かいじゅうの孤独

井桁沙凪

 僕はどうやらかいじゅうであるらしい。およそ十七年と二か月間、人間をやってきたわけだけれど、ある朝──あるで片づけるにはいささか衝撃的すぎた覚えがあるので、ここは齟齬そごの解消を求める執拗な精神でもって、ある運命の朝に訂正しよう──フライパンの取っ手を握りながら目玉焼きの黄身をちょうどトーストの上にじんわりと広がる程度の半熟に仕上げようと朝一番の弱弱しい神経を酩酊状態で針に糸を通そうとするような半ば自棄的な感じで研ぎ澄ましてくれていた母に代わって、早朝の街のまっさらな空気を身体に循環させながら寝ぼけ眼をしばたたかせ、郵便受けに朝刊を取りに行った僕は、それを取り落とした。

 それというのは、国からのかいじゅう登録願だったのだけれど──自分がかいじゅうだと明かされたことのない、かいじゅうという言葉にどうにも上手く馴染みようのない君たちにも分かりやすいように言い直してみなければならないと思う。誰かになにかを伝えるときは──それが自分にとって身に覚えのあることで、相手にとってそうじゃないときならなおさら──紡ぐ言葉を精査する労力を減らそうとしたり、自分の背負うべき説明の責任よりも重い責任──この場合で言うところの、理解する責任だ──を相手に求めたりしてはいけない。できるだけ分かりやすいように言ってみようというけなげな努力の姿勢を見せてからじゃないと、相手だってうんざりして、聞く耳をこっちに向けようとはしてくれないものだ。まずは誠意をもって説明するところから、理解できるできないの話は始まる。

 そういった僕なりの指針にのっとって、かいじゅう登録願が十七歳の少年にとってどんな意味合いを持つものなのか、僕がその時受けた衝撃はどれほどのものなのかを説明しようと思うのだけれど、それよりも前に、一つ、知っておいてほしいのは、僕は僕の気持ちを理解してほしいと思っている、ということだ。

 誰しも、身の回りに一人や二人くらいは見かけた覚えがあると思うけれど、僕は孤独に適した少年だった。一人でどこへだって行けたし、一人ではどこへも行けない人のことを、ちょっと愛玩的な認識でも捉えてしまうような、孤独に慣れた者特有のニヒリスト的な側面も持ち合わせている、一筋縄ではいかない、可愛げのない、そんな十七歳の少年だった。僕は孤独という名の海の底に背をつけて、オレンジ色の救命ボートから心配そうに目を向けているあの人たちに、届かないニタニタ笑いを向け続けていた。

〝そんな僕でも〟だったのだ。

 この夏、僕は、心地よい環境としてものにしていたはずの孤独に、これでもかと打ちのめされてしまった。よくある話ではあるのだけれど、一端の十七歳の少年である僕は、早すぎる達観に追いつこうとしてきた経験に、どでかいしっぺ返しを喰らう羽目になった。

 孤独の海に底なんてなかった。僕は抵抗の意思を根こそぎ刈り取られてしまうほどに冷たい流れに引き込まれて、ずるずると、一切の光の届かない深淵に沈んだ。息をすることもままならなくて、いっそ、あの馬鹿みたいに眩しすぎる海面が恋しくなってくるほどだった。世界中のかいじゅうたちがあんな風な苦しい思いをしていたのだろうかと考えると、とても、胸が痛い。

 かいじゅう登録願。それは新たに国一つをまとめる法として定められた、ある種、とても開けた通達文書であり、僕にしてみれば、極々個人的な問題が生じたことを報せる、不幸の手紙だった。もっとつぶさに言うと、かいじゅう登録願は、僕のような十七歳の少年、大きな事故にも恐ろしい事件にも、感動的な体験にも大々的な勝利にも、徹底的な敗北にも焦燥的な情熱にも、情操的な友情にも絶対的な愛にも打ちのめされることなく生きてきた、ささやかで凪ばかりの無害で無口な少年の運命が、まるで糊と紙で作った小舟が砲弾とスコールの降り注ぐ大海に放られるように、抗う術もなく転換させられてしまったことを報せる、無慈悲な事後報告書でもあった。

