都宮 その1

 自宅に戻るなり、都宮つのみやの緊張は一気にほどけた。

 今、街を騒がすキリサキマに何とか出くわずにすんだからである。

 ただ、その代わりに妙な男には出くわしたが。


 赤い自転車に乗っていた若い男。


 下街の住民が上街の自分にあんな態度を取るなど、殺されても文句はない。

 この街にまだあんな奴がいたとは驚きだった。


「まあ、どうでもいいが」

「何か仰いましたか、先生」


 独り言に秘書のあおいが反応した。


「別にただ……少し考え事だ」

「考え事ですか」


 葵は都宮のジャケットを預りながら話を続ける。


「私で力になれることでしたら何なりと」

「ああ。じゃあコーヒーを淹れてくれるか」


 しばらくして、芳醇ほうじゅんな香りが邸宅内を満たし始めた。


「そういえば、車は大丈夫なのか。どこか不調みたいだったが」

「ええ。やはり故障してしまったようです。間違いなく、あの野蛮な御仁のせいかと」

「ふん。あのクソガキがっ。あの場で叩き殺してやるべきだったか」

「急ぎの用があったのですから、仕方がありませんよ」


 本当はキリサキマに怯えていただけだとは口が裂けても言えない。

 

「まあ、ここからしばらくは外出する用事はないことが幸いか。事が落ち着いたら見つけ出して制裁を加えてやるとしよう」

「先生、よろしいですか」


 葵が自分の話をさえぎるなど珍しいこともあるものだ。

 都宮は少し驚いたが、努めて表情にはでないようにする。


「何だ?」

「この後のことで確認を。いつもの用事を済ませた後、昼過ぎからお休みをいただく件ですが」


 今度ばかりは都宮は驚きを隠せない。

 葵が休みをくれと言い出すなど、前代未聞だ。 

 いや、彼女が土壇場でこんなことを言い出すなど、それこそありえるはずはないから前々から聞いていたことではあるのだが。

 しかし、その日が訪れることはないと心のどこかで思っていた。

 ノストラダムスの大予言を聞くかのような気持ちで、都宮は葵の休みの打診を聞いていたのである。 

 何と現実味のないことか。


「先生?」

「…………ああ、問題ない。朝までにいつもの用事を済ませておいてくれれば」


 別段何の問題もない。そうだ、問題などないのだ。家に一人でいるだけなのだから。


「ありがとうございます。では、少し早いですが行って参ります」


 葵はいつもと寸分変わらぬお辞儀をしたかと思うと、再び家を出た。

 車が使えないため、この時間ということなのだろう。

 どこからともなく、日常が瓦解がかいする音が聞こえた気がした。

 せめてもの温もりを味わうように、都宮はコーヒーの湯気を消えるまで見つめていた。

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