明朝、硝煙の匂いが和らいでいた教室で『待ち合わせ』を共通課題として美術の授業中に提出した絵が返ってきた。

 僕はカンバスに描いた少女を意図せずして迷子にしてしまった。初めは、白木さんをモデルにした少女が銀色の懐中時計を覗いて、どうしてだか灰色がかった(僕の癖だ。作中の季節なんてお構いなしに寒々しいモノクロームを作り出してしまう)人っ子一人いないホームで途方に暮れている情景を描き出そうとしていたのだけれど、結局、手元に現れたのは迷子の少女だった。

 たおやかな黒髪を肩甲骨に揺り落とし、静謐せいひつな微笑をたたえたほの青い面持ちがどれだけ言葉を尽くしても足りないくらいに美しい白木さんを、徹底的に痛めつけて奪い尽くして孤独の海に突き落とした。そんなモノクロームの風情をした迷子の少女は、とても心許なさそうに灰色の最中で立ち尽くしていた。銀色の懐中時計はなくなった。ホームは海になった。きっと少女は待ち人を失ったんだと誰もが一目で分かるはずだ。

 だからこそ、評定はEを喰らったのかもしれない。即ち〝テーマを暗く捉えすぎている〟

 だけれど、僕はその朝、莫大な諦観を抱いた。それは途方もない砂漠で素晴らしい蜃気楼を見定めた感じだ。腑に落ちた。腑に落ちすぎて、もうどこへも動かせないくらいに。

 白木さんの話を聞いた後で『待ち合わせ』をテーマにした絵を描くなんて、真摯に彼女のことを見つめていた僕には無理な話だった。あの時の彼女は、たとえ待ち人がいたとしてもほっぽってしまうくらいには一刻も早くこの街を出て行きたがっているように見えたし、そして、実際にそうだったのだろう。いや、そうだったのだ。いい加減、もうよそう。

 昨晩、白木さんの家が燃えた。

 焼け跡からは身元不明の三人の遺体が見つかった。白木さんの一家とは誰とも連絡がつかないらしい。みなまで言わないでも分かるから、もう、誰にもなにも言われたくない。

 僕はその場にくずおれて、押し潰せるくらいの力で耳を塞いだ。

 それでも聞こえる。聞こえて止まない。

 白木遥が死んだ。

 僕の街だけじゃない。世界諸共壊れていく。シンバルのような瓦解がかいの音がする。

 僕は音の出処に気づき、かいじゅうらしく独り沈んだ。これは僕の心の叫びだ。そしてだから、白木さん以外に止める術を持つ者はいない。

 今朝の教室では硝煙の匂いが和らいでいた。代わりに幾つもの灯みたいなスマホ画面が光って、空気をほの青く染めていた。かいじゅうの僕には、クラスメートのみんなが怪物に見えた。放火か、心中か。彼らにはそれだけが気になるみたいだった。誰も考えていなかった。誰も。

 彼女の抱えていた苦悩や、沈みかけていた孤独のこと。それは彼女が誰かに背負ってもらうことを拒んだせいだ。それは彼女のいびつを許してくれるほどこの世界が甘くないということを、彼女自身、打ちのめされて、どんなことをしようとも億劫さが付き纏うほど思い知らされていたせいだ。

 僕は、この狂った嵐に巻き込まれずにいようという戦意がどうにも奪い尽くされてしまったようで、せめて、僕の大事なものたちが巻き込まれてしまわないようにと、独りでこの街を出て行くことに決めた。

〝如月くんも悪い魚に食べられちゃわないように気をつけてね〟という、彼女が置き土産として遺して逝った言葉を指針にしなければ、僕はひとまず生きることすらもままならなかった。ささやかでもの悲しい未来予想図を手に、僕はとりあえず陽づる方角を目指して流浪の旅へと出ることにした。

