びっくりした? と首を傾げた。

 その表情や顔つきよりも先に、彼女が着ている制服に目が行った。それは単に、彼女の着ている制服が俺の母校のものだったからだ。白いシャツと紺のベスト、紺のプリーツスカート。それ以上の細かい違いは俺にはよくわからなかったが、彼女のベストの襟についている校章バッジは間違いなく俺の母校のものだった。校章バッジの隣につけている学年を表すバッジの方は「Ⅲ」で、彼女が三年生であることがわかる。

 そろそろ高校三年生は受験勉強の追い込みに入るはずじゃ――、そこまで考えてから、周りの景色が明らかに俺の思う季節と違っていることに気がついた。もちろん、景色だけじゃない。ずっと暖房の効いた車内にいたから気がつかなかったのかもしれないが、ここの気温は明らかに冬のものではなかった。寒さを感じないどころか、元気な蝉の声さえ聞こえる。

「ねえ」

 それにしても、この女の子は誰なのだろう。

 じろじろ見ないように視線をそらしてしまったが、見覚えのある顔ではなかった気がする。大体、ごく一般的なサラリーマンの俺に女子高生の知り合いなんているはずもない。

「ねえ、おじさん。聞こえてる?」

 そこで、俺は顔を上げた。

「……もしかして、俺?」

「そうだよ」

 制服の女の子はまだ俺の前に立ったまま、じっとこちらを見つめている。さっきはすぐに視線をそらしてしまったから気づいていなかったが、彼女はスクールバッグと細長い楽器ケースを持っていた。トップが短めの、シャギーの入ったショートカット。髪の色はやや明るいが、染めているわけではなさそうだ。

「どうかしたの?」

「何だと思う?」

 彼女はじっと俺の顔を見ながら言った。

 全然、全くわからない。

 眠っていたらいきなりこの駅に来てしまったから、同じ境遇に見える俺に声をかけてみたというのが一番それらしいと思うが、きっとそうではないのだろう。そうだとしたらこんな質問はしないだろうし、何より彼女の態度には一切不安そうなところがない。

「……わからないな。もしかして、暇つぶし?」

「うん。そうかも」

 特に正解はなかったらしく、彼女は笑って俺の隣に腰を下ろした。なるほど、本当にこれから暇つぶしをするらしい。全く警戒心を抱かせないのは、彼女が俺の母校の制服を着ているからだろう。

「おじさんって、運動部だった?」

「ああ。高校の時は野球部だったよ。……それ、トロンボーンだよね」

 楽器ケースを持っていたから、そう尋ねた。

 俺は音楽に詳しい方じゃないけれど、高校のときの友人がトロンボーンを担当していたからその形だけはわかる。当時興味本位で吹かせてもらおうとしたこともあるが、俺はマウスピースの段階で挫折した。笛なんて息を吹き込めば音が鳴ると思っていたのに、そう簡単なものじゃないと説教じみたことを言われたのが懐かしい。

 ――そんなこと言ったら、野球だってボール投げて打つだけだろ。

 そう言われて納得したような、しなかったような記憶がある。

「うん。僕、吹奏楽部だから。野球の応援も行った」

 俺は彼女が一人称として「僕」と言ったことに驚いたが、そこに口を挟むのはやめておいた。他人の癖や事情に口を挟むのは野暮だろう。

「そっか。でもうちの高校ってあんまり野球強くないし……、たいして面白くなかったんじゃない?」

 俺の母校はサッカー部が強く、その代わりというわけではないが、野球部はそんなに強くなかった。俺の前の代からそうだったし、最近も名前を聞かないから今でも状況は変わらないだろう。

 それでも、吹奏楽部の部員は試合があれば半強制的に試合の応援に駆り出されるのだ。ちょっとしたお礼がもらえると聞いたが、炎天下で応援をする対価に釣り合うものだとは思えない。

「ううん。楽しいよ。好きな人、いるから」

「……へえ、そうなんだ」

 唐突に「好きな人」なんてことを言われたから、驚いてしまった。同時に、そんな大事なことを見知らぬ「おじさん」相手に話してよかったのかと勝手に不安になる。まあ、俺に話したところで彼女の恋の噂が校内で広まってしまうことはないのだからいいのかもしれないが――、年下の女の子と恋愛話をするなんて、ただ単純に気恥ずかしい。

