第14話 巨乳のお姉さんに、鼻血を出された

 星って、本当に飛ぶんだ。

 そんな事を考えながら、スナック『マーブル』の天井を眺めている。先ほどまでの喧騒が嘘のように、店内は静まり返っていた。まるで、僕を中心とした半径一mを切り取られたような錯覚に陥っている。フワフワと飛び回る星々と、ミラーボールの光が重なって、目がチカチカする。

「竹内さん! 大丈夫ですか!?」

 遠くの方から、浅岡君の声が微かに聞こえ、僕の上半身を起こしてくれた。そこでようやく意識が戻ってきた。僕は、マーブルの床で、大の字になって横たわっていたのだ。

「翔太! あんた鼻血鼻血!」

 慌てた様子のミッチャンママが、僕の鼻にティッシュを当てている。ソファに座っていたお客さんが、僕に席を譲ってくれた。僕は、されるがままに、ソファに横になる。崩された思考回路が、徐々に回復してきた。さて、僕はどうして、こうなったのだろう。店に来てからの事を思い出そうとすると、左頬がジンジンと痛みだした。


 いつものように、仕事後に浅岡君とマーブルへやってきた。僕は、昨夜の出来事を浅岡君に言いたくて仕方がなく、愚痴る気満々であった。浅岡君と乾杯をして、早速我が家の賄賂問題を提唱した。

「いいじゃないですか! 愉快なご家族で羨ましいです! 早速僕も姉に賄賂を贈ろうと思います」

 浅岡君は、楽しそうに軽快に笑い、グイグイとビールを流し込んでいた。その後、いつも通りに、馬鹿話と重たい話のハイブリットな時間が経過した。良い感じで、アルコールが回ってきた。そんな時、浅岡君がデニムの裾をまくった。

「竹内さん、実は僕・・・今日タイツを履いてきたんです」

 捲った裾からは、黒の網タイツが見えた。浅岡君の足は、足首がキュッとしまっていて、細く良い形をしていた。すね毛も剃っているようであった。

「おお、それは大きな一歩だ。浅岡君は、美脚だね。とても似合っているよ」

 浅岡君は、気恥ずかしそうにはにかんで、ゆっくりと裾を戻した。

「ありがとうございます。少しずつ、挑戦しようと思います。実は、前の休みに、モモちゃんと買い物に行ったんです。それで、一式は揃ったので、小出しでお披露目していきますね」

「うん、楽しみにしてる」

 きっと、浅岡君が女装して、しっかりメイクをしたら、一瞬で皆をごぼう抜きするだろう。浅岡君は、細身でスラリと伸びた手足をしている。そして、綺麗な顔立ちをしている。きっと、マーブルの常連トップスリーくらいには、食い込むだろう。ナンバーワンに躍り出るのは、難しいだろうが。あくまでも僕の好みの問題だけど、圧倒的ナンバーワンの方がいる。顔やスタイルはもちろんの事、その生き様というか心意気というか、腹のくくり方が常軌を逸している方だ。

 浅岡君のモモちゃんとのデート話を聞いていると、胸の奥の方がポカポカしてくる。非常に楽しそうに語る浅岡君を見ていると、僕も嬉しい気持ちになってくる。

 そんな牧歌的な空気に包まれていると、突然カマイタチのように空気を切り裂かれた。

 マーブルの出入り口の扉が、乱暴に開かれた。談笑していた人や、カラオケをしていた人の動きが停止した。皆の視線が、出入り口に集中している。

 扉の前には、肌の露出が多い格好をした派手な若い女性が立っていた。眉間に皺を寄せ、まるで犯人を捜すように、店内を睨みつけている。女性を茫然と眺めていると、ミッチャンママが歩み寄っていく。

「いらっしゃいませ! どうかされましたか?」

「どけ! キモイんだよ、おっさん!」

 女性は、ミッチャンママを押し返し、店の真ん中へと歩いていく。立ち止まった女性は、その場でクルクルと回転した。

「ああ! マジでキモイキモイキモイ! なんだよ、ここ! マジでありえねーんだけど! お前等恥ずかしくねえのかよ!? キモ! 化け物ばっかりじゃん!」

 イラッ! という擬音が、店中から響いた気がした。少なくとも僕を始め、何人かのお客さんが立ち上がっていた。すると、小百合ママが皆を宥めるようなジェスチャーをして、女性の前に立った。

「申し訳ございませんが、お引き取り頂けますか? きっと、あなたが楽しめる場所ではありませんので」

 小百合ママが、にこやかに微笑み、丁寧にお辞儀をした。

「うるせーんだよ! クソジジイ!」

 女性は、小百合ママの長い黒髪を掴んだ。そして、そのまま引っ張り、小百合ママのウイッグが、床に落ちた。

「このクソアマ!」

 怒鳴り声を上げて女性に飛び掛かったのは、常連客の辻本さんだ。辻本さんは、女性の腕を力一杯に掴んで、反対の手は強く握られていた。鬼の形相で、今にも殴りそうになっていた。女性の大きな胸が、零れ落ちそうになっている。

「放せよ! このハゲ! 全部、お前等のせいだろうが! こんな糞みたいな店、潰れちまえ!」

 女性は、辻本さんに振り回されながら、濁流の如く罵声を吐き散らしている。

「辻ちゃん! 落ち着いて! 暴力はいけないわ! 翔ちゃん! お願い!」

 小百合ママが、僕に向かって叫んだ。瞬間的に駆け寄り、もみ合っている二人の間に割って入る。辻本さんの腕を掴んで、動きを制する。さすがに、三ママと同世代のおじさんよりは、僕の方が腕力は上だ。

「辻本さん! 気持ちは分かりますが、落ち着きましょ!」

 真っ直ぐに辻本さんを見ると、出走馬のようにいきり立っていた。何度も根気よく語り続けると、辻本さんは深呼吸をして腕を放してくれた。すぐさま、小百合ママが、辻本さんの背中を摩りながら、彼を着席させた。僕は、振り返った。女性は、息を切らして、睨みつけてきた。

「ここにあんたの居場所はない。出てってくれ。二度と来るな。警察呼ぶぞ」

 僕は、女性の肩を押した。辻本さんの気持ちは、痛い程理解できた。ミッチャンママ、小百合ママ、ジェシカママ、そして常連客、皆の大切な場所を、夢の場所を汚されて、侮辱されて、腸が煮えくり返る思いだ。

 なんなんだ、この女は! ただの酔っ払いか?

 押された女性はたたらを踏んで、止まった。そこから僕を睨みつけ、聞くに堪えない暴言を吐き続けた。もう我慢の限界だと怒鳴り声を上げようと、一歩踏み出した瞬間だった。女性は勢い良く僕に向かって突進し、遠心力をつけた張り手を食らわせてきた。

 助走をつけた女性のフルスイングを、カウンター気味に食らった。飛び出した鼻血が、スローモーションのように見えた。

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