第20話 「怒りの咆哮」

「ふん、馬鹿な奴め。他者の命を大事にするあまり、自分の命を捨てるとはな……」


 男が僕を見下ろしてつぶやく。僕は必死に息を殺し、体が動かないようにゆっくり息を繰り返した。少しでもリアルに見せるために、目はずっと開きっぱなしだ。男たちが僕から目を逸らした隙に、ぱちっと瞬きする。


「……まだ、死んでいると決めつけるのは早い気がしますが」


 やはりあの男。疑うような視線をこちらに向けている。それでも、僕が本当に生きていたら怖いと思っているのか、僕に近づいてこようとはしない。


「あの高さから落ちたんだ。死なない方がおかしいだろう」


 こちらの男は僕が死んだものと完全に思い込んでいるようで、詳しく観察しようともしなかった。それはそれで僕には都合がよかったが、その代わりに神経質男がずっとこちらを見つめてきている。


「でも……」

「グアァァァオ!」


 男の声を遮るように、すさまじい咆哮があたりをつんざいた。テレビで見るようなライオンの咆哮よりもはるかに大きく、そして低い。そのあまりの迫力に僕は、その正体を知っていながらも戦慄せずにはいられなかった。


「な、なんだ!?」

「まさか、雲龍どもでは!?」

「そんなはずは……」


 雲龍は現実世界では雲になる。そのことを知っているのにもかかわらず、男たちは動揺し始めた。だが、その中でも冷静さを保っている人物がたった一人。


「落ち着いてください。きっとあれは、雲龍ではありませんよ」

「じゃあなんだというんだ?」

「……多分……」


 男はちらりと僕の方を見やった。僕は笑みがこぼれそうになるのをこらえながら、じっとその場で動かずにいた。

 やがて、男はとある結論に達したのか、僕の方へつかつかと近づいてきた。


「君、生きてるでしょう!?」

「あは、ばれた?」

「!? 貴様、生きていたのか!」

「はーい生きてましたー」


 僕は起き上がり、肩をすくめた。怒りで顔を真っ赤にした男が、僕を蹴り飛ばそうと走り寄ってくる。


「うわっいきなり人を蹴るとか……!」


 まさかここまで目の敵にされるとは思っておらず、僕は慌てふためきながらも何とか男の大きな足を避けた。標的を失った彼の足は空気を蹴り上げ、男は後ろ向きにバタンと倒れた。頭も弱ければ戦闘力も低いらしい。


「くそっ、舐めくさりやがって!」


 僕は急いで立ち上がり、男から距離を取った。


(クルード……まだ?)


 徐々に焦りが募ってくる。いきなり攻撃を仕掛けてきたのは少々予想外だったのだ。それでも僕は、何度も飛んでくる足蹴りやらなんやらを避けながら、ずっとその場で耐え続けた。

 もしかしたら、小学校の頃の経験がものを言ったのかもしれないが。


「それっ、花火だ!」


 いよいよ疲労で体の動きが鈍くなってきたとき、ようやく僕の待ち望んでいた声があたりに響いた。


 バンッ!


 爆発音が、この夏の夜闇を切り裂く。その直後、すさまじい閃光があたりに広がり、僕は無意識に額に手をかざした。


「なんだなんだ!?」


 今度こそ、あの男も驚きを隠せない様子でその場に立ち尽くした。目の前では、赤々と燃える事務所があたりを照らしている。僕はその炎による熱さに一歩退き、何度か咳をした。


「貴様、何をし……!?」

「おうおう、やっと会えたなぁ……?」


 僕は彼の姿を見て、はっと息をのんだ。クルードは真っ赤な炎に背中を照らされ、逆光によって体の正面は黒く陰になっている。だが、その黒い陰の中で、オレンジ色の対の光がギラギラと——それこそ獲物を狙うライオンさながらに——光っていた。


「お前……まさか!」


 額に光る角を見つけた男が、半ば悲鳴のような声を上げる。そんな中、クルードは鋭い犬歯をのぞかせてにやりと笑った。


「どう落とし前つけてくれるんだ? え?」

「…………」

「今すぐ火あぶりにしてやってもいいが……」


 クルードはゆっくり、ゆっくり教え込むように口にした。状況をイマイチ理解していない子供たちに、注射をするということを教え込む医者のように、ともすれば優しく取れるような口調で。


