第39話 トラブルは酔っ払いから

 待ちに待った週末が訪れ、星矢さんの快気祝い当日だ。あまり広くはない店内に、すでに沢山のお客さんが集まっていた。カウンターには、ジェシカママが腕によりをかけた食事が並んでいる。ブュッフェスタイルのようだ。料理人の血が騒いだのか、いつもより豪勢だ。

 ケチ臭いのは嫌いだからよ! 派手に頼むぜ! と、星矢さんから、オーダーが入ったそうだ。金に糸目はつけないと言っているようで、久々に景気の良い話を聞いた。お金持ちが洋服店で、「こっから、ここまで」と注文している姿を連想した。

 星矢さんの快気祝いパーティーが始まって、皆がお酒や食事を堪能している。会話にも花が咲いていて、楽しそうな姿に嬉しくなった。そして、僕が一番驚いたのが、主役の星矢さんが誰よりも働いている事だ。主役なのだから、ただ単純に楽しめば良いのに。お客さん一人一人に声をかけ続け、満たされていない人がいないか、気を配っている。いつもより、煌びやかなドレスをまとった星矢さんは、いつも以上の存在感を放っていた。

「翔太、飲んでるか?」

「はい、勿論です! 星矢さんも人の世話ばかり焼いてないで、もっと楽しんで下さいね。僕がやりますから」

「ここにいる誰よりも、俺が楽しんでるぜ?」

 豪快に笑う星矢さんが、残り香を置いて、別の場所へ移った。

 楽しい時間は、あっと言う間に過ぎるものだ。酔っ払いの山を築いていく。

「私は、あんたを許した訳じゃないからね!」

 喧騒を打ち払う大声が響いた。瞬間的に、店中の視線が、発生源に集中した。スレンダー美女のリョウさんが、ヒメカに詰め寄っていた。僕は、大慌てでお客さんをかき分けたが、僕よりも先に星矢さんが、二人の間に割って入っていた。

「リョウ悪いな。俺に免じて、引いちゃくれねえか? 今日は楽しく飲みてえんだよ」

「納得いかない! 許せる訳がない! 皆だってそうよ! どうして、犯罪者が何食わぬ顔で混じっていて、平気な訳!? 私には、なかった事にするなんて無理!」

 僕の知っているリョウさんは、知的で冷静なお姉さんであったが、胸の奥に眠っていた不満がアルコールで目を覚ました感じだ。勿論、リョウさんの言い分は分かるし、僕達も同じ不満は持っている。しかし、星矢さんの想いを汲み、奥歯を食いしばって許す事にした。背中を刺された被害者である、星矢さんが望むのならばと。

 他人の為に、怒りを我慢する事にした。

 気持ちは分かるけれど、蒸し返されるのは望むところではない。口裏を合わせて、折り合いをつける行為が、正しいとは思わない。しかし、『星矢さんの為ならば』と、マーブルの仲間達が決めた事だ。当然、リョウさんだって、星矢さんからお願いされていたはずだ。アルコールが、抑え込んでいた蓋を開けてしまった。

「リョウ飲み過ぎだな。少しクールダウンしようか」

「飲み放題なんだから、飲むに決まっているじゃないの! 悪い!?」

 完全に酔っぱらっているリョウさんは、足元も理性も怪しくなっている。酒は飲んでも飲まれるな。今のリョウさんにそんなことを言っても、火に油を注ぐだけなので、優しく見守る事にする。ヒメカにしたって、涙目でうつむいている。無理やり押し込めていた罪悪感を呼び起こされてしまったのだから、致し方ない。これまで考えもしていなかったけれど、被害者と加害者が一緒になって、被害者の快気祝いを行っている光景は異常だ。とは言え、今日という日を楽しむと決めた。星矢さんは勿論、浅岡君の想いだって知っている。リョウさんの言動が火種になって、皆の押し込めた気持ちが再燃してしまわないか心配になった。

「皆はどうなのよ!? 納得できるの!?」

 静まり返った店内にリョウさんの怒声が響く。皆を焚きつけるのは止めて欲しい。『民衆扇動は、ドイツなら罪になりますよ』そんなジョークも憚られる雰囲気だ。そもそも、僕にそんな度胸はない。

