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「なぁ、X、知ってるか?」
そう悪意の滲む笑顔で話しかけてきたのは、毎度お馴染みのとあるクラスメートだった。
朝の教室は
「こんな退屈な教室をパッと弾けさせるようなさ、面白いネタが舞い込んできたんだ」
とあるクラスメートが大げさな手ぶりで僕の頭をはたいた。僕は黙りっぱなしでいる。思うに、彼らは退屈の反対を愉悦だとでも勘違いしているんじゃないだろうか。好きの反対は嫌いだとか、光の反対は闇だろうとか、この具合だとそんなことまでも考えていそうだ。
僕は顔に出ないように、ため息の長さ
ここで生き抜く人たちには、小銃を携える権利が与えられている。一応、発砲はご法度だとされているけれど、僕らに人権や道徳を説く先生たちの中にはどこか幼児的万能感の抜けきらないしようもない大人もいて、たとえば僕らの担任などは、エアガンの銃口が細い叫び声を上げるなにかに向けられることを期待する男児みたいに、悪ふざけ的なノリで小銃をぶっぱする許可を出したりする。あくまで、いざ詰められた時、自身に責任が向かないようなやり方でだ。大人ならではの小狡さで、暗に仄めかすように。
まるで悪魔みたいじゃないかと思う。ここは煙たい。うっかり苦い涙が滲みそうになる。頭数分ほど空いている銃口から細い硝煙が立ち昇っている。たとえここを生き抜いても、僕らの瞳は少し煙たくなって、以前とまるきり同じようには生きられない構造に変えられている。
それが人生に必要な変化というやつで、大人になるそのことなら、僕は絶望に色を抜かれて灰色になっていく僕自身のことを金輪際奮い立たせてやろうという気にすらなれないだろう。
「おいX、今日は特に顔がぼんやりしてるけど、ひょっとして、ホルモンバランスが崩れてるんじゃないか?」
クラスメートが慣れた素振りで僕を撃った。いつもノミみたいに引っ付いて、時々ノミみたいに鬱陶しがられている囲いがなぜだかとても可笑しそうに笑う。僕には彼らがどういうつもりでこんなことをしているのかが分からない。
「Xに話しかけるクラスメートなんていないから、あの話は聞いてないだろ」
「ハブられ同盟組んでる同士、じつはXもそうなんじゃねえの。うわ、この説、全然あるくね」
「おいX、そんな同盟いつの間に組んでたんだよ!」
炸裂した
僕は見た目も内面もあんまり男性的ではない。焦がした針金みたいな髭は生えたためしが無いし──これが男性的と呼ぶに値する特徴であるのかどうかが、僕にはそもそも分からないけれど──誰かを打ち負かそうだとか、そういう衝動は湧く予兆すらみえない。暴力的ななにかが潜む場所は極力避けて歩き、にも
髭を剃る習慣を持ち、常に相手を打ち負かせる勝負事を求めている彼らからして、僕はとても異質な存在に映ったらしい。僕が平穏無事に過ごすことのできる教室のある階級の一線から滑落した
「可哀想な一人ぼっち君にも教えてあげよう」と、とあるクラスメートがリボルバーを回転させた。
僕は来る衝撃に備えて、気休め程度に目を細めた。
「白木のやつ、かいじゅうだったんだって」
僕は驚愕のあまり目を見開いて、座席の最後列を振り返った。
胸の膨らみの上で緩やかな曲線を描いている黒髪の所々が、まるで雪に降られた後のように白っぽい、女の子の中でも小柄な白木さんは、もうじき起きてもいられなくなるくらいに眠たいわという風にアーモンド形の目を伏せていた。
「大企業の部長が会社の金を横領したってニュースさ、あれ、白木の親父なんだぜ。マジ姑息だよな、人間のやることじゃねえよ。だからさ、白木がかいじゅうってのも頷けるよな。あいつはかいじゅう一家の娘なんだ」
僕は、ショックだった。苦しいとか、悲しいとかじゃなく、ただ、純然たる衝撃に心を打ちのめされていた。
いつかの春の教室で、現国の先生に好きな色について尋ねられた白木さんが「花の色」と、たちまちに垂れ込めだした不穏な嘲笑の只中で「一つには絞れません」と凛として微笑んだあの瞬間からいままで、僕は変わらずに彼女のことを好きでいた。
