Stage.33 Welcome to USA
3月下旬。
俺は、ギターケースを背負い、スーツケースを転がしながら、成田空港に向かっていた。
これはこれで、結構疲れるのだが。
話は前後するが、麻弥からアメリカ行きを告げられた後、まずパスポートを申請しに行くことになった。
そもそも俺は海外に行ったことがなかったからだ。麻弥も同じく初めてだったから、一緒に取りに行った。
アメリカに留学していた金山さんとウィスはもちろんパスポートを持っていたし(ウィスはイギリス国籍)、お嬢様の白戸先輩も海外は初めてではなかった。
そして、ある時、ウィスが、
「せっかくアメリカ西海岸に行くなら、『Nirvana』の『
と珍しく、そんなことを主張し、俺たちは、密かにこの曲を練習していた。
『Breed』は、1991年リリース。アルバム『Nevermind』に収録されている曲で、キャッチーでパンキッシュな曲。特に粗めのサウンドの中で、ベースの歪み具合が絶妙だ。もちろん、ギターもディストーションを使ったエフェクターの効いた、歪みがあり、暗く、狂気を感じさせるような、特徴的な曲調だ。
そして、ウィスが言うように、『Nirvana』は、アメリカ西海岸、特にシアトルに関係が深かった。
今回、麻弥が計画した、「ロックの聖地」とは。
カリフォルニア州サンフランシスコにある「ヘイトストリート」。ここは1960年代にヒッピームーブメント発祥の地と言われ、古着屋、レコード店、飲食店、タバコ屋などが並ぶアートな街。
同じくビバリーヒルズにある「ビバリーヒルズ・ホテル」。『The Eagles』の『Hotel California』のレコード・ジャケットに描かれたホテルと言われている。ちなみに「ホテル・カリフォルニア」とは架空のホテルだ。
ワシントン州シアトルにある、「MoPOP ポップカルチャー博物館」。『Jimi Hendrix』や『Nirvana』に関する展示があるそうだ。
同じくシアトルにある「グリーンウッド・メモリアル・パーク・フューネラル・ホーム」。かの有名な『Jimi Hendrix』の墓がある。
そして、俺がもっとも強く推したのが、同じくシアトルにある「ヴィレッタ・パーク」。大好きな『Nirvana』の『Kurt Cobain』が住んでいたのが、ワシントン湖を望む一軒家。その目の前にある小さな公園がここ。27歳で死んだ彼には墓がないため、この公園にあるベンチが墓標代わりになっている。
他にもあるかもしれないが、おおむねこの辺りを計画。臨機応変に追加するかもしれない、とのこと。
そして、冒頭に戻る。
3月下旬、待ち合わせ場所の成田空港の第2ターミナルに向かった俺は、予定よりかなり早く着いた。
が、そこには意外にもウィスがすでに待っており、所在なさげに携帯を見ていた。
「ウィス、早いね」
と、声をかけると、
「あ、こんにちは、赤坂さん」
そう言って微笑んだ。
出発時刻は夕方の6時頃。飛行機はアメリカン航空だった。海外渡航は手続きがあるから、空港には早めに行くのが定石だが、それにしては、まだ午後3時。
待ち合わせは3時30分だから30分も早い。
ウィスは、ワンピース姿に、ベースケースを背負い、スーツケースを持っていた。
「どうしたの、こんな早い時間に?」
「そういう赤坂さんも」
「いや、なんだかワクワクしてしまって……」
「ふふふ、私もです」
二人して笑いあった。初めて会った時は、オドオドしてて、自信がなさげだったウィスも、成長したのか、自然な笑顔を見せるようになったし、ネイティブ・スピーカーの彼女はこの旅にとって、ある意味、一番重要な存在だ。
しばらく二人で話していると、やがて。
「お二人とも、早いですね」
「こんにちは。お疲れ様ー」
やたらとでかいスーツケースを転がし、キーボードケースを背負った白戸先輩。そして対照的に国内旅行並みに、荷物が少ないボストンバッグ一つの金山さんが来た。
そして、最後に。
「ごめんごめん。ちょっと寄り道してたら遅れた」
と言って現れた麻弥。
サングラスをかけて、カウボーイハットをかぶり、革ジャンにジーンズという、目立つ格好で、スーツケースを転がして歩いてきた。
というか、こいつはアメリカを変に意識しすぎな気がするが。
揃った俺たちは、チェックインを済ませ、時間まで土産物店や免罪店を冷かし、そしていよいよ機内に乗り込む。
