Stage.6 トミーとジーナ

 二学期に入った。

 いよいよ学校祭まで残り一か月余りとなった。


 この頃になると、本番の選曲をしなくてはならなくなった。つまり、学校祭の音楽コンテストで演奏する曲についてだ。


 麻弥姉の説明によると、例年曲は三曲まで許されるらしい。さらにアンコールがあれば、もう一曲まで可能とか。


 だが、この三曲の選曲が難航した。

 一曲はもちろん『Rush Up』で決まっていて、こいつはトリに持ってくることはすぐに決まったのだが。


 残りの二曲が決まらなかった。

 それは俺たち五人の趣味がそれぞれ違うからだ。


 俺は『Nirvana』や『Led Zeppelin』、特にギタリストのカート・コバーンやジミー・ペイジが好きだし、麻弥姉は『Bon Joviボン・ジョヴィ』や『Deep Purple』、『Black Sabbathブラック・サバス』が好きらしい。


 黒田先輩は『Sex Pistols』、中でも有名な二代目ベーシストのSid Viciousシド・ヴィシャスが好きで、他に『Metallicaメタリカ』も好きらしい。


 白戸先輩は『Green Day』や『AC/DC』、『Helloweenハロウィーン』、そして金山さんはもちろん『Janis Joplin』。


 みんなの好きなバンド、歌手がそれぞれ違うのだ。

 その中から二曲、アンコールも入れると三曲を選択しないといけないのは、酷だった。


 だが、このままだと一向に決まらないことを危惧したのか、白戸先輩が、

「私は夏祭りで『地獄のハイウェイ』をやって満足できましたし、いいですよー」

 と真っ先に自分の意見を殺してくれた。


 心優しい彼女らしい気配りだ。

 残るは俺、麻弥姉、黒田先輩、金山さんの四人だ。特にあの頑固な麻弥姉が譲るとは思えない。


「あたしは絶対、どっかに『Deep Purple』入れるからね。会長特権で!」

 やはり予想通り、このワガママなリーダーは譲らなかった。


「私もできれば、『Metallica』をやりたい」

 黒田先輩も珍しく主張し、俺は俺で、

「カート・コバーン、つまり『Nirvana』は譲りませんよ」

 と言うべきことは主張していた。


 すると、俺たち三人が言い争って収拾がつかないことを見た金山さんが、

「私は別に意見採用してくれなくてもいいですよ。『Janis Joplin』は難しいでしょうし」

 と、言ってくれたのだった。


「マジで? ラッキー! じゃ、トリは『Highway Star』で。これ、絶対譲らないから。盛り上がるし」

 麻弥姉は金山さんより二歳も年上なのに、丸きり駄々をこねる子供のようだった。


「はあ。まあ、リーダーがそう言うなら仕方がない」

 俺が呆れたように頷くと、黒田先輩も首を縦に振った。


「リーダー言うな。あたしはここの会長だ」

 俺がリーダーと言うと、何故か彼女は反発する。どうもリーダーと言われ慣れていないのか、会長の方が気に入っているのか、よくわからないが。


 と、言うことで選曲は、俺と麻弥姉と黒田先輩の意見を反映して次のように決まった。



 1曲目   『Smells Like Teen Spirit』 『Nirvana』

 2曲目   『Enter Sandmanエンター・サンドマン』     『Metallica』

 3曲目   『Rush Up』        オリジナル

 アンコール 『Highway Star』      『Deep Purple』


 ちなみに、『Smells Like Teen Spirit』は、俺が大好きなカート・コバーンで有名な『Nirvana』の代表曲として知られている。


 1991年にリリースされた『NEVERMINDネヴァーマインド』というアルバムに収録されている。


 この特徴的な曲名は、直訳すると「十代の魂の匂いがする」になるが、もちろん本当の意味は違う。


 この「Teen Spirit」というのが、当時アメリカで発売されていたデオドラント、つまり制汗剤で、『Nirvana』のカート・コバーンの当時付き合っていた彼女が「カートはTeen Spiritの匂いがする」と言ったことを気に入ったコバーンが、そのまま曲名に名づけたとされる説が有力だ。


