第6話 「夜の出来事」
「まさか、そいつがバイトだってのか!?」
クルードはわざとらしく驚いて見せ、じろりと僕のことを上から下まで眺めまわした。
「こんなんで、管理人の仕事が務まるのかよ? 一日で力尽きそうじゃねぇか」
「そんなことありませんよ!」
「クルード、言い過ぎだ。それに、ひょろひょろという点では、クロウの方がそれに当てはまるだろう」
ウィスドムはちらりとクロウに視線を向けた。当の本人はまだご立腹のようで、腰に手を当ててぷんぷんしている。
「それ以上コハクくんに無礼を働いたら、許しませんからね」
「お、クロウ、いつにもまして擁護するじゃねぇか。人間嫌いのくせに?」
「人間全般が嫌いなんじゃありません。特定の人間だけです」
クロウはわずかに僕らから目を逸らし、手に持ったガラスの水差しをじっと見つめた。中にはまだ氷水が残っており、クロウが体を揺らすのと一緒に、カラカラと小さな音を立てた。
「そーかよ。まあいいや。んで? 本当にこいつがバイトなわけ?」
「まだ決まったわけではない。ただまあ……」
ウィスドムは天窓を見上げ、苦笑した。僕もそれにつられて見上げ、思わず「あ」と声を上げた。先ほどまでまだまだ夕方だと思われていたのに、空はすっかり暗くなってしまっていたのだ。星々がまたたき、天窓の端の方に少し欠けた月が見える。
「今日は泊まることになるだろうがね」
「と、泊まり……ですか?」
「自分たちが住んでおいてなんだが、夜の〈雲の世界〉は危険だ」
「なんか野生の動物とかが出るんですか?」
「無論、それもあるが……」
意味ありげにウィスドムは言葉を切った。その一瞬、彼の口角が上がる。
「幽霊が出るのでな」
◇◇ ◇◇
「…………」
僕は布団の中でじっと身を潜めていた。『幽霊が出る』という衝撃発言の後、当然僕は冗談を疑ったが、なんとクロウでさえ真剣な表情をしてうなずいていた。人のことを小ばかにしていそうなクルードも、同じように真面目な顔をしていた。
(ゆ、幽霊……)
昼間の白ほど心強いものはなく、夜の白ほど不気味なものはない。僕は壁やら天井やらを見つめ、そこに真っ白な顔が浮かんでくるのではとひやひやしながら目を閉じた。しかしその数秒後には目を閉じた暗闇に耐えられなくなり、また壁や天井を見つめ……の繰り返しだった。
別に特段怖がりなわけではない(そのはず)。しかし、この建物にはあの言葉が真実であるかのような不気味さが備わっていた。
基本的に地下室はいくつかの部屋に分かれていて、それぞれ個人の寝室として扱われていた。ピクエノたちは雲龍専用の寝床へと帰っていったが、クロウは僕の隣の隣の部屋で寝るらしい。
「じゃあ、隣の部屋には誰か?」
そう問いかけてみると、クロウは曖昧にうなずいた。
「まあ……しばらく不在ですけど」
それっきり、クロウは隣の住人について何も教えてくれなかった。クロウのことだから、追及すれば教えてくれたかもしれないが、僕はそれ以上聞けなかった。たったこの一文の間に、聞くだけで心臓が締め付けられてしまいそうなほどの嫌悪感がにじんでいたのだ。隣の奴なんか死んでしまえ、そう言っているようにすら聞こえた。
「お化けなんてないさ~……」
気分を上げるために歌ってみたが、しょせん歌は歌。余計にわびしい気持ちになった僕は、口元まで布団を引き上げた。
と、その時。
「グルルル……」
「ひっ!?」
獣の唸り声が聞こえ、僕ははっと飛び起きた。ここは地下室。確かに天窓から空は見えるが、ここ自体は地面の下に位置している。だから、外から唸り声が聞こえるなんてことはあり得ない。となると、聞こえてくる場所はたった一つ。
(扉の……前)
こわごわと扉の方を見つめてみるが、今のところ変わったところはない。扉の真ん中には縦長の曇りガラスが入っているのだが、そこに影らしいものはなかった。
「気のせい……か」
しゃべっていないとやっていられなくなった僕は、大きく息を吸いこんで、枕の下からスマホを取り出した。液晶の光に一瞬目がくらみ、僕は目を細めて光度を下げる。
——メッセージが一件あります——
黒の無機質な文字を睨みつけながら、僕はそのメッセージを読みもせずに削除した。それと同時に、タイミングを見計らっていたかのようにメッセージが入る。
——メッセージが一件あります——
「くそっ!」
夜中にもかかわらず僕は大声で悪態をつき、思わずスマホを地面に投げつけてしまった。ガタッ、カタカタ。思いのほかすごい衝撃音がし、スマホは画面を光らせたまま床の上で静止した。
「……大丈夫ですか?」
トントン、と扉をノックする音と同時に、クロウが部屋の中に入ってきた。その手には、弱めの光の懐中電灯が握られている。どうやら手元のスイッチで何段階かに光を調節できるようで、今は一番弱いオレンジ色の光にしているらしかった。
「ん、大丈夫、です」
「やはり、地下がダメでしたか……?」
気落ちしたようにクロウがうつむく。僕は慌てて手を振り、床からスマホを拾い上げた。カバーのおかげだろうか、その液晶には傷一つ付いていない。
「そんなことありません。ここまでもてなしてくださって、感謝しかありませんよ……」
僕はしりすぼみになりながら言う。クロウが眠そうに目をこすったのを見過ごさなかったからだ。僕の悪態を聞いて駆けつけてきてくれたのだろう。
「すみません、起こしてしまって」
「いや、いいんですよ。それより、大丈夫なんですか? 頭が痛んだり?」
「いえいえ。ちょっといろいろあったものですから、完全に私情です」
「……そうですか」
クロウは何かを言いかけ、その口を閉じてしまった。まるで口にするのを恐れているかのような、そんな不安な表情をたたえながら。
「大丈夫そうならよかったです。それでは……」
「あ、そうだ」
「はい?」
僕に背を向けたクロウは、首だけ回して僕のことを見つめる。その姿が人間を見つけたカラスのようで、僕は心の中で笑いながら質問した。
「ここ、犬とかいたりします?」
「いえ、いませんが……」
「なんか、動物の唸り声が聞こえた気がして」
「唸り声……」
クロウはいつもの冷静な表情に戻り、懐中電灯を持っていない方の手で顎を撫でた。
「もしかしたら、夜担当の雲龍が、間違えてこっちの建物に来てしまったのかもしれません。たまにあるんです」
「あ、そうなんですか」
あれは仕事疲れの雲龍の唸り声だったらしい。ほっとしたのもつかの間、クロウは肩をすくめながらドアノブに手をかけた。
「それでは、私は失礼します。良い眠りを」
「は、はい」
何とも言えない不安に襲われながら、僕はスマホをベッドに備え付けの小さな机の上に置いて布団に潜り込んだ。まだ僕の体温が残っているのか、布団はほんのりあたたかい。そこで僕は、とあることに気付いた。
(今って……夏だよな)
それなのに、部屋は秋ごろのように寒い。僕は布団にくるまり、目を閉じた。
(地下だからだな。普段、こういうところに来ないから、体が変なふうに反応したんだろ)
僕はそう考え、ゆっくり意識を手放していった。
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