フライト時間は、約10時間。現地時間で12時頃に到着予定。機体が轟音を立てて、滑走路を疾走し、ついに日本を離れた。
こうして、初めての海外旅行が始まった。
機内の窓から、欧米風の建物が見えてきた。ここはもうとっくにアメリカ合衆国の領内だ。
サンフランシスコ国際空港に降り立つ。
初めての海外で戸惑いと、驚嘆の声を上げる俺と麻弥に対し、他の3人は慣れていて、落ち着いていた。
まずは「
機内で、暇だったので、この辺りのことは金山さんやウィスに聞いて、やり方を勉強していた。
要は、海外では必ず最初にここを通り、しかも会話は全部英語なのだ。
緊張しながら、入国審査の列に並び、ついに自分の番が来た。
「Show me your passport.」
これはわかりやすいから、まずはパスポートを出す。審査官はぶっきらぼうに感じる大柄の黒人男性だったが、つまらなさそうに、事務的にパスポートを見た後、
「What brings your here?」
これは通常「What's the purpose of visit?」、つまり「あなたが入国した目的は?」と聞くものだが、面倒臭がりな審査官だと、略したり、別の言葉で言うそうだ。ひどいのになると、単語だけで聞いてくるとか。
どうでもいいが、英語の発音が訛っているし、めちゃくちゃ早くて聞き取りづらかったが。
「Sightseeing.」
金山さんからとりあえず、それだけ答えておけば大丈夫、と言われていたので、そう言ったが。つまり、「観光」ということだが。
「How many days will you be here?」
ああ、何日滞在するか、と。なんとなくわかったので。
「5 days.」
と、短く答えた。
「OK」
短く答えた後、彼は、少しだけ表情を崩し、
「Welcome to USA. Have a nice trip.」
そう言ってパスポートを返してくれた。
第一関門は突破した。
まずは、日本円をUSドルに両替し、ホテルがある市街地へ向かうのだが。
簡単、かつ安い手段だけなら、シャトルバスや『
また、『
だが、荷物が多いし、不慣れな俺たちは、金山さんの提案でタクシーを使うことになった。
まあ、この辺りは、金山さんが全部英語で話してくれるから、楽だったが。
「Inter Continental San Francisco,please.」
早口の、綺麗な英語で、金山さんが運転手に伝える。
そして、車内では。
助手席に座った金山さんが、運転手と早口の英語で会話をはじめ、盛り上がっていた。
というか、早口すぎて、俺には何をしゃべっているかわからない。
さすがだ。
「空港からは、12マイル、だいたい20分くらいで着くそうです」
助手席から金山さんが教えてくれた。
アメリカという土地は、この「マイル」という単位をよく使うが、これが日本人には馴染みがないからわかりにくい。
1マイルが大体1.6キロだった気がするから、12マイルだと、19キロくらいか。
車は、高速道路っぽい道を走り、右手に海(サンフランシスコ湾)、左手にアメリカならではの高層ビル群を見ながら、サンフランシスコの市街中心部に入り、やがて街中の、一つのホテルで停まった。
今日の宿は、ここ「インターコンチネンタル サンフランシスコ」という中級クラスのホテルだった。
とりあえず、無事にチェックインを果たし、俺は一人、部屋でくつろぐ。
車窓からは、ビル群が見えているし、あちこちに英語の看板が目立つ。
ついにアメリカにやってきた、と実感するのだった。
携帯に麻弥のメッセージが来て、ひとまずロビーに集まれ、とのことだったので、1階受付前の広々としたロビーに集まり、ソファーに腰かけた俺たち。
「ついに来たね、アメリカ!」
めちゃくちゃ興奮気味に、麻弥は声を上げた。
「とりあえず、おなか空きましたねー」
と、白戸先輩が。時刻はちょうど午後1時くらいだった。
「それなら、いいところがありますよ」
金山さんが、勇んで提案した場所。
俺たちはそこに向かった。
「
そう、ダイナーとは、よくアメリカのドラマや映画で出てくる、カウンターがあるバーのような喫茶店、というかレストラン。
そこで、俺たちはアメリカ的な伝統料理とも言える、ハンバーガー、フライドポテト、アメリカンクラブハウスサンドなどで遅い昼食を取った。
その後は、もう完全に観光だった。
サンフランシスコと言えば、真っ先に思いつく人もいるだろう。