 孤独にばかり打ちのめされていた。僕はもう、そもそも生きる意志を失いつつあった。いや、世界にこれでもかと奪い尽くされそうだった。こんな凄惨な出来事を反芻し続けて、もっともっとにがくなって、悪い魚に食べられた時に〝食い物にしなきゃよかった〟とか後悔させてやろうと本気で画策をしもしたけれど──それはつまり、この街に留まって無抵抗のまま終わりを迎えるということだ──しかし、僕には、彼女が見届けることを止めた世界の動向を見つめる使命が託されていた。彼女はそのためにこの街を出る旨を伝えたのだ。きっと、そうだ。

 僕はいっそ、こんな孤独な旅路の最中で絶望に沈みきってそれなり一切浮かばれなくなることを望んでいた。

 こんな世界を見つめてみたところで、探そうとしていなくとも勝手に出てくる粗や放置されて酷い悪臭を放っていく小さな幾つもの社会のひずみ、氾濫を招く蠕動ぜんどうを今か今かと待ち侘びている今まで散々無いものとされてきた目も当てられない感情の澱……美しく純な部分に比べて遥かに多く露呈するだろう醜悪な仕組みに苦しめられることになるんだと懲りもせずに心身を達観に浸からせていながら、彼女の言わんとしていたところの〝不可侵な永安の地〟に帰り着こうなどとは、おそろいの種であるはずの僕にはおおよそ考えもつかなかったからだ。僕はもう、なに一つとして望めなくなるくらいの絶望を切に望んでいた。

 スクールバッグの底にいまなお埋もれている事後報告書の悪魔のような質感を乾いた手のひらに甦らせた。

 僕は本当にかいじゅうなんだろうか。僕にはかいじゅうたちの帰り着く先がどこなのか、まるで人間みたいに汲み取れなかった。

 彼女には分かっていただろうか。彼女はこわくなかった? かいじゅうたちの徹底的な排斥を分かりやすい人類愛の表明だとして許容する世界から煙となって逃れた時、彼女の心は少しでも、大丈夫でいられただろうか。いまとなっては祈るほかない。

 彼女に会って、話を聞かせてもらって、あのくらりとくるような微笑みを向けられることは、もう絶対に叶わない。

 いや、叶う。叶ってほしい。僕は気が触れるくらいに頭を振った。僕らはまた会えるようにできているんであってほしい。

 思うに、僕にはかいじゅうであるという意識が他のかいじゅうたちよりも欠けている。もっと世界を見つめて、自分の異質さを嫌になるほど浮き彫りにすれば、きっと僕にも〝かいじゅうたちは帰ろうとしている〟という観念の意味がまるで自分のことのように理解できるはずだ。

 それを掴み取ることさえできれば、思わず笑けてくるほどに臆病さが際立つこの僕もなんとか世界から出て行く意思を固められる。

 再び、彼女の許へ出て行ける。

 だって、彼女は言ったのだ。〝わたしは寂しくなんかないよ〟と。〝また会えるんだからそんなに寂しがらなくてもいいよ〟と、あの胸が締まるような微笑みを浮かべながら。

 彼女はきっと僕が、いや、それよりも彼女が思い描いていたよりずっと遠くへ行ってしまった。だけれど、平気だ。僕らは一度離れ離れになったって、また会えるようにできている。

 だって、僕らはかいじゅうだ。

 ──如月くんのこと、まるで怪獣みたいだなって思ってたの……。

 僕は彼女の言葉をよすがに、いつ終わるとも知れない旅に出る。今度は僕が、懺悔のような後悔と、しおらしい慮りと、言葉にならない感謝を伝える番だ。

 あぁ、かいじゅうたちよ。今宵、この街から出て行こう。悪い魚をまき続け、きっと終わってくれる自分探しの旅を賑やかな安寧の日々へと続かせるために、僕らはまずこの街から出て行かなくちゃなんないのだ。

 そして、僕らはそれができる。どうしてか? そんなの当たり前だ。知ってるんだろう?

 だって、僕らは……。

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