002 時間による変化と観察
八年ぶりの自室には、当時と比べて物が何もない。二十畳一間の空間。これだけ広い部屋に家具が全くないのは、不気味さすら感じられる。あるのは、質素な簡易ベットがたった一つだけだ。それは、皇子である俺に与えられた物にしては、あまりに安い。
野宿と変わらない生活をしていた俺だから極上の寝心地だったのは事実だが。少し待遇が悪いとも思える。
皇族に金を使わないということは、殊勝な心掛けではあるが。限度が過ぎるというのも、問題だ。
貴族の服を着用して身支度を整える。歩くと床が嫌な音を立てて軋んだ。昨今、王宮の老朽化は問題になってはいたが、未だに父上は手をつけていないらしい。それほど、外交と闇の眷属への対応に忙しいということか。
再びベットの上に腰掛ける。頭が痛い。俺を悩ませているのは、枢機卿が下した昨夜の命令だった
聖勇者を暗殺せよ。
神聖ローレライ教団の唯一神。ローレライが遣わしたとされる、魔を打ち破る聖勇者。まさに神の化身。暗殺を目論むことは勿論、そんな命令を請け負うことも、また教義に反するはずだ。
敬虔なる神の下僕であるプリーストが教義を犯す。それは重罪とされ、ローレライが与える力の大半が使えなくなる。当たり前だが、この世界でそれを知らないものはいない。
しかし今、俺もアレゴロも、力を失う予兆というものはない。アレゴロ曰く、すべては神の意思によって決定されたことらしい。だったら懸念点はない。問題もない。だから俺は……、ただ忠実に––––––、命令に従うのみ。
教会暗部から下される指令は、基本的に十全な後方支援がとられていない。前線にいるときも、その日その日で、狩った敵を換金して物資を手に入れていたことは記憶に新しい。
生憎、目下の優先事項は、金を調達することである。もし俺の自室に宝石の一つでもあれば、売って資金にでもしてたところだ。この部屋を見たところ、金になるものは何一つない。
「ロゼ様。公爵家のマルタ姫様がおこしですけど」
扉が無造作に開けられた。王宮での俺付きのメイドが姿を現す。初めて見るメイドだ。歳も歳なので、恐らく新米ではないだろう……、ベテランであるならば、ノックぐらいしてほしい。
俺は右足で
「……?? なんですか、今の」
「なんでもない。気にしなくて良い。」
「……あんまり待たせず早く行ってください。怒られるのは……、貴方ではなく、この私なので」
メイドの言葉は、ぶっきらぼうに言い放たれた。その表情は、俺に対する敵意が隠しきれていない。仕事とは、私事と書くがプライベートではない。自分の好き嫌いがあれほど出てしまう以上、このメイドは三流と言わざるを得ない。
「マルタ姫……、あのちびっこマルタ……か」
昔の彼女は、俺の後を、よく付いてくる女の子だった。背も低く、俺を兄貴として慕っていた記憶がある。よく可愛がっていた。歳は俺より一つ下だから……、今では15歳になっているのか。
マルタ・アーミア。王国の中で、間違いなく三指に入る勢力の公爵家の娘である。アーミア家の影響力は馬鹿にできない。昔は大人の事情は度外視していた為、仲良くできた。
アーミア家は派閥が俺とは真逆の家柄なのだ。皇帝派と教皇派。件の実家は、後者である。時の当主が、熱心過ぎるローレライ教信徒であるため、公爵家であるにもかかわらず教皇派へと転身した家柄なのだ。
長い廊下をぬけて階段を降りる。今でも王宮内の構造はしっかりと記憶していたことに安心する。広間が開けていた。俺の部屋と比べて、随分と華やかな装飾が施されている。
「!! 遅いッ! どれだけ待たせたら気が済むの? 約束の時間に、間に合うことすら、できないの!? あぁん?」
「やはりお嬢様……、ロゼ殿下は貴方様の婚約者に相応しくないかと」
「黙りなさい」
「……はい」
ドスの効いた声でパンパン台を叩く音が聞こえた。声向には、客人を迎える大きなソファとデスクが設置されている。どちらも類い稀ない一級品で、この戦争の最中、贅沢品であることは間違いない。それほどの品を躊躇いなく叩くなんて、俺には恐れ多い。