路面電車や、坂を登るケーブルカーに乗り、市内を散策。
有名なゴールデン・ゲート・ブリッジを見て、アラモスクエアに行き、コイトタワーに上り、観光を満喫。
気がつけば陽が暮れていた。
「じゃあ、そろそろあそこに行きますか」
金山さんが提案して、先導してくれた場所、そこは「ツイン・ピークス」だった。
サンフランシスコで、最も標高が高く、山の上から市街地を見下ろせるという。
そこからの眺めは絶景だった。
眼下に広がる住宅街、高層ビルの群れ、ライトアップされたベイブリッジなどが遠くまで一望でき、ちょうど陽が暮れた街並みが光の帯を作っていた。
「キレイ!」
麻弥が興奮気味に叫ぶ。
「本当ですねー」
と、白戸先輩。
「Beautiful!」
と、ウィス。
そして、俺は金山さんに、
「ねえ、金山さんはアメリカのどこに住んでたの?」
気になることを聞くと。
「私? ニューヨーク」
と意外な答えが返ってきた。
「ニューヨーク。全然反対側じゃないか。それにしては詳しいね」
そう、ニューヨークはアメリカでも東海岸だから、こことは逆だ。
「まあ、私は5年もいたからね。アメリカのあちこちに行ってたし。ここも、ロスもシアトルも行ったことあるよ」
自信満々に答える金山さんが、頼もしかった。
1日目は、結局、単なる観光だけで終了した。
2日目。
やっと、麻弥が先導して、「ロックの聖地巡り」が始まった。
まず向かったのが、「ヘイトストリート」。
現地では「
麻弥は、ここではしゃぎ気味に、古着や楽器などを見て回り、気がつけば結構な時間をここで潰していた。
続いて、向かったのが「ビバリーヒルズ・ホテル」。『The Eagles』の『Hotel California』のレコード・ジャケットに描かれたホテルだった。
麻弥はわざわざ日本で、そのCDを手に入れ、持ってきていた。
そして、
「おお! これか!」
大げさに感動し、CDのジャケットと風景を見比べる麻弥。
俺たちもそのCDを改めて見せてもらう。
確かにヤシの木が生えていたり、後ろに映る城のような建物など、雰囲気はそっくりだった。
だが、実はここ最高級ホテルなのだ。
なので、貧乏人の俺たちは、中には入らず、結局外観だけ見て、立ち去ることになった。
結局、その後はまた観光の続き。
サンフランシスコでは、正直時間が余り気味だったが、まあ慌てて旅をするよりは、のんびりできるからいいだろう。
夜は、また金山さんのオススメの、バーでジャズの演奏を聴きながら、まったりと過ごした。
翌3日目、俺たちは、今度は飛行機でシアトルに向かった。
サンフランシスコからシアトルまでは、飛行機で約2時間。
シアトル、タコマ空港に降り立ち、まずはホテルにチェックイン。
ちなみに、手続きはウィスが全部やってくれた。こういう時に、英語がしゃべれる人がいると、本当に助かる。
まず向かったのは。
「MoPOP ポップカルチャー博物館」。
なお、MoPOPとは「Museum of Pop Culture」の略。昔は、「Experience Music Project」という名前のポップスとロック・ミュージックの博物館だったが、その後、音楽だけではなく、映画やアートなども扱い、今の名前に変わったんだとか。
まず、建物の外観が面白い。
まるで、建物全体を布かなんかで覆ったような不思議な外観をしている。
ここは、体験型の博物館。
音楽でいえば、ギターやベースを実際に弾ける場所があったので、俺と金山さん、ウィスがそれぞれ体験。麻弥も何故かギターを体験。
さらに、『Nirvana』に関する展示物が俺の興味を引き、『Jimi Hendrix』のフェンダー・ストラトキャスターまで展示されていて、俺は感動に身を震わせていた。
それ以外にも「ターミネーター」、「スターウォーズ」、「エイリアン」、「マイケル・ジャクソン」のスリラーなど、様々な衣装やグッズが展示されていて、見ているだけでも楽しい博物館だった。
「めっちゃ面白い、ここ!」
と、すっかりご満悦で、子供のようにはしゃぐ麻弥に付き合わされ、結局、昼飯を食べるのも忘れて、俺たちはここでしばらく時間を過ごした。
昼食後、向かったのは、「グリーンウッド・メモリアル・パーク・フューネラル・ホーム」。
シアトルの郊外、正確には「レントン」と呼ばれる場所にあり、タクシーで向かった俺たち。
ここは、先程の騒がしい場所とは、打って変わって、