彼女もかいじゅうだったなんて。だけど、それがなんなんだとも思う。
取っ掛かりを覚えた絵画みたいにじっと見つめていたら、不意に、白木さんも僕を見た。
人間の記憶を引き継いだ魚みたいな眼をしていた。
「白木に白墨を振りかけてやったんだ。マジさ、俺、センス抜群」
小銃を片手に不気味な表情の歪みを見せ合い、肩を小突き合ったりしている人間たちは、いまの僕にとっては陽に当たった埃ほどの存在感しか持たなかった。有象無象、吹けば飛ぶ、それほど容易い。
白木さんと僕が見つめ合った瞬間、まるで脊椎に-18℃の電流が走ったみたいだった。
僕は硬直して、悟った。
白木遥はかいじゅうである。
僕は小さく頷いて、悟られた。
如月二鷹はかいじゅうである。
僕はひどく動揺し、さっと前に向き直った。
白木さんは静かに動揺し、小鳥が首を傾げるように、黒い天蓋のような前髪をそっと睫毛に揺り落とした。
僕がイヤフォンで音楽を聴いていて、前方にいた見知らぬ人の歩調とサビへの導入のリズムがうっかり合致する。
或いは、駅のホームで電車を待っている間、たまたま隣のドアの列に並んでいた人が、偶然、僕と同じタイミングであくびをする。
そういった、殆どはなんにもならない、だけれどどうにも運命的だとしか捉えられないような、決して色褪せない心像風景としていつまでも僕の体の奥深く、そしていつまで経っても古ぼけないほどに古くからある場所に保存される瞬間なんてものが、人生のタイムライン上には幾つか存在していて、人の言葉を上手く噛み砕くこともままならない僕は、いつだってその尊いものを一人ぽっちで食べてきた。
白木さんと僕は、その尊いものを一つのお皿の上で分かち合った。濁りのない彼女の眼が僕を射抜いた時、僕のくすんだ眼もまた彼女を射抜き、僕らは僕らよりも上手に互いを見透かし合った。
運命的なタイミングで心像風景を共有し合った僕らが運命のなんとやら同士だったらどんなにか幸福だろうとは思うけれど、僕はそんなにロマンチストなほうではなく、幼き日に思い描いた理想郷の素晴らしさに比例して体感的な厳しさを増していく現実に打ちのめされてきた可哀想なリアリストであるので、そう易々と甘い夢想に溺れることはなしに、きちんと、現実に裾を引っ掴まれて偶然の偶然たる所以を刻刻と反芻できている。
僕に衝動性が欠けたるところの所以はここなのだろう。幸運の女神の前髪が近くで揺れていればなんとなく胡散臭く見える。クラスメートの言うことを0から100まで真に受けることは間違いだけれど、彼らは幸運の女神の前髪を掴み損ねてもなお目を血走らせて無い後ろ髪さえをも掴もうとするのだ。僕が男性という、生物に対して大まかに二分されたフィールドで劣等生扱いされてしまうことは、ある種、仕方が無いのかもしれない。
こんな風に、僕は生きているだけで、何度も何度も直面する。突きつけられる。ただの
生まれながらのルーザーなのだ。僕はこの世界に向いていない。だからといって、生きている。
人間社会のふるいにかけられ、まんまと網目から零れ落ちてしまったかいじゅうたちの行き着く先はいったいどこなのだろう。壁掛け時計の秒針が僕の永い
ただ、沈んでいくのみなのだろうか。僕の場合は、特に孤独に。白木さんの場合は、悪意の
僕を取り囲んでいたチンピラガンマンたちが、反戦の意思を音無しに謳う女の子を排斥しに行った。
「おい、かいじゅう。お前、いままで人間を騙してたんだな」
「さぞ楽しかったんだろう。酷い奴だな。心苦しくもなかったんだろう」
「お前が思っているよりも、お前はかいじゅうだったんだぞ。なにも完璧に為せないんだな。人間を軽んじやがってよ、このとんまのかいじゅうめ」
朝の教室は硝煙の匂いがする。僕は思わずむせ返りそうになって、せぐり上がる言葉と共に溢れる呼気を呑み下した。
ここで止めに行ったりしたら、弱い日陰の虫の僕らは、こんな残酷な教室の中でも一等強い毒蟲たちに瞬く間に食い物にされてしまうだろう。だから、ぐっとこらえなければいけない。これは臆病な僕を擁護するための言い訳だし、同時に、僕が正しいと信じられる選択肢でもある。