 「90年代で最も覚えやすいリフ」とも言われ、またポップソングの「キャッチー」さと、ハードロックの「勢い、わかりやすさ」、そしてパンクの「リアルさ」を兼ね備え、「グランジ」という新しい流れをもたらしたとされる稀有な名曲だ。


 俺はこの曲だけは絶対に演奏したいと思っていたのだ。それも一曲目に持ってくることに意味があると思っている。観客の心をとりあえず「掴む」為にだ。


 続く『Enter Sandman』も同じく1991年リリースの名曲だ。

『Metallica』最大のヒット曲としても知られている。


 アルバム『Metallica』の先行シングルとしてリリースされ、歌詞はドイツの民間伝承に登場する睡魔「サンドマン」をモチーフにしている。社会批判などシビアな題材が多い彼らには珍しく、ファンタジックな内容になっているのが特徴だ。


 ヴォーカル兼リードギターのJames Hetfieldジェームズ・ヘッドフィールドの特徴的なヴォーカルと、「リフマスター」とも呼ばれる彼の絶妙なリフが光る名曲だ。


 最後の『Highway Star』も、誰もが一度は聴いたことがある名曲中の名曲だ。


 速弾きのインパクトが絶大で、ギタリストなら一度は必ずこの速弾きをコピーすると言われている。もちろん、俺も練習をしている。


 とにかく、こうして演奏する曲が決まり、残りはひたすら練習するだけとなった。


 が、そんな時、誰も予想だにしていなかった事態が、俺たちのバンドを揺るがすことになった。



 9月に入って、一週間あまりが経過したある日の放課後。


 いつものように部室に行くと、麻弥姉だけが来ていなかった。どこかで居残りでもしているのかと思っていたのだが。


「麻弥姉はまだ来てないんですか。珍しいですね」

「麻弥は今日、学校を休んだ」

 と黒田先輩から聞いて、俺は不審感を抱いた。


 あの元気だけが取り柄のような、彼女がただ単に学校を休んだとは考えられなかった。

 とりあえず、その日は麻弥姉抜きで練習をしたが、帰り際に俺は黒田先輩に呼び止められた。


「赤坂」

「はい」

「お前、麻弥から何か聞いてないか?」

「何か、とは?」

「ああ。最近、あいつ様子が変なんだ」

 変なのはいつものことだと思ったが、どうやら黒田先輩の言う「変」とはどうも違う意味らしい。


 彼女によると、ここ最近、麻弥姉は教室でもどこか上の空だったらしい。

 まるで授業に身が入らず、たまに必死に何かを考えているようなこともあったらしいが、黒田先輩が聞いても、「何でもないよ」の答えしか返って来ないらしい。


 しかも心配になった黒田先輩が電話をしても、最近は携帯にも出ないし、メッセージを送っても返って来ないらしい。


 親友の電話にさえ出ないとは余程、深刻な事態が起きているのかもしれない。


「赤坂。お前、ちょっと麻弥の様子を見てきてくれないか? で、悩んでたら相談に乗ってやれ」

 いつものようにぶっきらぼうな口調ながら、彼女が親友を心配しているのはわかった。正反対の性格のデコボココンビながら、この二人は妙に気が合うみたいだし。


 だが、それを俺に押しつけるのは、納得がいかなかった。

「何で俺なんですか? 女性同士の方がそういうのってわかるんじゃないんですか? 黒田先輩でダメなら、白戸先輩や金山さんが……」


 言いかけた俺の言葉を最後まで聞かずに、黒田先輩は大きな溜め息で返した。


「はあ。お前、全然わかってないな」

「わかってないって、何がですか?」

「女心が、だ」


 意外だった。この男みたいな先輩の口から「女心」なんてセリフが出てくるのが。


「そんなこと言われても……」

「いいからさっさと行け」


 俺と黒田先輩のやりとりに業を煮やしたのか、今度は白戸先輩に、

「赤坂くん。往生際が悪いですよー。麻弥先輩は、幼なじみの赤坂くんじゃないと、話せないことだってあるかもしれないんです。私たちのことはいいですから、行ってあげて下さい」

