第35話 元凶の来訪

「え? 衣麻さん? お父さんって・・・」

 衣麻さんの顔を見ると、明らかに引きつっている。頭が真っ白になって、衣麻さんとお父さんを交互に見る事しかできなかった。次に衣麻さんの顔を見た時には、眉間にしわを寄せ厳しい表情に変わっていた。声をかけようとした瞬間、衣麻さんは素早く立ち上がって、お父さんを追い出すように、店の外へと出て行った。咄嗟に背後を向くと、誰も気が付いておらず、一先ずホッと一息ついた。

 情けない事だけど、僕はどうしたら良いのか、どうするべきなのか、何も決められないでいた。

「翔ちゃんどうしたの? そんな血相を変えて。あら? 衣麻ちゃんはどうしたの?」

 血相が変わっているのか? 反射的に腕を伸ばし、テーブルに置いてあるおしぼりを掴んだ。そして、勢い良く顔を拭く。

「ああ、衣麻さんなら、電話しに外に出ましたよ。ちょっと飲み過ぎたかなあ? 暑くなってきました」

 笑って誤魔化したが、ちゃんと誤魔化せているのか不安だ。僕は、店内を見渡した。皆が楽しいお酒を飲んで、盛り上がっていた。今、浅岡君のお父さんの存在を知ってしまったら、確実に水を差してしまう。それはきっと、浅岡君に負い目を感じさせてしまうし、また負荷をかけてしまうだろう。あんなにも楽しそうに笑っている浅岡君が、引け目を感じマーブルに来なくなってしまったら、それこそ一大事だ。だからと言って、このまま放っておいて良いものなのか? 衣麻さんに丸投げ状態で良いのだろうか? 他人の僕が、よそ様の事情に首を突っ込むべきではないのだろうか? 

 ああ、くそ! 答えが見つからない。決断力のない自分に嫌気がさす。狼狽えている事を誰にも悟られないように、平静を装っている。扉の向こう側では、どのような会話が繰り広げられているのだろう。確実に、良い雰囲気ではないはずだ。悩んでいても仕方がない。自分で決められないなら、別の誰かに決めてもらうしかない。情けなさをグッと飲み込んで、僕は席を立った。数歩歩いて、お客さんと談笑している父さんの肩に手を置いた。そして、耳元に口を寄せる。

「父さん。ちょっと良い?」

 ゆっくり振り返った父さんは、怪訝な顔をしている。

「父さんって誰の事ですかぁ? 私はミッチャンママですぅ」

 茶化すように唇を尖らせた父さんが、僕の顔を見た瞬間に表情を引き締めた。そして、お客さんに振り返って、『ちょっとごめんなさいね』と笑みを見せ、僕を店の隅に引っ張っていく。父さんが手を離したのは、少し奥ばったトイレの前だ。

「いったいどうしたのよ?」

「今、浅岡君のお父さんが来てるんだよ。それで、衣麻さんが店の外に連れ出したんだ。たぶん、誰も気づいてないと思うんだけど・・・僕はどうしたら良い?」

 父さんは、目を見開いて、驚きを見せた。そして、指の背を唇に当て、一点を見つめている。どうするべきなのか、考えているようだ。数秒後、父さんは僕を見つめた。

「正直、正解なんか私にも分からないわ。でも、翔太は、外の様子を見てきなさい。それで、衣麻ちゃんの指示に従いなさい。尋ねなくて良いから、衣麻ちゃんの言った通りにするの。良い? 衣麻ちゃんの指示を待ちなさい。衣麻ちゃんの味方になってあげるのよ。はい! 行って!」

 父さんに尻を叩かれ、僕は出入り口に向かって歩き出した。僕が座っていた席で立ち止まり、景気づけにビールを一気に飲み干す。ジョッキをテーブルに置くと、異変に気付いた小百合ママが、カウンター越しに小さく手招きをしている。

「翔ちゃん、どうしたのよ?」

「すいません。後で説明します。誰にも言わないで下さい」

 口の横に手を当てている小百合ママは、小さく顎を引いた。僕も会釈を返し、出入り口の扉を開いた。外に出ると、衣麻さんとお父さんは少し離れた場所にいた。小走りで駆け寄ると、二人は僕の方を向いた。

「衣麻さん。大丈夫ですか?」

「あ、竹内君」

 衣麻さんの表情を見る限り、決して大丈夫とは言えない様子であった。

「どちら様ですか?」

 浅岡さんが、眼鏡を指で押し上げる。眼鏡の奥にある瞳は、僕を値踏みするように、黒光りしているように見えた。

「この人は、未来の職場の先輩で、竹内さん。未来がとてもお世話になっている人だよ」

 僕が挨拶をしようと口を開いた瞬間に、衣麻さんが紹介してくれた。僕は一息ついて、頭を下げた。

「竹内です」

「そうですか。息子がお世話になってます。父です」

 浅岡さんは、無表情で面倒くさそうに頭を下げた。僕の父さんと同世代くらいだろうが、なんと言うか威厳というものが段違いだ。それは、ミッチャンママの姿を見慣れてしまって、元の姿が記憶から薄くなっているからかもしれない。

「申し訳ないですが、少々立て込んでまして、お引き取り願えませんか?」

 懸命に平静を装っているようだが、浅岡さんの口調には、苛立ちが見え隠れしている。いつもなら、早々に退散している状況ではあるが、そうもいかない。左側に顔を向け、衣麻さんの様子を伺った。衣麻さんは、厳しい顔で、浅岡さんを見上げている。

「聞いてるのか? 今、家族で大切な話をしているから、他人は首を突っ込まないでくれるか?」

 低い声の方を向くと、浅岡さんは体の至る所が、小刻みに動いていて落ち着きがない。

「竹内君、居てもらっても良い?」

「はい、良いですよ」

 浅岡さんを見つめたまま力強く顎を引いた。衣麻さんのお許しが出た。もう迷う事はない。自分のやるべき事が明確になると、腹は座るものだ。

 僕は、衣麻さんと浅岡君の味方になる為に来たのだ。

「はあ?」

 苛立ちを前面に押し出した浅岡さんが、顔を歪めた。

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