そして、一番の目当てで、すでに観光客が集まっていた場所、そこがかの有名な『Jimi Hendrix』の墓だった。
特徴的な、少し円錐型の東屋のような形をした、その墓にはギターの彫像があり、『Jimi Hendrix』の生前の写真を模したイラストが描かれてあり、多くの花に包まれていた。
『James M "Jimi" Hendrix 1942~1970』
と、刻まれた墓石と、彼の写真を模したイラストが、強く印象に残った。
日本では「ジミヘン」として知られる彼は、わずか27歳で亡くなっているが、その死因には、実は不可解な点が多いと言われている。
一般的には、睡眠前に、酒と睡眠薬を併用し、睡眠中に嘔吐して、窒息死したと言われているが。
彼の死亡時に、一緒にいた、モニカ・ダンネマンという女性には、かなり不可解な点がある。
つまり、彼女はすぐに救急車を呼ばなかったり、救急隊員の証言と異なる証言をしていたらしい。
もっとも、このモニカ・ダンネマンもその後、自殺してしまったから、今も真相は闇の中だ。
偉大なギターの先輩、そして偉大な英雄の前に、俺たちは、ただ黙って手を合わせ、黙とうするのだった。
「さて、じゃあ、やっと行けるな」
俺が呟き、
「まあ、しょうがないね。シアトルと言えば、ニルヴァーナ、そしてカート・コバーンってくらい有名だしね」
と、麻弥が呆れ気味に了承してくれた。
再び、シアトルの市街地に戻った俺たちは、ワシントン湖に面した小さな公園に向かった。
『
そう呼ばれるも、そこは小さな、どこにでもある公園だった。
だが、その一角にある、古ぼけた木造のベンチこそが重要だった。
ベンチには、花が置かれ、そして数々の英語の落書きがされていた。
「Nirvana」
と書かれた物はもちろん、他にもハートマークが書いてあったり、様々な落書きがあった。
ここに「カート・コバーンがいた」という事実。
それに、俺の魂は震えた。
そうとしか思えない感情が沸き上がってきた。
俺は、気がついた時には、ギターをケースから出して、そして、『Smells Like Teen Spirit』のギターリフを奏でていた。
もちろん、アンプにつないでいないから、ショボショボした音だったが。
他のみんなは、俺の演奏を黙って聴いたり、目を閉じたり、ベンチをじっと見たりしていた。
すると、
「Excellent!」
と語る、中年男性の声が聞こえてきて、振り向いた。
そこには、白人の中年男性が立っていて、俺の演奏を凝視していた。
そして、彼は、早口で俺に何かを言った。
俺は早すぎて、聞き取れず、演奏の手を止めて、金山さんに聞く。
「なんだって?」
「いい演奏だって。なんなら、ウチのバーに来て、ちょっと演奏してみないか? だって」
「えっ」
さすがに一瞬、自分の耳を疑った。演奏する?
さらに、金山さんが興奮気味に、
「この人、そこのバーのオーナーらしくてね。せっかくだから、『Nirvana』を演奏してくれないか。客も盛り上がるから、だって。すごいね、赤坂くん!」
と言ってきた。
「おお! おもしろそうじゃん! やりなよ、優也。あたしたちも演奏するからさ」
早くも、麻弥が興奮で顔を紅潮させていた。
「いいですねー」
白戸先輩も、
「アメリカで『NRA』、初演奏ですね」
とウィスまで嬉しそうだった。
まあ、俺も演奏するのは、いいのだが。
「でも、こんな、どこの馬の骨ともわからない、日本人でいいの?」
と、心配になって、金山さんに通訳をお願いすると。
「ノープロブレム。音楽に『国境』はない、だそうよ」
嬉しそうに微笑む金山さんだった。
なんというか、ものすごい偶然だ、と思った。たまたま俺たちがこの時間にここに来て、そしてこの曲を俺がたまたま弾かなければ、この出会いはなかった。
と、いうことで、俺たちはその日の夜、シアトルのダウンタウンにある、このオーナーのバーに呼ばれた。
ちなみに、オーナーさんは、
夜8時。俺がギター、ウィスがベース、白戸先輩がキーボード、麻弥がドラムスティック、金山さんがマイクを、それぞれ持って、早速店に伺ってみると。
バーというより、ちょっとしたライブハウスに近い空間だった。
地下になっている空間に、カウンターといくつかのテーブル、椅子があり、小さなステージがある。
客席とは比較的距離が近く、庶民的な雰囲気の店だった。
行くと、結構な人が集まっており、各々がビールやウィスキーを傾けながら、楽しそうに歓談していた。