 と、軽く背中を押された。


 しかも、

「そうだよ、赤坂くん。ドラムがいなくなったら大変でしょ。麻弥先輩が戻るかどうかはあなたの双肩にかかってるの。行ってきて」

 と、金山さんまで珍しく主張する始末。


 俺は小さく嘆息して、

「わかりましたよ。とりあえず行ってきます」

 そう呟いて、渋々ながらも部室を出た。


 その後、黒田先輩が独り言のように、

「やれやれ。世話のかかる男だ」

 と言っていたのを、俺は気づいていなかった。



 部室を出て、玄関口に向かいながら、俺は麻弥姉の携帯に電話をかけるが、「電波が届かないか電源が入っていない」との自動音声が流れて、通じない。


 やはり何かあるらしいと確信した。

 とりあえず、俺は彼女の家に向かってみることにした。


 麻弥姉の家は、俺の家から道路を挟んで斜め向かいにあり、何度も行ったことがある、ごく平凡な一軒家だ。


 いつものように、自宅の最寄り駅で電車を降り、自宅に帰ることなく、そのまま彼女の家に向かった。


 だが。

 インターホンを押して、しばらくすると、

「……はい」

 非常に無気力で、力のない、疲れきったような女性の声が返ってきた。


「あの、赤坂です。赤坂優也です」

「ああ、優也くん。何の用?」

 その声でようやく気づいた。この声は彼女の母親だ。


 だが、俺の知る限り、彼女の母親は人当りのいい、綺麗で親切な人だったはずだ。


 まるで別人のように思えるほど、インターホンから流れる声は暗かった。

「麻弥姉いますか? ちょっと会って話したいんですが」


 だが、次の言葉は耳を疑うものだった。

「麻弥? 知らないわよ、あんな子。どうせどっかほっつき歩いてるんでしょ。用件はそれだけ? もう切るわよ」

「あっ」

 半ば一方的に切られていた。


 正直、ショックだった。

 この家には、小さい頃から何度か遊びに行ったことがあるし、お菓子やお茶をご馳走になったりしたこともある。そんな麻弥姉の母親が、あんなに人が変わったようになっているとは。


 どうも家庭の事情が関係しているらしいとはわかった。あの言葉から推測するに、母親とは仲も良くないのだろう。


 だが、ここからが大変だ。

 携帯は通じない。家にもいない。

 彼女と話をしたくても、見つけようもない。かと言って、帰ってくるのをいつまでも彼女の家の前で、ストーカーのように待つのも気が進まない。


 俺は、念の為に、携帯のメッセンジャーで、


「麻弥姉。ちょっと話がしたい。居場所を教えてくれ」


 と入力して、送信した後、彼女が行きそうな場所の心当たりを始めた。


 色々と考えを巡らせていると、一つだけ心当たりがあることを思い出した。


 それははるか昔の、遠い記憶の一片だった。


 そう。あれは確か彼女が小学校五年生くらいの頃だった。俺は当時小学校三年生だった。


 いつも元気一杯で、外で走り回っているのが好きな彼女が、その時も今回と同じように、珍しく元気がなかった。


 その時、彼女がいたところが、近所を流れる多摩川の河川敷だった。


 俺はとりあえず、一旦自宅に戻り、そのまま着替えもせずに自転車で多摩川に向かった。

 日はもう西に傾いており、街に夕闇が迫りつつあった。


 自転車をこぎながら、俺はその時のことを思い出していた。


 その頃、麻弥姉はサッカーにハマっていた。近所に住む、同じ小学校の男子たちとは小学生低学年の頃から、ずっと一緒にサッカーをしていた彼女だったが、この頃から様子が変わる。


 その時、珍しく落ち込んでいた彼女が、多摩川の河川敷で一人ぽつんと橋の下に寂しそうに座っていたのを覚えている。


 確か、男子たちに、

「お前、実は男だろ」

 と言われて、

「違うよ。女だよ!」

 と口論になり、

「女なんかともうサッカーしねえよ」

 とか言われたんだった。


 それまでは男女関係なく、一緒にサッカーができた仲間たちに、裏切られたという気持ちが強かったに違いない。だが、その頃になると、男女の体格にも体力にも差が出てくるし、いつまでも男女が一緒に遊ぶのは、現実には難しい。


