第7話 「バイト開始!」
「採用!」
「は、はい、どーも」
布団をたたんでいるときにそれを言われても、こちらはどう反応すればいいのか。というかそもそも、バイトを受けると言った記憶すらないのだが。
「それでは、その辺が終わったら〈三龍〉のところまで来てください」
「〈三龍〉って?」
「一階のあの三つの石像のことです。これからはそう呼ぶので、承知いただけると助かります」
「分かりました……ていうか僕、やるって言いましたっけ?」
「言ってないですけど、この様子ではやるかなーと」
クロウはわずかに含み笑いを漏らし、さっさと部屋から出ていってしまった。僕は小さなため息をつくと同時に、管理人の仕事のことを考えて胸を弾ませた。クロウの言う通り、確かに僕はバイトを引き受ける予定だった。
「あまりにもファンタジーだけど……」
僕は口に出しながら、きれいにたたんだ布団をベッドの上に置いた。
僕は鼻歌交じりに扉を開け、階段を上った。この階段の時空までもが歪んでいるのか、地下から地上に向かっているはずの階段には窓が取り付けられており、そこから森を見ることができた。だが、その窓に手を伸ばした途端、まるで見えない壁でもあるかのように僕の手ははじき返された。これが空間の違いというものによるものなのだろう。
階段を上がり、頭上にある扉を開いた僕はまだ覚めきっていない体を持ち上げて〈三龍〉がいる広間に入った。
「あ、お兄ちゃん! ここで働くんでしょ!?」
「まあね」
僕は苦笑した。龍の石像の陰から姿を現した僕の足元で、ピクエノは嬉しそうにぴょんぴょん跳ねている。相当気に入られたらしい。
「というわけなんです。ウィスドム、どうですか?」
「どうもこうも、私は大歓迎だ。バイトが来るだけでも万々歳だったのだから、私たちの声が聞こえるとなれば最高じゃないか」
ウィスドムは心なしか嬉しそうに笑っている。が、しかし。こんなちょっといい雰囲気に水を差す者が一人……一匹。
「はぁ? マジでこのもやしを雇うわけ? そりゃねーぜ」
クルードは口を尖らせ、まるで小さな子供のように足を踏み鳴らした。
「クロウ、てめぇもしっかり考えろよー?」
「考えた結果です」
「だってよ、まだこいつのこと、何にも知らねぇんだろ? 名前……なんつったっけ、コハク? って名前くらいだろ、知ってんの」
「その通り。でも……」
クロウは僕の方を向き、いたずらっ子のように笑った。
「適正あり、って私が思ったんです。十分でしょう」
「クルード、文句を言うのも大概にしろ。クロウだけでは首が回らなくなってきていること、お前も承知だろう」
ウィスドムが言うと、クルードはぶすっと黙りこくった。残念ながら反論できるほどの頭脳は持っていないらしい。
「……お前さ」
たっぷりの重苦しい沈黙ののち、クルードは僕に語りかけてきた。僕はなるべく好印象を持ってもらえるよう、少しだけ背筋を伸ばしてみる。すると、彼は僕のことを見下ろして鼻を鳴らした。
「ここでやってけんのかよ? 悪いことは言わねー。帰れ」
クルードが軽く首を振ると、よく磨かれている額の一本角がきらりと光った。その瞬間、僕は言いも知れぬ怒りのようなものを感じた。
(なんだよ、人が仕事をやりたいって言ってるんだから、文句つけないでくれよ)
「嫌だ。もう仕事引き受けたし、それに家に帰ったって誰もいないし、この仕事楽しそうだし」
「ん? 今なんつった?」
「楽しそうって……」
「いや、その前」
妙に食いついてきて僕は困惑したが、首をかしげながらも同じことを繰り返した。
「だから、家に帰ったって誰もいない、って……」
「親がトモバタラキってやつなのか?」
「あーいえいえ。死んでるだけだよ」
「は」
さすがにこの爆弾発言には、ウィスドムでさえ目を見開いて黙りこくった。僕はこんな反応すっかり慣れっこで、冷静にその様子を観察することができた。
「え、お、親がいねーのか?」
「うん。物心ついたときからいなかったんで、別にそれほど悲しくはないですけどー」
「なんで……」
「クルード、そのあたりにしておけ」
ウィスドムが静かに遮った。その群青色の瞳には、何の感情も見いだせない。
「クルード、お前が権限を持っているわけではないが……」
いつになく静かな声音で、ウィスドムは言う。その言いも知れぬ迫力に押され、僕らは押し黙った。
「一応、獣竜の代表のような形でここにいるんだ。イエスなのかノーなのか、それははっきりしたまえ」
「…………」
クルードはじっと僕のことを、目を細めて見つめてきた。まるで、ずっとそうしていたら僕のすべてが分かる、と思い込んでいるかのように。こうすれば心の中を覗き込めると信じ込んでいるかのように。
沈黙が流れた。いつもなら騒がしく大合唱しているはずのセミも、それに負けず劣らず騒がしくしているピクエノも、場の空気を察知してかずっと黙っていた。
不意に、クルードが目を逸らした。
「好きにしろよ。俺は知らねー」
「いいのか?」
「好きにしろっつったんだ。勝手に働いてろ」
僕はほっと息を吐きだした。僕のことを認めてくれたわけではないが、れっきとした敵意は捨て去ってくれたらしい。この先仲良くしていけるかは不安だが。
「では、クルードも認めてく」
「認めてねぇからな!」
「くれたということで、正式に、君をバイト人として受け入れたいと思います! コハクくん、いいですか?」
「はい、もちろん!」
いやーな叔母がいる家からも逃げられて、かっこいい龍やドラゴンがいる職場でバイトができて。僕は今にも踊りだしたくなるような気分に駆られながらも、何とか冷静を保ってクロウの差し出す書類を受け取った。それでも、ほおが緩むのは止めようがなかった。
「それじゃあ、ちゃんと読んでから、サインをお願いしますね」
クロウの口調もかなり崩れてきた気がする。それが嬉しくて、僕は書類に目を通しながらずっと微笑みっぱなしだった。
一通り目を通し終わった僕は、この広間の端の方に一本だけある柱に向かい、そこに紙を押し付けて名前を書いた。
そういえば、どうしてこんなところに柱があるのだろう。普通、柱と言えば部屋の真ん中にあるか、完全に壁の中に埋め込んでしまうかのどちらかではないのだろうか。それなのに、この柱は対称なわけでもなく、部屋の左端にぽつんと不自然に取り付けられている。
「はい、書きました」
「お、ありがとうございます。どれどれ……」
クロウは書類の一番下に目を落とし、何度かうなずいた。その一瞬、気のせいだろうか、彼の表情が曇ったような気がした。
「……? 何か、不備が?」
「…………ん、あ、いえ」
ずいぶんと長い間の後、ようやくクロウは口を開き、困惑気味に僕の名前を指した。
「キリュウって……木に龍って書くんですね」
「はい、普通は桐に生きるって書くんですけど」
話に聞いたところによると、『キリュウ』は母方の姓なのだが、わざわざ『桐生』から『木龍』に変えて登録したらしい。これはこれでかっこいいから使わせてもらっているが、一向に改姓した理由は教えてくれない。あの叔母のことだから、一生かかっても教えてくれないだろうが。
「…………いえ、不備は一切ありませんでした。それでは、コハクくん、」
クロウは書類を丁寧にたたんで懐に入れ、にっこり笑った。
「夏休みの間、短期間になりますが、よろしくお願いしますね」
「はい、こちらこそ! よろしくお願いします!」
こうして、僕のバイト生活が始まった。
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