3
ひやりとした空気が僕の身体を包む。透明な水晶みたいに光る水道に筆洗を立てて、ふと、お砂糖で煮込んだ針のように刹那的な痛みを含んだ甘ったるい声がしたから、真横を見やると──偶然、白木さんも筆洗の水を捨てに来ているところだった。
「あなたのことはずっと変だと思ってた。わたしと変わらないくらい」
彼女はアーモンド形の目で僕の目が眩むような目配せをし、白魚のような左手の指を面相筆の持ち手に絡めて、右手の指を絡めた蛇口の栓を軽くひねった。筆洗に入れられた筆がかちゃかちゃとくぐもった音を立てる。
「僕も、白木さんのことは変だと思ってたよ」
言ってしまった後で、文字通り、しまったと思った。好きな女の子を目の前にした第一声めが変だとか、いくら向こうから言ってきたこととはいえ、いや、その通り。僕は変だ。こと恋愛という分野において僕は自殺点ばかり稼ぐとんま野郎……脆弱、脆弱め……。
だけど、白木さんは存外気にした素振りも見せなかった。僕は独りよがりに
「白木さんは覚えていないかもしれないけれど、現国の先生に好きな色を尋ねられて、花の色と答えた時があったでしょ。あの時、本当に変な子だなと思った。あの、悪い意味じゃないんだ。変と言っても、素敵な変で……」
「説明するだけ野暮だよ。そう言われたら、わたしだって、如月くんを悪い意味で変と思った訳じゃないって説明しなくちゃいけなくなる」
白木さんは夏の鳥のような笑い声を立てた。完全に空回りしている僕は「ごめん」と曖昧な笑みを貼り付ける。
「わたしたちはかいじゅうなんだから、いいの」
僕は水彩絵の具の黒が溶けた水に指を浸けながら、揺らめく水面の光が映る白木さんの横顔を見つめた。なにがいいんだろう。僕は素直に不思議に思う。かいじゅうなんだったら、なにもよくないんじゃないだろうか。
「わたしはね、新学期に入って、如月くんの自己紹介を聞いた時……如月くんは覚えていないかもしれないけれど、如月くんだけだったの。よろしくお願いしますって言わなかった」
「うん、本当に覚えてない」
「うん、わたしといっしょ」
白木さんは筆先を筆洗の底で押し潰した。血の滲みのような赤が透明な水に波及し、白くて細い指にまるで悪魔の舌みたいに絡んでいく。
「如月くんは、きっと、誰かから拒絶されることをこわがっているんだって思ってた。だから、自分から孤独に浸ろうとしているんだっていうことも……とても寂しい訳知り顔で、誰にも知られないようについたてみたいなブックカバーをかけてページを
「僕が?」
「うん。わたし、こんなことが世界で明るみになる前からね……如月くんのことをまるで怪獣みたいだなって思ってたの」
「ふうん。じめじめした教室の隅っこで観念小説の読解に勤しんでるような日陰の虫を?」
「さすがに、卑下しすぎだよ」
白木さんは拗ねたように頬を膨らました。微熱を蓄えているように潤んだ瞳と相まって、まるで苦いものを食べた直後の白兎みたいで……なにやら機嫌を損ねさせてしまったようだけれど、それはもう、とてつもなく愛玩的だった。
不意に、心臓が苦しくなる。俗世的に言えば〝キュンときた〟ってところだろうか。あぁ! なぜだか無性に悔しいけれど、でも、これはまさに〝キュン〟って感じだ。やはり、僕はかいじゅうである以前に心象揺れ動くティーンエイジなのだと思い知らされる。当たり前と言えば当たり前なのかもしれない。僕はこれまで──本質がどうとかいう話は抜きにしてみて──かいじゅうとしてではない一人の人間として、泥にまみれてでも生きてきたのだ。
僕はやはり白木さんが特別に好きなんだと思う。僕の自虐を結局傷つく僕の代わりに怒ってくれるなんて、白木さんは僕よりも僕に必要な存在なんじゃないだろうか。
白木さんが僕の心を融かすようにはにかんだ。流れる水道水のカルキ臭い匂い。なんだかもうじきに手の届かないどこかへ流れ出てしまいそうな笑みだった。