マシューさんは、金山さんに気づき、笑顔を見せた。
早速、金山さんが、話に入った。
で、すぐに戻ってきて、
「準備が出来たら、いつでもOKだそうですよ。少ないけど、謝礼も出すって言ってくれました」
実にアバウトだ。さすが自由の国、アメリカ。と、俺は思うのだった。
俺たちは、早速準備をして、ステージに上がる。
曲目については、事前に打ち合わせをしており、『Nirvana』の『Breed』、そして『Smells Like Teen Spirit』をやるということに決まった。
アンコールがあれば、『The Sky is the limit』をやる予定だ。
ステージには、ちゃんとアンプも、ドラムセットもあったし、マイクも用意されており、脇には小さなオルガンが置いてあった。
いつも演奏する、ライヴハウスより小さいが、こういうのもいいだろう。
アメリカ人たちの視線が、俺たち奇妙な一団に向けられる。
まあ、それはそうだろう。
ベースを除いて、みんな日本人だし。
「Hi, everybody. We are from Japan. I heard that Seattle is the placed related to a famous musician "Nirvana". So, we will play "Nirvana" tonight. Please enjoy!」
早口の英語で挨拶をする金山さん。なんとなくだが、意味はわかった。
要は打ち合わせ通り、シアトルにゆかりがある「ニルヴァーナ」をやるということだ。
『NRA』とわざと言わなかったのは、彼女なりの配慮かもしれない。何しろ、全米ライフル協会と同じ略語らしいからな。
1曲目は『Breed』だ。
この曲はディストーションを使ったエフェクターが重要だ。要はギターの「音」を「歪ませる」。
ギターもベースもこのひずみや歪みがイントロから入る。
「Wow!」
早くも前方にいたアメリカ人から驚きの声が上がっていた。
ヴォーカルの金山さんが、ハスキーボイスを上げる中、俺たちは、この名曲を演奏していく。
歌詞のフレーズ的には、同じことを繰り返す、韻を踏んだ曲だが、この狂気にも似た、独特の暗く重苦しい雰囲気が、まさに「
「She said」
というフレーズを繰り返した後、ギターリフが入る。その間も、特徴的なベースの歪みが流れる。
終わってみると。
「Fantastic!」
「Brilliant!」
という声と共に、盛大な拍手と歓声が送られてきた。
俺たちは2曲目に入る。
『Smells Like Teen Spirit』だ。
『Nirvana』を代表する名曲だからか、イントロのギターリフから、観客は大盛り上がりだった。
元々、アメリカ人は日本人よりノリがいい。
口ずさむ者、リズムを取る者が続出。
酒も入っていたからか、バーは、ライヴハウスやコンサート会場のような賑わいを見せていた。
さらにヴォーカルの金山さんが、『Kurt Cobain』を真似てシャウトすると、さらに歓声は大きくなった。
ギターパートの俺は、楽しい気分になって、この曲に集中していた。
もうすでに何度も弾いている曲だ。
今さら、迷いはない。
5分ほどもある長い曲だが、終わってみれば。
「Bravo!」
「Amazing!」
「Very nice!」
俺でもわかるくらい簡単な単語だったが、みんなが喜んでくれた。音楽を通して、国境を越えた。そう思うと感慨深いものがあった。
さらに、
「Encore!」
という叫び声が聞こえてきた。ちなみに、英語では「エンコアー」とか「アンコアー」に近い発音だ。
やがて、
「Thank you. Next,our original song, "The sky is the limit"!」
そして、その「The sky is the limit」を奏でる俺たち。
一応、これも全編英語で作った曲だし、ノリのいいパンクの曲だから、客席はさらなる盛り上がりを見せ始めた。
日本人より、感情表現や豊かで、よく笑い、よく怒るアメリカ人たち。わかりやすく喜んでくれた。
演奏後。
「Cool!」
「You rock!」
「That's
など様々な賞賛の声が響いた。
なお、「rock」は、動詞で「揺さぶる」、「揺り動かす」という意味があり、「心が動く」、つまり「最高」という意味だそうだ。