「野球部の友だちなんだけど、なんかいつもぼんやりしてる。でも、野球は楽しそうにしてるから……、」

 応援できてうれしいんだ、と彼女は呟くように言った。

 俺も野球部では特に活躍をするわけでもなかったが、楽しいとは思って過ごしていたから、彼女の好きな人には勝手に親近感を覚える。

「ねえ、おじさんは応援されるのうれしかった?」

「え? そうだな……」

 俺の代の野球部は、歴代野球部の中でもとりわけ弱い世代だった。そのおかげでたいして野球が上手いわけでもない俺も試合に出ることができたのだが――、正直に言えば「勝てる」なんて一ミリだって思っていなかった。もちろん頑張っていなかったわけではないが、強豪校に比べたら選手の質も、練習量も、全然違う。それに、本当に勝ちたいと思うなら最初からこの高校には入っていない。

 しかし、応援の方はそうじゃない。

 俺たちが一ミリも勝てると思っていなくても、応援団や吹奏楽部はいつだって全力で応援してくれるし、かっ飛ばせるわけもない俺に「かっとばせー!」なんて少し残酷なことを言ってくれる。それを迷惑だと思うほど俺は人でなしではないが、やっぱり恥ずかしかったのは事実だ。

 でも――、と俺は彼女の顔を盗み見る。

 彼女はわざとらしく視線をそらして、そわそわしながら俺の返事を待っているようだった。それは、いわゆる恋する乙女、その表情に違いない。まさに青春。やっぱり少し恥ずかしい。

 しかし、そんな彼女に気を使えないほど、俺は子どもじゃない。

「まあ……、うれしかったよ」

 恥ずかしかったのは事実だが、うれしかったのも嘘じゃない。これは後々わかったことだが、社会にでたら普通のサラリーマンがあんなに一生懸命な応援を受けることは滅多にない。あのとき応援されて心が奮い立ったときの気持ちは、今では貴重な体験だったと思える。

 俺の場合は、俺に片想いをする女の子じゃなく、同性の友人からの応援だったわけだが――、それだって十分にうれしいものだった。

「……よかった。迷惑だったらどうしようって、ずっと思ってたから」

 彼女は心底ほっとしたような顔で言う。彼女のその表情を見て、俺は自分の気遣いが間違っていなかったことに安堵した。

「おじさんは、高校生活って楽しかった?」

「もちろん、楽しかったよ」

 その答えは、考えるまでもなかった。

 会社勤めを始めてからは高校生だったときのことを思い出すことは滅多になかったが、楽しかったかどうかを尋ねられたら、自信をもって楽しかったと答えることができる。

 退屈だった毎日の授業も、好きだから続けていた野球も、入学式で意気投合してから四六時中一緒にいた友達も、初恋の女の子も。全部いい思い出だ。

 そうだ――、そう言えば、俺には好きな女の子がいた。

 選択授業で一目惚れして二年と少しの片想いの末に告白をしたが、あっさり俺を振った女の子。「そんなこと急に言われても、私は君のことよく知らないし」と、きっぱり言われたことばかり印象に残っていて、うまく名前を思い出すことができない。その程度の気持ちだったから振られたんだろう、と今なら冷静に考えることができるが、当時はものすごくショックを受けた。友人に「次の恋を頑張ればいい」と力強く励ましてもらわなければ、立ち直ることもできなかったかもしれない。

 ――確か、励ましてもらったのはこのベンチだったような気がする。高校生の俺が友達に励まされた駅のベンチで、今の俺は見知らぬ女子高生を励ましているなんて、なんだかすごい偶然だ。

「そっか。僕も高校生活、楽しかったよ」

「うん。よかったね」

 俺は学生生活はできるうちに満喫しておくといいよ、なんて説教じみたことを言おうとして――、ふと違和感を覚えた。彼女はまだ高校生なのだから「高校生活が楽しかった」と過去形の表現を使うのは、文法的に間違っている。それを指摘するかどうか悩んだが、ただの言葉の誤用くらいでわざわざ「口うるさいおじさん」になることもない。

「おじさん、どうかしたの?」

「なんでもないよ」

 ふうん、と彼女が呟く。途端に蝉の声が大きくなった気がした。彼女はなにも言わなかったし、俺も黙ってそこに座っていたが、不思議と気まずいとは思わなかった。ここにはただ、ゆるやかな時間が流れている。

 このホームには、未だに彼女以外の人物がやってくる気配はない(彼女自身も「来た」というよりは「居た」という雰囲気だった)。俺がぼうっと海を眺めている間、彼女はベンチに座って足をぶらぶらと揺らしていたが、しばらくしてから立ち上がり、時刻表の前に立った。