 とにかく、そこで落ち込んでいた彼女を元気づけるのに、俺は非常に時間がかかったのを覚えている。


 やがて、多摩川の河川敷に着いたが、一口に河川敷と言っても両側にあるし、当然広い。


 しかも、幼い時の曖昧な記憶だから、今となっては正確な位置など覚えているはずもない。


 どうしようかと思ったが、とりあえず下流方面に向かって、河川敷の土手のサイクリングロードを走ってみた。


 が、見つからない。

 当然と言えば当然だ。この広い河川敷で、しかも当てもない。その上、いるかどうかもわからないのだ。


 途方に暮れたまま、一時間近くこの河川敷を往復してみたが、やはり見つからない。


 日はもうすっかり暮れ、辺りは闇に包まれており、人影もまばらになってきた。

 さすがに疲れた俺は、一度自転車を降り、一息ついていた。


 すると、サイクリングロードを歩いてきた一人の女子生徒が、俺に気づいて、声をかけてきた。それは意外な人物だった。


「あら、あなたは確か……」

 振り返ると、生徒会長の緑山かえでが立っていた。


「生徒会長」

「あ、そうそう。赤坂くんでしたよね。青柳さんの幼なじみの」

「はい」

「珍しいところで会いますね。この近くに住んでいるのですか?」

「はい。会長もですか?」

「ええ。ここから5分ほど歩いたところのマンションに」


 などと、世間話をしている場合ではなかった。俺は心当たりを彼女に聞いてみることにした。


「あの、生徒会長。麻弥姉、いや青柳さんをこの近くで見ませんでしたか?」

 すると、会長は眼鏡のフレームを左手で触って、少し持ち上げながら、

「青柳さんですか? 青柳さんなら向こうの橋の下にいましたよ。何だかひどく元気がないようでしたので、一緒にご飯でも食べましょうかと誘ってみたんですけど……」

 と、彼女が言い終わる前に、


「ありがとうございます!」

 俺は早くも自転車に飛び乗っていた。

「あ、赤坂くん」


 生徒会長の声を背に、俺は彼女の指差した方向にある橋に向かって、自転車を飛ばした。


 橋は間もなく見えてきた。実はこの橋の下も通り過ぎていたのだが、暗かったこともあり、彼女に気づかなかったようだ。


 橋の下で自転車を止める。

「いた」


 彼女は橋の下に置いてある、ホームレスが使用しているダンボールの陰に隠れるようにして、体育座りをしており、顔を両膝の上に置いていた。服装は学校のセーラー服のままだ。


