第32話 長年の想いが解放された瞬間
「弟ながら悔しいね。まったく」
僕の隣の席に移動していた衣麻さんが、唇を尖らせた。いやいや、衣麻さんもお綺麗ですよ。なんて、さらっと言えたら、僕の人生もだいぶ違っていただろう。小百合ママに後ろから支えられるように、浅岡君は気恥ずかしそうに目を伏せている。予想通りなので、あまり驚きはない。元が良いのだから、綺麗になるとは思っていた。が、素材の味を損ねている感じが、残念だ。これは、好みの問題なのかもしれないが、化粧が濃いように思える。ショートパンツに網タイツを着用している。見とれるくらいの美脚の持ち主で、目のやり場に困った。凝視していたら、色々と誤解を生みそうなので、チラ見に留めておく。
浅岡君の服装やメイクは、モモちゃんこと吉川さん直伝だろう。初体験で、師匠越えを果たしている。青は藍より出でて、藍より青しだ。浅岡君は、すごすごとこちらに向かって歩いてくる。ここは、手放しで褒め称えるべきだ。僕は、浅岡君の方を向いて、心の準備を整えていた。
「ちょっと! 未来ちゃん! なんてもったいない事してんのよ!? 台無しじゃない!?」
僕と浅岡君の間に割って入るように、ヒメカが仁王立ちしている。狼狽えている浅岡君の腕を掴んで、ヒメカがカウンターの奥に消えた。
「ちょっと、ケバかったかしら?」
小百合ママが、浅岡君を見送った後、こちらを見たので、苦笑いを返しておいた。言われてみれば、モモちゃんや小百合ママのように、まさに化けるメイクでは、浅岡君には似合わないかもしれない。そもそも素材が違い過ぎる。そんな事、言える訳がないけど。
「衣麻さんは、浅岡君にメイクとか教えてないんですか?」
「教えてないよ。見ての通り、私はナチュラルメイクだからね。あまり得意じゃないし」
確かに、衣麻さんのメイクは、スッピンのように薄い。それならば、浅岡君に似合ったメイクも同じような気がする。持って生まれたスペックとは、酷く残酷なものだ。それにしても、ヒメカの空気をぶった切る言動は、ハラハラさせられる。どちらに転ぶか分からないけど、良い方向に向かって欲しいと願うばかりだ。
「おおーー!!」
数分後、店内に歓声が上がった。その歓声の中には、僕の声も混ざっている。メイクとは、本当に不思議なものだ。先ほどに比べて、薄くなり素材の良さが際立っているのだが、ちゃんと女性っぽい顔になっている。原理原則は全く分からないが、まるで魔法のようだ。
浅岡君の恥ずかしくも嬉しそうな表情と、ヒメカのドヤ顔のコントラストが笑えた。なんでお前がドヤってんだよ。
「未来ちゃん! とっても似合ってるわ! 素敵ね! ヒメカちゃんもやるじゃない! 二人とも大好きよ」
小百合ママが、手を合わせて、体をくねらせている。ミッチャンママやお客さん達が、浅岡君を取り囲んで、褒め称えていた。ヒメカに声をかける人もいて、彼女の株も上がったようだ。
目の前の光景を眺めていると、突然視界が歪んできた。ぎこちなかった浅岡君の笑顔が、パッと花が咲いたように輝いていた。
浅岡君が、長年想い描いていた夢が、叶った瞬間であった。
どれだけ思い悩み、どれだけ自分を偽って、どれだけ苦しい時間を過ごしてきたのだろう。日に日に、体に絡まった鎖は強固になり、息苦しくなっていたのだろう。雁字搦めになり、窒息しそうになっていた事だろう。職場の先輩の下着に手を出してしまうほど、浅岡君は追い込まれていた。想い焦がれていた。
その長年の想いが解放された瞬間だ。
思わず、目頭が熱くなってしまった。僕越しに嬉しそうに浅岡君を眺める衣麻さんに気付かれないように、ジョッキを持ち上げ目元を拭った。ハッとして顔を上げると、カウンターの向こう側で、小百合ママが目を細めて僕を見ていた。僕と目が合った小百合ママは、優しく微笑んで顔を背けた。恥ずかしかったけど、野暮な真似はしない小百合ママに感謝する。
「ちょっと、未来ちゃん。泣かないでよぉ。折角のメイクが落ちちゃうじゃない!?」
事情を知らないヒメカが、もらい泣きしている。案外素直な子なのかもしれない。浅岡君は、満面の笑みを浮かべて、ポロポロと涙を零していた。僕ももらい泣きしそうだ。
「未来のあんな顔・・・初めて見たよ」
顔を右に振ると、衣麻さんはカウンターに肘をついて頬杖をしていた。口角をキュッと持ち上げた衣麻さんは、浅岡君を愛おしそうに眺めている。
「・・・やっぱり、父親には言わない方が、良いのかもしれない」
・・・え? 独り言のように呟かれた衣麻さんの言葉に、一瞬で現実に引き戻された。
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