あと、「neat」とは、日本的な引きこもりの意味ではなく、元々「整頓された」、「こぎれいな」という意味があるが、スラングで「めちゃくちゃいい」という意味だそうだ。
以上のことは、後で金山さんに聞いたのだが。
とにかく、俺たちは、初のアメリカでの演奏を無事、終了したのだった。
マシューさんは、大げさに喜んでくれて、謝礼金に色をつけて、チップを弾んでくれた。
「いやあ、最高に盛り上がったね!」
ホテルに戻る道すがら、すっかり上機嫌な麻弥だった。
「楽しかったですねー」
と、白戸先輩が笑顔で答える。
「アメリカ人って、基本的にノリがいいですからね」
と、金山さんも、上機嫌だった。
「私も楽しかったです。いい思い出になりそうです」
ウィスも嬉しそうだった。
「ここで『Nirvana』が出来るとか、最高だ」
俺もそれしか言えなくなっていた。
翌朝、4日目。
俺たちは、シアトルから130キロ南西にある、小さな街、『
当初、麻弥はあまり乗り気ではなく、プランにも入れていなかったが、時間が余ったのと、俺がどうしても行きたいと主張したからだ。
そこには、『Nirvana』の『Kurt Cobain』の生家がある。
結局、バスで直通はなく、タコマまで行って、乗り換えて、片道4時間もかけて、着いたそこは。
アバディーンは、寂れた小さな町だった。
街の入口には、丁寧に。
「Welcome to Aberdeen: Come As You Are」
と、書かれた標識がある。
『Come As You Are』は、1992年にリリースされた『Nirvana』の曲で、アルバム『Nevermind』に収録されている。
「カート・コバーン」の生家はすぐに見つかった。
黄土色っぽい壁の三角屋根の、どこにでもあるような小さな家だ。
俺は、ここでみんなに、自分が知る限りの「カート・コバーン」の生い立ちを話した。
カート・コバーンは、ここで8歳まで幸せに暮らしていたが、両親が離婚してからが悲惨だった。
母親、叔父、祖父母、そしてまた母親と転々とし、明るい性格だったカートはどんどん暗い少年になっていった。さらに今度は叔父が自殺。
そして、そんな暗い陰に入ったカートを助けたのが、パンク・ロック・ムーブメントだった。
間もなく音楽にハマり、ハイスクールを退学し、母親の元から追い出されたカートは、友人の家や橋の下で寝泊まりしていたという。
「かわいそう」
と同情がちな表情を浮かべる白戸先輩に対し、
「まあ、ロックミュージシャンの生い立ちって、大体悲惨なもんよね」
と、麻弥は妙に達観していた。
そして、その橋に着く。
通称「カート・コバーン・ブリッジ」。
この、カート・コバーンが青春期に寝泊まりしていた橋には、今では多くのファンが英語の落書きをしていた。
そして、橋の脇には、ファンによって建造された、「カート・コバーン・リバー・フロント・パーク」があった。
公園内には、「カート・コバーン」の写真を模したイラストがあったり、ギターのモニュメントが置かれてあった。
俺は、ベンチに座り、みんなに対し、口を開く。
「この時のカート・コバーンのツラい気持ちが、実は『
この曲は、非常に暗い雰囲気の曲だが、歌詞は、「
彼がこの橋の下で、過ごしたツラい心情を歌っている、特徴的な曲だ。
和訳で聴くと、本当にツラくて、浮かばれない生活だったことがよくわかる。そもそも『Something In The Way』自体が、「壁が道を塞いでいる」という意味だ。
俺たちは、「カート・コバーン」の青春の跡を見て、思いに浸った後、その日もシアトルで1泊した。
翌日、つまり最終日の5日目の午前。
俺たちは、シアトルのタコマ国際空港から成田行きの飛行機に乗った。
機内では、麻弥が隣だった。行きは金山さんだったが。
「麻弥、面白かったよ、アメリカ。ありがとう」
そう告げると、彼女は何故かやたらと得意げに、
「そうでしょ! やっぱ面白いよね。また行きたいよね?」
と聞き返してきた。
「そりゃ、金と時間があればな」
「そんなの何とでもなるよ。次は、絶対『ロックの殿堂』と、ニューヨークに行くわよ!」
やたらと張りきっていた。
というか、また行くつもりだな、彼女は。
ちなみに、『ロックの殿堂』は、ニューヨークからはかなり離れた内陸の、オハイオ州クリーブランドにある。
そして、この時の予感が後に現実の物となる。
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