「わたしにはできなかったんだ。自分の世界を不可侵のままにしておくこと。曖昧に笑むことしかできなかったくせに、わたしはわたしの話を誰にも笑ってほしくないと思ってた。かいじゅうのくせに、まともに人として話してほしいって……わたしはわたしの世界をみんなの世界に混ぜてもらおうとしちゃったの。でもね、如月くん。そしたら、こんな風に……」
白木さんが密やかに濡れ輝く手を添えて、筆洗を傾けた。緑の溶けた水が隣の窪みに流れ落ちて、何色とも形容し難い濁りになっていく。
「しまいには、誰も納得できなかった。もちろん、わたしも。かいじゅうと人間はそもそも相容れない色だった。明るい場所にいる人間たちにとって、ほの暗い場所に退けられていくかいじゅうなんてものは、混ぜるな濁るの不必要な色だった。ねぇ、如月くんって、いつかこうなることを予感していたのかな。だからいつも、自分の世界を誰の手にも触れられない場所に抱えて、まるで愛と海のあるところを目指す怪獣みたいに、孤独の砂漠を歩いて行っていこうとしてたのかな。……いまになって思うの。わたし、望まなければよかった。そしたら、拒絶されてこんなに醜い傷痕まみれになることもなかったよ」
「どうして、そんなことを言うの?」
「噓じゃないの。ぜんぶほんとうだよ。疑いたくなるなら、わたしの目を見て。そうしたら、絶対に信じてしまえるから」
こんな重要そうなシーンで、度胸ナシの僕は、うっかり、視線を外してしまった。だけど、これは白木さんのほうもちょっと考えナシだったと考えざるを得ない。ほんとうに僕のことを孤独に浸る哀れな外れ者だと捉えていたなら、そんな奴が誰かの目を見てまともに話せるかどうか、とか、そこも含めて精査するべきだったよ。無論、根っからのルーザーである僕には
それに、僕はそこの箇所に宛ててクエスチョンマークを飛ばした訳じゃなかった。というのは、つまり、彼女がどうやら僕に一種の羨望を抱いてくれているらしいという箇所にではなくて──そこだって十全に理解できているという訳では勿論ないけれど──いまになって思う、とか、しておけばよかった、のいまにも頽れそうなニュアンスだとか──気のせいならいい。だけど、生来から気にしいな性質を持つ僕は隠蔽されようとする心を察知してしまう能力にとりわけ長けている──哀しくて力無い音のする、一切の断絶の気配にだった。
白木さんは悲しそうに目を伏せた。僕は狼狽えるよりも先に、本当の女の子の睫毛はこんなにも脆そうなのかと驚いた。まるで空気だけが壊さずに触れられるギリギリの物質みたいだ。僕の乾いた手なんかで触れたら、たちまちに崩れ去ってしまうだろう。
女の子は僕にとって、こういう意味でもこわかった。弱くて、脆い。脚なんてどの子のも容易く折れそうだ。勝気に振る舞われば振る舞われるほど、その命がどんどん危ぶまれていくようで、見てるこっちのほうの生きた心地がしなくなってくる。
世の女の子たちは──そんなに見通せている訳じゃない。自惚れるな脆弱め──少なくとも、学校というこの枠組みで生きている女の子たちは、白木さんみたいに、もっと奥手になるべきだ。真実に恐ろしい思いをしてから学ぶのでは、彼女らにとっても、彼女らを愛している誰かにとってもいけないと思う。
むやみやたらにもがくことだけが自由を掴み取る手段じゃない。郷に入っては郷に従い、脆くできている身体を安寧に置きながら周囲の流れを見極めれば、自ずと世界のほうから自由を寄こしてきてくれたりする。そうならなかったら、残念だねで終わらせればいい。
危険な領域でもがいて得た束の間の自由に、安寧に身を委ねて待つ朧げな自由。どちらも僕にお呼ばれしてもお呼びでないとそっぽを向いてしまうようなものなので、ならばせめて不自由なままでも生き抜いてやろうと、陽の当たらない隅っこのほうで沈痛な面持ちをしつつ僕は宮沢賢治の心像風景に意識を没入させていたわけだ。