「ピクエノは、まだ生きてっからなぁ……。殺しちゃまずいんだってよなぁ?」


 クルードは男の胸ぐらをつかみ上げ、ぐっと顔を近づけた。角が男の額にこつんと当たる。その先っぽがわずかに刺さったのか、男の額に血が一筋伝った。


「んじゃあ、生殺しってことになるよなぁ? ん? どうする?」

「た、たす……」

「助けるだぁ? ピクエノもそうやって——」


 クルードは不意に真顔になり、躊躇なく男の顔面を殴りつけた。


「助けを求めただろうが」


 クルードは吹っ飛んだ男に馬乗りになり、左右の頬を交互に殴り始めた。バキッ、バキッ、と漫画やアニメでしか聞けないような打撃音がする。


「『』って、あいつが言わねぇはずがねーんだよ。こういう時に備えて、クロウが教え込んでたからな」


 聞き取るのでさえ難しいほどの声量で、クルードは何度も何度も殴ってはつぶやいた。僕は男を哀れみながら見つめたが、同情はせず、クルードのことも止めなかった。それほど、僕も頭に来ていた。


『されて嫌なことは、絶対にしちゃだめなのよ』


(……いやなこと、か)


 僕の両親は、僕が物心ついたときにはもう死んでいた。その原因は、叔母曰く『交通事故』だったそうだ。病院に着いたときにはすでに心肺停止状態で、すぐに息を引き取ったという。

 しかし、僕の中には唯一、とある記憶が残っていた。今でもこの記憶は、もしかしたら僕が勝手に作り上げた夢のようなものなのではないかと思うことがある。それでも、本物の記憶だと錯覚してしまうほどに鮮明で、そして——


「……クルード、その辺にしておいたらどうですか?」

「はあ? このまま帰すのかよ?」


 クルードはわざと手を抜いて殴っているのか、男はまだまだ元気そうだった(歯が折れて顔面が腫れている状態を元気と言うならば、の話だが)。まだ意識を保っているらしい。

 いつの間にか僕の背後にいたクロウは、ちらりと男に視線を向け、その瞳に激しい殺意を宿らせた。よくここまで冷静でいられるな、と感心してしまうほどにその殺意は深く濃いものだった。


「クルード、なんで火をつけたか分かりますか?」

「……コハクが説明しただろ。とりあえず放火の罪で逮捕させるため、だろ?」


 僕が死んだふりで時間を稼いでいたのは、この事務所に火をつける時間を稼ぐためだった。クルードの咆哮(なぜできるかは知らない)が、火種発見の合図。そして、『花火』の一言が放火したという合図だった。

 この作戦を提案したのは、クルードが言った通り、とりあえずこの男たちを逮捕させたいためだった。雲龍とかWDとかいったことはあまり世間にばらしたくないそうだし、そもそもクルードたちの声が聞こえる僕が異常なのだ。だから、普通の罪で逮捕させるためには、こうして放火の罪をかぶせるよりほかなかった。


「そう、逮捕させるため。被告がこうしてボロボロだったら、変に疑われてしまうでしょう? 今ならまだ、そこらの男たちになすりつけられる」


 事務所を見て唖然とし、次に角の生えた男を見てすっかり怖気づいていた三人が、びくっと身を震わせる。どうやら、早々に事態を察したらしい。


「でも、それ以上やられると、あの男たちの手に傷がないのが不思議に思われてしまいます」

「……ケイムショがどんなところかは知らねーが、飯だって食えるししっかりと寝れるんだろ?」

「はい」

「んなの気に食わねぇよ!」


 最後の一発を男に加えながら、クルードが吠える。対してクロウは、誰もが惚れ惚れしてしまうほどの優しい笑みを浮かべ、彼の肩をさすった。が、次の発言でその優しい印象は吹っ飛んでいってしまった。


「刑務所から出たら。楽しみはとっておいてなんぼですよ」

「……! お、おう、さすが腹黒……」


 貴族のような整った顔の裏に、確かに腹黒の性格を見たような気がした。


「警察はすでに呼びました。さあ、ずらかりましょう」


 クロウは言い、クルードが落ち着いて避けたのを確認して、自分が代わりに男のそばにしゃがみこんだ。


「もし私たちの存在を口にしたら、未来永劫、普通の暮らしはできないと思ってくださいよ。まあ、前科がついた時点で、普通の暮らしなんて無理でしょうがね」

「あ、あ……」

「ああ、作り話は自分で作ってくださいよ。うーん、あの男たちと一緒に放火をして遊んでいたら、いきなり殴りかかられたとかでいいんじゃないですか? ちゃんと三人にも罪が問われるようにしてください」


 「さて、と」と言いながらクロウは立ち上がり、腕を大きく伸ばした。


「どうです? いいバイトでしょう?」

「……うーん、退屈はしなそうですね」


 僕は答え、さっさと歩き始めたクルードの後を、クロウとともに追った。

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