市川 その1

「ああ~……えっと」


 市川いちかわはセキュリティゲート前で悪戦苦闘していた。

 事前に何度も確認したはずなのに、一度ひっくり返ると訳が分からなくなってしまう。

 通行証を表に裏に前に後ろに回して、わたわたと慌てふためく。

 彼女のせいで帝辺学院の生徒たちは大渋滞を起こしていた。


「何やってんだよ、前」

「おい、押すな」

「誰に言ってんだよ」

「ゲート壊れたのか?」


 背後で交わされる言葉の数々が市川を急き立て、さらなるパニックを引き起こす。


 だから嫌だって言ったのに。だから嫌だって言ったのに。だから嫌だって言ったのに。


 市川はここの生徒でもなければ教員でもない。中街なかまちに暮らす平々凡々な売れない小説家である。

 その彼女がなぜこんなところにいるかと言えば、上街うえまちに住む友人にある頼み事をされたからだ。

 基本的に閉鎖的な市川は最初はこれを断ったが、上街でしか食べられないスイーツを釣り下げられては仕方がない。

 それにありつくためにはこの難関を何としても越えなければならないのだ。


 ゲートの認証機は何が気に入らないのか、ブーブー唸り続ける。

 それに重なるように若者たちのわめき声は激しさを増していき、市川の目にはついに涙まで浮かび始める。

 そのとき、市川の手にすっと別の手が重なった。


「校章を上にして、自分の方に、ここの角をそこの線に合わせて、こうですよ」


 優しげなその声は市川を決して急かすことはなく、導かれるようにして手が動く。

 ポーン。ようやく、耳にやさしい音がしてゲートがオープンした。


「ああ、やった。開いた」


 あまりの嬉しさに市川は溜めていた涙をぽろぽろと流した。

 すると、あの優しげな声が言う。


「ふふっ。ややこしいですよね、このゲート。私も昔はよくやりましたよ」

「ああ、あのっ! ありがとうござ……」


 市川が顔を上げ、礼をしようとしたとき、すでにあの声の主はいなかった。


「あれ? あれ?」


 いつの間にいなくなったのだろう。

 今の人、何だか懐かしい感じがしたような……。 


「通ったんなら早く入れよ!」


 短気な若者たちはそれ以上、市川の思考を許さなかった。

 人の波に押し込まれるようにして、誰もがうらやむ帝辺学院に市川は足を踏み入れる。

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