 しかも、髪型まで、いつものポニーテールではなく、何故か下している。


「麻弥姉」

 俺の声に、彼女は反応して、膝の上に置いていた顔を上げた。


「優也……」

「どうしたんだよ。らしくないな。みんな心配してるぞ。バンドの練習もあるし、戻るぞ」

 だが、

「イヤ。戻らない」


 よく見ると、彼女の両目が赤く腫れていた。泣いたらしい。


「何でだよ?」

「あんたには関係ない。ていうか、あたしはもうバンドやめるし、同好会もやめる」

 明らかにいつもの彼女とは違う。それはわかるが、まず話を聞かないことには、先に進めない。


「関係ない、か。寂しいことを言うなよ、麻弥姉。幼なじみだろ」

 しかし、この時の彼女は頑なだった。


「幼なじみ? 幼なじみに一体何ができるって言うの? 何もできないじゃん。これはあたしの問題だから放っておいて」

 俺は彼女の隣に座り、小さく嘆息してから切り出した。


「お母さんのことか? さっき会ってきたよ」

「……」


 わずかながら、彼女の身体が小さく反応するように動いたのを、俺は見逃さなかった。

「お母さんがどうしたんだ? ケンカでもしたのか。だったら仲直りを……」


「そんな単純な話じゃない!」

 俺が推測で言った一言に、彼女は必要以上に激昂し、大きな瞳に涙を浮かべ、俺を睨みつけた。


「……ごめん」

 すると、彼女はやや間を置いてから、ようやく観念したように、静かに口を開いた。


「……お父さんとお母さんがね。別れそうなんだ」

 それは、俺にとって予想だにしていなかった、衝撃的な内容だった。


「離婚しそうなのか?」

「そう……」

「そんなに仲悪いのか?」

「もう大分前から悪かったけど、最近特にヒドくてね。あたしは家に居場所がない」

「……」


 言葉が出なかった。こういう時、現実的に何て言葉をかければいいのか、俺にはわからなかったのだ。ましてや、他人の家庭の問題だから、尚更難しい。


「ねえ、優也。どうしてあたしがハードロック同好会なんて、どうしようもない、遊んでいるようなところに入ったか知ってる?」

 俺は静かに首を振るしかできなかった。


「家には居場所がなかったから。学校から帰ってもケンカばっかり。だから、あたしは家に帰りたくなくて、いつも最後まで部室に一人で残っていて、その後はゲーセンに行ったり、カラオケに行ったり、時間を潰してた」

「……」


「とにかく、あの家にはいたくなかった。最近はもう修復できないところまで来てる。いつ別れるか、別れるならどっちがあたしを引き取るか。そんなことでずっとモメてる。もうイヤなんだよ、何もかも」


