第33話 後輩は家を飛び出した

「ニヤニヤして、気持ち悪いわよ」

 ビールのお代わりを持ってきてくれたミッチャンママに汚物を見るような目で見られた。どう考えても、息子に向ける視線だとは思えない。

「うるさいな! シッシッ!」

 集るハエを払うように、手を振った。『イー』と歯を見せて、ミッチャンママは別のお客さんのテーブルに着いた。浅岡君と違って、全然可愛くない。

 先日、この場所で初体験を済ませた浅岡君のあの嬉しそうな笑顔が脳裏に焼き付いている。事情や経緯を知っているだけに、感慨深いものがある。

「ご機嫌ね、翔ちゃん。そういえば、あの日以来未来ちゃん見ないわね。どうかしたの?」

「僕も詳しい事は分からないんですけど、なんだか忙しいみたいですよ。また落ち着いたら、マーブルに行きたいって言ってました」

「そう。じゃあ、またあの可愛らしい姿を拝める日を楽しみにしてよっと」

 小百合ママは、手を合わせた後、注文したエイヒレを僕の前に置いた。なぜ浅岡君が神格化しているのか、疑問を感じつつ、エイヒレをかじった。

 小百合ママと談笑していると、乾いたベルの音が鳴った。新しいお客さんが来たのだろう。誰が来たのか振り返ろうとする前に、肩に手を置かれた。

「ああ、良かった。やっぱり来てた。隣良い?」

「あ、衣麻さん。どうぞどうぞ」

 衣麻さんは、僕の隣の椅子に座って、ビールを注文した。ビールが運ばれてきて、乾杯する。衣麻さんは、スーツ姿なので、仕事帰りに寄ってくれたのだろう。衣麻さんの先ほどの言葉から察するに、僕に会える事を期待していたのかもしれない。そう考えると、持ち主の意と反して、心臓が高鳴った。

「ところで、竹内君。未来は、元気にしてる?」

「え? どういう事ですか? 元気だと思いますけど」

「そう、それなら良かった。未来ね、最近一人暮らしを始めたのよ。落ち着いたら、住所教えるって言ってたけど、まだ連絡がないから」

「え? 一人暮らし? それは初耳ですね」

 浅岡君が一人暮らしを始めた事は、何も聞かされていない。忙しそうにしていたのは、その為か。教えてくれたら、荷運びやら色々手伝ったのに。教えてもらえなかった寂しさもあるが、衣麻さんが僕に会いたい理由が、僕が期待したものとは違い、少々落胆する。

「まあ、未来ちゃんも一皮剥けたのね。念願が叶って、大人の階段を駆け上がっちゃった感じ? これは乾杯案件ね」

 小百合ママは、嬉しそうにジョッキにビールを注いで戻ってきた。『乾杯!』とジョッキを差し出してきたので、僕も景気良くジョッキをぶつけた。しかし、衣麻さんは、遠慮がちで、浮かない表情をしている。

「あら、やだ! 衣麻ちゃんは寂しいの? でもダメよ。弟の門出は、盛大に見送ってあげなくちゃ! 弟が手を離れて、寂しいお姉ちゃんの気持ちも分からなくもないけれど」

 小百合ママは、にこやかに微笑んでいるが、衣麻さんの顔は晴れない。顔を左右に振って、ビールを一気に飲み干すと、お代わりを要求した。新しいビールに口をつけ、ジョッキをテーブルに置いた。

「そうじゃないんです。そりゃ多少は寂しくもあり、心配もしてるんですけど」

 衣麻さんは、エイヒレに手を伸ばして、無言で咀嚼する。それ、僕のなんですけど、などとは言えない雰囲気だ。

「未来も社会人なんだし、自立するのは良い事だと思うんだけど、『一人暮らしを始めた』のではなくて、『家を出て行った』と言った方が正しくて、だから心配なんです」

「家を出て行った? 何があったんですか?」

「・・・父親と大喧嘩をしちゃってね」

 衣麻さんは、溜息を吐いて、肩を落とす。

「お父様にカミングアウトして、喧嘩になったって事かしら?」

 小百合ママが顔を寄せると、衣麻さんは首を横に振った。

「違うんです。私のせいなんです。私が、妹に女装した未来の画像を見せていたら、母親が入ってきてしまって、妹と母親は好意的に楽しんでいたんですけど、母親が父親に話してしまったんです。それで父親が怒り出してしまったんです。臨戦態勢の父親が、未来の帰宅を待っていて、無防備の未来を見た瞬間、父親は怒鳴り散らして蔑みました。後は、見るに堪えない泥仕合で・・・」

 顎を上げて、ビールを飲み干した衣麻さんは、テーブルに突っ伏した。

「はあ、私のせいだ。不用意に妹と母親に画像を見せてしまった。母親に口止めするのを怠った。あまりにも浅はかだった。未来は、長年細心の注意を払ってきたのに、台無しにしてしまった。未来には未来の話したいタイミングがあっただろうに・・・やってしまった」

 自責の念に押し潰されているように、衣麻さんは顔を上げない。僕と小百合ママは、目配せをするが、互いにかける言葉が見つからない。気軽に慰める事すら憚れる程、衣麻さんは落ち込んでいる。僕と小百合ママも浅岡君の事情を知っているが故、最適な言葉が出てこない。

「あの、衣麻さん? お父さんは、どうしてそこまで怒るんですかね? 毛嫌いしている理由って何ですか?」

 居ても立ってもいられなくなり、素直に尋ねた。ゆっくりと顔を上げた衣麻さんは、額に張り付いた前髪を払いながら、溜息をつく。

「あの人は、普通をこよなく愛するつまらない男なのよ。世間体ばかりを気にする。そして、自分が正しいと信じて疑わないし、自分が知らない事を悪だと決めつける。プライドが高くて、非を認めない。世間ではそういった連中をなんて呼ぶか知ってる? 老害って言うのよ」

 酔っぱらっている訳ではないだろうが、衣麻さんは綺麗な顔を歪めて悪態をつく。いくら綺麗な顔をしていても、心が荒んでしまうと表面に出てしまう。残念でならない。なるほど、衣麻さんや浅岡君のお父さんは、柔軟性にかけるようだ。正直、そんな人の対処法は、受け流すか、距離を取るに限る。会話にならないのだから、致し方ない。しかし、問題なのは、その相手が身内の場合だ。切り捨て御免とは、いかない。

 まるでお通夜のように静まり返っている店内の一角。言うまでもなく、僕達の周辺だ。この状況で、僕がピエロになって場を盛り上げられるほど、メンタルが強くない。衣麻さんは、打ちのめされたように疲弊し、口を閉じたままだ。深掘りした方が良いのか、話題を変えた方が良いのか、結論が出ないまま時間だけが過ぎる。すると、乾いたベルの音が鳴り、逃げるように扉に視線を向けた。ほぼ同時に、小百合ママと衣麻さんも顔を向けている。入店したお客さんの顔を見た瞬間、僕達三人は顔が綻んだ。

 弾けるような笑顔を見せる、女装した浅岡君が手を振っていた。

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