第36話 誰も幸せにならない時間

「・・・いや、だから、部外者は向こう行けよ」

「私が居てって言ったのよ? 聞いてなかったの? 別に竹内君がお父さんの指図に従う必要はないでしょ? お客さんでも上司でもないんだから」

 確かに、衣麻さんの味方になると決めた。しかし、のっけから、臨戦態勢に入られるのは、非常に困る。肩を温めるように、ブンブン腕を振り回しているように見えた。願わくば、お手柔らかに願いたい。

「身内の恥を他人に晒して、どうするつもりだ?」

「は? うちの恥って何よ? 道端で私達が言い争っている事? それとも、未来の事?」

「どちらもだ」

 互いに一歩も引かない様子で、にらみ合っている。あくまでも、口論ではなく討論で片を付けたい。しかし、二人から発せられる雰囲気は、あまりにも攻撃的だ。きっと、衣麻さんも浅岡さんも守りたいものがあるのだろう。守る為に、攻撃をする。攻撃は最大の防御だと言わんばかりだ。

「あの店は何だ? 先ほど、少し覗いたが、気持ちの悪い。あんな店が存在する事が不可解だが、大の男が寄ってたかって、なんだあのざまは? 恥を知れ恥を」

 浅岡さんは、マーブルに向かって顎をしゃくった。さすがに、カチンときた。

「誰にも迷惑をかけず、法にも触れていない、人様の趣味趣向を『気持ち悪い』って言う奴の方が、よっぽど気持ち悪いよ。お父さんの方が、恥を知るべきよ」

 怒りに任せて、文句の一つでも言ってやろうとした矢先、衣麻さんが声を張り上げた。驚きのあまり、僕の中に芽生えた憤怒が消沈する。自分よりも怒っている人を見ると、怒りは治まるようだ。

「なんだその言い草は? 親に向かって! 子供のクセに親に歯向かうとは。女のクセに、はしたない!」

「子供とか女とか、関係ないでしょ!?」

「まったくどいつもこいつも、情けない。未来にしたってそうだ! 男のクセに、みっともない!」

 感情が先走ってしまい、会話が破綻している。破綻させているのは、浅岡さんだ。浅岡さんの言い分を聞いていると、『何々のクセに』という、差別的な思考を持っているようだ。これはこう、という凝り固まった価値観があるようだ。そのあまりにも一方的な、価値観の外の存在を嫌っているようだ。

「あの、すいません。あなたは、親のクセに、子供を受け入れられないんですか?」

「うるさい! 部外者は黙ってろ! 道を誤った子供を正してやるのが、親の務めだ!」

 あまりにも腹立たしかったので、嫌みの一つでも言ってやろうとしたら、一蹴されてしまった。都合が悪くなると理論を無視して断ち切り、己が正しいと信じて疑わない。なるほど、衣麻さんが言っていた通り、かなり厄介な相手だ。会話が成立しない子供と相対しているような感覚になってきた。いや、むしろ、経験と実績がある分、質が悪いようにも見える。三人の子供を育て上げ、仕事でもそれなりの地位を獲得しているのだろう。その経験と実績が、こじらせ具合に拍車をかけている。

 こんな事を言うと、浅岡君と衣麻さんに失礼だろうから、決して口にしないが、嫌いなタイプの人間だ。できる事なら、避けて通りたい障害だ。

 衣麻さんと浅岡さんの罵詈雑言に耳を塞ぎたくなってきた頃の事だ。聞き馴染みのある乾いた音が耳に届いた。反射的に振り返ると、浅岡君が外に出てきた。辺りをキョロキョロ見渡し、僕達にピントを合わせて静止した。次の瞬間、浅岡君はこちらに向かって走ってきた。

「何やってんだよ!?」

「お前こそ何やっているんだ! なんだその格好は!? みっともない! 恥ずかしいから、直ちに止めろ!」

 今にも取っ組み合いになりそうな二人の間に割って入った。僕みたいな軟弱な壁は、すぐ突破されそうだ。

「あのお、すいません。お取込み中大変恐縮なのですが、お尋ねしても宜しいでしょうか?」

 いつの間にか隣にいたミッチャンママが、小さく手を挙げている。僕は驚きのあまり、魚のように口をパクパクさせた。

「お父様は、先ほどみっともない、恥ずかしいとおっしゃいましたが、誰が恥ずかしいのですか?」

「なんだお前は? 揃いも揃って、気持ちが悪い」

 浅岡さんは、汚物でも見ているように、顔を歪め体を引いている。

「あ、そういうのは、どうでも良いので、質問に答えて頂けます? 誰が恥ずかしいのですか? いや、誰が恥ずかしい思いをすると、お思いなのですか?」

 思いの外、ミッチャンママは肝が据わっているようで、何食わぬ顔を見せている。ミッチャンママも様々な経験をしてきているのだろう。僕の知らないミッチャンママがそこにいた。ミッチャンママと浅岡さんの表情は、実に対照的だ。きっと、同世代くらいだ。ミッチャンママは、相当な覚悟を持って、生きているのだろう。