 けなげな努力の姿勢をみせてから、お情けじみた気持ちで聞く耳を向けてもらったぶん、かいじゅう登録願がいったいどういうものなんだか結局はまったく不明瞭な説明しかできなかった僕に対して僕自身がっかりしているし、君たちはきっともっとそうだろう。肩透かしを食らったような気分で、いっそ怒ることも嘲ることすらもままならずに、ただ純粋に戸惑っていますよという知らしめさせられたら一等きつい気持ちを僕に対して眉をひそめることでまったく明瞭に表明していることだろう。

 僕はこういう帰結に辿り着いた始末、海馬に執拗な焼き痕を焦げ付ける類の恥辱──恥辱なんて大抵そんな厄介な代物なわけなんだけれど、一応、一時の恥というローリスクハイリターンな代物も存在することにはする──そういう恥辱に打ちのめされることが、生まれてからこんな状況に立たされている今日までで幾度となくあった。その度に僕は、正当な責任を求めてくる、大声だとか言葉だとかの分かりやすい輪郭を借りないざわめく粒子みたいな圧力にただ呆然となって、例えば、どこから湧いてくるんだろうと不思議になるほどの自信をふんだんに漂わせた、否応なく人々からの期待を招いてしまう前口上を述べた後に嬉々として逆上がりに挑んで失敗したら、母親とか先生たちとか、いまでも鮮明に思い出せる、あの分かりやすく戸惑いを彫っていく表情と陽炎の立ち昇るアスファルトの上を這いながら進んでいく幼虫に向けるような憐憫の眼差し──うっかり泣きそうになったりして、それはまぁそういう構図ではよく勘違いされてしまってありがちなんだけれど、幼い頃から卑屈な精神を抱えていた僕は、別に失敗して恥ずかしいとか悲しいとかが心の容量の大部分を埋めたせいで脳の指令にまでも影響を及ぼして唇を微かに震わせたわけではなく、たぶん一等大きかったのは、些細な期待にすらも応えられないことへの申し訳なさ、だったと思う。

 そう、申し訳ない。そして、僕だって僕の説明不足に僕自身ちょっと驚いている。僕も十七年と二か月間生きて、それはまあそれなりに生き抜いてきたでしょうと軽くふんぞり返ってもいいくらいの年月ではあって、幼い頃の僕の可愛げのある愚かさと経験の浅さを顧みて、僕が僕自身におけている信頼や能力についての自信、それと、他者からの期待を求める欲求を少しとも絡めてはいけない、ようは、他者からの期待に僕が応えることを僕は期待してはいけない、他の利口に生きている子たちならまだしも、下手くそで上手に笑うこともままならない僕の場合は往々にして失敗して、消えない傷を負うことになる。と、僕が成長することで得た己に対する戒めも、先ほど郵便受けから吐き出された朝一番のセンセーショナルなイベントのせいで軽く吹き飛ばされてしまったようだ。

 分かりやすいように言い直してみなければならないと思う、とか、いかにも分かりやすく言い直してくれそうな態度──その時の僕は何故だか無性にできるつもりでいたんだけれど──結局思わせぶりになってしまったし、ほんとうに、期待させたくせしてこんな帰結で、ほんとう、申し訳ないと思う。誤算だったし、誤信だった。僕には到底、かいじゅう登録願がどういうものなのか、かいじゅうという言葉にどうにも上手く馴染みようのない人たちにも分かりやすいように伝えてみることなんかできない。なぜならばそれは、そも、僕がよく分かっていないからだ。

 かいじゅう。一応、理屈では理解しているつもりでいる。だけれどその理解も、一+一は二です、とか、日本で一番多い名字は鈴木さんです、とかと同系統の、「まぁそんなもんか」という、極めて受動的な理解だ。