 知らなかった。

 つまり、彼女はここ数か月、少なくとも俺たちといる間、ずっとそんな気持ちを抱えていたのだ。内心、相当我慢をしてきたわけだ。


 今までの元気も、彼女なりに家庭のことを少しでも紛らわそうとする、空元気だったのかもしれない。


 だが、他人の家庭の問題に、果たしてどこまで首を突っ込んでいいのかわからない。

 途方に暮れる俺に対し、彼女はさらに恐ろしい事実を突きつけてきた。


「……もし二人が別れたらね。あたしは多分お母さんに引き取られて、長崎に引っ越すことになると思う。だから、もうバンドどころじゃないの」


「長崎? 長崎ってあの?」

「そう、九州の長崎県。お母さんの実家があるから。そしたらもうみんなとも離れ離れね」


 さすがに長崎県は遠い。東京から気軽に行ける距離じゃないことくらいわかる。


「でも、まだ決まったわけじゃないだろ? それにお父さんに引き取られれば」

 だが、彼女は首を振る。


「多分ダメね。それに、お父さんがあたしを引き取ることに、お母さんは猛反対してるから」

 こいつは困った。予想以上に深刻な問題だ。


 しかも、幼なじみと言っても所詮は他人で、家族でも親戚でもない俺には口を挟む権利もない。


 途方に暮れ、言葉を失っている俺に、彼女は、

「……とにかく、もう後戻りはできない。みんなにも言っておいて。今までありがとうって」


 諦めきったように、憔悴しきった声を発した。


 ふと、携帯電話を見ると、もう午後9時を回っていた。


 俺はとりあえず、彼女を家まで送ることにした。嫌がるかと思っていたが、意外にも観念したように、彼女はついて来た。


 だが、帰り道はお互い一言も口を開かなかった。

 俺はどう声をかけていいのか、全くわからなかったし、彼女もこの雰囲気が気まずかったのだろう。


 俺としては、対応策を検討したいところだったし、今日はもう遅いから、日を改めることにした。


 別れ際、俺は彼女に一言だけ釘を刺しておいた。

「麻弥姉。せめて携帯には出てくれ。出るのがイヤならメッセージでも構わない。俺から連絡することもあるかもしれないから」

 麻弥姉は弱々しく頷くだけだった。



 翌日の放課後、部室に行くと、やはり麻弥姉の姿はなかった。


 ところが、部室に入るなり、俺の後ろに麻弥姉がいないことに気づいた黒田先輩が、

「赤坂。麻弥はどうした?」

 と、切れ長の目を向け、物凄い形相で睨みつけてきた。


「えっ。今日も休みですか?」

「休みだよ」

 語気を荒げて、突き放すように言う彼女が怖い。


 とりあえず、俺は昨日麻弥姉に会ったことを話し、その事情も一通り説明した。あわよくば解決策を彼女たちの口から引き出そうとの算段があったのだが。


 俺の予想に反して、事情を一通り聞いても、彼女たち三人の表情は硬かった。特に、黒田先輩は怒りを面上に貼りつけているのがわかった。


「で、お前はそのままノコノコと戻ってきたのか?」

「……はい」

 女性陣からの視線が妙に痛かった。


「はあ、全く。本当にヘタレだな、お前は」

 蔑むような黒田先輩の視線が辛い。

「ヘタレですねー」

 普段、優しい白戸先輩も口元は笑っていたが、目が笑っていなかった。


「ヘタレ」

 そこに便乗する金山さん。

 しかし、俺にも言い分はある。俺はつい、声を荒げていた。


「そんなこと言ったって、他人の家庭の問題ですよ! 俺にはどうしようもないじゃないですか?」

 だが、黒田先輩は相変わらず厳しい人だった。


「それを考えるのがお前の役目だろ。いいか、学校祭までに絶対に麻弥を連れ戻せ。最悪、それまでお前は練習に参加しなくてもいい。ただし、個人で練習はしとけよ」


「そんな無茶苦茶な。何で俺ばっかり?」

「いいからツベコベ言うな。あと、麻弥はお前と違って、ぶっつけ本番でもドラムを叩ける。とにかく、遅くなってもいいから、学校祭当日までには何とかしろ。わかったな?」

「……もうわかりましたよ。やればいいんでしょ、やれば!」


 最後には半ば自暴自棄になっていた。

 そのまま部室を出る俺の背に、再び、

「ホント、世話のかかる男だ」

 やはり黒田先輩が言っていたのを、俺は気づいていなかった。



さて、どうしたものか。

 実は、俺の中では昨日彼女の母親が彼女を引き取るかもしれないと聞いた時に、たった一つだけ妙案が浮かんでいた。


 が、これは最終手段であり、できれば使いたくはなかった。それは下手をすると、人生を棒に振る恐れがあるからだ。


 だから、その一歩手前の、もっと穏便で、かつ確実な方法を選択しなければならない。

 だが、それが一番難しいこともわかっている。


 それからの数日間、俺は黒田先輩に言われたように、個人で音楽コンテストの曲の練習をしながらも、必死に考えた。


 だが、考えれば考えるほど、明確な答えは出ず、時だけがただいたずらに過ぎていった。


 10月10日。

 ついに学校祭まで残り三日となった。相変わらず俺は麻弥姉を連れ戻す策を思いつかず、部室にも顔を出していなかった。


 だが、学校祭・音楽コンテストと迫り来る脅威のことを考えていて、ようやく一つだけ、穏便な策を思いつくのだった。


 ただ、これは確実な方法とは言えず、賭けに近かったが。

 とにかく、俺は麻弥姉を信じ、彼女を呼び出してみることにした。


 が、電話はやはり繋がらなかった。せっかく釘を刺しておいたのに、意味がない。

 仕方がないので、メッセージを送信してみる。


「今夜9時。例の橋の下で待っている。必ず来てくれ。 優也」


 これで来なければ、もう俺には打つ手がなかった。