選択肢が広く用意されているから、そのぶん過ちも犯しやすいのか。胸中でうだうだと危険勧告を出している僕がここ一週間以上ないくらい惨めに思えた。マーシャルvol.MAX。
彼女のつむじが、一瞬、僕の眼前に現れた。彼女がなんとも分かりやすく項垂れたのだ。
その歪な○はさながらささやかな台風の目のようだった。妹のつむじが明瞭な新月であるなら、白木さんのこれは朧月だ。もしかしたら、かいじゅうたちのつむじはみんなこんな風に現離れしているのかもしれない。
その白さも、青魚の鱗のような光の捉え方も、夜空に溶け込んだ花火のような放射線状の黒髪も……僕にとってはどれもがどれも至上の命題ほどに美しく見え、目の奥で青い火花が弾けるような静謐でいて鮮烈な魅力に満ち溢れていた。
心配なの、と、白木さんは言った。
「如月くんが、独りのままで死んじゃいそうで」
「それは、僕がかいじゅうだからって、そう思うの?」
黒い水が淵から零れた。底の見えない排水口に流れ落ちていく。
僕は一抹の恥辱に焦がされていた。好きという気持ちは恐ろしい。僕は白木さんのせいで闇にも悪魔にもなる。僕自身はこんなに彼女のための何者かになりたいと希っているというのに、彼女の言葉一つ、振る舞い一秒で、僕は容易く彼女にとっての在り方を操られてしまう。
まるで力を使いこなせないままでいいように扱われてしまうポンコツヒーローみたいだ。滑稽で、悲劇が内包されたコメディーで、生産性が著しく乏しい。それは案外、僕に似合う称号だけれど、白木さんから貰いたくはなかった。それだけは嫌だった。
チンピラガンマンたちの悪ふざけの延長線上で撃ち込まれたほうが、そっちのほうがまだどれだけマシだったか。
ようするに、僕は好きな女の子から憐れみをかけられている。あまつさえ、心配までされている。僕はいま、ものすごく……消えてなくなりたいくらいに恥ずかしかった。
僕は僕の孤独を言い当てられたくなかった。だって、それは誰かの拠り所になりたくてもなれなかった僕のせめてものポーズだったからだ。人間として話してほしかったかいじゅうの、精いっぱいの強がりだからだ。
「そうかもしれない」
小さな声で呟いた白木さんは、窓から垂れる陽光に白む横髪をさらさらと揺り落とした。僕はにがくなる。かいじゅうたちがみんな独りで死ぬのなら、君だってそういうことになってしまうよ。
「それなら、白木さんも独りのままで死んじゃうの?」
白木さんは微笑んだ。陽光の当たる箇所でキラキラと聖母さながらの寛容さを小さな太陽群みたいに煌めかせる微笑に、拗ねたような口調で慮りを裏返した怒りを表明しようとした僕は、焦げるくらいに気恥ずかしくなる。
「かいじゅうだから、そうなるのかも」
「そうやってね、物事を一つに束ねるのは良くないよ。人間とか、かいじゅうとか……僕は僕で、白木さんは白木さん。主語を大きくするところから小さな齟齬が生まれて、早とちった短気たちが争いを始めてしまうんだ。いつだって小銃を携えて、多数派の蜜を薬莢に塗りたくる時間を代えがたい幸だとして感じ入っているような彼らを見てれば、なんとなく分かるでしょ。僕が独りのままで死にそうでも、それは僕が僕なせいだからだ。そんな後ろ暗い部分をかいじゅうという括りで束ねたりしないでよ。だって、そんなのは、なんか……」
「なんか?」
「……なんでも」
ない訳ないことは知ってるよ、とでも言いたげな笑みで、白木さんはそれでも「ふうん」と、猫の鼻から抜けるような相槌をじつに取り澄ました感じで打った。僕は如月くんの胸中探索ツアーを知らず敢行されているようで、それはそれは全然穏やかな胸中でいられず、無為に筆先を揉んでちょっとばかし寿命を駄目にしてしまう。悲しいことを悲しいと言うことを恥ずかしいがっている僕ってじつはすっごく恥ずかしい奴なんじゃないか? ……そんなことをむりに取り澄ませた面持ちで考えつつ、僕は白木さんの隣で