「まあまあ、皆今日は星矢君と面白おかしく楽しみたいって集まったんだからさ、今日は楽しもうよ。気持ちは良く分かるけど、今日は言いっこなしでいこうよ」

 ヨタヨタと歩み寄った辻本さんが、リョウさんの肩に触れて優しく微笑んだ。瞬間的に、リョウさんが、辻本さんの手を払いのける。

「触るな! 星矢を出しにして、楽しみたいだけだ!」

「なんだと!? 自分だけが、星矢君の事を想っているみたいな顔するな! 無理やりほじくり返して、星矢君の顔に泥を塗っている事も分からないのか!? お前だけが気持ち良くなっている事になぜ気づかない!?」

 リョウさんと辻本さんが、喧嘩を始めてしまった。辻本さんの言い分が正しいとは思うけれど、酔っ払いに正論は通用しない。僕は急いで、辻本さんの前に立って、両肩を抑えた。僕と星矢さんが、背中合わせになる格好だ。僕と星矢さんという壁が見えていないようで、リョウさんと辻本さんは言い争いを続けている。

「ダメだ。酔っ払い同士の喧嘩は、収拾がつかねえ。俺はリョウを外に連れて行くから、翔太は辻ちゃんのフォローを頼む」

「了解です」

 星矢さんが、僕の耳元で呟き、暴れるリョウさんを扉の方へと押していく。僕は僕で、いきり立つ辻本さんを抑える事で精一杯だ。辻本さんもリョウさんも、優しい人だから、酔いが醒めた時にくる苦悩も分かる。

「偉そうな事言いやがって! つい最近店に来たばかりの新参者が!」

 辻本さんが、離れていくリョウさんに向かって、唾を飛ばした。その瞬間、ピタリと動きを止めた星矢さんが振り返った。そして、拳から親指を出した形で、こちらに向かって腕を振った。

「ミッチャン!」

 星矢さんの声につられるようにミッチャンママに視線を向けると、小さく頷いてこちらに歩いてきた。

「辻ちゃん、少し落ち着きましょ? 皆の為に一肌脱いでくれてありがとね」

 ミッチャンママが、辻本さんの背中に触れると、まるで怒気を吸収されたようにおとなしくなった。それから、ミッチャンママが辻本さんを店の奥のソファに座らせる。僕は、ただ二人の後ろをついていく。ミッチャンママと辻本さんが横並びにソファに腰を掛け、ボソボソと話をしていた。僕は、呆然と二人の姿を眺めている。背後では、小百合ママが皆に声をかけ、パーティーを仕切り直していた。僕が何を言っても聞く耳を持たなかった辻本さんが、まるで子供のように素直に頷いていた。ミッチャンママが、本物のお母さんのように見えた。

 落ち着きを取り戻した辻本さんを見て、やはり複雑な心境である事は否定できない。『僕が星矢さんに任されたのに』という、子供じみた感情が生まれていた。

「翔太、ここはもう大丈夫だから、あんたは小百合ちゃんと一緒に、皆を盛り上げてらっしゃい」

「翔太君。本当にごめんね。君には助けられてばっかりだ。ありがとう」

 辻本さんが、顔の前で手を合わせて、僕に向かって拝んだ。両手を振って恐縮する。ここで不貞腐れていても始まらないので、お酒を手にして元気良く乾杯のコールを上げた。お客さん達も元気良く『乾杯!』と返してくれた事が救いだった。お客さん一人一人に声をかけて回った。あからさまに凹んでいるヒメカには、しっかりと時間をかけた。

「私、帰った方が良いよね?」

「そんな事はないよ。ヒメカがいなくなったら、皆が心配するから、気まずくても皆の為にいてあげて」

 ヒメカは涙目になりながら、何度も頷いてくれた。これは、僕の意思というよりも、『星矢さんなら、きっとこう言うだろう』という想像だ。マーブル内の空気は、まだやや硬いけれど、皆が明るく勤めているように見えた。

