第11話 後輩は心の準備ができていない

「おはようございます! 竹内さん! 昨日は、大丈夫でしたか?」

 二日酔いには辛い大きな挨拶が飛んできた。後輩の為とは言え、昨日は飲み過ぎてしまった。

「おはよ。浅岡君は、二日酔いは、大丈夫なの?」

「あんなのは、飲んだ内に入りませんよ」

 マジか・・・。怪物クラスの酒豪だ。正直、僕はどうやって家に帰ったのか、まるで覚えていない。

「竹内さん? 今日もマーブル行きませんか? 明日は休みですからね、トコトン飲みましょう!」

 あからさまに顔が引きつってしまった。もちろん、可愛い後輩からの誘いは嬉しいのだが、今日ではない。腹一杯の時に食事の事を考えたくないのと同様に、二日酔いの時は酒の事を考えたくない。考えただけで、胃袋を圧迫されたような感覚に陥った。

「・・・いや、今日は遠慮・・・」

「あ! 朝礼始まりますね! では、また後で!」

 浅岡君は、作業着に着替え終え、足早に更衣室を出て行った。更衣室に一人取り残されて、酒臭い息を吐いた。

 本日は、会社に残って事務作業を行う。当然、こんな状態で車に乗れる訳がない。幸い、お客さんとのアポイントも入っていない。ウチの会社は、この辺りは意外と寛大で有難い限りだ。自分でいうのもなんだけど、日頃の業務態度の賜物でもある。周囲の事務員さんに酒臭いと、眉を顰められるくらいなものだ。

 無事一日が終わり、アルコールも抜けた。会社を出ると、私服姿の浅岡君が待ち構えていた。やはり今日は断ろうと、心を決めた。だが、その決断は、一瞬であっさりと崩れ去った。僕を発見した浅岡君が、満面の笑みを浮かべ、元気よく手を振っていたのだ。こんなにも嬉しそうな後輩の顔を、曇らせる事などできる訳がない。少なくとも、僕には無理だ。

「そう言えば、竹内さん? マーブルって何時からやってるんですか?」

 電車に乗って、マーブルの最寄り駅の改札を抜けた時に、浅岡君が振り返った。

「十九時からだから、もう少しで開くよ」

「え? そんなに早いんですか? スナックってもっと遅いのかと思っていました」

「あそこは、特殊だからね。お客さんのほとんどが、マーブル目当てでくるし、ジェシカママが作る料理は美味しいからね。店をハシゴした先にある感じじゃないらしいよ」

 マーブルの周囲にも、他のスナックは何件かある。マーブルは、他の店に比べて、開店も閉店も早い。ミッチャンママいわく、『ババアは夜がキツイのよ』と言っていた。今更、『いや、ジジイだろ』という突っ込みは、止めておいた。

「どうする浅岡君? 先に、どっか居酒屋でも行く?」

「いいえ、それなら、真っ直ぐマーブルに向かいましょ。ジェシカママの料理食べたいですし」

 何度か小さく頷いて、マーブルに向かって歩いていく。僕としても、わざわざ他の店に寄っていく気にはなれない。どうせお金を使うのなら、少しでもマーブルで使いたいからだ。少しでも、売り上げに貢献したい。そもそも、結構貢献していると思う。そのお陰か、オープンよりも早く到着しても、店に入れてくれる。これは、常連特典なのか、家族特典なのか分からない。

 予想通り、早く着いたけれど、小百合ママは笑顔で店内に入れてくれた。注文する前に、生ビールを出してくれた。三人のママさんは、それぞれ開店準備をしながら、僕達と話をしている。

「ミクちゃん、着替えは持ってきたの?」

「え? いえ、その、まだ心の準備ができてなくて・・・すいません」

「謝る事なんかないわよ」

 小百合ママは、カウンターを拭いている。いくら環境が整ったからと言って、直ぐに対応できる訳ではないだろう。自分のタイミングで楽しんでもらえればいい。そう言えばと、ふと疑問が浮かんだ。今回の浅岡君ではないけど、女装に興味がある初心者にとって、自分で洋服や女性用品などを用意するのは、ハードルが高いのではないだろうか? それならば、マーブルでレンタルが出来るようにしてみては、どうだろうか? 質問というか、提案を小百合ママにぶつけてみた。

「それはね、考えた事はあるのよ。でもね、どうしてもコスプレ感が出てしまうの。それとね、酔っ払いの罰ゲームになってしまうと、悲しいじゃない? 私達は、笑われたい訳じゃなくて、可愛いって言って欲しいのよ。それなら、相応の準備と心構えが必要なのよ。ありがとね、翔ちゃん。大好きよ」

 浅はかな考えだった。生ビールの追加を浅岡君が頼んでくれて、僕の背中に手を触れた。

「僕の為にありがとうございました。準備と心構え、どちらも今の僕にないものです。すいません」

 後輩に気を遣わせてしまって、涙が零れそうになった。

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