「物事を一つに束ねるのは良くない、か。わたし、如月くんの哲学好きだなぁ。日陰の虫をしている時に読んでる本から影響を受けたりしてるの?」
「うん。僕は混ぜ物みたいなんだ。いままで読んだ本とか鑑賞した映画とか、聴いてきた音楽とか、過去に吸収した累積物から僕はようやく僕として成り立ててる。だから、クラスメートの言うところの男性性……自己主張? 信念、とか、個性っていうやつかな……こんな感じでよくよく理解できてないんだけど、そういうフワフワした概念にはね、どうにも懐疑的な見方をしてしまうんだ。全部が全部自分でできている自分なんか在り得ないんじゃないかと思えて止まないんだよ」
「あの人たちが言ってることは、ほんとうに酷いよ」
「うん。そうなんだろうと思う。だけど、仕方が無いかもしれないとも思ってるんだ。もしも彼らが彼らの言ってる通り、確固たる芯を備えていて、これまで積んできた経験や保存してきた心像を取っ払われても、その芯は残る、それが自分という存在であるって言われたらばさ、僕は、やっぱり混ぜ物、というより、人間の紛い物なんだと思えてしまうよ。この世界は異質な存在に対してどこまでも残酷になれる。Xの烙印を押されてしまった僕がああもいびられてしまうことは、この世界で生きている以上、ある種必然というか、受け入れるほかないことなんじゃないかって思……」
僕は久々に誰かの言葉に促された本心を自分の意志ではどうすることもままならないままに吐露し続けて、ハッと、後悔した。
「あ、ごめん。卑屈すぎたね。でも、僕ってこんな奴なんだ。なんでったってこんなこと喋ったんだろう……白木さんのよすががこんな諦観にまみれていたこと、謝るよ」
「どうして?」
「だって、こんなの情けなくって……嫌じゃない?」
「そんなことない。謝らなくていいよ」
「そう? なら、うん……よくないけど、よかったかな」
白木さんは針の先で掻いたように脆そうな下睫毛を小刻みに震わせて、口元だけをきゅっとへのへのもへじみたいに引き結んだ。人間の記憶を引き継いだ魚のような眼がねめつけるみたいに僕を向く。うわ、非常に可愛い。二人だけの計算法で反比例的に格好悪い反応を取っていく僕は、やはりつくづく脆弱だ。
「如月くん。わたしはなにも如月くんが強いだろうとか、酷いことを言われても挫けないだろうからとか、そんな理由でよすがにしていたわけじゃないよ」
「じゃあ、いったいどんな理由で?」
白木さんは稀薄な酸素に喘ぐ魚みたいに口を開閉させて、すぐ、申し訳なさそうに目を伏せた。そして、僕の変身パワーを操るまじないのような言葉を雨漏りみたいに紡ぎだした。
「如月くんのこと、怪獣みたいだなって思ってた。わたしもね、諦観にまみれてるの。なんでだろうね、鈍いのかな、正当な怒りが湧く場所に、知らずの内に栓をしちゃってるのかな。不気味なことだけど、わたしの心はいつも凪いでるの。感情に身を突き動かされた経験が一度としてないんだ。ぜんぶがぜんぶの感情を諦観が覆い隠してる。まるで冷凍庫みたいで、その時の感情はその時の通りに保存されて、忘れ去られた食べ物みたいに貯まっていく。その内に、わたしはどんどん冷えて、重くなって……このままどこへも行けなくなっちゃうんじゃって恐怖すらも抗いようのない諦観に凍らされる。それって、ものすごく苦しい感覚なんだよね。ねぇ、わたしたちはやっぱりかいじゅうだよ。ごめんね。でも、そういう風に束ねないと、わたしたちの膨大な孤独すら凍っていってしまう。如月くんを見つけた時、ようやく仲間に会えたと思った。よすがにしていたのはこういう理由だよ」
「つまり、僕という仲間が生きている内は、白木さんは孤独に抗おうとすることができた」
「そう。いまの如月くんは? だって、たった一人だとしても、わたしは如月くんの孤独の在処を知ってるわ」