 午後9時の10分前。つまり午後8時50分。俺は以前、麻弥姉に会った多摩川の例の橋の下にいた。傍らには愛用の自転車がある。


 後は彼女を信じて待つだけで、祈るような気持ちで俺は寒風吹き荒ぶ橋の下で彼女を待った。


 だが。

 携帯電話のデジタル時計が午後9時を回っても、一向に人の来る気配はなかった。


 かと言って、このまま帰るのも忍びない。

 俺は寒空の下、ひたすら彼女を待ち続けた。


 10月とはいえ、夜は冷える。寒風に身を晒され、何とも言えない寂寥感を感じていた。

 時が過ぎるのを、ただ待つだけの無意味な一時。


 だが、ここまでやれることはやったつもりだ。後は彼女次第。もう、彼女を信じることしかできなかった。


 だが、どうやら神は完全に俺を見放したわけではなかったようだ。

 携帯電話のデジタル時計が、午後9時30分を示した頃だった。


 一人の人影がゆっくりとした足取りで橋に近づいてきた。


 徐々に近づくにつれ、それが彼女だとわかる。髪はやはりいつものポニーテールではなく、肩にかかっており、長く垂らしていた。


 どうやら髪を束ねるのも億劫らしい。衰弱しきったような、幽鬼のような表情がそれを物語っていた。家にも帰っていないのか、服装は学校のセーラー服のままだ。


 俺は、居ても立ってもいられず、彼女に駆け寄った。

「麻弥姉!」

 しかし、彼女の表情は暗い。飼い主に見捨てられた哀れな子犬のように、うなだれていた。


「……」

 遅れたことについてすら、何も言おうともしない彼女。


 対して、俺は祈るような気持ちと共に、静かに心を落ち着けて、口を開いた。

「麻弥姉。聞いてくれ。一つだけ思いついたんだ」

「……何よ」


「ご両親を呼ぶんだよ、学校祭の音楽コンテストに。本番は日曜日だから、お父さんの仕事も休みだろう?」

 彼女の父親は今、とある商社に勤めている。それは知っていたのだ。


 だが、彼女の反応は俺の予想を大きく裏切るものだった。


 嘲笑するように薄く笑みを浮かべ、

「あんた。あたしの話、聞いてなかったの? 来るわけないじゃん。お父さんもお母さんもあたしのことなんか嫌いなんだよ。自分たちのことしか考えてない」

 と、一方で寂しそうに口に出した。


「それは違う!」

 思わず、大きな声を上げる俺の姿に若干だが驚く彼女。俺は続けた。


「自分の子が嫌いな親なんていない。まして娘の晴れ舞台だぞ。説得すれば必ず来てくれる」

「無駄よ。大体、あたしのことを本当に考えているなら、娘の前で堂々とケンカなんてしない」


「いや、それは違うな。娘のことを考えているからこそ、ケンカもするんだ」

「わかった風なことを言わないで!」


 彼女の怒声が、寒風にこだました。やはりこの問題は一筋縄では行かないみたいだ。


「あんな無神経な親なんて、もういらない!」

「自分の親に対して、そんなこと言うな!」

 自然と言い争いになっていた。


 彼女は昔から頑固で、こうと決めたら決して引き下がらないからな。ある程度、こうなることは予想していた。


 俺は嘆息し、かつ息を整えて、改めて静かに彼女に次の提案をすることにした。


「……わかった。じゃあ、ご両親にこう言うんだ。『一生に一度の娘の晴れ舞台だから、必ず見に来て』ってな」


「無駄よ。来るはずない」

 相変わらず頑固な奴だ。全く、誰に似たんだか。


「それでも説得しろ。最後まで諦めるな。学校祭まであと三日ある。毎日、説得するんだ」

 俺が、あまりにもしつこく言うものだから、彼女はついに呆れたように、

「それでもダメだったら?」

 と、俺を試すように、伏し目がちに大きな黒い目を向けた。


 ヤバい。これは最悪の方向に進みそうだ。俺は言い淀んだ。

「その時は……」

「その時は?」


 俺は口を噤んだ。

 事前に用意していた最終手段があったが、それを口にするのが憚られたからだ。


 だが、彼女の目は俺にその先を促していた。

 どうするか。どうするべきか。


 沈黙の重苦しい時間が流れる中、迷って、悩んで、そして俺はついに決意した。


 もうこうなったらどうにでもなれ、と。半ば自棄になって、俺は最終手段を口に出すことにした。


「その時は……。お前のご両親が別れて、お前がお母さんに引き取られそうになったら……」

「なったら?」


 くそ。これだけは言いたくなかったのだが、仕方がない。全く女という生き物は面倒臭い。


「俺がお前を養ってやる!」


 だが、次の瞬間、彼女はただでさえ大きな瞳を、さらに大きく見開いた。それはまるで、見たことのない珍獣でも見るような眼差しだった。


 そして、俺の予想の斜め上の行く反応を示した。


「あはははははっ!」


 突然、大声で笑い出したのだ。

 俺の会心の作戦が、最終手段がもろくも崩れ去った瞬間だ、と思った。これでもうダメだと。


 しかし、相当ツボに入ったのか、彼女はいつまでも笑い続け、両目に涙さえ浮かべている。


 彼女の笑顔自体、見たのは久しぶりだったが。


「いつまで笑ってるんだ?」

 不満げに口を尖らせた俺に対し、

「ごめん、ごめん。でもおかしくってさあ。あんた、バカだねえ」


 彼女は尚も泣き顔なのか、笑顔なのかわからない表情で言った。


「バカとは何だ?」

「だって、そんなことできるわけないじゃん。あたしたち、まだ高校生だよ」

「わかってるよ。でも、バイトでも何でもしてやるから」


 冷静に考えてみれば、これはもう事実上のプロポーズに近い、非常に恥ずかしいセリフだ。その恥ずかしさに耐えきれず、目を背けた俺に対し、しばらくはそんな俺を面白そうに眺めていた彼女だったが、やがて徐々にいつものような明るい笑顔を取り戻していき、

