第21話 「セミの大合唱」

「わっ、ちょ、離れろよ!」

「嫌だ! もうあたし、お兄ちゃんから離れないもん!」

「子供か! いや、子供か。じゃああれか、妹か!」


 こうも『お兄ちゃん』と連呼されると、自分に妹でもできたかのような気分になってくる。僕はにやける顔を両手でパンと叩き、ピクエノを抱えて床に下ろした。


「すごかったんだよ。ウィスドム! お兄ちゃんがね、窓からピョンって! 翼ないのに!」

「え? 見てたの?」

「あのね、真っ暗だったんだけどね、なんか体がぶわって浮いた気がしたの。そして気付いたら、お兄ちゃんがあたしを抱えて空飛んでた!」

「??……まあ、無事なら良かったよ……」


 ちなみに、僕の方は無事ではなかった。クルードにキャッチしてもらったはいいものの、その衝撃で背中のあたりを軽く打撲してしまったのだ。しかも、男の攻撃を受けている最中に捻挫までしていたらしい。その状況に対応するのにいっぱいいっぱいで、まったく気付かなかった。


「まったく、バイト君とは思えないほどだな」


 氷袋を僕の足に当てながら、ウィスドムはため息をついた。でも、心なしかその表情は柔らかく、嬉しそうだ。


「いや、僕も必死だったし……それに……」

「それに?」

「……されたらやなことは、やっちゃだめだし」

「ふっ、そうか」


 微笑を浮かべながらウィスドムは立ち上がり、部屋から出ていきながらぼそっと言った。


「放火したけどな」

「あ、それ言っちゃだめなやつです」


 ウィスドムが出ていってからしばらく、僕とピクエノは談笑した。いったいどういう経緯で捕まったのか、掴まっている間どうしていたのか。


「分かんなーい」

「分かんない?」

「うん。だって、気付いたら真っ暗だったんだもん」


 どうやら、ピクエノは当時のことを全く覚えていないようだった。彼女の言う『暗闇』に関しても、分からないことだらけである。


「ほら、英雄さん。ちゃんと寝てないと治りませんよ」

「バイトさぼれるからいいかなーって」

「じゃあ復帰したとき仕事量二倍ですね」

「あ、ごめんなさい」


 僕の返事に、クロウは笑いながらお盆をベッドのわきの机に置いた。冷やし中華だ。


「背中をケガしてる人に、屈まないといけない食事もどうかと思いましたけど……」


 コップに冷たい麦茶を注ぎながら、クロウは笑った。


「夏と言えば、冷やし中華ですしね」

「治らせる気ないんじゃないですか?」

「いやいや。まずは気持ちから治さないと」


 どこか嬉しそうにクロウは言い、鼻歌を歌いながら部屋を出ていった。これから自分も昼食をとるのだろう。


 僕は天窓を見上げた。目が眩むほど真っ白な雲に、吸い込まれてしまいそうな青空。そして天窓の端々に見える緑色の葉っぱたち。セミが、自分たちの仕事を思い出したように大合唱を始める。


「今日も暑くなりそうだなぁ……」


 ぼんやりとつぶやきながら、僕は冷やし中華に目を落とした。が。


「あぁっ! 僕の冷やし中華!」

「美味しい! これっていうの!? もっとちょうだい!」

「嫌だ……って言うか、水以外食べれるの!?」

「あ、ほんとだ~! わーい、人間さんの食べ物、食べられる!」


 ……まだまだ、事件は起こりそうだ。


第一部 『早朝~薄群青の空~』 完。

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