「………!? やっと、来た、わね! ロゼ!!」
ソファに座っていたのは、マルタ姫その人だろう。僅かながら、面影がある。肩までかかるセミロングの赤髪に、よく似合う赤い瞳。服装は、ドレスではなく、ハンターが好んできそうな略式の軽装だった。
額には青筋を刻んでいて、口奥から見える犬歯が牙をむいている。息がやけに荒い。今にも襲いかかって来そうだ。
そしてとうとう、デスクが真っ二つにぶっ壊れた。力が抑えきれなくなったのか。その様子は、姫というよりも、抑えの効かない猛獣である。
随分と、伸びた身長。でも、まだまだ俺よりも小さい。大人びた中にも、僅かに残るあどけなさ。好色めいた貴族ならば、きっと、美しく成長したと噂しているだろう。
けれど……、残念だ。昔のマルタは、物をぶっ壊すほど凶暴な子ではなかった。
「悪かった」
「!! ふざけるな!! これほど長い間待たせたのだッ! まずは姫に謝罪と土下座をせよ! 地面に這いつくばって首を垂れろッ! 泣きながらッ、許しをッ、こえ!」
マルタの隣で、男はプルプルと体を震わせ、唾を飛ばしながら叫ぶ。この若い男のことを俺は知っている。生憎、何処で会ったのか、一体誰なのか、全く思い出せない。わかることは、今ではマルタの執事であることと、彼を知っている、という事実だけだ。
「ロゼ、それで? 準備は、もうできたの?」
「準備だと? 一体、なんの?」
ドスの効いた声で俺に問いかける。口元には、笑みが貼り付いているが、ピクピクと痙攣している。間違いなく、怒っている。
「あのメイドが言ってたの。貴方は準備中だって。今日、舞踏会があるからって。だからこんな–––––、一時間も、待ったのだけど? しかも、お誘いを受けたのは、こちらだけど?」
どうやら、あのメイドに一杯食わされたらしい。この話だけを聞いていれば、間違いなく悪いのは俺の方だ。マルタがあれほど怒っていたのも納得である。とはいえ、少しやりすぎの点もあるのだが。
「その件に関しては……、ホントにすまない」
「……まぁ。いいわ。今回だけは、許してあげる。今回、だけよ。特別よ。」
「姫様、少し甘いのではないでしょうか。もっとガツンと……、骨の一、二本はへし折るくらいしないと、この男は反省しません」
「それは……、そうだけど」
骨の一、二本か……。それくらいであれば、俺なら回復魔法ですぐに治せてしまう。だから優しく聞こえるが……、王国内で平和に暮らしている、彼らから出た言葉にしては驚いた。しかも、こんな野蛮な言葉に、マルタの方も満更ではない様子だった。
一体ちっこ可愛かった、あの少女は、どうしてここまで変わってしまったのか?
「舞踏会だな……、わかった。すぐに準備してくるから、少しだけ、待っていてくれ」
もし俺が、第五皇子として平和に暮らしていただけならば、当然参加していたものだろう。けれども、今は状況が違う。俺はのこのこと後方で休んでいる暇は、ない、のだ。前線では、今も闇の眷属によって多くの人々が殺されている。その中には、俺の知り合いも混じっているかもしれない。
けれども、任務を放棄するわけにもいくまい。俺の目的は、あくまで迅速に、隠密に、聖勇者をこの世から消滅させること。そのためにはまず、聖勇者と接触しなければならない。舞踏会は
この世にはダンジョンと言われる秘穴があるのだが、その最奥で発掘されるものが、宝具だ。宝具とは、まさに神秘だ。魔力を加えると、宝具の特性に合わせて、本来自分にはできない超常の力を発揮できる。誰でも使うことができるため、俺みたいに魔法を使えない者はよく所有している。
「出来るだけ、急いでッ! 貴方が言ったのよ。もし早く着けば、聖勇者を、紹介してくれるって」
「聖勇者?」
「貴方、お友達、なんでしょう?」
聖勇者が俺の、いや、
……なるほど。今日の俺は––––––、ツいてる。
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