ここは僕たちが生きていていい世界じゃない。そう思う。ふるい、ふるい、ふるいにかけられ、世界の網目から零れ落ちて、行き着く先は孤独の深淵、悪意の泥濘、ここよりもずっと劣悪な受け皿──かいじゅうたちは、どこへも行けない。
僕は二兎も一兎も追った覚えなんてないのに、手の輪郭を模った運命に背中を押され、いまも真っ最中、暗闇ばかりの孤独の穴を真っ逆さまに落っこちている。懐中時計を覗く白兎を追いかけてワンダーランドに迷い込んでしまった好奇心旺盛なあの少女よりもずっと不憫だ。
僕は俯きがちに目を
(負けないで)「消えていい」
(君は間違っていない)「なんでこんなところまで来たんだよ」
( )「哀れだね」
(兎にも 馬にもなれなかったので ろばは村に残って 荷物をはこんでいる)「人間になり切れなかったかいじゅうに居場所はないよ」
背後でもっと鮮明に表明される悪意の言葉や偏見の言葉、
僕の皮膚が黒くなっていく。赤錆びた角が生え、熱い呼気が漏れる毎に太陽みたいに燃え盛る。柔和な石竹色を閉じ込んでいた爪は伸び、先端が青く尖る。まるで夏の
僕は悔しかった。どんどん苦く、腐っていく感じがある。それはまだ青いままもがれて放っておかれた檸檬のようだ。僕は僕を通して僕に潜り込んでくる世界に腐っていく。懐疑的な気持ちがとめどなく溢れて止まない。口から伝染性の高い菌のような言葉を撒き散らしそうになる。それは血の色をしている。鉄の匂いを立ち昇らせる。踏んだ人の轍を汚す。
僕はただ、馬鹿な奴らに思い切り馬鹿と言いたかった。だけど、それすらもできない。僕はやはり欠けている。そして、白木さんもまた欠けていた。
かいじゅう同士だけで聴きとれる秘密の息遣いは、苦く、腐っていく感じのある諦観の音で満ち満ちていた。くす、くす……ひどく自虐めいた笑い声のような、哀しくて、どうにも力の宿らない音だ。
僕の皮膚は人の色をしている。真っ黒な髪の根本の奥に広がる頭皮は青魚の鱗みたいに微弱な光を帯び、じつにいい形の爪は指の先にちょこんと収まっている。こんな風に、僕は、かいじゅう然としたおどろおどろしい姿に化けるシーンを夢想して現実との差異にいちいちがっかりしてしまう僕は、孤独に適した、ただのティーンエイジの少年ぽっちだ。
どうせなら映画の中の怪獣みたいがよかった。がおーがおーと耳を塞ぎたくなるような猛々しい哭き声を轟かせて、大切な者たちを肩にのせ、用が無ければ情も無い人の街を悠々と踏み越えていける。優しい
あぁ、そもそも、人間ってなんだ。
僕には分からない。いま周りにいる人間たち。白む朝陽を吸い込んでなにをむせ返る素振りも見せない彼らに訊いてみたら、本当に、彼らは正しく答えられるのだろうか。人間ではない僕に、人間とはなんなのか、正しく説いてくれるのだろうか。
考えてみるだけだ。絶対に、僕はそれをしない。
凛として無抵抗に徹する白木さん、青いまま腐り果てるのを待つのみの檸檬のような僕……かいじゅうたちは哀しいほど静かだから、きっと、とても静かに排斥は済んでしまうのだろう。そうなったら、僕らは生きていかれなくなる。
抱えるものや心の強度はかいじゅうだってそれぞれ違うから、ひとまとめに〝僕ら〟と言うのは間違っていたかもしれない。恥ずかしいけれど、言い直そう。
かいじゅうたちというより、少なくとも、かいじゅうは、僕は、生きていかれなくなる。じっさい、孤独に打ちのめされてしまうのを僕は本当にこわがっているのだ。彼らに人間を訊いた瞬間、僕は僕だけではない、彼らからしても人間ではなくなってしまう。ハリボテでも大事なよすがを失くした瞬間、僕は100%のかいじゅうになる。
生きていかれない。生きていかれない。そうなったら、おしまいだ。
かいじゅうたちが排斥された後の世界で僕の姿は跡形も無く消えている。じきに来る消失を悟られた瞬間、消えゆく自分自身と終わらない孤独との戦いは始まるのだと思う。
それを分かっていながら始まりの号砲を撃つ勇気など、僕は生まれながらに持ち合わせてはいないのだ。
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