「……わかった。やるだけはやってみるよ。保障はできないけどね」

 涙を拭いながらも、ようやく俺の心を安堵させてくれる一言を呟いた。


「あと、黒田先輩から伝言だ」

「さおりんから?」

「ああ。説得に時間がかかってもいい。ただ、学校祭当日までには必ず戻って来い、だって」


「……わかった。」

 何とかこれで少しは希望の光が見えてきた。そう思うと、心なしか気分は軽くなった。


 麻弥姉は俺の自転車を指差し、

「じゃ、帰ろうよ。後ろ、乗っけてって」

 と、いつもの笑顔にはまだ完全には戻っていないが、少しだけ元気を取り戻したように言った。


「ああ」

 俺は彼女を自転車の後ろに乗せ、ペダルをこぎ始める。

 夜の河川敷を走り、家へと向かう途中、俺の背に向かって、彼女が興味深いことを口走ったのはその時だった。


「ねえ。さっきの優也のセリフ。トミーとジーナみたいだね」

 その一言で、俺はすぐにピンと来た。


「トミーとジーナって、『Bon Jovi』の歌のか?」

「そう。『Livin’On A Prayerリヴィン・オン・ア・プレイヤー』。懐かしいでしょ」


 彼女が言う「トミーとジーナ」というのは、かの有名なアメリカのロックバンド、『Bon Jovi』が1986年にリリースしたアルバム『Slippery When Wetスリッペリー・フェン・ウェット(日本語名ワイルド・イン・ザ・ストリーツ)』の中に収録されたヒット曲、『Livin’On A Prayer』という歌に登場するカップルのことだ。


 作中、この二人は貧しいながらも、二人で懸命に生きていく様子が語られるが、この二人には実はモデルがいて、ヴォーカルとギターを兼ねるジョン・ボンジョヴィの学生時代の友人カップルだという。


 その二人は、卒業後にすぐに結婚し、貧しいながらも二人で支え合って懸命に生きたという話だ。


 後に『Bon Jovi』が作成した曲、『99 in the Shade』や『It's My Life』にも後日談として登場する。


 そして、この『Slippery When Wet』は、俺が小学五年生、麻弥姉が中学一年生の時に、二人で半分ずつ金を出し合って初めて買った洋楽のアルバムだった。


 二人で貸し合いをして、それこそ擦り切れるまで聴いた思い出深いアルバムで、もちろん、『Livin’On A Prayer』の歌詞の意味もお互いに知っていた。


 そして、同時に実はこの『Slippery When Wet』のアルバムこそが、俺と麻弥姉を洋楽に引き込んだ発端だった。麻弥姉が今も『Bon Jovi』を好きなのは、その影響だ。


「ああ。懐かしいな」

 俺が振り向かず、前を向いて、自転車を走らせていると、彼女は俺の腰に両手を回したまま、耳元で、

「……ねえ。さっきのセリフ。もう一度聞きたいなあ?」

 と、少し甘えたような声音で囁いてきた。


 俺は自然と、自分の心臓の鼓動が高まるのを感じていた。背中に当たっている二つの胸の膨らみと暖かさもそれを助長する。改めて、幼なじみに告白をしてしまった気恥ずかしさが込み上げてくる。


 だが、

「嫌だよ。二度と言わないからな。恥ずかしいし」

 俺が憮然としながらそう口にすると、

「あはははははっ!」


 またも彼女は、ケラケラと笑い出した。

 だが、そんな彼女を見て、俺は思ったのだった。


 やっぱり彼女は笑顔の方がいい、と。悲しそうな麻弥姉を見ているのは辛い、と改めて俺は心の中で再確認するのだった。


 こうして、何とかこの問題に希望が見えてきたが、学校祭まではもう時間がなかった。

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