「この人は、自分が恥ずかしいんですよ。子供のせいで、自分が恥をかくのを嫌っているんです。そういう人です」

 衣麻さんが、吐き捨てるように代弁した。完全に頭に血が上っている浅岡さんは、また理解できない事を叫んでいた。

「お前も! お前も! 子供の分際で何様のつもりだ! ここまで育ててやった恩を仇で返しやがって!」

 浅岡さんは、衣麻さんと浅岡君を指さして、唾を飛ばす。浅岡さんの発言に、怒りを通り越して、引いてしまった。それを言っちゃお終いだ。

「うるせえよ! そんな事誰も頼んでないんだよ! お前が勝手にやったんだろうが!」

 売り言葉に買い言葉だ。浅岡君が、目を見開いて、怒鳴り声を上げた。次の瞬間、パシンッ! と、破裂音が鳴り響き、辺りに沈黙が下りた。浅岡君が、頬を押さえながら、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしていた。ミッチャンママが、浅岡君の頬を平手打ちした。

「未来ちゃん。そんな事言っちゃダメ。それは卑怯よ。それに、浅岡さんも。あなたの義務を恩着せがましく言うものでは、ありませんよ。見返りを求めないから、無償の愛と呼ぶのですよ。未来ちゃんも、無償だからって訳ではないけれど、感謝の気持ちは忘れちゃいけないわ」

 叩いてごめんなさいね。と、ミッチャンママは、頬を押さえる浅岡君の手に、自身の手を添えた。浅岡君は、瞳を潤ませ、小さく頷く。

「お前みたいなイカレタ奴に、親子を語られたくないんだよ! 何様だ! 偉そうに!」

 この期に及んで、浅岡さんの罵声が飛んできた。もう救いようがない。そして、救うつもりもない。脳味噌が瞬間的に沸騰し、意識が飛んだ。

「僕の自慢の父親だ! なんか文句あんのかこの野郎! さっきから黙って聞いてりゃクソみたいな事ばかり吐きやがって! 悔しかったら、自慢の父親になってみやがれ!」

 先程聞いた破裂音が、今度はゼロ距離で耳に飛び込んできた。ジンジンと痺れる頬を押さえ、呆れ顔のミッチャンママを呆然と眺めている。意識が戻ってようやく、ミッチャンママに頬を叩かれたのだと、認識した。

「落ち着きなさい。失礼な事を言っちゃいけないよ。まったく、もう、恥ずかしいじゃない」

 ミッチャンママは、優しく目を細めて、僕を見つめている。小さく顎を引き、浅岡君を見ると、僕と同じように頬を押さえていた。互いの目が合い、共に照れ臭さから、はにかんだ。まるで、イタズラをした兄弟が、親に叱られたみたいだ。

 ミッチャンママの『恥ずかしい』は、恥ではなく、照れだという事が容易に理解できた。それは僕とミッチャンママの間で、しっかりと信頼を育んできたからだ。しかし、僕達との関係と反して、浅岡親子は無残なものだ。その要因は、今更口にする事すら嫌悪感に苛まれる。衣麻さんの言動、浅岡君の言動から、お父さんがどういう人で、家庭内においてどのような立ち居振る舞いをしてきたのか、透けて見えてしまう。

 自己中心的な独裁者といった印象だ。己の取り分しか設計できていないようだ。

 愛せる訳がないし、愛される訳がない。浅岡君にかける言葉が見つからず、ただただ同情する事しかできない。

「親が親なら、子も子だな」

 若干腰が引けている浅岡さんが、悪あがきでもするように吐き捨てた。なんとなくしか覚えていないけれど、我を忘れ怒鳴り散らした効果が出ているようだ。

「そうなんですよ。ちゃんと人の気持ちを考えてあげられる優しい子なんです。親が侮辱されて、息子が怒ってくれるなんて、親冥利に尽きますよね。そうは思いませんか?」

 皮肉をたっぷり含んで、ミッチャンママはニッコリと微笑んでいる。薄暗い通りだが、浅岡さんの顔が紅潮しているのが見えた。

「そんなん知るか」

「そうですか、残念です。では、今日のところは、これでお開きにしましょう。これ以上話しても誰も幸せになりませんから。ちゃんと、『お話』をする気になりましたら、またいらして下さいね。それでは、失礼いたします」

 ミッチャンママは、腿の辺りに手を添えて、ゆっくりと頭を下げた。

「じゃあ、皆。お店に戻りましょう」

 踵を返したミッチャンママが、マーブルに向かって歩いていく。

「おい! 何お前が勝手に・・・」

 浅岡さんは、怒鳴り声を上げるが、息が詰まるように口を閉じた。僕と浅岡君と衣麻さんの三人が、無言で浅岡さんを睨みつけていた。僕はプイッと顔を背け、ミッチャンママの後を追った。背後から、二人分の足音が聞こえる。浅岡君も衣麻さんも、寄り付かず声もかけず、父親を置き去りにした。

これが、不毛な時間の、答えなのだと思った。

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