「でもさ、そもそも、かいじゅうってなんなのかな。僕にはいまいち分からないんだ。だって、下手くそでも人間として生きてきたんだよ。今朝なんだ。かいじゅう登録願が僕の家の郵便受けから見つかってさ、狼狽えながらでも朝の教室に来たら、白木さんがかいじゅうだって知らされて……ほんとうに、僕らは仲間なの? かいじゅうたちにはかいじゅうたちの運命が用意されているの? 僕が独りのままで死ぬ気がするなら、白木さんは……」
「わたしのことを気にしてくれるの」
「白木さんだけが気掛かりなんだよ。僕よりも僕に必要な存在だから。もしも白木さんが僕から欠けたら、きっと僕は底の割れた花瓶みたいになってすべてを取り零してしまえるよ。花も、水も、愛でてくれる誰かもいなくなって、埃をかぶる。古びていく。それが運命だからと受け入れてしまえるような、悲しみに満ちた花瓶にはなりたくないんだ」
「如月くんの伝え方、好きだなぁ。わたしを仲間だと思えないのに、わたしを失くしたくないと思ってくれるなんて、うれしい。ありがとう。いつぶりかな。わたしを白木遥だと思いながら、こんなに真摯に見つめてくれる眼を見つめたのは……あ、逸らされた」
僕は気恥ずかしさを嚙み殺すようにして歯を食いしばり、目線を再度合わせようとしてくる白木さんを不格好に躱し続けた。たぶん、傍から見たら完全にキョドってたんだろう。
白木さんが笑う。ぜんぜん嫌味な感じがしなくて、僕は家族以外からこんな不純物の無い笑顔を向けられたこと自体が随分久しいんだと気づく。
首だけで振り向くと、美術室のドア窓に黒い影が横切った。筆洗からはほとんど無色透明な水が溢れ、絶えず沈黙をすすいでいる。
白木さんの濡れ輝く手のひらに視線を断たれた。かくしごとの人差し指が薄桃色の唇にあてられる。貼り付いた水の粒が挑戦的な光を閉じ込んで、瞬く間の涙みたいな光り方をした。
「如月くんにだけ教えるね。さっきのはちょっとからかったの。わたしは独りのままで死ぬ気はないよ。そんな結末を迎えないためにね、わたし、今夜、遠くへ行くよ。誰の手にも捕まえらないくらい、遠いところへ、行くの」
「それはつまり、この街を出るってこと?」
「うん。だってさ、こんな街にいたら悪い魚に食べられちゃうんだよ。わたしのお父さんの話は聞いてるでしょ。みんな怒って、わたしたちのことを暴き尽そうとした。そして弾みに、白木家の一人娘はかいじゅうだって……如月くん、水族館の鰯って見たことある? わたしはね、小さい頃に一度だけ見たことがあるの。いまでも忘れられないくらい鮮烈な記憶なんだ。水槽の外から投入された餌に、無数の刃物みたいな形をした鰯の群れが渦を巻いて、取り囲んで、塵も残さずに食べつくしてた。まさに宴、それよりももっと、そうだなぁ、狂乱の宴って感じだったよ。あぁ、あんなのに狙われたら一巻のおしまいだなぁって子どもながらに不安を覚えたんだけど、最近になって、その時の記憶がまるで目の前で起きてることみたいにありありと蘇るんだ。それで、気づいたの。人の義憤って、まるで魚の群れみたいなんだよ。わたしは餌なの。だから逃げなきゃなんない。わたしはもうこの街にはいられないからね。今日学校に来たのも、ぜんぶ、如月くんに会うためだったんだ。それで、お別れを告げて、もしも聞き入れてくれるなら、先陣を切ってゆく者からの置き土産みたいな助言も残しておきたかった」
「うん。聞かせてよ」
僕が促すと、白木さんは繊細な子どもみたいに黙り込んでしまった。僕の子ども時代を写し取ったような感じに思えたから、僕は僕で黙り込んで、いつまでだって待とうとした。僕の中に潜む子ども時代の僕がそういえばずっとそうしてもらいたがっていたことを、僕はちゃんと忘れてなかったからだ。
思い出とか記憶なんてそんなものなんだろう。思い出せない。忘れられない。消えないから拠り所にできる。安寧の絶対領域。苦しみの母胎。生きていけばいくほどこんな厄介なものを絶えず抱え込まなきゃならない僕らは、やはりどうにも取り返しがつかない。