 ――時刻表。

 どうしてこれまでその存在に気がつかなかったのだろう。いつまでもここにいるのにも限界はあるだろうし、そろそろ次の電車の時間くらい調べた方がいいかもしれない。もしかしたら時刻表が真っ白で、ここには永遠に電車なんてやってこないことを思い知らされる可能性もあると思ったが――、彼女の隣に立って覗き込んだ時刻表には普通に時刻が記されていた。

 この時刻表によれば、この駅には二〇分に一本程度の間隔で電車がやってくる。次の電車が来るまでどれくらいだろうとコートのポケットからスマートフォンを取り出そうとして、自分がそのコートを着ていないことに気がついた。それどころか腕時計もなくなっているし、鞄だって持っていない。今まで座っていたベンチを振り返ってみても、それらしいものはなかった。これが現実だったら重大なインシデント事例になりかねない。

 どこかに時計がないだろうかと周りを見ていると、自販機を興味深そうに覗きこんでいた彼女が、再び俺に近付いてきた。

「なにか探してるの?」

「時計を探してたんだ。時間が見たくなって」

「そう」

 それなら僕が調べてあげる、と彼女はスクールバッグの中から今どきめずらしい二つ折りの携帯電話を取り出した。画面が見えるように開かれ、俺の前に突き出されたシルバーの端末。ところどころ塗装が剥げているから、それなりに使い込まれているのだろう。俺も昔、似たようなデザインの携帯電話を使っていた。色はシルバーじゃなくてネイビー。シルバーよりもかっこいいと思って選んだのに、塗装剥げが目立つと巷では不評だったのが少しだけ不満だった。

 画面の中央には、時計が大きく表示されている。画質は粗いが、時間はちゃんと確認できた。

 ――十四時四十七分。

 今さら時間には驚かない。次の電車が来る時間を時刻表で確認すると、六分後であることがわかった。思ったよりも急だ。

「……俺は次の電車に乗るけど、君はどうするの?」

 彼女は俺が返した携帯電話を弄っていた手を止め、少し寂しそうな笑みを浮かべて「僕はおじさんと逆方向の電車に乗る予定なんだ」と笑った。

「そっか。気をつけてね」

「うん」

 俺が乗る電車がホームのどちら側に来るのか確かめるために頭上の電光掲示板を見上げると、三番線ホーム側の表示が俺の最寄り駅行きの電車を示すものに変わっていた。反対側の電光掲示板にはまだなにも表示されていないから、彼女がどこに向かうのかはわからない。

 彼女がどこに行くのか聞くことができないでいるうちに、俺の乗るべき電車がホームへとやってきた。拍子抜けするほど普通の電車で、中には既に先客もいる。俺と同じような、会社帰り姿のサラリーマンが多そうだ。

 普段通りに電車に乗り込んでからホームを振り返ると、ホームの端までやってきていた彼女と目があった。どうやらホームで話しただけの俺をわざわざ見送りに来てくれたらしい。少し照れる。

「ばいばい、おじさん」

 彼女は俺に向かって手を振った。

 俺も、体の横で控えめに手を振り返す。

「もう、死にたいとか言っちゃだめだよ」

「……もう言わないよ」

 独り言のつもりだったのに聞かれていたのか。急に恥ずかしくなって、「じゃあね」と続けた。その後に彼女がなにか口にしようとしたのが見えたが――、それを聞くよりも早く電車のドアが閉まった。

 電車はゆっくりと走り出し、あっという間に彼女も、さっきまで過ごしていた駅も見えなくなってしまう。トンネルに差し掛かった辺りで俺は外を眺めるのを諦めて、車内の座席に腰を下ろした。

 途端に、眠気がやってくる。

 俺はうとうとしながら、彼女が乗ると言っていた反対側に向かう電車がどこに行くのかを考えた。わかるような、わからないような気がして、俺はそのまま眠ってしまい――、目が覚めたときには最寄り駅にちょうど到着したところだった。


   ***


 あれはきっと、夢だったのだろう。

 俺が次に目を覚ましたとき、そこはいつもの電車の中だった。コートはちゃんと着ていたし、手首には腕時計、ポケットにはスマートフォン、鞄もしっかり掴んでいた。窓の外の景色は暗く、もちろん青い空も青い海も見えるはずがない。大体、本物の海を見たのなんて半年以上前のことだ。

 寝ぼけ眼で慌ててホームに降り立つと冷たい風が吹き付けてきて、その風は潮の香りの代わりに濡れたアスファルトのにおいをさせていた。

 駅から自宅に向かう途中で、俺は普段から使っているSNSの画面を開いた。開きっぱなしになっている投稿画面のテキストボックスには、何気なく打ち込んだ『仕事がつらい、死にたい』という文字列が表示されている。