 かいじゅうは人とほとんど違わぬ見た目をしています、しかし生まれながらにして人とは構造がまったく違っています、いままでは内緒にしていたんですが、もう隠し切れなくなってしまいましたので、かいじゅうのみなさんは国の秩序を守るために政府へのご協力をお願いします、かいじゅう登録願への記名押印をお頼み申し上げます。

 追いついていけなくて、僕はとりあえずいまを必死に生き抜いていくために「まぁそんなもんか」を常用していた。思うに、現代に生きる少年少女たちは皆、白線の内側でぎりぎり踏みとどまれる程度の精神病を患っている。

 健全な精神とは、健全な肉体とは……ニーチェやカント、人類の潜在的な力を引き出して底上げするために綿密な哲学を構築してくださった哲学者たちは、何やかやと難解な文章を遺して逝ったわけだけれど、現代に生きるティーンエイジの僕流に、コンパクトにシンプルにまとめさせてもらえば、畢竟、健全な精神とは、湿気の少ない晴れた朝を歩いて「今日はなんだかいい日になりそう」とか本気で考えられちゃうようなシステムのことだ。つまり、狂っている。

 健全は狂気で、不健全を正常と分類する世界こそが絶対に一番狂っているんだけれど、自分以外の全員が狂っていたら果たしてそれは真実にどちらが狂っていると言えるのだろうかという仮説は言わずもがな、もちろん、人間が社会的な生物である以上は、多数派に屈服するほか生き抜く方法は無い。

 僕らは精神病に罹っている。現代においてはそれが正常であり、平常であり、じつに不浄なことなのだ。まさに湿気の少ないこんな晴れた朝にだって、僕らは絶えず怯えずにはいられない。あちこちで不穏の気配が僕らの日常を崩しにかかろうと、悲しみの連鎖が最も生じる機会を狙って舌なめずりしている。そんな気がしてならないからだ。

 まともに思考したり直視して感じ取るためには、この世界はあまりに雑多で、整合性が無い。

 僕は地面の上に取り落とした長方形の封筒を拾って、石竹せきちく色と青色の交じりが曖昧な空を仰いだ。パジャマのウエストに悪魔の皮みたいな質感の封筒を挟んで、トレーナーの裾で覆い隠した。

 玄関ドアを開けて家に戻ると、妹がちょうど階段を下ってきているところで、不機嫌な猫みたいな顔に微妙な表情の変化を見せ、乾いた声で「今日の曜日は?」と、早朝らしいじつに他愛ないことを訊いてきた。妹はちゃんと人間のように見えたし、僕もちゃんと人間の言葉で「木曜日」と教えてやった。

 僕は朝刊を手渡して「マサキは今日も出ないのね」と、好きな俳優のテレビ出演が無いことを覇気無く嘆いている妹のつむじをしばし見下ろした。と、ふと、心臓がフォルティシモのマーチを奏で始めた。僕は鬱陶しさ半々興味半々が混在する寝ぼけ眼を向けられる前に、幅の狭い階段を足早に上がった。

 今朝からの母の運勢の成否を示してくれるのだという、鶏の無精卵にしてはいささか重い気がする責務を背負っている眉唾な目玉焼きが出来上がる前に、僕は自室でワイシャツを着、灰色チェックのズボンを履いて、ルーチンワークをこなして平常心を取り戻そうという作戦が成功したのかどうかも半端なまま、かいじゅう登録願の封を切った。

 中から出てきたのは、細々とした文字が連なる三枚の文書。

 僕の目を引いたのは、如月二鷹という文字列。僕の名前だ。

 不穏な独奏を打ち鳴らしていたノミの心臓のソリストは、安堵したように、しかし、やっぱり時々に不穏の気配が窺える、地を這うような独奏を一瞬の小休止の後に奏でだした。

 妹がかいじゅうじゃなくてよかった。こういうところ、僕はちゃんと普通の兄をやれていると思う。かいじゅうの生にはたくさん待ち受けているんだろう困難に、十歳やそこらの甘えん坊が打ちのめされない根拠なんてない。

