第8話 「滝」
「それじゃ、これが主な作業着」
クロウは言い、エプロンらしきもの、透明なフェイスシールド、ビニール手袋が大量に入った箱をよこしてきた。すでに自分は身に着けている。
「知っての通り、雲龍は現実世界で『雲』として働いています」
フェイスシールドの位置をずらしながら、クロウは人差し指を立てた。
「私たちはそれを管理するわけですが、雲というのは当然、水が元となったものです。つまり、現実世界から戻ってきたばかりの雲龍は、びっちょびちょに濡れていることがあるんです。そうすると、彼ら、犬みたいにぶるぶるって震えるんです」
このエプロンはよく水を弾き、フェイスシールドはいちいち顔を拭く手間を省くため、ビニール手袋は仕事道具が汚れてしまわないようにつけるらしい。僕は見よう見まねで作業着を装着し、身に着けたエプロンを見下ろした。
「……デ」
「デザインについては口を出さないでください」
「……ちなみに、誰が?」
「ウィスドムです。あの人、デザインセンスゼロ……どころか、マイナス100なので」
「ああ……」
エプロンには、幼稚園児が描くようなモコモコ雲のもと、草原に翼の生えた白いトカゲ——おそらくドラゴンをイメージしている——が寝そべっている、というイラストが印刷されていた。まだ五歳の自分の子供が描いた、と言われたら可愛くて仕方ないだろうが、ウィスドムが描いたと知ると少し引いてしまうほど下手だった。
「結構自信があるみたいなので、何も言わないであげてください……」
クロウは気の毒そうに眉根にしわを寄せ、仕事道具とかいうものを取りに建物へ戻ってしまった。
クロウが戻ってくるまでの間、僕は〈雲の世界〉にあるこの建物の周りを散策することにした。クロウたち曰く、昼間は絶好の観光の機会らしい。それ以外は絶対に出歩くな、とのことだった。
「観光って言っても……」
この建物と森以外、観光できそうなものは全く見当たらない。クロウたちは、この素晴らしい大自然のことを『観光地』としたつもりだったのだろうか。確かにきれいで癒されるような感じもするが、そこまで……という感じもする。
「ん? 滝?」
よくよく耳を澄ませてみると、かすかにゴーッという水が流れ落ちる音が聞こえてくる。においを嗅いでみれば——言われてみれば程度ではあるものの——水の匂いがした。
僕はその音めがけ、歩みを進めた。クロウは仕事道具を取りに行くのに少し時間がかかると言っていた。これくらい遠出する分には問題ないだろう。
「……おお」
目の前の光景に、僕は思わず感動の声を上げた。目の前にはごつごつした50m以上ある巨大な崖が立ちはだかっており、そこから見たこともないほど大きな滝が流れ落ちていた。
「…………」
僕は、思わずその場で放心して滝を眺めてしまった。下の滝つぼに落ちた水が水しぶきとなって跳ね返り、あたりは霧がかかっているように白くなっている。
「あ、いたいた」
背後から声が聞こえ、僕はびくっとして振り返った。何やら紙袋を持ったクロウが、僕の背後で目を細めていた。
「きれいですよねえ。一番の観光スポットですよ」
「あ、やっぱ……」
「あ、ここ以外にもありますよ、もちろん、人工物だって」
クロウが弁解がましく言う。
「ま、まあ。とにかく、お仕事を始めましょう。そろそろ、夜担当の雲龍たちが帰ってきます」
どうやら、夜担当になったら午前中の半分ほども雲としていなければいけないらしい。別に仕事のような義務感を持ってやっているわけではないのだろうが、少々ブラック企業のような気もする。
「さて、これが仕事道具」
クロウは紙袋の中から、鉛筆と紙が数枚はさまれたバインダーを取り出した。僕の予想とは異なり、そのバインダーは真っ黒。理由を聞いてみると、『汚れが目立つから』だそうだ。それなら、自分が着ているコートも白くすればいいと思うのだが。
「はい、これがとりあえずの仕事道具」
「とりあえず?」
「チェックの仕方にもいろいろ方法があるでしょう? 電子機器を活用されても構いませんし、バインダーが使いにくければ別のものを使っても構いません。一番効率よく仕事ができるものを、自分自身で模索していってください」
「……ちなみに、クロウさんは何を?」
「私ですか? 私、記憶力に自信アリなので、こういう記録用紙は使ってません」
少し楽しそうにクロウが言う。僕は彼の言う記録用紙に目を落とし、目を丸くした。
「こ、これを……」
記録用紙には、かなり目を凝らさないと見えないくらい細かい表が、紙の端から端まで印刷されており、一番右端の箱には、大量のカタカナ名前が並んでいた。それをじっと目で追っていくと、ピクエノ、ウィスドム、クルードの名前も見つけることができた。
「全部で約200人。多いように聞こえるかもしれませんが、これでも人員不足です」
クロウは肩をすくめた。「覚えるのは簡単だけど」、そう言っているようにも見える。
「雲龍は、現実世界になると雲になるわけですが、そうすると体の大きさが約百倍に膨れ上がるんです。雲は軽くてふわふわしていますからね、それに雲龍たちの体重をくわえたら、そりゃ百倍になりますよ」
どうやら、クロウはこの仕事が大好きなようだ。仕事の話を始めた途端、急に饒舌になり始めた。僕は見ているだけで頭が痛くなってくるような表から目を離し、ちらりと滝に目を向けた。クロウもその視線を追う。
「雲龍って、この滝の水しか飲めないんです」
ぽつり、とクロウは口にする。僕がその言葉の真意を問いただす間もなく、クロウは紙袋を手に元来た道を戻り始めた。仕方なく僕もその後を追い、さっそく仕事に取りかかることにした。
「あ、クルード」
「おせーんだよお前ら。あと少しだぞ」
「ちょっと周りを観察してたんだ」
「そーかよ。てか、テメェなんでため口なんだ」
「それ相応の対応」
「…………」
なぜか、クルードはぴたっと黙り込んでしまった。その視線はちらちらとクロウに向けられている。すると、彼は「ああ」と言って苦笑した。
「君がそういう態度だから、コハクくんもこういう態度を取ってる、ってことを言いたいんですよ」
「そ、それを『ソレソウオウノタイオウ』って言うのか?」
「まあ、場合によりますけども……」
どうやら、『それ相応の対応』という言葉の意味が分からなかったらしい。それに気付いた僕は、思わずにやりと笑った。
「お、おい、なに笑ってやがる」
「さて、これから僕らは職務に戻らなくちゃならないからね。まあ君は同労者として一緒に勤務するわけだけども、そのあたりは承知してもらえるかな?」
「????」
細かい意味が合っていない気もするが、クルードを困らせてやるには十分すぎる効果があるだろう。隣でクロウがくすっと笑った。
「面白い子だ」
クロウがそうつぶやき、彼らしくもない黒い笑みを浮かべていたのは、また後のお話。
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