つんと尖った上唇が素敵なにがさをふっていた。バツの悪い感情を抱えているからとか、𠮟られることを恐れているからとか、そんな動機が基であることは僕らのような子どもの場合ではそんなに多くなく、なんというか、飛び交う思考や試される感情の数々のせいで一種のキャパオーバーに陥っていて、なるたけ齟齬を生ませない言葉を紡ぐための処理が上手いこと追いついていかないのだ。
急かされるのだけは嫌だなって顔をしている。或いはそれは、僕が知らずの内に重ねた子ども時代の僕の心象風景であるのかもしれない。
白木さんが目の眩むような上目遣いで僕を見やった。僕は一見阿呆とも取れそうなくらいに悠長な素振りを装って、くすりと笑んだ白木さんの「あんまり待たせちゃったら絵が描き終えられないよね」という気遣いにもいまいち汲み取れない感じの曖昧な笑みを返した。
ふと、気づく。白木さんと僕の思い描く街がすれ違っていく運命って最悪だな。なんでたってこんな仕打ちが僕に降りかかるんだろう。かいじゅうだから? でも、たとえかいじゅうだからだとしても、誰か一人くらいはせめて愛していたい。そう望むことを許されたい。誰かの側にいる未来を求めることは、僕らならば傲慢になるんだろうか。
僕はいまになってようやく最低な気分に陥る。白木さんが街を出て行く。それ即ち、僕の街が壊れていく。あの道から見上げる空すらもいずれは灰一色になるだろう。つまらない街。かつて愛したものたちの幻影に囚われる生きた亡霊のような僕。いっそ世界諸共壊れてしまえばいい。
「わたし、寂しくなんかないよ」
白木さんが僕の落胆をいなすような口調で言った。
「ほんとう言うとね、かいじゅうってなんなのか、わたしにもよく分かってないんだ。こんな風に宣告されるまではわたしもちょっと風変わりな、だけれどれっきとした人間で、人のフリをフリだとも思わないまま……自分のことをかいじゅうだなんて知らないまま死んでいけたんだと思う。それはそれでけっこう幸せなことだったんだよね。いまになって思えるよ。人が人みたいな人じゃないなにかを攻撃する大義名分を得たらこんなにも際限なくなるんだって思い知らされた、いまになっては……でもね、わたしも少しは知れたんだ。かいじゅうって、帰ろうとしてるんだよ。ほら、たとえばこのお水みたいに……」
白木さんが蛇口から流れる水を、透明だと形容しても誇張にはならないくらいに白く澄んだ手のひらで受けた。瞬く間に水は溢れ、先に流れ落ちていた他のと合流し、ほの暗い排水口へと流れ込んでいく。
「一度離れ離れになっても、かいじゅうたちはまた会えるようにできてるんだよ。わたしたちはいずれ海に出て、再会を正しく喜び合う。何人たりとも侵すことのできない領域こそ、かいじゅうたちが生きていていい世界なんだよ。それって、とても素敵みたいじゃない?」
僕は口無しみたいに黙り込んでいる。彼女がとても不安そうな眼をしているように見えたから、言葉の代わりにそっと首を傾げてみた。じっさい、僕にはやはり分かりかねた。
かいじゅうたちが帰ろうとしている。いったい何処へかと言えば、海みたいなところ。
不可侵な永安の地。
まるで御伽みたいだと思う。それか、僕が子どもの頃に思い描いた、成長するにつれて凶暴さを増していった理想郷みたいだとも思う。或いは、唐突に襲いかかってきた死の気配に夜の眠りを奪われてしまった子どもを慰めるための口約束みたいだと思う。
僕は優しい気持ちになった。誰かの心に垂れ込める暗雲を払うために、いっそ嘲られてしまうくらいの突拍子も無い噓や、都合のよすぎる良い話を作っていた子ども時代の僕の心像風景が一切の滲みもなく重なったからだ。けなげだから、なるたけ応えてあげたいと思った。
「白木さんがこの街を出ても、僕とかとはいずれ会えるということ?」