 僕は水槽に衝突した魚みたいにくるくると自室をさ迷った挙句、かいじゅう登録願をスクールバッグの底に仕舞った。タイミングは全く読めないけれど定期的に片づけ症候群を発症する母にあるとこないとこ部屋を漁られてこんなブラックペンタゴンを発見されでもしたらたまらない。そんな風なにっちもさっちもいかない懸念をするくらいなら、自分の手元に置いておいて正しい神経の擦り減らし方をしたほうが、そっちのほうがまだきっとマシだ。

 僕はしっかりと黄身に火が通った目玉焼きをトーストにのせて食べて、今朝からは絶好調というわけじゃないみたいと塩を振りかける母に曖昧な笑みを返した。

 我が家では食卓を囲む時にはテレビを点けないというルールがあるのだけれど、僕は今朝以上に、白む陽光にグレイの部屋を映し出すテレビ画面をありがたく思ったことはない。

 最近はかいじゅうたちのニュースばかり流れていて、これまでも取り立てて良いわけではなかったけれど、各地で大衆の悪意を担ったきっかけがまるで渦巻き状のドミノを倒すように、一つ一つが起こす風は小さくとも、悪意は繋がって、溶け合い、止める間も無く不穏な風潮を蔓延らせていて、僕はそんな風に変わっていく世界をただ恐ろしく思っていたけれど、これからはそんなの比じゃないくらいの恐ろしい思いをしていかなければならないのかもしれない。

 というのも、あれが共和と妥協を知らない誰かのいたずらで投函された虚偽の報告書じゃない限り、僕はかいじゅう──悪意になぎ倒されて不穏な風を起こすドミノの一つであるからだ。いままでの僕はいたずらに心を痛める傍観者だったけれど、これからの僕は純然たる当事者として、共感性じゃない、直接的な痛みに悶えていかなければならないのかもしれない。テレビ画面に放映されるかいじゅうのニュースを一目でも観れば、叫びを少しでも聞けば、僕はそれらの予感を確信に変えて、迷子みたいに狼狽えてしまうだろう。

 そうなってはいけない理由は二つ、今日が平日であることと、高校生の身分である僕には学校という目的地があることだ。それは妹も然りだけれど、彼女は僕と違って愛想がよく、冗談と本音を聞き分けられる良き耳を持ち、多くの人から好かれる要素を多分に持ち合わせているので、登校を前にして嫌だ嫌だとうだったりする可能性は塵芥ちりあくたほども無く、天変地異が起こったりしない限りは進んでクラスメートたちに会ってお喋りをしたいと考えているので、そもそも彼女自身の気分の明暗ごときでは通学できるか否かの懸念はされる必要がない。同じ母親の許で育まれたはずなのに、僕とはまるで別の生き物みたいだ。

 本当にそうだったのだろうか。僕はかいじゅうで、妹は人間。ランドセルを背負い、行ってきますを告げ、登校班の待ち合わせ場所へ向かう。それは僕も辿った歴史であり、妹もある程度は僕の歴史を辿っていくのだろう。だけど、僕はかいじゅうだった。

 世界が、もうじき、分けられる。僕が人間だった頃のことは幸せな過去とされて、現在の僕はかいじゅうで、未来では僕らの心なんてないものとされる。僕は知っている。人間は異質な存在に対して、どこまでも残酷になれるのだ。

 僕は知っている。されど、知っている。

 異質な僕が生きられるのは、異質の排斥はいせきがまるで普通みたいに許容されるこの世界の上だけだ。だってほら、僕は今朝も行きたくはない学校に通うことを余儀なくされているし、人でなしになりきれない僕は曖昧な笑みを作って「行ってきます」と、なにを知る由もない母になにも知らないフリで告げているし、青色のスニーカーを白む朝陽の下に晒して、まるで人みたいに人の街を歩いていく。

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