「うわっ、死んでるみたい」

 最悪な夢にさいなまれていた気がする転寝うたたねから目覚めると、僕の妹がささやかな苦言をていしながら部屋の照明のスイッチを入れた。ほの青い闇が白々しい光に呑み込まれて消える。

 僕は怪獣然とした呻き声を洩らして、ベッドまで向かうための戦意を放棄し、横向きから仰向けに寝転んだ。肩甲骨が寝心地の悪さを鈍痛にすげ替えて訴えてくる。

 一応体調不良で早退した旨を伝えはしたはずなのだけれど、どうしてだか本来速攻で労わってしかるべき兄の横腹を軽く足蹴にした妹は……〝あぁちょっと、そんな楽しげな表情でアルバムのページを繰るのは止して〟

「なんで?」

〝なんでも〟

 二分の一の成人を迎えた辺りで微笑ましいを覚えてきた妹は、いっちょまえな雰囲気を醸し出しながら「ふんっ」と小さく鼻で笑って、傍らで無様に転がっている兄を見下ろしつつ、一転、あどけない笑顔を線香花火みたいに咲かせ、「このお兄ちゃん、小っちゃ!」と、さながら獣のような四足で這っている僕の写真を指し向けた。

 僕はまじまじと長方形に切り取られた風景を視る。白くて柔くて脆そうな命のどこかしらにかいじゅうの片鱗が付着していやしないかと、期待とおそれの念が複雑に入り混じった両の眼を執拗に向けて、視る。

〝この頃は幸せだったね。まだ誰もなにも知らずに済んだ〟

 途端、僕の平べったい額に不平のこもった鈍痛がきた。目の奥がじんじんする。再度、視界が突発的な闇に呑まれた。

「へんな言い方っ。いまだって幸せじゃん」

 仰向けに寝転んだ僕の額に三度みたび迫ってきたアルバムの背を、スレスレの所でなんとか受け止める。僕は眼前に広げた五指の隙間から、可愛げのある動機で見るからに不貞腐れた感じになった妹の顔をまじまじと視つめて〝そうだね〟と、曖昧な笑みを浮かべた。

 妹はそのままそこに居座って、大好きな家族との思い出を一枚一枚、楽しそうに反芻はんすうし始めた。僕は眩しすぎて刻一刻としんどくなってきた部屋から撤退する力も刻一刻と奪われつつあって、結局、細っこい足をルの字型に折り曲げて座り込んでいる妹の傍らで、病気の黒い犬みたいにぐったりとした。

 一見幸福そうな三人家族の中にすべてを食い荒らす悪い魚の群れをおびき寄せる餌が紛れ込んでいることなど、妹の手本になれるようにと注意されながら歩んだ僕の轍を踏んで成長し、その兄を慕うようにと注意されながら今日まで歩んできた妹には、やはり、思いもつかないみたいだった。

 僕は僕が僕じゃなくても許される夢の淵へと助走をつけて飛び込んで、真っ逆さまにまた落っこちた。



「もうっ、起きたのね。具合はどう? あんまり食欲が湧かないようなら、うどんでも軟らかくして煮ようか? 栄養をちゃんと取らない内は元気も出ないんだから」

 おぞましい夢を振り切って目覚めて、それなり、夢の全容をぼんやりとしか思い出せなくなってしまうと、僕が唯一頼ることのできる、そう考えると改めにも改め直して偉大な人……僕の母親の姿の輪郭がぜんぜん不明瞭な感じから徐々に明瞭になってきた。外行そとゆきの服装のままだったから、ちょうど、仕事が終わって帰宅して怠惰な息子の寝姿を発見したタイミング? だろうか……。

「制服も着替えないまんまでごろ寝したりしないの。身体痛くするよ」

「いま、何時?」

「七時ちょっと前。妹さんは下でテレビを観てるわよ。まったく。気持ちよさそうに寝てたから起こそうとするの止めたっていっちょまえに言い訳してたけど、本当かしら?」

「わかんない。ごめん。いまから、着替える」

 皺くちゃに乾いた声で三言だけ告げると、寝転びざまに向けた背中から靴下を履いたまんまらしく限りなく凪いだ足音がこれ以上ないくらい聞き慣れたリズムで遠ざかっていった。自分でも動揺するくらい焦りながら振り向くと、ピキリ。首筋をやってしまって、思わず「う」と無様な呻き声が洩れる。

 なんにも効かない悶絶を始めた僕の背中に、ふと、優しげな声が投げかけられた。なんとか上体を起こして、半分程度まで水の注がれたコップをささやかなる感謝の言葉と引き換えに受け取った僕は、あてどなく砂漠をさ迷ってきた旅人みたいに欠けた潤いを飲み干した。あぁ、なんか生きようとしている、と、何故だか不思議な感慨におちいった。

 空のコップを握った母親が「主食が無理そうなら」と、いいように扱われる姑息な手段でしかなかったはずの仮病にまでもしっぺ返しを喰らってしまった脆弱な僕を稼働させるエネルギー源となる果物ゼリーを三つ買ってきてくれたと言うので、あんまりお腹は空いていなかったけれど、ここは素直に従って一階へ下りて行くと、僕が好きなメーカーの蜜柑ゼリーがもう既に妹に食べられていた。

 僕が寝てる間に炸裂したらしい母親からの説法が妹の容易い反骨精神をあらかじめ折っていたようだ。ジト目で見やると割かし申し訳なさそうに謝られたので、ここは歳の離れた兄ならではの寛容さでもって、まぁ、許してやった。

 そんなこんなで、僕は仮病を使ったことに対する罪悪感と、家族というものへの有難みを、それぞれ同等程度の比重で抱えた。

 だからこそ痛感していた。世間から異質と見なされてしまう僕がいるせいで、穏やかに機能していたこの家族に安寧からは程遠い懸念ばかりをさせる羽目になってしまうかもしれない。それを防ぐためには、僕がこの家族から外れる以外に方法はきっと無い。もしもその時が来れば、僕はなにをどう足掻こうとも、僕を僕自身の力だけでは保てなくなるだろう。

 それでも、僕は別に構わない。大事なものを守るためなら、僕は一切の不平も零さないままに僕を捨ててやろう。ただ、痛むのは、僕がいなくなったら悲しんでくれる、それ故に僕の大事なものたちの心だった。その痛みを想像したら、僕の心も痛むのだ。

 今宵この街を出て行く彼女も、想像を絶する僕の痛みを想像して、痛みながらに咀嚼して、呑み込んで、体の一部になるまでかかる消化の時間を耐えてくれるだろうか。残さず食べてもらえるだろうか。

 僕は想像する。

 きっと、この痛みだけが、二人を繋げる愛になるんだ。

 僕は微睡みの中で、悪い魚を踏み越えながらとても晴れやかな微笑みをたたえる彼女と連れ立ってこの街を出て行こうとしていた。

〝かいじゅうたちは痛めつけられてばかりだね〟

 僕はほの青く光る瞼をしけった枕に擦りつける。にがい燐光りんこうが悲しいほど脆弱な僕の身体を見るに堪えないほど微弱なリズムで、とくん……とくん……と点滅させて、僕はまるで観念的な青色信号みたいになりながら、煙立つ夜を夢もみずに出て行こうとする。

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