「うん。わたしたちはまた会えるんだから、そんなに寂しそうにしないで、って、うん……つまり、これから目に映ったり耳に入る色んなところでかいじゅうたちの話が出ると思うし、それらはたいてい目を瞑ったり耳を塞ぎたくなるくらい凄惨な内容なんだと思う。もちろん、そうしてもいいよ。そうしなきゃ自分を保てないなら、そうするべきだよ。そうなの、つまり、如月くんも悪い魚に食べられちゃわないように気をつけてね、って、というか、わたしが如月くんに話したこれも聞こえ悪く言えばただの夜逃げなんだし、そんなに深く考え込まなくてもお互い大丈夫だよ、ね、って……」
白木さんが縋るような眼つきで頭一つ分は上にある僕の顔を見つめた。僕は音を立てずに息を吞んだ。さっきからまるで自分に言い聞かせるような話し方に聞こえていた。白木さんは隙間風のような音を立てて息を吸い、ほんの少しだけ前を向いた。
未だに告げたいことを抱えていそうな表情が、なにも訊かないでと告げていた。
「うん、そういうこと。もう、戻らなきゃね。時間があと少ししかない」
「白木さん、僕は君の味方だよ」
筆洗を提げて美術室へ戻って行こうとした白木さんの後ろ姿に、僕は決死の覚悟で声を掛けた。女鹿のような足が覚束ないステップをととと、と踏んで、立ち止まる。僕の胸が、思わず醜い呻き声が洩れるくらいに締めつけられた。
こんな子のことを人はかいじゅうと呼ぶ。今宵この街から黙って追いやられてしまう女の子は、それでも憎悪に黒く肌を焦がしたりはしない。怒りの澱が凝縮した角も姿を現さない。爪はぼんやりと淡くて丸っこい。
でも、もしも、願えば叶うという優しいだけの奇跡がかいじゅうにも降りかかるなら、女の子はそういうかいじゅうになるだろう。人にとって人じゃない、犬や魚や兎みたいに人らしさの欠片も無いかいじゅうになることを選ぶだろう。
人として接してもらうことを望み、望まずして拒絶の傷痕にまみれた女の子は、今宵、この街から追いやられる。こんな無抵抗は繰り返せばいつしか
彼女は嫋やかな黒髪をなびかせて、僕の目が眩むような笑みを心像として焼きつけた。
出口を失った感情が心で氾濫を起こして、適切な言葉を紡ぐまでの処理が上手いこと追いついていかなくなる。不格好な体裁なんて構わずに言えば、僕はきっと三回は「行かないで」と、僕だけの幸運の女神の後ろ髪を引けたのだろう。
だけれど、僕はルーザー。いつだって、肝心な所には手が届かない。
彼女はドアの向こう側へと姿を消した。そして、それなりだった。
その後の授業を、僕は魂を取り逃がした少年のように腑抜けた恰好で過ごした。現代社会を担当する担任が「かいじゅうは生まれながらにして人体と根本的な構造が違っていたが、政府が大衆の混乱を招く事態を防ぐために隠蔽した」だの「人間らしくない人間とされてきた奴らはやはり人間ではなかったのだから、
心ない弾痕にまみれた心優しきかいじゅうは放課後を待たずして帰っていた。にがくて青い檸檬のような僕も恒常的な頭痛を携えた熱病を発症したフリを装って、まだ誰一人として帰り着いていない家に帰った。
透明なフィルムに一枚一枚丁寧に保護されていた子ども時代の僕の写真をアルバムのページを繰りつつ眺めていたら、馬鹿馬鹿しいすぎてまったく笑けてくることに、恒常的な鈍痛が本当に僕の頭を襲撃してきて、僕はたまらず、へ泥みたいに地べたの上に寝転んだ。
微かな呼吸を繰り返すだけでもう精いっぱいなくらいに疲弊していた僕は、ほの青い夕闇が凪いだ水槽のようにもの悲しい部屋を満たしてくれる刻を待った。そして、刻一刻と腐っていく僕の身体の奥底で微かな光を巡らせる、真黒い夜空の
なんだか、このまま覚めない眠りへと、真暗い穴に真っ逆さまに落っこちるように、戻れないまま、この、まま、深く……あぁ、たとえば真実に、そんな場所があるなら……。
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