 お客さんに一通り声をかけたところで、やはり外の様子が気になる。星矢さんとリョウさんは、大丈夫だろうか? 僕は、皆さんに気づかれないように、そっと出入り口の扉を押した。すると、案の定、乾いたベルの音が響いて、この時ばかりは迷惑だと睨んだ。店から出ると、扉の近くに腰を下ろした星矢さんとリョウさんがいた。体育座りで膝の上で腕を組んだリョウさんは、腕の中に顔を埋めている。コンパクトに体を折りたたまれていた。リョウさんの背中をさすっている星矢さんは、地面に尻をつけて胡坐をかいている。煌びやかなドレスでもお構いなしで、星矢さんらしい。ちなみに、パンツが見えそうになっているが、見なかったふりをした。

「翔太、すまなかったな。中の様子はどうだ?」

「いえいえ、もう平常運転ですよ。辻本さんもミッチャンママが慰めています」

 言いながら、星矢さんの前で腰を下ろした。通行人が、チラチラとこちらを見ていたので、少しでも壁になれたらと思った。動かないリョウさんは、起きているのか、眠ってしまったのか分からない。

「ごめんな翔太。でも、勘違いしないでくれよ。辻ちゃんをミッチャンに任せたのは、別に翔太が役不足って訳じゃないんだ。何て言うのかな、担当違いって言うのかな、まあそんな感じだ」

 感情が顔に出ていたのかと、ドキッとした。僕は、誤魔化すように、小さく手を横に振った。

「担当違いって、どういう事ですか?」

「辻ちゃんがさ、『新参者が偉そうに』って言っただろ? 酔っぱらっていたとは言え、あれはもう個人間こじんかんの問題じゃなくてよ、対店側の問題なんだよ」

「それって、どういう・・・」

「古参がドヤると、文化が死ぬ」

 星矢さんが、真剣な表情で、真っ直ぐに僕を見つめた。やはり僕には、言葉の意味が分からなかったので、首を傾ける。

「つまりな、どのジャンルでも、新参者を拒絶すると、衰退するしかないんだよ。当然だ、誰でも入り口は新参者でニワカファンだ。で、そのニワカを古参連中が攻撃する。入り口を閉じてしまうんだ。古参がデカイ顔をして、新規の客が入り辛い店は必ず潰れる。デカイ顔をする古参は、店の事など考えずに、自分の居心地の良い空間を作ろうとする。応援してくれる大切な客から、足を引っ張る厄介な客になるんだよ」

 そういう事だったのか。だから、星矢さんはマーブルの未来を考えて、僕ではなくミッチャンママに託したのだ。そして、ミッチャンママもその事を理解している。早めに対処するべき案件だったのだ。そう言われると、確かに僕では説得する事ができなかった。星矢さんは、目先の自分のパーティーの成功よりも、ずっと未来のマーブルの事を考えていたのだ。自分で言うのもおこがましいが、確かにこれまでのマーブルを支えてきたのは、僕達常連客だ。しかし、その常連客が、新規のお客さんを拒絶してしまっては、店は衰退する。僕には、そこまで考えが至らなかった。星矢さんの快気祝いを楽しみたいと目先の事しか考えていなかった。

「だから、俺やお前、モモや辻ちゃん、未来だってそうだ。マーブルの事を考えて、新しい客には優しくしなくちゃな」

 星矢さんは、すっと立ち上がって、尻を叩いた。

「そういう訳だから、そろそろ中に戻ろうぜ。リョウお前もだ。お前が見たがってた、ドンペリタワー見せてやるからよ」

「え? 本当? 見たい見たい」

 素早く顔を上げたリョウさんが、ニッコリと微笑んで立ち上がった。すっかり酔いが醒めたのだろう。いつものリョウさんの顔だ。やっぱり優しく微笑んでいるリョウさんの方がずっと綺麗で、ずっと良い。

「翔太君、取り乱しちゃって、ごめんね」

 リョウさんに耳元で囁かれて、顔が熱くなった。

「今度お詫びするからね。翔太君って童貞? 満足させてよね? 星矢には、内緒だよ」

 リョウさんは、唇の前で人差し指を立てて、店の中に入っていった。全然、酔いが醒めていないじゃないか。先日のヒメカにしたって、どいつもこいつも。実は、あなた達は、似た者同士ですよ。ちなみに、僕自身の沽券の為に言わせてもらうと、僕は童貞ではない。

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