 ――もう、死にたいとか言っちゃだめだよ。

 夢の中で出会った彼女のことを思いだして、俺はそこに表示されていた文字を削除してから画面を閉じた。

 家に帰ってすぐ、俺は部屋のクローゼットの奥から卒業アルバムを引っ張り出した。彼女が一体誰だったのかを、確かめようと思ったのだ。

 しかし、卒業アルバムを1ページずつ順番に確認していっても、夢の中で出会った彼女の姿は見あたらなかった。もしかしたら、と部活別ページの吹奏楽部の写真も見てみたものの、こっちも見事に外れだった。吹奏楽部のページでトロンボーンを持って写っているのは、俺の友人一人だけだ。俺はため息をついて、卒業アルバムを閉じた。

 彼女は多分――、元々存在しない女の子だったのだろう。

 俺が心の中で作り出した、俺の理想の初恋の女の子。

 理想そのものと言うには癖の強い女の子だった気がするが――、そう考えてしまえばすっきりする。彼女が実在しないのは少し残念な気がしたが、いないものはいないのだから仕方がない。

「あ、そうだ」

 もう一度卒業アルバムを開いて再び吹奏楽部のページを開いたのは、ちょうど昨日、吹奏楽部の集合写真の後列でトロンボーンを持っているそいつから結婚式の招待状が届いたところだったからだ。

 高校のときはあんなに仲良くしていたのに、大学が別になってからはあまり会うこともなくなり――、もう数年間会っていない。

 そんな俺を式に招待してくれたのはありがたかったが、式が俺の仕事の繁忙期と重なることもあって欠席にさせてもらおうと思っていた。

「……やっぱ、行こうかな」

 急にそんな気持ちになったのは多分、こうして卒業アルバムを見返してしまったからなのだろう。確かに仕事は忙しいだろうが、調整できないこともない。ボールペンを取り出して「出席」の方に大きく丸をつけてから招待状の返信の書き方にはマナーがあったことを思い出したが、後の祭りだ。

 どうにか修正できないか試行錯誤しながら、もう一度友人の写真に視線を向ける。その笑顔は少しだけ――、夢の中の彼女の笑顔と似ているような気がした。


   ***


「すみません、私も乗ります」

 少女はそう言って、先ほど一人の男が乗った電車とは逆のホームに停車した電車に向かって走る。先ほど三番線に停車した車両とは違い、二番線に停車したこの車両に行き先は表示されていない。

「急がなくても大丈夫ですよ」

 開いたドアの横には、いつの間にか一人の少年が立っている。子どもらしくない駅員風の制服をきっちりと着込んだ彼は、駆け寄ってくる少女に向かって柔らかく笑いかけた。線が細く、大人びた少年。顔の造形は恐ろしく整っているが、その肌は生気を失ったように青白い。

「ありがとうございました。駅員さん」

「はい。次は、迷わないといいですね」

 少女は少年に向かって頭を下げ、行き先表示のない電車へと乗り込んだ。その車内は三番線ホームから発った電車よりも混みあっている。

 しばらくして駅から電車が発車しても「駅員さん」と呼ばれた少年はその場に立ち、彼女と彼女が乗った電車を見守っていた。

 この「名前のない駅」は「うつしよ」と「とこよ」の間の世界、そのまた外れの小さな空間に存在したり――、しなかったりしている。少年が駅員をしているこの駅にはまだ生きている人間の未練、生き霊と呼ばれるものたちが引き寄せられてくる。その生き霊たちをうつしよに帰してやったり、とこよに送ってやったりするのが少年の仕事だった。

 例えばさっきとこよへと送られた少女は、同性の友人のことが好きだったとある男性の未練だ。この駅は三次元空間よりも高次の空間に存在するために時間という概念はないし、肉体という概念すらない。だから、彼の――、彼の「未練」は少女の姿で現れた。

 未練たちの向かう先を決めるのは少年ではない。少年はあくまでもこの駅を管理する駅員であり、旅人に介入する権限は持っていないのだ。

 少年がホームに落ちていた結婚式の招待状を拾うと、それはすぐに黒い塵になって消えた。同時に、駅の周りを囲んでいた青い空や青い海も消えていく。それがこの駅の駅員である少年の仕事だった。

 再び二番線に電車がやって来るのを見て、少年はその場で姿勢を正す。

「ご乗車ありがとうございました。ここは――、」


 ここは名前のない駅。

 さまよい続ける人々の未練が訪れる、この世界のどこでもない場所。

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